〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす│第11回│「公」と「私」をつらぬく正義│朱喜哲

そのことばの使いこなし方をプラグマティズム言語哲学からさぐります。
第11回
「公」と「私」をつらぬく正義
それでも「正義はよいものだ」と言うために
この連載では、「正義」や「公正」のような日常的には使いづらいと思われる「正しいことば」について、それらをなんとか使いこなしていくためのテクニックを考えてきました。くり返し述べてきたポイントは、こうした公共的な理念を表現したことばを、個々人やさまざまなレベルの共同体にとっての「よいこと(善)」とは一線を画するものとして、しっかり使いわけよう、ということでした。
ここまで、こうした使いわけを提唱し、現代の政治哲学のひとつの標準となることばづかいを確立したジョン・ロールズを参照しつつ、「正義」と「善」がどう異なっているのか、ということについてまずあつかいました(第2回・第3回)。そしてまた、どんなメリットからこの使いわけを推奨するのかということについても、「人類の会話」というキーワードを中心に述べてきました(第4回・第5回・第6回)。
ここまで読まれた方が説得されたかはわかりませんが、テクニックのあらましとそのモチベーションについては、ひととおり述べることができたと思います。しかし、まだ正面からあつかえていない重要な論点があります。それは、このテクニックを使うことにデメリットはないのか、という問いにこたえることです。
もう少し詳細にいえば、つぎのような批判にどう応答するかが課題になります。ロールズ流のテクニックを採用したとき、「正義」という公共的理念──「正義の構想」──は、わたしたち個々人や価値観をともにする集団(共同体)単位で構想される諸価値である「よいこと(善)」──「善の構想」──とは一線を画したものになります。そうであれば、少なくとも単純に「正義はよいものだ」とは言えなくなるではないか。そして、そんな「正義」は現実に有効なのか、という批判です。1
今回は、こうした批判に対して、わたしたちはロールズ流の用法を採用してもなお「正義はよいものだ」と言えるということ、そしてそれはけっして無力ではない、ということを論じたいと思います。
社会において両立しえない複数の「善」
まず確認しておきたいのは、ロールズ流から離れて素朴に考えれば、「正義」という理念もまたひとつの「よいこと(善)」だと思われることです。わたしたち自身が心底よいと思っている理念を掲げて、それを公共的な政治目標として位置づけるというステップを踏むことの何が問題だというのでしょうか。それには、あらためてロールズが「正義」と「善」を区別しようとするモチベーションを再確認しておく必要があります。
これまでも論じましたが、わたしたち個々人や、そしてさまざまなレベルの集団がいだいている、何が「よい」ことかについての複数の考え(善の構想)はしばしば対立します。たとえば第8回では、ロールズに先行する政治哲学者アイザイア・バーリンの「ふたつの自由」論をとりあげ、「自由」という価値どうしが衝突し、両立しないケースについて検討しました。
20世紀初頭の東欧リトアニアにユダヤ系として生まれ、世界大戦の時代を生きたバーリンにとって、現実社会の政治とはそうした共存しえない数多くの理念を、それでもすり合わせ、調整しながらやっていく営みにほかなりません。そのさいも紹介したフレーズですが、バーリンはつぎのように現実世界をとらえていました。2
われわれが日常的経験において遭遇する世界は、いずれもひとしく究極的であるような諸目的──そしてそのあるものを実現すれば不可避的にほかのものを犠牲にせざるをえないような諸目的──のあいだでの選択を迫られている世界である。
少し具体的に考えてみます。たとえば「ジェンダー」の観点における不平等の是正をめざすことは、まごうことなく重要で正しい現代の政治的目標ですが、それはときに生殖によって存続可能になるとされる「民族性」とその伝統的価値観を尊重する観点と衝突することがありえます。はたしてこれらは、どちらかだけが真正の理念だったり、あるいは、それらを両立させる包括的な理念のもとに統合できたりするものでしょうか。
少なくとも現実政治のタイムスパンにおいて、バーリン、そしてロールズはそうは考えません。というのも、社会が現に営まれている以上、わたしたちはつねになんらかの政治的選択をしていかなければならないからです。バーリン自身は先の引用とほぼ同内容のことを、つぎのように強調点を変えながらくり返しています。3
偉大なる善(Great Goods)のうちのいくつかは、共存しえないだろう。それは概念上の真理なのである。われわれは〔複数の善からいずれかを〕選ばねばならぬという運命にある。そしていずれの選択をしたとしても、とりかえしのつかない損失を招くかもしれない。
ロールズはこの箇所を引用したうえで、ここで「損失(loss)」とバーリンがよんでいる事態が生じることは不可避であり、それ自体は不正義や恣意的変更ではないと述べています。4 「損失」とは、わたしたちの社会でさまざまな個人や集団が多様にいだく基本的な理念や価値(善の諸構想)を、どのように選択と調整をおこなったとしても、どうしても公共的な政治判断としては容認されない、棄却されてしまう「善」が出てこざるをえない、ということです。
ここから、つぎのように重大な懸念が提起されます。つまり、じっさいの政治とはけっきょくのところ支配的な集団の価値観によって営まれており、そこで掲げられる公共的な「正義」とは、つまるところ多数者・強者による「善」の構想にすぎないのではないかという懸念です。この懸念について、現にそうだったと考えられるかもしれないという意味であれば、バーリンとロールズは──ニュアンスの差はありますが──肯定するでしょう。
しかしながら、公共的な政治の営みはそうであってはならないという点でもまた両者は一致します。そしてさらにロールズ自身は、そうではないように構想できるはずだという独自の地平に踏み出します。それこそが、個々人や集団がいだく「善」とは一線を画した手続きによって構想される「公正としての正義」であり、冒頭で確認した両者の使いわけというテクニックでした。
理念が個人を殺戮するとき
さて、冒頭に提起したように、こうした「善」と一線を画した公共的理念としての「正義」を構想するアプローチには、そうした理念がなぜ、どうやってよいものとして正当化されうるのかという疑念がともないます。
ここではまず、バーリンとロールズの両者が共有する「そうであってはならない」というモチベーションから掘り下げましょう。バーリンは、個々人がいだきうるなんらかの「善」構想が、究極的には社会全体ひいては人類・世界にとって真正によいものでありうるという可能性について、懐疑的どころか深刻な懸念を表明します。それはバーリンのつぎのような歴史的な認識にもとづくものです。5
正義、進歩、将来世代の幸福、宗教的使命、国民・民族・階級の解放、そして、さらに自由そのもの〔…〕まで、 歴史上の大いなる理念という祭壇があり、そこで個人が殺戮されてきたという事実に対しては、何よりもあるひとつの信仰にその責任がある。
引用の冒頭に列挙されたような「理念」の旗のもとで、個人単位の命はあまりに軽々と犠牲になってきたという認識は、歴史的記述としても現代においても違和感のないものでしょう。しかし、バーリンはその責任を負うべきは個別の「理念」そのものではなく、諸理念にかかわる特殊な「信仰」にあるというのです。
それはつまり、どこかに──過去や未来、神の啓示、ある思想家の心のうち、歴史や科学の裁定、あるいは無垢なる善良なひとの純心のうちなどに──究極的な解決策がある、という信仰にほかならない。この古くからの信仰は、人類が信じてきたあらゆる積極的な価値というものが、最終的には、たがいに矛盾することはなく、そしておそらくは相互に必要としあうものだろうという確信にもとづいている。
戦争はその典型ですが、ある理念の旗のもとで駆り出された個々人が命を散らすとき、ひとつの常套表現として「決して無駄な死ではなかった」というように、死者の犠牲は理念への殉教として意味づけられます。
注意したいのは、バーリンはそうした「理念」(さまざまな善の構想)そのものを批判しているのではありません。ひとにはみな、自分が奉じる価値・理念があり、それを守るためにはときに命をかけることさえできます。そして同じような善構想を共有していても、あるひとはそれを放棄・妥協することができてしまうが、別のひとはそのために身命を差し出しても惜しくないということがありえます。
たとえば同じ宗教の信者たちが改宗を迫られたとき、ある者は棄教し、別の者は殉教するということがあったとして──歴史上数えられないほどあったわけですが──、それは今日の社会においては最終的には個人の裁量であったと評することが可能です。しかし、この例において「殉教/棄教」という表現につきまとうように、本当に正しい(かもしれない)もののために生命を投げうつことは、たんに個人の裁量による死と比較して、途方もなく価値があるかのように思われるでしょう。
そう思わせるものこそが、バーリンが糾弾したい「信仰」です。個々人にはわからないかもしれないが生命をかけるに値する理念という旗のもとで、若者を死地に送り出すという為政者や主権者の姿は、いつの時代にも珍しいものではありません。
そして、それはあくまで個々人がみずから構想する私的な「善」に身命を賭すことよりも、もっとずっと残酷なものではないでしょうか。というのも、ここで掲げられる大義は、往々にして為政者や支配層にとっての利害に根ざした「善」の構想が、壮麗で空虚な「理念」として語られたものです。そして、ただ信仰によって啓示される「究極的な解決」という約束手形は、それを示唆する為政者をふくめてだれも現金化してくれることはありません。
「まちがっていたくない」という怯懦
少し整理しましょう。バーリンが指摘し、憤っているのは、特定の「善」構想がそのまま公共的理念として掲げられることにともなう問題でした。戦争がそうであるように、決定的に対立する集団それぞれが掲げる理念同士は、それがたとえ同じ字面であれ、両立しえない(だから争っている)という事実があります。
こうした個々の集団・共同体が奉じている個々の理念について、どれだけ犠牲が出たり、非難を浴びていても「いずれは正しいことが理解されるはずだ」と内向きに唱え続けることは、どういった帰結を招くでしょうか。
あるいは、第三者のような立ち位置から「どちらにも理があって、それぞれ正しい」というような場合にはどうでしょうか。個別の「善」構想に対して、それをそのまま含むような公共的理念の一部でありうると認めることは、現実政治における流血を是認し、さらなる殉教を称揚することにつながっています。
バーリンとロールズにとって、社会と政治という営みというものは、複数の相容れない「善」構想同士を調整しながらも、それでもどうしても一部の「善」構想は公的には棄却されるという「損失」が必然的にともなうものなのだと考えていました。
こうした社会を営むにさいして、特定の「善」構想が、公共的な理念として掲げられているのだとすれば、それは政治の意思決定プロセスに参加しうる主権者のうちでも多数者、より権力に近しい者たちの利害関心とつながったものになるでしょう。このことと先にふれた社会において不可避である「損失」とが組み合わさったとき、明らかに特定個人・集団の「善」に資するように抑圧される別の個人・集団という構図が生じ、かつこの構図が固定化されるという事態が生じます。
そして、こうした理念や価値だからこその落とし穴があります。わたしたちは程度の差こそあれ自分が参画する社会における基本的な理念を、教育の過程を通じて、それぞれに内面化していきます。そして、それが習慣的に大切にされるものであればあるほど「究極的には、自分たちはそれほどまちがっていないのではないか」と思いたがるものです。
枢要なものとして位置づけられた「善」は、それを変更したり疑ったりすると、ほかにも多くの信念を変更することを余儀なくされます。それゆえに、わたしたちは習慣化された基本的な理念について、それを手放して本来的に「損失」をかかえた不安定な社会にみずからを投げ入れることを避けたがるでしょう。(たとえば宗教的権威を礎とする国家において、その理念の確からしさを疑うことは、家族制度や同胞との紐帯についても再考を余儀なくされるという高いコストを要します。)
こうしたメカニズムがあるとき、「信仰」という空手形によって究極的な正しさの色を帯びた理念はひとを死地に追いやり、そしてそのふるまいがまた殉教の神話を再生産し、さらに強固になるというサイクルができあがります。バーリンが語気を強めるように、これは掲げられた理念および為政者による、共同体に属する個人の「殺戮」でさえあるでしょう。
バーリンは、以前(第8回)も論じた「消極的自由」──放っておいてもらえる、干渉されない最低限の自由──が確保される私的領域の重要性を説きました。それは同時にそこで育む自分の「善」構想が、かならずしもその外側である──各々の消極的自由を確保するために、おたがいにふるまいに気を配り、その維持をともに構想する──公的領域においては通用するわけではないし、またそうあるべきでもないという不安定さを引き受ける義務とセットになっています。
それはたとえば典型的には、内心の自由(信教の自由)というかたちで確保される自由さが守られるためにこそ、みずからもまた他者に対して信教を強いることはできないという市民的責務を引き受けるということです。こうした近代的な「市民」の姿を、バーリンは同時代の知識人シュンペーターの言に見出します。6
自分のいだく確信というものが相対的な妥当性しかもたないということを自覚し、それでもなおひるまずにその信念を唱えること。それこそが、文明人を野蛮人から区別するのだ。
そして、つぎのように自分のことばを続けます。7
それ〔相対的な妥当性〕以上のものを求めてしまうことは、おそらく〔人間にとって〕根深く、不治の病である形而上学的な欲求というものだろう。しかし、わたしたちがどのような実践をするのかについての最終的な決定を、このような欲求に委ねてしまうことは、同じく根深く、そしてはるかに危険である道徳的・政治的未熟さの症状にほかならない。
バーリンはここで 「まちがっていたくない」という怯懦に由来する信仰を捨てることを、道徳的・政治的に成熟した社会の構成員の条件として求めています。ここでは「ひるまずに」と言われていることに注意しましょう。「相対的な妥当性」を字面どおりに受けとると、これはよくある価値についての相対主義の表明ということになってしまいます。
しかし、価値相対主義にもとづいた理念の表明──「みなそれぞれに正しい」──であれば、そこに「ひるまない」勇気など必要ありません。それはむしろ、もっとも安易で怠惰な、まちがいえない表明だからです。勇気を要するのは、自身が奉じている理念の正しさにコミットし、説明を尽くしたうえでなお、批判に対してはオープンであり、場合によってはみずからが奉じる理念を改訂や、撤回しうるという姿勢をつらぬくことです。
こうした態度においては、どのようにも構想されうる私的な「善」について、なんらかの究極的な正しさにすがろうとすることは、みずから固く禁じる。そして、それでも公共的な空間でどうふるまうかについては、そのつどごとに判断し、発言し、その責任は引き受けること。それがバーリンの考える公共的な責務ということになるでしょう。
「バザール」と「クラブ」
こうしたバーリンの公私の区分は、ロールズが私的な「善」構想と公共的な「正義」構想とを切り離すことと対応しています。両者はここで類似したモチベーションをもっています。ただロールズの場合には、どうしても公共性の単位として「国家」のモデルが考えられているため、「公共的」というレベルを狭い意味での政治的なもの、手続き的なプロセスとして描きます。
そのため今回掲げた課題──「善」と「正義」を峻別するとき、どうやって「正義」の構想をよいものだと言えるのか、という問い──に対してはいささかまわりくどい説明を要します。そこでバーリンの文脈にひきつけてロールズを読み、かつ明確な「公/私の区分」を提唱するリチャード・ローティを介して、この問いにこたえてみたいと思います。
ローティは、このふたつの領域をじっさいに地続きでありうる空間にたとえています。すなわち私的空間とは「英国紳士のメンバー制クラブ」のようなものであり、公的領域とは「クウェートのバザール (市場)」のようなものだというのです。8
わたしたちは、多くのメンバー制のプライベート・クラブにとりかこまれた、ひとつのバザールというモデルから〔公と私を区別する〕世界秩序の在り方を打ち出すことができる。
この比喩では、皆が共有するただひとつの公共空間たる「バザール」が次のように描写されます。
わたしはそのバザールにおける多くのひとびとが、商談相手とまったく同じ信念を共有するくらいなら死んだほうがましだと思いながら、それでもなお有益な商取引をしている様子を思い描く。こうしたバザールが〔…〕なんらかの共同体などではないことは明らかである。
じっさいのバザールがそうであるように、市場を行き交い、思い思いに商談したり、冷やかしたりするひとびとは、なんらかの「善」構想を共有するようなひとつの集団(共同体)とはいえません。公共空間たるバザールには、メンバーシップの高い個店の店主や顧客もいれば、流れの行商に新規客、よそ者、そしてスリに至るまで、各々がいだく目的も一致しないようなひとびとが集っています。
こと商談という営みをいっしょにおこなう買い手と売り手にしても、その思惑はまるで違います。あいいれない宗教を信じているかもしれませんし、ほとんどの場合には取引以外ではなんの接点もないような間柄であるでしょう。しかし、それでも必要や関心が重なって、その店の軒先で商談という共同行為にのぞむわけです。これこそが公共的な空間です。
ローティは、公共空間たるバザールに生活上の必要から日々訪れて商談をせねばならないような店主を主人公として、その一日を描きだします。
〔店主である〕あなたに必要なのは、市役所や八百屋、そしてバザールに、どうしようもないほど自分とは異なっていると思わざるをえない人物が現れたときに、自分の感情をコントロールする能力だけだ。そんなことが起きたら、あなたはほほえみを絶やさず、できるだけうまく切り抜け、それからつらかった一日の仕事を終えたあとで自分のクラブへと退散する。あなたはそこで〔善の構想を共有する〕道徳的な仲間たちと交友し、心を安らげるだろう。
公共空間たるバザールでは、居心地が悪く、心穏やかではいられないような人物との商談という共同行為を余儀なくされることもめずらしくありません。そこでは、内心がどうあれ、商売上の必要性やせいぜいマナーから、愛想笑いを浮かべ、社交的にふるまう必要もあります。
しかし同時に、わたしたちには、「退散する」ことができる私的空間──基本的な価値観(善構想)を共有しており、したがって容易に共感でき、また共感されることによって安らぎを得ることができる──「メンバー制のクラブ」があります。そこは、気心の知れた間柄ならではの直截で、たがいを慮った豊かな会話がなされ、おたがいの人生観や信条にたちいった深いコミュニケーションが営まれる場です。
あるときにはそこでの仲間うちの軽口として、今日お店にのこのこやってきた「へんなヤツ」への揶揄や愚痴が飛び交うかもしれません。その際、バザールではとても大声でしゃべれないが、その場には気にする者がいないはずの侮蔑的表現が口をつくことさえありそうです。度が過ぎたり、場合によってはたしなめられるかもしれませんが、しかし、そこがメンバー制のクラブであり、翌日の市場に何も持ち越されないのであれば、それはその場限りの会話として問題にならないでしょう。私的空間とは、そうした場でもありえます。
比喩による公/私の整理とその限界
ローティによる「バザール」と「メンバー制クラブ」という比喩が秀逸なのは、それぞれの魅力ばかりでなく、公共空間のしんどさや私的空間の危うさまでもが、明確にイメージできる点にあります。
バザールは、商売という──おたがいが自分にないものを相手に求める──共同行為をなりたたせるという共通の目的があり、そのもとで神経をすり減らす駆け引きや、心にもない愛想笑いや追従をせざるえないことも少なくありません。また、商売がなりたつためには、相互信頼、治安環境の維持など、ハードとソフト両面でのインフラ環境の整備も必要となります。これこそがバザールにおける「正義」に相当する、公共的な関心事です。
他方、クラブではわたしたちは仲間うちでくつろぐことができますが、同時にやはり──比喩の字面どおりホモソーシャルな空間として──新規参入者やメンバー外の者にとっては閉鎖的で、ときに敵意や脅威をかきたてられるものでもあるでしょう。もしかすると、メンバー内にもじつは居心地悪く感じているという者がいて、そのうちにひっそりといなくなるかもしれません。私的空間であるクラブの場合、バザールを統べていた商売の成立のような「共通の目的」はなく、強いていえば仲間うちでのコミュニケーションによる情動的な快適さそれ自体がめざされている価値、すなわち「善」といえるでしょう。
いうまでもなく、この比喩は単純化が過ぎており、こうしたはっきりと空間的に隔絶し、メンバーシップも重複しない公/私が切り分けられた空間というのは現実的ではありません。じっさいには市場だろうと会員制クラブだろうと、私的なものと公共的なものがないまぜになっており、時と場合によってその配分も変わります。
とりわけ今日のサイバー空間に現出する多くの場は、この線引きについて合意することさえむずかしいでしょう。たとえばSNSのタイムラインはどちらの空間に属しているのでしょう。それが公共空間だとして、では同じSNSの機能でもDMをやりとりするのは私的空間でしょうか。さらに鍵つきアカウントどうしのやりとりはどうなるでしょう。サイバー空間における言説トラブルのほとんどは、同じ場について、その位置づけが合意できていないことに由来するとさえ言えそうです。
バザールの「正義」
このように、ローティの比喩には無理があることもたしかですが、それでも良質な比喩は、考えを進めるための示唆を与えてくれます。ここでは最後に、この比喩に依拠しながら、当初に立てた問いであった、どうすれば「正義はよいものだ」と言えるのかについて考えてみましょう。
公共空間(バザール)における「正義」の構想とは、商売・交易というひとりでは──また同じものしかもたない集団では──なしえない協働をできるだけ安定的に営むことを可能にするための条件を整備する、いわばインフラにかかわるものだと先に述べました。
これはロールズのモデルがそうであるように、私的空間(クラブ)で共有されている「善」の構想とは一線を画したものです。というのも、基本的な善構想の一致がメンバーたる条件になっているクラブにおいては、そもそも原理的に不安定な協働を支えるというモチベーションが出る幕はないからです。
では、それによってバザールにおける「正義」を「よい」と主張することはできなくなるのでしょうか。たしかに、この比喩における主人公(店主)が、自身の私的な善構想としてコミットしている諸価値のなかに同じものは不要かもしれません。バザールの持続可能性など度外視して、短期的に私欲を追求して撤収することを目論むことには、一定の合理性があります。
しかし、それでも公共空間としてのバザールを維持していこうとしている──あるいはやっていかざるをえない──多くの構成員がいるとき、たとえその場限りのとりつくろいであれ、最小限のインフラ整備については同意するでしょう。そして、この程度のことであれ、それはバザールにおける「正義」へのコミットとして認められてよいものなのです。
もし、それが認められないのだとすれば、それは批判者が暗に次のような前提を置いている場合です。すなわち、「私的な空間において仲間たちと心からと共有しうる善構想こそが真正のものであり、公的空間において要請される条件を満たすためだけに正義の構想を支持することは真正ではない」という前提です。
先述したとおり、わたしたちは現に生活する時空間を、私的空間と公的空間の二種類にすっぱりと区別することはできません。じっさいのところ、わたしたちは両者が浸透しあった空間に生きています。では、この比喩が物語っているのはなんなのでしょうか。
それは、わたしたちは時空間的にはひとつの連続した世界を生きているのですが、そのなかで、私的と公的という相互に異なってあいいれない複数のことばづかいを使いわけながら生きているという、端的な事実を表現しているのです。そして、このとき複数のことばづかいのうち、どれが真正のものなのかと問うことになんの意味があるのでしょう。あえていえば、どれもが真正のことばづかいであり、ただ使われる目的が異なっているのです。
バザールの「正義」、公共的なことばづかいがめざす目的とはなんでしょうか。それは先に触れたように、そもそも善構想を共有していないような間柄での商売・交易という協働を可能にすることでした。そのためには、さまざまな条件を整える不断の努力が必要です。そして、こうした条件をもっとも脅かすものの典型となるのが暴力であり、それがもたらす苦痛であり、公然と行使される残酷さです。
「残酷さ」については直近の二回(第9回・第10回)でも論じましたが、重要なのは「残酷さ」の行使こそ、バザール (公的空間)ばかりでなくクラブ (私的空間)でなされる会話にとっても、その存立を脅かすものであるという点です。つまり、ここでは少なくとも「なによりまず残酷さを低減せよ」という形で説かれる正義の構想については、私的なことばづかいから公的なことばづかいまで、両方をつらぬく形で要請されうるのです。
ここでの正義の構想とは、特定の理念こそが真正によいものだと説いたり、複数の理念をすりあわせて理論的に洗練させたものではありません。そうではなく、どんな理念を唱える場合にも不可欠であるような身体的・精神的な条件を破壊するような力の行使、残酷さの発露について、まずはそれを止めようとすることです。この意味において、こうした正義の構想それ自体について、それは個々の理念と一線を画して重要であり、端的によいものだと言われうるでしょう。
もっとも、こうした残酷さへの訴えには、「共感」という障壁があります。同じような事態が生じているのに、誰が被害を受けているのかによっては、それを制止しようとする声の大きさと実効力が変わってしまうことは、歴史が示すとおりです。であれば、この構想もまた公共的な「正義」としての資格を欠くのでしょうか。次回、この問いについて最後に考えていきたいと思います。
1 なお、これはロールズ流リベラリズムに対して、当時チャールズ・テイラーやマイケル・サンデルといったいわゆる「コミュニタリアン」から向けられた批判に相当します。政治思想史における「リベラル・コミュニタリアン論争」として知られた、このいささか噛み合わない議論の総括(第一章)をふくむ、「正義」と「善」の関係について本連載よりも広範に考えたい方には以下の書籍を薦めます。大瀧雅之・宇野重規・加藤晋編『社会科学における善と正義:ロールズ『正義論』を超えて』、東京大学出版会、2015年。
2 アイザィア・バーリン著(生松敬三訳)『自由論 新装版』、みすず書房、2018年、382-383頁。邦訳を基本的に用いつつ、原文を参照して一部の訳を変更しています。また強調の傍点は引用者によるものです。以下も同様です。
3 アイザイア・バーリン著(福田歓一・河合秀和・田中治男・松本礼二訳)『バーリン選集4 理想の追求』、岩波書店、1992年、19頁。
4 ジョン・ロールズ著(神島裕子・福間聡訳)『政治的リベラリズム 増補版』、筑摩書房、2022年、238頁。
5 バーリン『自由論』、381-382頁。
6 Schumpeter, J.(1943) Capitalism, Socialism, and Democracy, London, p.243
7 バーリン『自由論』、390頁。
8 Rorty, R. (1991) Objectivity, Relativity, and Truth, Cambridge, pp.209-210.
朱喜哲(ちゅ・ひちょる)
1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。大阪大学社会技術共創研究センター招へい教員ほか。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。前者ではヘイトスピーチや統計的因果推論を研究対象として扱っている。共著に『信頼を考える――リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房、2018年)、共訳にブランダム著『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房、2020年)などがある。