〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす│第8回│「自由」を大切に使うために│朱喜哲

〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 朱喜哲 ちゅ ひちょる 「公正」とはなにか。「正義」とはなにか。 その言葉の使いこなしかたをプラグマティズム言語哲学からさぐります。

「公正」とはなにか。「正義」とはなにか。
そのことばの使いこなし方をプラグマティズム言語哲学からさぐります。

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第8回
「自由」を大切に使うために


「自由」ということばを乗りこなす

 本連載では、ここまで「正義」「公正」「寛容」など、いくつかの重要な「正しいことば」について、その乗りこなし方を考えてきました。共通するポイントは、こうしたことばが何と区別され、何と言い換えられるようなものなのかを確認してみることによって、なんとなく使っている(あるいは何となく使いづらい)ことばの用法を見直すことでした。

 そうした乗りこなしテクニックにおいて代表的なのが、20世紀のリベラリズムを代表する政治哲学者ジョン・ロールズによる「正義」と「善(よいこと)」の区別でした。わたしたち各々が何をよいと思うのか(善の構想)と、そうした多様でときに対立する複数の「善」の構想が共存しうるように社会を営むための理念としての「正義」とを区別して、ここでの「正義」ということばを使、という提案です。

 今回は、いまちょうどさらっと使った「正しいことば」のひとつに焦点を当てながら、このテクニックをさらに掘り下げたいと思います。すなわち「自由主義リベラリズム(liberalism)」であり、そこでの「自由」について、です。このことばもまた「なんとなく使っている(あるいはなんとなく使いづらい)」正しいことばの典型ではないでしょうか。

 この「リベラリズム」、または「リベラル」ということばは、現在の日本語ではカタカナでそのまま用いられることが珍しくありません。ただその意味するところは、多くのカタカナ語がそうであるようにやや曖昧でしょう。

 具体的にどんな言い換えができるかといえば、「進歩的」で「保守的ではない」とか、「左派」でありつつも「社会主義や共産主義ではない」とか、わかるようでわからないことばです。学術的な定義としても、異論ないかたちで端的に述べることはむずかしいのですが、しかしその立場が大切にする中核的な価値——正しいことば——の少なくともひとつが「自由」であることはたしかです。

 ひとまず「自由主義リベラリズム」とは、文字どおり「自由」という価値を重んじる政治思想(主義)だとしましょう。すると問題になるのは、ここでの「自由」とは何だろうか、ということです。第1回で大方針について書きましたが、本連載ではこうした課題について、「本当の<自由>とは何か?」といった問題の立て方をしません。立てるのは、わたしたちは「自由」ということばを使っているだろうか、そしてどう使うのがだろうか、という問いです。

 こうした問いにとりくむさいに重要なのは、それがほかのどんなことばと言い換えられるのかや、またどんなことばと区別されるのか、といった具体的な用法に着目することでした。そういった観点からすると、「自由」ということば自体は、日常的にも使用例がかなり多いのですが、あまりにさまざまな場面で用いられるため、逆にどういう意味で使っているのかを深く考える機会が少ないタイプの「正しいことば」でしょう。

 そこで例によって、こうした価値や概念にかかわることばを使いこなすプロフェッショナルであるところの哲学者、それも政治哲学者のテクニックを参照しながら検討してみたいと思います。今回、「自由」の乗りこなしをめぐっておもに参照するのは、アイザイア・バーリン(1909-1997)です。


現実政治と対峙する哲学者バーリン

 バーリンは東欧(ラトヴィア)で生まれ、イギリスのオックスフォード大学で学び、以降も長らく同大学で教鞭をとった政治哲学者です。本連載の頻出哲学者と時間軸を比較すると、1921年生まれのロールズより(東アジアのことばづかいでいうと)ちょうどひとまわり年長世代です。ロールズ は1950年代初頭にオックスフォード大学に留学しており、バーリンからも直接的な影響を受けています。

 バーリンのキャリアで目を引くのは、当代随一の政治哲学者でありながら、第二次世界大戦前後の時期にイギリス情報省において戦時勤務に就き、アメリカおよびロシアの大使館に派遣された情報官として活躍したことでしょう。戦中から戦後まもなく、冷戦へと向かう下地が形成されようとする時期にその後の国際政治の主役となる二大大国の政情を分析し、めざましい功績をあげたことを称えられ、のちに叙勲されてもいます。

 こうした経歴が物語るように、バーリンには学者然とした理論家というステレオタイプが当てはまりません。かといって、実務家としての業績によって大学にポストを得た人物でもありません。彼は、政治哲学が洗練させてきたことばづかいの切れ味を現実政治の渦中において遺憾なく発揮することによって活躍し、それと同時に現実政治の複雑さや時代の課題認識を理論にフィードバックしていくという双方向的な哲学者でした。

 こうしたバーリンの哲学上のスタンスをよく表しているのが、つぎのような彼自身のことばです。1

われわれが日常的経験において遭遇する世界は、いずれもひとしく究極的であるような諸目的——そしてそのような諸目的——のあいだでの選択を迫られている世界である。

 ここでの「究極的であるような諸目的」とは、政治哲学において主題となるさまざまな理念——「平等」「正義」「寛容」そして「自由」といった正しいことばたち——のことです。こうした理念どうしは、理論的な探究を通じて単一のビジョンのもとで調和させられるようなものではなく、あくまで「あるものを実現すれば〔…〕ほかのものを犠牲にせざるをえない」という緊張関係にあり、相互に衝突するのが現実世界にほかならない。それがバーリンの基本的なスタンスです。

 これは、たんに「現実の政治は理論どおりにはいかない」というだけの安っぽい現実主義ではありません。むしろ理念としての諸価値は、それらどうしが対立・衝突するというのが理論家としてのバーリンの診断です。そうした理念どうしの矛盾や葛藤を、理論のレベルで明らかにしつつ、そうした専門分野の貢献も受けながら具体的な場面ごとに理念間のバランスをとりつつ試行錯誤するのが現実政治の営みだというのです。

 わたしたちは第3回で、バーリンの後続世代であるロールズが政治哲学の使命を「現実主義的にユートピア的なもの」を探ることだと述べていたことを確認しました。それと対比すると、同じような使命感をいだきつつも「現実主義」をより強調しているのがバーリンだということもできるでしょう。理論的な探究もまた、具体的な現実政治における問題とそこでの政治的ふるまいを丹念に見ていく必要があるのです。

 バーリン自身のことばでは、つぎのように言われます。2

政治のことば・観念・行動は、それを使用するひとたちを対立させている問題の文脈のなかにおいてでなくては理解できない。したがって、を理解しなければ、自分たちの態度や活動自体がわれわれには理解できないままになってしまうだろう。

 政治的な基本理念はけっして調和せず、そのバランスをとることが理論・実践両面での課題であるというバーリンの基本的洞察は、「自由」という価値の検討においても貫かれています。たとえばごく一般にいって、だれか個人や集団にとっての「自由」は別の個人や集団の「自由」を脅かしうるものです。

 では、そうした複数の対立さえしうる「自由」は、それぞれどのようなものであり、それらのあいだにはどんな関係があり、そしてなによりわたしたちはどのような意味における自由を大切にしているのでしょうか。こうした一連の問いに対して、「自由」にかかわることばづかいを見直し、整理することによって答える手段を提供しようというのが、バーリンの自由論です。


バーリンが区別する二種類の自由

 これまでもたびたび見てきたように、価値や概念にかかわるややこしいことばを乗りこなすためのテクニックの定跡は、それをしっかりことです。こうした抽象的な理念のことばの場合、同じ表現でたがいにまるで違うことを言わんとしていることがままありえます。このことは正しいことばをともなう会話において「事故」が生じやすい原因のひとつでしょう。

 バーリンは、わたしたちがひんぱんに言及する価値である「自由」には、政治的に重要な意味が少なくとも二種類あると述べます。それは「消極的な(negative)」自由と「積極的な(positive)」自由です。バーリン自身の定義を見ていきましょう。3

 まず「消極的自由」とは、以下のように導入されます。

自由ということば〔…〕の政治的な意味の第一は——わたしはこれを「消極的な」意味と名づけるのだが——、つぎのような問いに対する答えのなかにふくまれているものである。つまり、「主体——個人あるいは集団——が、自分のしたいことをし、自分のありたいものであることを、あるいは放っておいてもらえるべき範囲はどのようなものであるのか」という問いである。

 日本語で「消極的」というと後ろ向きなニュアンスがしますが、だれかに干渉され、何かを強制され自由というように、否定形で表現しやすい自由といってもよいでしょう。引用中にあるように、程度の差こそあれど、いわば——肯定形で表現すれば——「」自由ということができます。

 それに対して、「積極的自由」はつぎのように導入されます。

第二の意味——わたしはこれを「積極的な」意味と名づける——は、つぎのような問いに対する答えのなかにふくまれているものである。つまり、「あるひとが、ほかでもなくこうすることを、ほかでもなくこうあることをようなコントロールや干渉の根拠とはなんであるか、まただれであるのか」という問いである。

 文章が堅いですが、こちらの「積極的自由」は、個人や集団のあり方や行動を自分(たち)自身で決定するさいに認められるような自由です。ほかの選択肢ではなく、ある方針を選ぶとき、わたしたちは何かを自由がある、という肯定形で表現します。これは個人のレベルにおいては「自律的」とされるものですし、国家を典型として集団のレベルでも自分たちがどうあるべきか、どうすべきかを決定する自由がある、ということになっています。

 以上のように、「自由」ということばには、少なくとも二種類の用法ないし表現の仕方があるということは、さしあたり受け入れられそうです。たしかに、なんらかの強制力自由であることと、なんらかの対象に自由であることとは、もちろん相互に関係しあってはいますが、別のタイプの「自由」でしょう。

 これを具体的に考えるうえでちょうどよいサンプルとして、日本国憲法における「自由」の使用例を見てみたいと思います。


「信教の自由」から考えるバーリンの自由論

  憲法が保障するところの「自由」には、集会・結社・言論・出版などさまざまなものがあります。こうした西欧近代の自由主義の伝統における諸自由を歴史的にさかのぼると、それは「信教(宗教・信仰)の自由」に行き当たるとよく言われます。4

 個々人や集団にとって、ときにもっとも重要でありうる内心の信仰とそれにもとづいた諸活動にかかわる「自由」をどう確保し、また認めるのか。それがリベラリズムの歴史における中心的アジェンダでした。この流れを汲む日本国憲法の場合、第20条において以下の条文が定められています。

第20条(信教の自由)
1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、 又は政治上の権力を行使してはならない。
2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 ばくぜんと「信教の自由」というと、つい「どんな宗教でも信じることができる自由が、だれもにある」と自由の意味で理解しがちです。つまり「内心の自由」のようなものを考えてしまいそうです。そうした連想からすると、じっさいには第一項の一文目以外のすべての条文が否定形で記載されていることは意外かもしれません。

 第二項ではっきり書かれているように、「信教の自由」とは、内心がどうあれじっさいの行動としてなんらかの宗教的な強制を受け自由として保障されています。そして第三項では、こうした宗教的な強制をふりかざす力をもち、歴史上じっさいにふりかざしてきた強力な主体としてを名指しして、宗教にかかわる政策のです。

 ここからわかるのは、日本国憲法が定める「信教の自由」とは——バーリンの区別にのっとれば——、個々人の自由を担保するために、国家権力が行使しうる自由を抑制するという建て付けになっているということです。この憲法においてわたしたちが大切にしているのは、何かを信じるという個人的な営みについて、という選択肢もふくめて、とにかく自由なのです。

 もちろん「信教の自由」は積極的な意味で解釈することもできますが、ここで見たように消極的自由を守ることが求められます。バーリンもまた二種類の自由のうち、政治的な理念のことばとしては自由を重視します。5

自由ということばのいかなる解釈においても、わたしが「」自由と名づけたものの最小限は、たとえ例外としてでもふくまれねばならない。〔自由というものが成立するには〕わたしの願望が挫かれることのない領域がなくてはならないのである。

 自由の消極的意味が大切である理由は、日本国憲法における「信教の自由」の建て付けにおける警戒の動機とおおよそ同じです。つまり、市民が主権をもって制定する社会(国家)単位での自由——政治的な意思決定プロセスさえ経れば、たとえば宗教的多数派の支持によって特定の宗教を国教としてことができる——が行使されてしまえば、とりわけ宗教的少数派の市民ひとりひとりにとって切実な、放っておいてもらえる(消極的)自由は、いつでもたやすく破壊されるからにほかなりません。


自由と寛容/不寛容

 とくに「信教の自由」に着目してみると、ちょうど前回に論じた「無関心としての寛容」とのつながりも見えてきます。前回からの議論を深めるために、ここでロールズ流の「正しいことば」づかいテクニック——つまり「正義」と「善」の区別——を採用しながら、あらためて話を整理してみましょう。

 たびたび確認してきたように、ロールズにおいて信教すなわち宗教的信仰は、個々人がいだく「善」の構想の代表例でした。わたしたちは——かならずしも宗教的な信仰でなくとも——自身の善構想を自由にいだくことができ、その利害関心にもとづいてふるまうことができます。こうした自身の善構想を選びとり、それにもとづいてふるまうことはバーリン流にいえば、積極的な意味における自由の範疇です。

 ただ、これまた再三確認したように、こうした各自が自由にいだく複数の善構想とそれに根ざしたおのおのの利害関心は、相互に鋭く対立しうるものです。したがって、そうした他者どうしが利害を調整しあいながら共生する社会——「皆でとりくむ命がけの挑戦」——を安定的にいとなむという共通の目標について合意できるならば、そのためには各自の積極的自由の行使に対して一定の制限が必要になります。

 こうした「共通の目標」に向けて、個々人の善構想とは独立に、社会という単位で構想するものこそが「正義」でした。ロールズ自身が提出する「公正としての正義」もその構想のひとつです。以上から、ロールズ流の「正義」においては、個々の積極的自由の行使に一定の制限を課すことによって、大前提である市民社会の善構想および利害関心の多様さを、それでも共生することをめざすものだとも言えるでしょう。

 ここで重視されているのはバーリン流の「消極的自由」、つまり個々人の善の構想やその(一定の制限下での)追求について、周囲から自由と表現できます。こうした自由は、前回の表現を使えば、他者の利害関心について「積極的に無関心」であろうとすることによって確保されます。


「不寛容に対する寛容」は成り立つか

 バーリンを補助線としながらロールズの自由論を検討することによって、前回持ち越した課題のひとつに答えたいと思います。それは「」、つまり「真に寛容なのであれば不寛容なものをも認めるべきだ」という安易に悪用される——正しいことばにかかわる会話を冷笑まじりに制止するための手段とされがちな——常套句を棄却するための理路を、より精確に述べることです。6

 ここまでの自由論のことばづかいでいえば、寛容をめぐる問題とは「信教の(消極的)自由を原則的に認めないような不寛容な宗教集団に対して、リベラルな市民社会は(どこまで)寛容であるべきか?」といった形でパラフレーズされます。なお、この「宗教集団」の部分には排外主義などの差別的な信念集団を入れても成立することは言うまでもありません。

 このとき重要なのはまずつぎの点です。それは、ロールズの構図において自由に制限を加える根拠となりうるのが特定の「善」構想ではなく、あくまで公共的な「正義」の原理だけだという点です。したがって話はシンプルで、まずもって不寛容な集団が自分たちの善構想にもとづいて他者の自由を抑圧しようと試みるのであれば、その時点でそれは正統な根拠を欠いたものであり、公的に棄却されます。

 問題となるのは、こうした他者の自由への侵害行為自体は個別に取り締まるとして、そうした不寛容な信仰や信念を共有し、広めようとする集団が「正義」の原理にもとづいて自分たちもまた最小限の「」自由を主張するようなケースです。

 ほかの信仰を認めないカルト的宗教集団や排斥思想を掲げる差別的集団が、現時点では直接的な周囲の自由への侵害に踏み込んでいない場合において、そうした信念にもとづいた集会や結社、さらには言論の自由を求めることはどこまで許容されうるのか。その極限において、そうした信念をいだく人物や集団をそもそも放置していてよいのか、という問題です。

 ロールズ自身は、バーリン流の区別をもって語っているわけではありませんが、敷衍すればその回答は次のようになるでしょう。まず不寛容な個人・集団における積極的自由の行使については、「それがほかのひとびとの存在の基盤を脅かすのであれば、制限を課すに十分な根拠となる」というものです。

 この点は、いかにたんなる善構想にもとづいた不寛容さではないと主張する——たとえば実体のない「特権」を云々し、むしろ自分たちの利害こそが不当に冒されており、正義の観点から異議申し立てをしているというタイプの主張を展開する——場合においても同様です。それが積極的自由の行使である以上、対象とされた個人・集団の消極的自由を少なくともその最小限度において守ることは、正義の原理が要求することです。

 他方、不寛容な個人・集団であっても、その信念にかかわる消極的自由——どのような不寛容な思想であれ、それをいだいているかもしれないことそれ自体は放っておいてもらえる自由——は、平等な良心の自由という正義の観点から、よほどの危機的な情況でないかぎりは制限されません。

 ロールズ自身のことばでは、「平等な自由を保証する憲法が安定している」のであれば、「不寛容派に自由を与えない理由は何もない」のであり、こうした最小限の(消極的)自由は「私たちの正統な利益(legitimate interests)が相当な危機的状況にある場合のみ、制限しうる」のです。

 ここでロールズが信じようとしているのは、自由を重んじる社会制度のもつ安定性であり、それが多少であれば揺るがされたとしても、バランスをとって補修されるような力学の存在です。

もし秩序だった社会に不寛容な宗派があらわれるとしても、その集団に属さないほかの者たちは、自分たちの〔自由主義的な〕制度・体制が本来的に備えている(inherennt)安定性を忘れるべきではない。

 これはいささか理想主義が過ぎるかもしれませんが、それだけ断固として個々人にとって最小限度の自由は侵されてはならないという理念を貫くことこそが、こうした「安定性」の源泉になるという見解でもあり、自由主義の伝統に連なるロールズが譲れない一線でしょう。


「自由」ということばの陥穽と例外

 さて、バーリンおよびロールズの自由論から学べるテクニックは、まずもって「自由」がかならずしも単一の概念ではないということでした。そして「自由」どうしは対立し、両立しない関係にあることからも、その違いを区別しながら、何を重視するのかを明確にすることが重要でした。

 そうすることで、わたしたちは大切にすべき最小限の「自由」を見極め、それを守るために「どういうときであれば、自由は制限されるべきか」というバランス感覚を養うことができます。頻出するがゆえに使いどころのむずかしい「自由」ということばを乗りこなすとは、こうしたバランス感覚を身につけることでしょう。

 バーリンとロールズが一致しているのは、大切にしなければいけない最小限の「自由」とは、わたしたちが究極的には「」領域をもつことであり、これを確保することが社会の公共的な課題だという点でした。

 ただし、前回も見たようにわたしたちが共生する社会では、それぞれの利害関心が重なり、衝突し、どうしても相互の利害関心をもってしまいがちです。だれかにとっての切実な利害に勝手に首をつっこんで「自分ゴト」として捉え、とその自由の最小限の領域を侵害することは、珍しくありません。

 また、そもそも最小限の「消極的自由」の尊重という理念それ単体だけでは、現在において配分されている自由の度合いがいちじるしく偏っている現実世界において、その偏りや格差についてもそのまま放っておくことを含意します。したがって、けっして「自由」は唯一で至上の理念や基準にはなりえません。

 バーリン自身、放っておいてもらえる消極的自由を抑圧することが正当化されうる場合があるのだと述べます。7

もっとも自由主義的な社会においてさえ、個人的自由が社会的行動の唯一の基準であると〔…〕いうつもりは毛頭ない。われわれは子どもたちに教育を受けるよう強いるし、また公開処刑を禁止する。それらはたしかに自由の抑圧である。そうした抑圧を正当化するのは、無知、あるいは野蛮な養育、あるいは残酷な楽しみや興奮は、それを抑止するに必要な〔自由に対する〕制限の総計と比較して、われわれにとってより悪いものだという理由によっている。

 ここでは、消極的自由の尊重という理念を度外視してでも介入し、是正されるべき「悪さ」が示唆されています。バーリンが挙げているのは「(養育にかかわる)無知や野蛮さ」そして「残酷さ」です。これらはいずれもただの負の理念、つまり「ことばづかい」の問題ではなく、現実における事象やふるまいの問題です。

 リベラルな社会における最優先課題とは、じつのところ(最小限の)自由の追求ではありません。むしろ自由の価値を大切にする社会をいとなむためには、して克服しなくてはならない負の課題があるのです。次回はこうした課題に目を向け、その最たるものである「残酷さの回避」について考えたいと思います。

1 アイザイア・バーリン著(生松敬三訳)『自由論 新装版』、みすず書房、2018年、382-383頁。邦訳を基本的に用いつつ、原文を参照して一部の訳を変更しています。また強調の傍点は引用者によるものです。以下も同様です。

2 同書302頁。

3 同書303-304頁。

4 たとえば以下を参照。森本あんり『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』、新潮選書、2020年、23頁。

5 同書371頁。

6 以降の理路は『正義論』35節にもとづいて再構成したものです。

7 バーリン『自由論』、385-386頁。


 

朱喜哲(ちゅ・ひちょる)
1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。大阪大学社会技術共創研究センター招へい教員ほか。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。前者ではヘイトスピーチや統計的因果推論を研究対象として扱っている。共著に『信頼を考える――リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房、2018年)、共訳にブランダム著『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房、2020年)などがある。