[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし【第五期】|第1回|「知る」だけでなく、「わかる」ために、聞いてもいいですか(木下理仁)|長谷川留理華+木下理仁

[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし【第五期】 長谷川留理華+木下理仁 じぶんの国籍とどうつきあっていけばいいだろう。 「わたし」と「国籍」の関係のあり方を対話のなかから考える。

自分の国籍とどうつきあっていけばいいだろう。 「わたし」と「国籍」の関係のあり方を対話のなかから考える。

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[往復書簡/第五期]第1回
「知る」だけでなく、「わかる」ために、
聞いてもいいですか

木下理仁


長谷川留理華さんへ

 はじめまして。木下理仁です。

 長谷川留理華さんとこの「手紙」のやりとりができることになり、とてもうれしいです。今回の申し出を受けてくださって、ありがとうございます。

 ぼくは、これまでに『国籍の?(ハテナ)がわかる本』『難民の?(ハテナ)がわかる本』という2冊の本を書いたのですが、長谷川さんは、まさに、その両方のテーマに当事者として深くかかわる立場にある人ですよね。でも、長谷川さんとやりとりできることがうれしいのは、それだけでなく、以前、青山大学のオンライン・セミナーでお話しされているのを見たときに、落ち着いた話しぶりから、とても知的でステキな方だなあと感じ、いつかお話してみたいと思っていたからです。

 ネット上に出ているいくつかの記事を読んで、長谷川さんがミャンマー西部のラカイン州の出身で、ロヒンギャであること。迫害から逃れるために、2001年に日本に来たこと。同じロヒンギャの男性と10代で結婚し、日本でお子さんを育てたこと。2013年に日本国籍を取得したこと。現在は通訳・翻訳家としてお仕事をしていることなどを知りました。

 また、イスラム教を信仰するロヒンギャの人びとが、仏教徒が多くを占めるミャンマーでむかしから迫害を受け、政府からミャンマーの国民だと認められず国籍まで失うことになり、2017年には大規模な武力衝突が起きて、70万人もの人びとが国境の川を渡って隣国バングラデシュに逃れ、いまも難民キャンプで暮らしていることなどは、本で読んだり、ネットのニュースを見たりして知っていますが、現地をたずねたことのないぼくにとっては、正直、自分がほんとうにわかっているという自信がもてずにいます。

 ぼく自身は、若いころ、日本に来たカンボジアやベトナムの人たちと出会ったことをきっかけに、「難民」のことを少しずつ知るようになりましたが、ぼくが出会ったのは、「難民」と呼ばれる人たちのごく一部の人でしかなく、ひと口に「難民」といっても、その経験や背景にあるものは、人それぞれ、いろいろな違いがあるだろうと思います。

 また、「無国籍」の人や、日本に「帰化」した人の話も聞いたことはありますが、まだ自分がじゅうぶんに理解できているとは思えません。

 たとえば、ぼくをふくめ多くの日本生まれの日本人が「無国籍」の話にピンとこないのは、自分の国籍を意識することが、日常のなかでほとんどないこともひとつの理由でしょう。日本生まれの日本人にとって国籍は、空気のように当たりまえに存在するもの、いや、空気以上に意識することの少ないものかもしれません。自分で息を止めれば、空気がない苦しさを感じることができますが、国籍を失ったらどうなるか、というのは、なかなか想像が難しいので。

 国によっては、IDカードの常時携帯が義務づけられ、警察や軍隊のチェックポイントで銃を突きつけられてその提示を求められることもありますが、日本国籍をもつ日本人は、外国に行かないかぎり、そのような経験をすることもないので、自分の身分を証明するものが手元にないということに、とくに不安を感じることもありません。

 じっさいのところ、どうなのでしょう?

 長谷川さんは、いつ、どのようにして、「無国籍」になったのですか?

 生まれたときから国籍がなかった? それとも、12歳になって「国民登録カード」の申請をしたのに受け付けられなかったときを境に?

 自分が「無国籍」であることをはっきり認識したのは、いつですか?

 その後、「無国籍」であることによって、どんな経験をしてきましたか?

 長谷川さんの身のまわりで何が起きたのか、可能なかぎり具体的に知りたいです。

 もしかしたら思い出したくもないこともあるかもしれませんが、できる範囲でいいので、聞かせてください。

 また、長谷川さんが受けた「迫害」のことも知りたいです。

小学校では名前の代わりに「カラー」(南インド系の外国人という意味の差別用語)と呼ばれ、友だちだけでなく、先生からも侮辱された。「あの子(留理華さんのこと)とはかかわらないで」と友だちの母親が話すのを聞いたこともある留理華さん。母親は、学校の送り迎えをする際はヒジャブを外し、イスラム教徒だと分からないようにしていた。

『“ロヒンギャ系日本人”が群馬にいた! 「差別なんて古くない?」』──「ganas」より)

 名前で呼ばれない。個人のあだ名ですらない、差別用語で呼ばれる苦痛、屈辱は、本当に耐えがたいものだと思います。

 また、イスラム教徒の女性がヒジャブをつけずに表に出るときの感覚というのは、どのようなものなのでしょう? 日本人が経験しそうな状況に例えることができるでしょうか?

 自分が経験したことがないと、そうしたことに多少、想像をめぐらすことはできても、その現実を実感をもって理解することは、容易ではありません。知識として「知る」ことと、ほんとうに「わかる」ことは、同じではないと、ぼくは思っています。それを、少しでも「わかる」ために、長谷川さんに聞きたいのです。

 長谷川さんにとっては、これまで何度も話してきたことのくり返しで、「また、そこから説明しなくてはならないのか」と、うんざりされる部分もあるかもしれませんが、しばらくお付き合いいただけるとうれしいです。よろしくお願いします。


※ 文中で紹介した記事のほか、『無国籍のロヒンギャ女性が“日本人”になることを選んだ理由(クーリエ・ジャポン)』『ロヒンギャとして生まれて(WJWN)』『2つの国で「よそ者」だった母が、子どもの給食にこだわる理由(BuzzFeedNews)』を参照しました。

 

木下理仁(きのした・よしひと)
ファシリテーター/コーディネーター。かながわ開発教育センター(K-DEC)理事・事務局長、東海大学国際学部国際学科非常勤講師。1980年代の終わりに青年海外協力隊の活動でスリランカへ。帰国後、かながわ国際交流財団で16年間、国際交流のイベントや講座の企画・運営を担当。その後、東京外国語大学・国際理解教育専門員、逗子市の市民協働コーディネーターなどを経て、現職。神奈川県を中心に、学校、市民講座、教員研修、自治体職員研修などで「多文化共生」「国際協力」「まちづくり」をテーマにワークショップを行っている。1961年生まれ。趣味は落語。著書に『難民の?(ハテナ)がわかる本』『国籍の?(ハテナ)がわかる本』(ともに太郎次郎社エディタス)など。