[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし【第六期】|第1回|「ざらざらする」って、どんな感じだろう?(木下理仁)|金迅野+木下理仁

 

[往復書簡/第六期]第1回
「ざらざらする」って、どんな感じだろう?
木下理仁


きむ しんさんへ

 ご無沙汰しています。お元気でいらっしゃいますか。
 この「往復書簡」の相手を引き受けてくださって、ありがとうございます。
 キムさんには、昔、同じ職場で15年間いっしょに仕事をして、本当にたくさんのことを教えてもらいました。

 青年海外協力隊のボランティアとしてスリランカで2年間の活動を終えて帰国したとき、ぼくが就職したのが、神奈川県国際交流協会(現在のかながわ国際交流財団)でした。

「国際交流」ということばに、なんとなく「カッコいい」「楽しそう」というイメージしかなかったところへ、「まあ、まずはこれでも読んで勉強して」と、初日に上司から手渡された3冊の本は、いずれも在日韓国・朝鮮人に関するものでした。中身は「日立就職差別事件」や「指紋押捺拒否闘争」など、ぼくの知らないことばかりでした。

 自治体として全国で初めて国際交流協会をつくり、国際交流の先進県と呼ばれた神奈川県が、華やかな交流イベントよりも、在日の人びとの人権問題と向きあったことに重要な意味があるというのは、あとから学んだことで、当時のぼくは、それらの本を読んでも、どう考えればいいのかわかりませんでした。

 その職場に翌年入ってきたのが、キムさんでした。ぼくはキムさんと接するなかで少しずつ「アイデンティティ」とか「人権」について考えるようになりました。

 一度だけ、キムさんのお家におじゃましたことがありましたね。娘さんの1歳の誕生日のお祝いに呼んでくださったとき。キムさんが、在日韓国・朝鮮人の人びとが多く暮らす川崎の下町のアパートに住んでいたころのことです。

 お祝いのメインイベントは「トルチャビ」でした。1歳になった子が少し離れた場所までよちよち歩いていって、そこに置かれた品物のなかから何を選んで手に取るかで、その子の将来を占うというもの。彼女が「筆」を取ったのを見て、「この子は勉強が得意になりそうだね」と、キムさんがうれしそうに言ったのを憶えています。自分のルーツを大事にしようとしているのを感じました。

 キムさんといっしょにやった仕事で忘れられないのは、なんといっても「エスニック・キャンプ」です。外国にルーツをもつ子どもたちが約80人、日本人の子どもたちが約20人。総勢100人の子どもたちと山の中のキャンプ場で2泊3日をいっしょに過ごしました。

 子どもたちのルーツは、韓国・朝鮮、ベトナム、中国、台湾、カンボジア、ラオス、イラン、ブラジル、ペルー……。その3日間は日本人のほうが「マイノリティ」になって、いろんなことが起きました。

 子どもたちが班に分かれて自分たちの「旗」を作ったとき、あるグループでは、メンバー全員の出身国の国旗の絵を描こうということになり、ベトナムから難民として来た女の子が、赤地に黄色い星の現在のベトナム国旗ではなく、黄色い地に3本の赤い線を引いた「南ベトナム」の旗を描いたのを見て、ハッとさせられたり。

 夜、お風呂に入るときに、人前では裸になれないという子がぞくぞくと出てきたり。

 子どもたちが好きなテーマを選んでおしゃべりをする時間を設けたら、ある部屋では中国語が「標準語」になり、中国出身の子が自然とみんなに通訳をしていたり。

 それまで自分のアイデンティティを「対・日本人」で考えていたという在日コリアンの少年が、キャンプに参加して、いろんな国の子と出会い、マルチな関係のなかで自分のことを考えるようになったというのも聞きました。

 全員が広場に集まってゲームをしているときに、「こんなの、つまんない」と思ったのか、そこで出会った異なる国の出身の男の子ふたりが、いつのまにか勝手に山の中に入っていってしまったこともありました。けれど、山の中でいっしょに過ごしたわずかな時間が、ふたりにとっては一生の宝物になったかもしれません。

 あれから15年ほど経って、キムさんが、かつてキャンプに参加した若者たちに集まってもらい座談会を開いたとき、「あの3日間があるから、つぎのキャンプまで、また1年、生きられた」と言った外国ルーツの青年がいました。

 そんな彼ら・彼女らといっしょにいるときのキムさんは、じつに生き生きとしていました。

 ぼくは、野外炊事の食材を運んだり、ゴミを片づけたり、予定どおりに段取りをこなすことで頭がいっぱいで、キャンプがもつ意味を深く考える余裕がありませんでしたが、キムさんには、日本語がわからず教室でポツンと孤立している子や、自分のアイデンティティに悩んでいる子にとって、あのキャンプがどんなに大きな意味をもつか、すごくよくわかっていたのでしょう。

 あのとき、キムさんが何を大事にしていたのか、ぼくもなんとなくわかるようになったのは、ずっとあとになってからでした。

 正直に言うと、ぼくにとってキムさんは、ずっと“恐い”存在でした。それは、ぼくの無知や配慮のなさからことばの使い方を間違えると、その瞬間、ピシャリと指摘されたり、返す言葉に困って適当にごまかしても、キムさんには絶対に見透かされていると感じたりしていたからです。

 

*     *     *

 

*──「木下さんの“現場”って、どこですか?」

 ある日、キムさんとふたりで出張に行った帰り、電車のなかで並んで吊革につかまっているときに、こう聞かれました。

 そのとき、ぼくはその意味がわからず、「やっぱり、スリランカかなあ」などと、的外れな返事をしたのを憶えています。とりあえず、自分がそれまで住んだなかでいちばん印象に残っている場所の名前を言っただけです。そこにいる「人間」としっかり「かかわる」とか「向きあう」ということを経験したことがなかったので、キムさんの問いの意味もわからなかったのです。

 このとき、キムさんからは何のことばも返ってきませんでした。

*──「そうかなあ」

 職場の起案書の日付を元号で書くか西暦で書くかという話になって、ぼくが、われわれの職場は半ば役所のようなものだから、役所の慣習に従って元号で書くのはしかたがないんじゃないかと言ったときに、キムさんに「そうかなあ」と言われました。そこから先は言いませんでしたが。

 ぼくは、「平成○年○月○日」と日付を書いた書類を上司のところに持っていったのですが、キムさんの「そうかなあ」がひっかかって、ずっともやもやした気持ちが残ったのを憶えています。

 韓国・朝鮮人にとって日本の元号は、「日の丸」「君が代」などと同様、植民地時代に無理やり押しつけられた、負の感情をともなって思い起こされるもののひとつで、それを使うことによって嫌な思いをする当事者がいる以上、たんに「慣習だから」という理由で漫然と使いつづけるのはやめるべきではないか──と思い至ったのは、ずいぶん経ってからのことです。

 これにかぎらず、何かあるごとに、キムさんから「そうかなあ」と言われ、そのたびにぼくはもやもやしていました。

*──「ざらざらする」

 これも、キムさんからよく聞いたことばです。

 「もやもや」ではなく「ざらざら」。何か理不尽なことを経験したり目の当たりにしたりして、それに対する憤りを感じながらも、相手に通じる言葉にするのが簡単ではないような、そんなとき? 悔しい、歯がゆい気持ち? 何かが違うと感じながら、それがまだはっきりしないとき? 肺にいやーな違和感を覚えるような感覚?

 多くの場合、「差別」にかかわることに対してキムさんはこのことばを使っていたように思いますが、その感覚を、ぼくも含め、周りの日本人がどれだけ共有していたかというと、それができずにとまどうことも多かったような気がします。

 

*     *     *

 

 キムさんからは多くの「問い」をもらいましたが、いつも「正解」は教えてもらえませんでした。

 だから、ぼくはずっと、何かあるたびに自問自答してきました。おまえの「現場」はどこだ? ここが「現場」か? いま、ここで、「そうかなあ」と言われたら、なんと答える? 「ざらざらする」って、どういう意味だろう? いまのようなこういう状況のとき、キムさんなら「ざらざらする」と言うんじゃないか?

 その後、ぼくは神奈川県国際交流協会を退職して教育にかかわる仕事をするようになり、キムさんもまた、別の道へ進みました。

 あれからキムさんは何を見て、どんなことを考えてきたでしょうか。いまなら、どんな「問い」をぼくに投げかけるのでしょう? 久しぶりに話を聞かせてください。


※ 金迅野さんと木下理仁は1991年~2006年の間、同じ職場で仕事をしました。→かながわ国際交流財団の歴史

 

木下理仁(きのした・よしひと)
ファシリテーター/コーディネーター。かながわ開発教育センター(K-DEC)理事・事務局長、東海大学国際学部国際学科非常勤講師。1980年代の終わりに青年海外協力隊の活動でスリランカへ。帰国後、かながわ国際交流財団で16年間、国際交流のイベントや講座の企画・運営を担当。その後、東京外国語大学・国際理解教育専門員、逗子市の市民協働コーディネーターなどを経て、現職。神奈川県を中心に、学校、市民講座、教員研修、自治体職員研修などで「多文化共生」「国際協力」「まちづくり」をテーマにワークショップを行っている。1961年生まれ。趣味は落語。著書に『難民の?(ハテナ)がわかる本』『国籍の?(ハテナ)がわかる本』(ともに太郎次郎社エディタス)など。