石巻「きずな新聞」の10年│第12回│それぞれの3.11の過ごし方│岩元暁子

石巻「きずな新聞」の10年 岩元暁子 石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

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第12回
それぞれの3.11の過ごし方

 今年もまた「あの日」が近づいてきた。一年に一度の特別な季節。「仮設きずな新聞」のその後についてはちょっとお休みし、今回は私の3.11の思い出について書いてみたい。

カムバック希望者たちからの連絡

 2012年2月下旬。私は、震災の年の夏にいっしょに活動していたメンバーから連絡を受けた。

「3.11は石巻で過ごしたいから、コウザン予約しておいてくれる?」

 コウザン(廣山)というのは、当時ピースボートが石巻での拠点として使っていた元居酒屋の建物で、常時15〜20人ほどのスタッフ・長期ボランティアが寝泊まりしていた。6畳程度の部屋がいくつかあり、3〜4人で相部屋だが、かんたんな自炊もできたし、シャワー室もひとつあったので、長期組が暮らしていくには必要十分な環境だった(そしてなにより、テント生活よりははるかに快適!)。石巻を離れた長期組が石巻に短期間もどってくることを「カムバック」とよんだが、カムバック時も基本、コウザンに泊まれることになっていて、そのときはまだ現地で活動しているメンバーに「予約」するのがつねだった。

「夜ミ(夜のミーティング)で共有しておくね」。そのときはとくに懸念ももたずにそう答えた。

 夜ミで話してみると、じつは多くのメンバーが、それぞれ過去の長期ボランティアから「3.11にあわせて石巻に行きたい」と相談されていることがわかった。このままだと、コウザンのキャパシティを超えてしまうかもしれない。当時、石巻には営業しているホテルや旅館はまだ少なく、あっても復興事業を請け負っている建設会社などが月単位、年単位で借りあげていたため、ボランティアが泊まれるような状況ではなかった。断らざるをえないが、だれが来てよくて、だれは断るのかを、だれがどのように決めるのか⋯⋯。そもそも3月11日、私たちはなんの活動をするのか⋯⋯。というよりも、活動してよいのか⋯⋯。

「いまいる場所で手をあわせてもらえたら」

 そのとき私たちは、石巻にいまはいない過去の長期ボランティアたちとのあいだに、大きな温度差があることを実感しはじめた。過去の長期ボランティアたちが、石巻を離れたいまも石巻を想ってくれていることは疑いようのない事実だ。なかには、ボランティアをするために仕事をやめたりした人もいたし、ほんとうはもっと長く活動したかったけれど、さまざまな事情で帰らざるをえず、後ろ髪引かれる思いで石巻を離れていった人たちも大勢いた。「3.11に石巻で手をあわせたい」と思ったとしても不思議はないだろう。

 しかし、ほんらい祈ることはどこにいたってできるし、現地に足を運ぶことだけが追悼ではない。そもそも私たちは遺族ですらない。「3.11を石巻で過ごしたい」という気持ちに、「お祭り気分」が混じっていないかと問われれば、100パーセントNOとは言いきれないのではないか——。

 地元の方は、どう感じるんだろう? 私たちはあらためて地元の人たちの想いを聞いてみることにした。

 後日、夜ミに来てくださった地元の方は、丁寧にことばを選びながら、つぎのように話してくれた。

「石巻は、ボランティアのみなさんのおかげでここまで来られました。みなさんにはほんとうに感謝しています。いまは石巻を離れた方も、またぜひ足を運んでほしい。そう思っています。でも、3月11日だけは、静かに、心穏やかに過ごしたい。この日は、私たちが大切な人たちを亡くした命日だから。いまも石巻で活動を続けてくださっているみなさんに『帰れ』とはもちろん言わないけれど、いまは石巻を離れている方々には、どうぞ、いまいる場所で手をあわせてもらえたらうれしいです」

 もちろん人によって感じ方、考え方は違うので、全員が全員、このような考えではないのかもしれない。それでも、多くの地元の方々の想いを代弁してくださったように感じられ、納得感があった。

 残念だし、申し訳なさもあるが、カムバック組の来石は断る。その日に石巻にいる短期のボランティアたちは、できるだけ地元の方々の目にふれないよう、宿泊拠点から外出禁止。もちろん通常の活動も、その日はお休み。そうした方針が決まった。一方、長期で活動を継続している限られたボランティアだけが、地元の方々が主催する追悼行事のお手伝いに参加させてもらえることになった。

この私は、石巻にいていいのか

 同窓会気分で盛りあがるカムバック希望者たちに、「あなたはコウザンには泊まれない」と連絡するのはつらかった。前述のとおり、石巻には当時ボランティア宿泊できるような施設はなかったので、コウザンに泊まれない=石巻には来るな、という宣告だ。身も心も石巻のために尽くしてきた仲間たちに、それを伝えるのはひじょうに酷だった。「あなたは石巻にいていいのに? 何が違うの?」と、私も言われた。

 私自身は、「(いまも活動を継続している)あなたは3月11日に石巻にいてもいい」と地元の方にお墨つきをもらえたわけだが、「私にほんとうにその価値があるのか」という問いを、深く自分自身に問いつづけることになった。「いまも石巻で活動しているみなさんに『帰れ』とは言わない」ということばは、「(ほんとうは言いたいくらいだけど)言わない」というふうにも聞こえた。なにより、当時の私には、自分が「いい活動」ができているという自信がなく、そんな私が石巻にいていいのか、毎日、不安になった。

 3月に入ると、本格的に空気がピリピリ、というかビリビリしてきた。あの日と気候が似てくるからだろう。地元の方々は、雪が降れば「あの日も雪が降ってね」と言い、きれいな星空を見れば「あの日も星がきれいだった」と言った。思いつめた表情をする方々が増え、ことばにならない恐怖や焦燥感がビリビリと伝わってきた。

 一方で、カムバック希望者は増えつづけ、私たち継続組は毎日のように、コウザンに泊まれない理由を説明しなくてはならなかった。そのたびに、石巻にいない人たちとの途方もない温度差、埋めようのない溝を感じずにはいられなかった。「3.11が近づいてきて、空気がものすごくピリピリしているんだよね。3.11はお祭りじゃないんだなあって⋯⋯。正直、私も石巻を離れたいくらいだよ⋯⋯」。納得してもらおうと思っての説明だったが、「私も石巻を離れたいくらい」というのは本心だった。

 じっさい、2011年の4月からずっと石巻にいるのに、3月11日だけ東京に帰ったメンバーもいた。母校の学生たちから「3月11日にボランティアにいきたい」と申し出があり、それは受け入れられないけれど、そのかわりにと、東京で学生たちと追悼行事を営むという話だった。「自分の存在が石巻の人たちを傷つけるかもしれないなら、自分は石巻にいないほうがいい」とも言っていた。立派だなと思った。

 ほかにも、「地元の方々が主催する追悼行事のお手伝い」には参加せず、短期のボランティアたちと一日、宿泊拠点から出ずに過ごしたメンバーもいた。みんなで輪になって、「どうしてボランティアにこようと思ったのか」「震災当日はどこで何をしていたか」などについて話していたのだという。一度しかない「震災後、はじめての3.11」の石巻のようすを自分の目で見ることなく、「ボランティアさんたちのソワソワやモヤモヤを受けとめるのが自分の役目」とみずからの役割に徹した彼もまた立派だなと思った。

あの日から一年後の14時46分

 私は、「いっそ石巻から離れてしまいたい」という焦燥感のような気持ちをかかえながらも、それを行動に移すこともできず、ついに3月11日当日を迎えた。喪服を着た方々だらけで、まちじゅうがお葬式だった。追悼行事の手伝いをする私たちも黒い服を着たいところだが、あいにくカラフルな作業着しか持っていないので、黒いリボンで喪章をつくり、身につけることにした。

 追悼行事は「中瀬」とよばれる、旧北上川の中州でおこなわれた。色つきの小さな紙袋に砂を入れ、そこにキャンドルを立てて、地面に描かれた下絵にあわせて並べていく。夕方、キャンドルに点火すると、上空から見たときに美しい桜の絵が浮かびあがるというものだった。準備は朝からはじまり、地元の方々と私たち長期ボランティア、計100人ほどが集まった。

キャンドル以外にも、生花を敷きつめて大きな花をつくった

 14時46分が近づくと、作業の手を止め、整列してそのときを待ち、サイレンの音とともに黙祷を捧げた。黙祷が終わったあとも、しばらくはだれも口を開かず、作業もはじめず、ただそこに立ちつくしたまま静かな時間を過ごした。正直ここ数日、地元の方々が感じる不安や緊張が伝わりすぎていて、「3月11日の14時46分には、何か天変地異でも起きるのではないか」と思うくらいだった。でも、ずっと迎えるのが恐怖だったその瞬間は、驚くほど静かで穏やかだった。そう、何も起きない、静かな時間だけが流れていた。

 夕方になり、キャンドルへの点灯をはじめた。腰をかがめる作業が続き、疲労も溜まっていたが、かじかむ手で一生懸命、点火作業を続けた。ナスカの地上絵のように大きな桜の絵柄は、地上からではうまく絵になっているのかわからなかったが、これは私たちが楽しむためのものではない。お空にいる方々に見てもらうための桜だ。私は家族も友人も亡くしてはいないが、石巻で出会った人たちの「大切な人」を思いうかべて、空に想いを馳せた。前日までの気が狂いそうな気持ちは嘘のように消え、心はすっかり凪いでいた。

参加者がことばを書き入れた灯籠が並ぶ
点灯されたキャンドルの桜(以上、写真はすべて遠藤和秀氏撮影)

10回目の石巻での春をまえに

 遺族でもない私が、地元の方々とともに、石巻でこの日を過ごさせていただいたことには、感謝以外ない。

 2012年3月11日を私が石巻で過ごしたことには、正直、「ほんとうによかったのだろうか」という思いがいまも残る。私の、石巻や地元の方々への寄り添う気持ちや、犠牲になられた方々への追悼の想いが「ホンモノ」だとは思えなかったからだ。でも、だからこそ私は、「私のなかで、3.11をお祭りにしない」と決めた。「一生に一度は長岡の花火を見たいよね」という気持ちで、3.11を石巻で過ごさない。かたちのない想いをホンモノにしていくのは、その後の行動だ。以来、私は9回の3.11を石巻で過ごし、今年は10回目の3.11を石巻で過ごす予定だ(8回目までは石巻に住んでいたのだが、昨年からは通っている)。

 幸いなことに、ここ7年ほどは、「がんばろう! 石巻」の看板の前でおこなわれる追悼行事の実行委員メンバーになり、行事を企画・運営する側として3.11を経験させていただいている。遺族ではない私は直接亡くなった方を想うことはできないが、大切な人を想う地元の方々に寄り添いたいという私の想いは少し「ホンモノ」に近づいたと思う。そしてなにより、居場所があることのありがたさを、毎年感じている。私もだれかの居場所でありたいと、心から願う。

 

岩元暁子(いわもと・あきこ)
日本ファンドレイジング協会 プログラム・ディレクター/石巻復興きずな新聞舎代表。1983年、神奈川県生まれ。2011年4月、東日本大震災の被災地・宮城県石巻市にボランティアとして入る。ピースボート災害ボランティアセンター職員としての「仮設きずな新聞」の活動を経て、支援者らと「石巻復興きずな新聞舎」を設立し、代表に就任。「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」を目標に、被災者の自立支援・コミュニティづくり支援に従事。2020年5月、石巻市内の仮設住宅解消を機に、新聞舎の活動を縮小し、日本ファンドレイジング協会に入局。現在は、同会で勤務しながら、個人として石巻での活動を継続している。石巻復興きずな新聞舎HP:http://www.kizuna-shinbun.org/