[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし【第二期】|第5回|知ることをやめない、知ってもらうことをあきらめない(木下理仁)|サンドラ・へフェリン+木下理仁

[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし【第二期】 サンドラ・へフェリン+木下理仁 じぶんの国籍とどうつきあっていけばいいだろう。 「わたし」と「国籍」の関係のあり方を対話のなかから考える。

自分の国籍とどうつきあっていけばいいだろう。 「わたし」と「国籍」の関係のあり方を対話のなかから考える。

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【第一期×安田菜津紀】初回から読む

 

[往復書簡/第二期]第5回
知ることをやめない、
知ってもらうことをあきらめない

木下理仁


 

 サンドラさん。だんだん寒くなってきましたが、元気でお過ごしでしょうか。

 二度目のお便り、ありがとうございました。

「ドラえもん」や「折り紙」の話、まさに「あるある」ですよね。そして逆もまた、「あるある」だと思います。

 20代のころ、友人と二人で英国の家庭にホームステイをしたことがあります。向こうに行ったらホストファミリーに「折り紙」を教えてあげようという話になり、出かける前に「つる」や「かぶと」の折り方を練習して行ったのですが、いざ、その家族の前で折り紙をとり出したら、娘さんが「Oh! ORIGAMI!」と大きな声で叫んだかと思うと、書斎から「折り紙大百科」のような立派な写真集を持ってきたのです。われわれよりも彼女たちのほうがよっぽどいろんな折り方を知っていて、しかも上手でした。

 だれかに一方的に「国」を背負わせたり、自分で勝手に「国」を背負ってしまったり。どちらもよいとは言えませんね。その人自身のアイデンティティから自然なかたちで自分の国の文化を紹介したいという思いが出てくるのでないと、あまり意味がありません。また、「国」よりも、まずは自分が育った「地域」とか「わが家」の文化を意識し、大事にすべきじゃないかとも思います。

 さて、「国籍」を保持しているかどうかが、人生の大事な場面にかかわってくることがある、「外国籍の離脱」とは「本人(当事者)とその国(外国)のあいだの話」であり、第三者が安易に口出しをするべきものではないというサンドラさんのお話。正直に言うと、ぼくには、かなりむずかしかったです。すぐにストンとは腑に落ちなくて、なんども読みかえして、ようやくなんとか、すこしわかってきたかな…というところです。

 そして、ぼくがセミナーに来てもらった、ベトナム、台湾、ブラジル出身の青年たちが、渡された書類に「国籍」欄があるのを見て、「多文化共生のためのセミナーで国籍を聞くなんて、矛盾してるじゃないですか」と言った理由も、もしかしたら、そうだったのかな、という気がしてきました。

 つまり、問題の複雑さを知らない相手に「国籍は?」と聞かれて、パッとかんたんに答えられるような単純な話ではない。そのことに気づいてもいない相手から安易に答えを求められることへの苛立ち。さらには、「多文化共生」というテーマを掲げながら、そこを理解できずにいる、理解する努力をしようともしない主催者にあきれた、がっかりした、ということだったのではないかということです。

「木下さんがわるいんじゃないよ」といいながら、彼らは内心、ぼくにもがっかりしていたんでしょうね。そのことにさえ気づいていなかった自分に忸怩じくじたる思いです。

「不法滞在」の外国人が何か問題を起こしたとか、国籍を理由に差別的な扱いを受けた人が抗議をしたといったニュースが流れるたびに、ネット上には外国人や外国籍の人に対する容赦ない罵詈雑言があふれ、瞬くまに何百、何千という数の「いいね」がつきます。しかし、そうした書き込みをする人のほとんどは、おそらく、問題の複雑さを知らず、ごく表面的なところだけを見て、自分の勝手な解釈でひどいことばを書き込んだり、よく考えもせず付和雷同的に「いいね」を押したりしているのだと思います。

 それを投げつけられる当事者は、毎回、「何も知らないくせに」という思いを強くしているにちがいありません。「だったら、きちんと説明してみろ」と言われても、そんなにかんたんに説明できることではない。きちんと説明しようとすれば長くなるけれど、相手は、その説明を最後まで聞こうとはしないし、そもそもはじめから理解しようとも思っていない。そんなことがくり返されると、ほんとうにいやになると思います。

 以前、朝鮮学校の文化祭で見た、高校の美術部の作品を思い出しました。

 透明のビニールシートで囲まれた3メートル四方ほどの大きな四角い枠のなか、下からの送風機の風で、たくさんの色とりどりのゴム風船が舞い上がり、くるくる踊っています。よく見ると、風船のひとつひとつに、いろんなことばが書かれていました。「朝鮮人が何で日本にいるんだよ」「朝鮮はテロ国家www」…。作品のタイトルは「死にゆくもの」。

「科学の発展によりインターネットに誰もが情報を公表できる事が可能になった事によって、人は無責任な言葉を平然と書き込み、今もただ言葉の価値を劣化させてゆく」という説明が添えられていました。

「知っている」というのは、たんにその情報に接したとか、知識として知っているというのではなく、そこから起こりうるさまざまな事象、その可能性にもしっかり考えが及ぶというところまでふくめて、わかっている、ということでなければならないのだと思います。

「ハーフ」の人の国籍選択に関する国籍法の規定ひとつとっても、こういう法律があるということを知っているだけでは、ほんとうの意味で「知っている」ことにはならず、その法律がじっさいにはどのように運用され、それによって、どんな影響を受ける人がいて、その影響を当事者がどのような思いをもって受け止め、どう判断し、どう行動しているか。そして、そのありようは、ほんとうに公正な社会の実現につながっているのかどうか。そこまで広く、深く考え、わかっていないと、その問題を「知っている」とは言いきれないのだと思います。

 だれが描いたものかわかりませんが、ネットでこんな絵を見たことがあります。化学の実験で使うフラスコの中に「Ignorance(無知)」という液体が入っていて、それが「Fear(恐れ)」という炎で熱せられて、「Hate(憎悪)」という物質が生み出される様子を表したものです。「無知」と「恐れ」から「憎悪」が生まれる。ということは、この世の中のすべての「無知」が消えてなくなるまでは、だれもが安心して暮らせるようにはならないのかもしれません。

 しかし、「無知」をなくすには時間がかかります。相手に知ってもらうこともたいへんですし、自分が知るにもエネルギーがいります。「これでわかった」と思っても、まだ不十分ということもしばしばです。結局、生きているかぎり、私たちは絶えず「知る」努力を続けるしかないのだと思います。

 ぼくももういい歳ですが、どんなに歳をとっても、知る努力をやめてはいけない。そして、自分のまわりのひとたちに知ってもらうことも、あきらめてはいけない。今回、「手紙」のやりとりを通じて、あらためてそのことに気づかせてくださったサンドラさんに感謝しています。

 サンドラさんがいつもユーモアを交えながら、複雑な問題をわかりやすく伝えようとしている姿勢は、すばらしいと思います。「知識」や「情報」をむき出しのまま伝えようとしても、相手に受けとってもらえないことが多いので、ひとに興味をもってもらうために、なにかしら“笑える”一面を見つけるって、大事なことですね。

 ぼくは趣味で落語をやっているのですが、いつか、サンドラさんといっしょに「世界の文化と国籍、あるある漫才」ができたら楽しいだろうなと思います。

 笑門来福。新しい年がよい年になりますように。

 

木下理仁(きのした・よしひと)
ファシリテーター/コーディネーター。かながわ開発教育センター(K-DEC)理事・事務局長、東海大学教養学部国際学科非常勤講師。1980年代の終わりに青年海外協力隊の活動でスリランカへ。帰国後、かながわ国際交流財団で16年間、国際交流のイベントや講座の企画・運営を担当。その後、東京外国語大学・国際理解教育専門員、逗子市の市民協働コーディネーターなどを経て、現職。神奈川県を中心に、学校、市民講座、教員研修、自治体職員研修などで「多文化共生」「国際協力」「まちづくり」をテーマにワークショップを行っている。1961年生まれ。趣味は落語。著書に『国籍の?(ハテナ)がわかる本』(太郎次郎社エディタス)など。