[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし【第二期】|第6回|国籍が「水」や「空気」のようだと思う理由(サンドラ・ヘフェリン)|サンドラ・へフェリン+木下理仁

[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし【第二期】 サンドラ・へフェリン+木下理仁 じぶんの国籍とどうつきあっていけばいいだろう。 「わたし」と「国籍」の関係のあり方を対話のなかから考える。

自分の国籍とどうつきあっていけばいいだろう。 「わたし」と「国籍」の関係のあり方を対話のなかから考える。

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[往復書簡/第二期]第6回
国籍が「水」や「空気」のようだと思う理由
サンドラ・ヘフェリン


 

木下理仁さんへ

 お便りをいただきありがとうございます。

 木下さんが書かれていたインターネットでの「外国人」や「外国にルーツのある人」へのヘイト問題、ほんとうに悲しいです。朝鮮学校の文化祭のことを書かれていましたね。在日朝鮮人は何世代にもわたり日本で生活しているのに、日本の一部の人がなぜ彼らを「仲間」だと認めようとしないのか……。答えはきっと、木下さんが挙げられていた絵──フラスコのなかに「無知」という液体が入っていて、それが「恐れ」という炎で熱せられ、やがて「ヘイト」(憎悪)という物質を生みだす──にあるのでしょう。

 同じ日本に住むマイノリティーであっても、「在日朝鮮人という立場」と、私のような「日本に住むヨーロッパにルーツのある人の立場」では、いままでしてきた「経験」もだいぶ違いますが、マイノリティーゆえの共通点もあります。

 それは周囲から「踏み絵」を迫られる場面があることです。在日朝鮮人の人は「あの人は北朝鮮問題についてどう思っているのだろう……」などと思われがちですし、「あの人はほんとうに日本の味方なのか」などの疑念の目を向けられることがあります。

 私自身はドイツにルーツがあり、ドイツの時事的なこと、ドイツ人の考え方などについて発信するのが好きです。先日、「ドイツでは、ヒトラーやナチスドイツを礼賛する言動をすると、民衆扇動罪で禁固刑に処せられることもある」という内容を記事に書いたところ、SNSで「またいつものドイツの自虐史観ww」などの反応がありました。「ヘイトをやめよう」という趣旨の記事にヘイトのコメントがついたり、からかいを含むふざけたコメントが投稿されることについて、なんとも言いがたい気持ちにさせられます。

 ところで、昭和の時代の漫画を読むと、「外国人」の登場の仕方には、あるパターンがあります。それは日本に来た留学生だったり、日本でホームステイをしている外国人だったりするのですが、「外国人とは、いつか国に帰る人」という前提がありました。

 ところが、いまの時代は日本に定住する外国人も増えましたし、私のような「日本人だけれど、外国にルーツがある人」も増えました。

 若かったころは「日本とドイツの狭間にいる自分」についてずいぶん悩んだものです。でも、40代のいまは堂々と、「自分は日本人だし、同時にドイツ人でもある」と思えるようになりました。そのため、いまは人に「サンドラさんは、心のなかではドイツ人と日本人のどちらですか?」と聞かれると、堂々と「両方です!」と答えています。

 残念ながら、私の「両方です」という発言に関する周囲のリアクションはあまりよろしくありません。私が「自分は日本人でもあるしドイツ人でもある」と話すと、「そうはいっても、どちらかの国や文化のウェイトが高いはずでしょ?」と、追加の質問をする人が多いです。「アイデンティティーはひとつのはずだから、どちらかに決めるべき」と考える人が多いようなのです。

「私はドイツ人であり日本人である」という私の考えについて、納得しないのは日本人ばかりではありません。先日、あるドイツ人に「サンドラさんのアイデンティティーは日本? それともドイツ?」と質問されました。私がいつものように「自分はドイツ人であり、同時に日本人」と答えたところ、その人はこう言いました。「日本とドイツでは文化も言葉もまるっきりちがうのだから、同じ人物がドイツ人であり日本人だというのは矛盾することなのではないのか?」と。

 この人の言わんとしていることは理解できます。でも、そうはいっても、「その矛盾している」存在が自分自身なのです。だから、私はこれからも「自分は日本人であり、同時にドイツ人でもある」と堂々と主張していこうと思っています。

 この往復書簡のタイトルは「国籍のゆらぎ、たしかなわたし」ですね。「国籍」について考えるとき、私は最近このように思います。「アイデンティティー」と同時に、「どこの国のパスポートを持っているか」(紙のうえでの国籍)というふたつの観点から国籍を考えることが大事だな、と。

 心のなかの「アイデンティティー」の話以外に、「実際にその人がどの国の国籍を保有しているか」も、とても大事なことだと思うのです。たとえば、2021年10月にノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎さんについて、日本の一部のマスコミは真鍋さんを「日本人」だと報道しました。でも、真鍋さんはアメリカに帰化しており、現在アメリカの国籍しか持っていないわけですから、真鍋さんは「アメリカ人」です。

 日本の政治家やマスコミが「ノーベル物理学賞を受賞した真鍋さんは日本人だ」と主張したいのであれば、「日本人が外国籍(真鍋さんの場合はアメリカ)に帰化するさい、日本の国籍がなくなってしまう」という日本の法律をまず変えるべきだと思うのです。

 国籍(その国のパスポートを持っていること)は「空気」や「水」のようだと私は思います。真鍋さんは、アメリカ国籍を取得しないとアメリカで大規模な研究をすることが困難な状況にいました。だから、真鍋さんがアメリカの国籍を取得したことは「生きるための決断」であり、そういう意味で国籍は「水や空気のよう」だと私は思うのです。

 10年以上まえに張景子さんという女性が、ビートたけしの「TVタックル」という番組に出演したときのことを思い出すことがあります。

 張さんは中国人でしたが、日本に帰化しました。番組のなかで日本の国籍を取得した理由を聞かれた張さんは、「便利だから」と答えました。これに周囲の論客が反発し、その後、インターネットでも「日本への愛国心が感じられない」などと炎上しました。

 でも、私はこの張景子さんの気持ちがよくわかるのです。彼女は仕事で海外に出張に出かけることがよくありました。海外出張のさい、中国の国籍だと、海外渡航のたびにビザが必要です。でも、ビザの申請をしてから、ビザがおりるまでには時間がかかりますので、中国の国籍だと「急な海外出張」には対応できないのです。日本の国籍を取得することで、彼女は急な海外出張にも対応できるようになりました。これは言ってみれば「ウィンウィン」だと私は思うのです。張さんは安心して仕事ができるようになりましたし、国(日本)にとっても、真面目に働きキチンと納税してくれる人が日本人になるのはよいことだと思うわけです。

 このような「現実的なこと」「実務的なこと」に考慮しながら「国籍」を考えることを、私は悪いことだとは思いません。仕事が好きな人間にとって「スムーズに出張ができること」は、まさに「水や空気」のようなものです。つまり、必要不可欠なものだと思うのです。

「国籍」を語るとき、「その人が心のなかでは何人(なにじん)であるか」など「心のなかのアイデンティティー」について語ることが「善」だという雰囲気が、日本の社会のなかにあると感じます。そういったなかで、上に書いたような「現実的なこと」や「実務的なこと」は蚊帳の外であることが少なくありません。

 木下さんとお手紙のやりとりをするなかで、「国籍」についてじっくりとお話しできたことをうれしく思います。このテーマについてほんとうに話が尽きませんね。

 いつか木下さんとお会いしたいなと思っています。そのときまでお元気で。そして2022年が木下さんにとってよい年でありますように。

 

サンドラ・ヘフェリン(さんどら・へふぇりん)
エッセイスト。ドイツ・ミュンヘン出身。日本語とドイツ語の両方が母国語。自身が日独ハーフであることから、「ハーフ」にまつわる問題に興味を持ち、「多文化共生」をテーマに執筆活動をしている。ホームページ「ハーフを考えよう!」 著書に『ハーフが美人なんて妄想ですから‼』(中公新書ラクレ)、『体育会系 日本を蝕む病』(光文社新書)、『なぜ外国人女性は前髪を作らないのか』(中央公論新社)など。