石巻「きずな新聞」の10年│第9回│成長と挫折をくれた常総支援(前編)│岩元暁子

石巻「きずな新聞」の10年 岩元暁子 石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

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第9回
成長と挫折をくれた常総支援(前編)

鬼怒川が決壊、常総市のボラセンに支援に入る

 2015年9月10日、鬼怒川の堤防が決壊し、濁流が茨城県常総市の住宅地を襲った。浸水エリアは4000ヘクタール、被災家屋は8000戸以上。その年に起きた災害のなかでは、もちろん最大規模だった。

 発災から1週間後、石巻にいる私の携帯が鳴った。先遣で現地入りしていたスタッフからだった。

「常総市の災害ボランティアセンターがパンクしている。情報を整理する人が必要だから、すぐに来てほしい。明日の朝9時につくば駅に来られる?」

 石巻からでは始発に乗ってもまにあわない。30分で夜行バスの予約と荷造りを完了し、残り時間は数週間私がいなくなってもだいじょうぶなようにギリギリまで仕事を段どりして、その日の夜行バスにとび乗った。

行き先の決まらない支援の申し出が山積みに

 災害が発生し、ボランティアによる活動が必要だと認められると、自治体の社会福祉協議会が災害ボランティアセンター(通称ボラセン)を立ち上げる。常総市の場合は、9月13日にボラセンが開設され、14日からボランティアによる清掃活動が開始された。そして、そのボラセンには多くの、そして多種多様な「支援のお申し出」が寄せられる。

 私が常総市に着いた17日、手渡された「支援のお申し出メモ」は約120枚。2回線あるボラセンの代表電話は10秒と置かずに鳴りつづけ、未返信のメールが300件以上という混乱っぷり。しかし、せっかくの支援のお申し出、ましてや専門性をもった方々からのお申し出、それで1ミリでも被災地の復旧復興が進むのなら、それらの支援を必要としている住民さんにつなげてあげたい! というわけで、通常の清掃ボランティア以外の「特別な支援のお申し出(シーズ)」をマッチングするのが私の役割だった。「シーズ(種/seeds)」とは、「企業が顧客に対して提供できる価値(=ビジネスの種)」を意味するマーケティング用語だが、支援の現場では「課題、お困りごと(=ニーズ)」に対比して、「支援のお申し出」を意味することばとして使われている。

 受付シートのフォーマットも統一されていないところからはじまり、つなぎ先もわからず、だれに聞けばいいのかもわからず、そもそも何からはじめたらいいのかもわからず、そうこうしているあいだにもどんどん増えつづけるシーズに、最初の2日間は窒息しそうな状態だった。

マッチングされるのを待つ支援の申し出

 支援を申し出ている側からすれば、「いつ、どこに行って!」と教えてもらえれば動けるのに、こちらはそれをお伝えできていないわけなので、イライラも募る。「いつになったらボランティアできるんだ!」と電話口で怒鳴る人も出てきて、電話対応を担う応援職員(近隣自治体から短期で派遣されている)の疲労はピークだった。一度、電話対応のスタッフから「電話をかわってほしい」と言われた。私は「いまはかわれない。私が電話を受けたら、そのぶんシーズがつなげられるのが遅くなる」と断った。「ふざけるな! こっちの気持ちにもなってみろよ!」。人生でこんなに怒鳴られたことないぐらいの勢いで怒鳴られた。私はシーズをつなげられない現状を詫び、たいへんな電話対応を担ってくれている感謝を伝え、明日にはかならずつなげられるようにすると約束した。被災地はつねにピリピリしている。怒られるのも活動のうちだ。

9月半ばのボラセン。応援職員が支援の申し出の電話を受けている

シーズとニーズがつながりはじめた

 朝は5時起き、拠点にもどるのは23時。1日が1週間分くらいの密度で過ぎていく。常総中を、文字どおり駆けずりまわって3日目。現場のニーズとシーズをマッチングするシステムを、なんとかかたちにすることができた。

 これまでに受けたシーズをカテゴリー分けし、受付シートをつくり、受付対応マニュアルを作成する。避難所を回り、清掃現場を回り、行政の方と情報交換をして、シーズのつなげ先を開拓する。受けたシーズをカレンダー形式で掲示し、可視化することで、現場のリーダーが直接シーズ先に連絡ができるようにした。

 夜のミーティングでカレンダーの使い方を説明したあと、各現場のリーダーたちが口々に「明日、高圧洗浄機ほしいんだよね」「医療福祉系のボランティアさんの手を借りたいんだけど」と言いながらカレンダーのまわりに集まって、調整の電話かけをしてる風景を目にしたときには、思わず涙が出そうになった。数日前までは宙に浮いてたシーズが、いま目の前でどんどんつながっていく。明日、明後日の作業の目処が立っていく。それによって益を得る住民の方々にも、活動に入るボランティアさんたちにも私は直接会えないけれど、住民さんの笑顔やボランティアさんの達成感を想像し、ほんとうにうれしかった。

マッチング表を見て電話をかける現場リーダーたち

一進一退で秋を迎えた被災地

 当初、10日から2週間と言われて入った常総での活動だが、ニーズとシーズのマッチングシステムを確立してからもまだまだ課題山積で、しばらく常総にいることになった。

 はじめて来たころは道路や公園に山と積まれていた瓦礫や土嚢は、1か月が過ぎるころには行政と住民とボランティアの共同作業であらかた集積所に運ばれていった。市内外に最大約30か所あった避難所は、10月中旬には市内6か所に統合され、避難者数は約300人にまで減った。おにぎりとパンのみだった避難所の食事はお弁当の提供に切りかわり、すべての避難所にリースの布団が導入されはじめた。

 一方で、盗難の不安などの理由で、避難所から浸水した自宅に無理やりもどる方も増えていた。床と壁を剥ぎ、水をふくんだ断熱材をとりのぞき、どんどん広がるカビと消毒薬で戦いながら、調理環境もお風呂もない家のなかで、「寒い寒い」とダウンジャケットに身を包み、夜は座布団を並べて寝る在宅避難の方々。連休を過ぎてボランティアの数が激減し、床下の泥かきや側溝清掃などが追いついていないなかで、堆積した土砂が粉塵となって舞い、それによって体調を崩す方々も増えてきた。

発災から3週間がたった10月13日の常総市

仮設のお母さんたちが炊き出し支援?!

 そんななか、私たちが重点的に取り組みはじめたのが「炊き出しの調整」だ。地域の区長さんやキーマンとつながり、被害状況や住民の現状を知り、炊き出しができるスペースを開拓する。一方で、支援者側が提供できるメニューや食数、持っている資機材、調理や配食に必要な設備をヒアリングし、条件にあう避難所や地域を選定する。区長さんの負担にも配慮しながら、事前に告知の協力をお願いすることも重要だ。炊き出しにはできるだけ同行し、地域のニーズや課題をヒアリングし、毎晩おこなわれているNPOの連絡会議で共有する。

 10月中旬、SNSで私の活動を知った宮城県・女川町の支援団体「コミュニティスペースうみねこ」の代表・八木純子さんが電話をくれた(私はピースボートの職員になるまえ、週に1回、八木さんが運営する小さな塾で、小中学生を相手に勉強を教えるアルバイトをしていたので、八木さんのことはよく知っていた)。「こんど、炊き出しにいくから待っててね! 仮設のお母さんたちがつくったもの、いっぱい持っていくから!」

 ん?! 仮設のお母さんたち?!

 炊き出しをやった経験がない方のために説明しておくと、「炊き出し」というのは、かなりの手間とお金と体力を必要とする支援活動だ。お金はカンパや協賛を集めるとしても、資機材も食材も重たくて、車への積み下ろしもたいへんだし、女川から日帰りで来るとすると、そうとう朝も早いはず。八木さんの言う「仮設のお母さんたち」というのは、コミュニティスペースうみねこに集まっているおばあちゃんたちのことだろうが、正直被災地に炊き出しにこられるような体力があるとは思えない。また「つくったもの」という言い方も気になる。あらかじめつくったものとなると、食中毒の心配も出てくる。まさか冷たいまま提供するわけではないよね? 現地には電子レンジもないし……。

 私の心配をよそに「50食限定だから、小さめの集落でよろしくね!」と念押しされ、条件にあう集落を選定し、事前に告知のチラシを撒いた。どんな炊き出しになるのか、ドキドキしながら当日を迎えた。

女川から常総へ、知恵とくふうのお惣菜便

 八木さんたちの炊き出しはひじょうに斬新な手法だった。おばあちゃんたちが何日もかけて、豆腐ハンバーグや切干大根などのお惣菜をせっせとつくり、小分けにして冷凍し、現地で湯煎をして提供する、というものだった。「高齢で現地に来られない方々にも調理に参加してもらって、その人たちのぶんまで想いを届けにきた」と八木さん。自分たちが避難しているころに食べたかったものを思い出して、メニューを考えたという。カレーや豚汁などの炊き出しが多いなかで、ふだん家庭で食べるようなお惣菜の数々は大好評だった。しかもそれが仮設暮らしの方々が手づくりしたものだと知ると、涙を浮かべる住民の方の姿もあった。

おばあちゃんたちの惣菜が並ぶ炊き出し

 被災地に想いを馳せ、何か自分にもできないか?と行動してみるのは、体力のある若い人たちの専売特許ではない。高齢であっても、ハンデがあっても、くふうしだいでだれかの役に立つことができる。八木さんたちの炊き出しは、そのことを教えてくれた。

チーム女川のみなさんと。手前左からふたりめが八木さん、右後列が筆者

 

岩元暁子(いわもと・あきこ)
日本ファンドレイジング協会 プログラム・ディレクター/石巻復興きずな新聞舎代表。1983年、神奈川県生まれ。2011年4月、東日本大震災の被災地・宮城県石巻市にボランティアとして入る。ピースボート災害ボランティアセンター職員としての「仮設きずな新聞」の活動を経て、支援者らと「石巻復興きずな新聞舎」を設立し、代表に就任。「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」を目標に、被災者の自立支援・コミュニティづくり支援に従事。2020年5月、石巻市内の仮設住宅解消を機に、新聞舎の活動を縮小し、日本ファンドレイジング協会に入局。現在は、同会で勤務しながら、個人として石巻での活動を継続している。石巻復興きずな新聞舎HP:http://www.kizuna-shinbun.org/