〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす│第2回│「正義」の模範運転とジョン・ロールズ│朱喜哲

そのことばの使いこなし方をプラグマティズム言語哲学からさぐります。
第2回
「正義」の模範運転とジョン・ロールズ
アメリカ大統領選挙をとりまくことば
2020年11月、わたしたちは公の立場にあるひとが、どのように「公正」や「正義」といったことばを使っていたのか、ひさしぶりに思い出しました。アメリカ大統領選挙後におこなわれた、いわゆる勝利演説でのことです。
4年に一度実施されるアメリカ大統領選挙は、いつだって世界中から注目される一大イベントですが、今年はまた格別でした。4年間続いたドナルド・トランプ大統領の共和党政権がさらにあと4年続くのか、それとも終わるのか。アメリカと無関係ではいられない国内外のひとびとが固唾をのんで見守っていたようすは、SNSでも可視化されていました。
日本でも、開票速報を食い入るように見つめて一喜一憂したひとは多かったようです。トランプ支持を表明し、彼自身が確たる証拠もなしに唱えている(とアメリカの法廷および主要メディアがみなしている)選挙不正にまつわる陰謀論とフェイクニュースを拡散する日本語ツイートも少なからず見られました。他方、バイデン支持のツイートのなかには、とりわけアメリカ在住の(したがって民族的マイノリティとして暮らす)日本語話者たちの切実な声が目立ったことが印象的でした。
2016年、トランプが大統領選挙に勝利して以来、なんらかのマイノリティとしてアメリカで暮らすことがどれほど不安と恐怖をともなうものであったのか。多くの当事者が日本語でことばにしてくれたことで、わたしたちにも一定のリアリティを抱くことができたのではないでしょうか。ついにバイデン勝利が確実なものとなったとき、アメリカ在住者たちが漏らしたのが喝采ばかりでなく安堵であったことは、多くのことを示唆しています。
そしてまた前者の、本来直接の当事者ではありえないはずのトランプ支持を標榜するアカウントが、「トランプ再選に日本人の命運がかかっている」といった当事者的なことばづかいをすることも示唆的です。こうした話法は、前回示唆した会話における「事故」、すなわちコミュニケーションを打ち切る効果をもつこともありうる強力なものです。これについてはまたいずれ論じたいと思います。
「正しいことば」の帰還?
今回、とりわけマイノリティの声を体現し期待を背負ったのは、民主党の副大統領候補カマラ・ハリスでした。ハリスは四年前、ヒラリー・クリントンが阻まれた壁をやぶった初の女性候補であると同時に、アジア系およびアフリカ系の出自をもつ民族的マイノリティでもあります。彼女は、勝利演説において支持者と国民につぎのように語りかけています。
この間の日々が困難なものだったことを知っています。〔……〕嘆き、悲しみ、苦痛。尽きぬ心配と葛藤。しかしまた、わたしたちは皆さんの勇気を、打ちのめされても立ちあがる力を、そしてもち合わせている寛容さをも目の当たりにしてきたのです。この4年間、皆さんは、平等と正義のために、わたしたちの生命のために、そしてわたしたちの地球のために、前を向いて行進し、力を合わせてきました。1
ここで念頭に置かれているのは、BLM(ブラック・ライヴズ・マター)運動の広がりや気候危機に対する運動といった個々の社会問題です。そして、それら個別論点を束ねるような理念、つまり「正しいことば」として「平等(equality)」と「正義(justice)」が登場しているという点が注目に値します。ハリスはつぎのように続けます。
皆さんが選んだのは、希望(hope)、団結(unity)、良識(decency)、科学(science)、そして真実(truth)です。
ここで列挙される単語は、とても慎重に選ばれているはずです。これらは左右の政治的対立を超えて、「反トランプ」として結集しうるような価値を表現しています。とくに「アメリカに良識を取り戻そう(Make America decent again)」という――4年前からのトランプの代名詞的スローガン「アメリカを再び偉大にしよう(Make America great again)」をもじった――スローガンは、今回の選挙において長らく共和党の地盤である複数の州でのバイデン勝利を象徴するフレーズでした。こうした価値を重んじる保守層が、支持政党を超えてバイデンに票を投じたわけです。
ハリス次期副大統領の「正しいことば」
前回予告したように、この連載では「正しいことば」について、そのじっさいの使い方を見ていきます。それをいわばお手本として、わたしたちなりにそれらを使いこなすコツをつかもう、というのが趣旨です。
日本語に「死語」という表現があるように、ことばは使われなくなると、いわば死を迎えます。ことばに生命を吹き込み、活力をもたらすのは、その「使用」にほかなりません。
というわけで、ここからもう少しバイデンとハリス、両者の「正しいことば」の使い方を見ていきましょう。先のハリスの演説を続けます。
ハリスは自身の移民二世というルーツに触れながら、移民一世である母の名前を挙げます。19歳でインドからやってきた時点の彼女には、この瞬間はとても想像することはなかっただろうと。しかし、「彼女はアメリカが、この瞬間を迎えるような可能性をもった国であることを深く信じていたのです」と継ぎます。
だから、わたしは彼女と、そして何世代にもわたる女性たちのことを、いま思い起こします。わたしたちの国の歴史を通じてずっと、黒人女性たち、アジア系、白人、ラテン系、ネイティブアメリカンの女性たちは、いまこの瞬間のために道を切り拓いてきました。女性たちは、すべてのひとにとっての平等、自由、そして正義のために戦い、多くの犠牲を出しました。とりわけ黒人女性はあまりにしばしば見過ごされてきましたが、しかし、彼女たちこそわたしたちの民主主義の屋台骨であるということを、何度も証明してきたのです。
ハリスはアメリカにおける女性、そして非白人の参政権獲得の歴史に言及しつつ、見出しとしてもっとも報じられることになった以下の印象的なフレーズで結びます。
わたしは大統領オフィスに入るはじめての女性かもしれません。しかし、決して最後の女性にはなりません。なぜなら、ここが可能性の国であるということを、今夜すべての少女たちが目撃しているからです。
初の女性副大統領誕生が決定したという記念すべき瞬間に、彼女が紡いだ「正しいことば」は、今後も語り継がれるものになるでしょう。ここでハリスが、「まだ実現してはいなくても、そうあるべき可能性」として「正義」などの理念を示すことばを用いていることに注意しておいてください。この使い方こそが、あとからふりかえるようにアメリカにおいて極めて正しい用法にほかなりません。
バイデン次期大統領が指し示す「理念」
ハリスの演説を受けて、バイデンは話しはじめます。アフリカとインドにルーツをもつ移民二世の女性が副大統領となる「可能性」が実現したことについて、以下のように述べるのです。
いまふたたびアメリカは、道徳的な世界の軌跡が向かう先を、正義へと据えたのです。
このフレーズは、人種差別撤廃をめざす公民権運動の指導者であったマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの演説に由来します。
キング牧師の演説で、おそらくもっとも有名な「わたしには夢がある」演説が行なわれたワシントン大行進の翌年、1964年に公民権法が成立します。先の演説でハリスがふりかえったように、アフリカ系アメリカ人にはじめて選挙権が認められたのでした。しかし、その後もとりわけ南部の州では、あからさまな差別と脅迫による有権者登録の妨害が横行していました。(非白人への有権者登録や投票妨害は、形を変えて現在も問題になっています。)
1965年、これに抗議する数百人規模のデモがアラバマ州セルマでおこなわれましたが、警察の暴力的弾圧を受けて多数の重傷者を出します。しかし、その弾圧の風景がメディアで報じられることで運動は一挙に広がり、数万人規模のデモ行進へと発展します。この行進のなかで、キング牧師はつぎのような演説をします。2
いつになれば〔人種差別は克服されるのだろうか〕? 遠くはないはずだ。なぜなら道徳的な世界の軌跡は果てしないものだが、しかしそれは正義へと向かっているのだから。(How long? Not long, because the arc of the moral universe is long, but it bends toward justice.)
このフレーズは、オバマ大統領も好んで引用していたものです。アメリカにおいて「正義」のようなことばが、どれだけ血のかよった、そしてじっさいに流血をともなってきた理念であるのか、その一端を知ることができる政治のことばづかいの系譜だと思います。
「正義」の凋落とジョン・ロールズ登場
キング牧師が「正義」を見果てぬ、しかしたしかに向かうべき理念として説いた1965年は、もしかするとアメリカにおいて、このことばがもっとも強い力を帯びていた最後の年かもしれません。同年、アメリカは本格的にベトナム戦争に突入していきます。また68年にキング牧師は暗殺され、反差別運動は非暴力を掲げる指導者を失います。
ベトナムでのアメリカ軍の虐殺事件はメディアでも報じられ、もはや国家として「正義」を掲げることなどできないという機運の高まりとともに、国内外で反戦運動が激化します。また、暴力的抵抗も辞さない反差別運動は広範な支持を失ってしまい、かつて掲げられた理念の求心力も損なわれていきます。
60年代末から70年代にかけてのアメリカでは、かつて「正義」のような理念が放っていた魅力が急速に色あせていくのです。そのようなことばを使うことは、たんに思考停止に陥ったり、自分たちの側の一方的な正当化にしかつながらないのではないか。そう考えられはじめます。
前回、ことばを乗りこなすうえでの「事故」として指摘した事態——会話がそこで止まってしまい、それ以上なにも言えなくなってしまう——が生じるわけです。それには、日本語でもしばしば見聞きする「それぞれに正義がある」とか「正義の敵は悪ではない。別の正義だ」というような常套句を考えてもらえばよいと思います。
哲学用語では「相対主義」といいますが、こうした「どっちもどっち」「正しさはおのおのだから、決してわかりあえない」という冷笑的な態度が、「正義」のようなことばに向けられるようになったのです。この相対主義的な感覚は、おそらく現代の日本語ではいまだに根強いのではないかと感じます。
しかし、少なくとも現代アメリカの政治のことばでは、そんなことはありません。キングの時代からバイデン=ハリスまでのあいだに、一度は活力を失ったこの理念に、ふたたび息を吹き込んだ哲学者がいたからです。
その人物こそ、今回紹介するジョン・ロールズ(1921-2002)です。
ロールズによる「正義/善の区別」というテクニック
ロールズは、とりわけ政治哲学の分野において、間違いなく20世紀でもっとも重要な哲学者のひとりです。1971年に刊行された彼の主著のタイトルは、ずばり『正義論』(A Theory of Justice)というものでした。当時すでに活力が失われつつあった「正義」に対して、理論を与えることによってよみがえらせようとしたのです。
ロールズは、こうした正しいことばをふたたび使えるようにすべくみずから適切な使い方を示すためのデモンストレーションをしてみせました。ここからは、いわばそのドライビングテクニックを垣間見ていきたいと思います。
ロールズにとって、「正義」のようなあつかいのむずかしいことばをうまく乗りこなすための第一の秘訣は、ことばをしっかり区別することです。彼が導入するのは「正義(justice)」と「善/よいこと(the good)」の区別であり、正義の「概念(concept)」と「構想(conception)」の区別です。時期によって、ロールズ自身のことばづかいがやや変わることもあるため、ここではこれらの区別をあえて重ねながら、ポイントを押さえます。
まず、日常的なことばづかいとして、いわゆる「善い」ことについての考え方、すなわち「善の構想(conceptions of the good)」があります。これはもちろん、人それぞれに違いもあるでしょうし、文化や歴史が違えばなおさらでしょう。つまり、善構想どうしが互いに衝突し、ときに力による抗争を招くことがありえます。
しかし、「正義」はそういった単なる「善」の構想とは違う、とロールズはいうのです。「正義」とは、競合しうる善構想どうしを調停し、合意に至った状態において実現するものであり、そのための一連の手続きである――これが、ロールズが提唱する「正義」概念です。
この提案が受け入れられるためには、じつのところどうすれば「正義」を「善」と区別できるのか、両者はどのような関係にあるのかを説得的に示さなければいけません。ロールズが引き受けるのはつぎの課題です。
すなわち、それぞれに対立しうる「善/よいこと」の構想から、どのように万人が合意しうる「正義」をつくることができるのか。この道筋を、極めてテクニカルに描きだしたのが、『正義論』という分厚い書物でした。
「公正としての正義」
こうした「正義」の内実はなんでしょうか。言いかえれば、このことばは具体的にどんなふうに使えばよいのでしょうか。ロールズ自身の回答は「正義とは、公正さである」というものです。「公正としての正義」(Justice as Fairness)というのが、ロールズが掲げるスローガンであり、彼自身が提案する「正義の構想」です。
では、「公正」とは何か。この本丸というべきトピックは次回にもちこしたいと思いますが、さしあたりここでは関連する文脈を抑えるために以下のことを述べておきましょう。
ロールズ自身は、彼のことばでいう「秩序ある社会」はいくつもバリエーションがあり、「公正」以外の価値を「正義」として合意するような社会もありうる、と述べています。特定の秩序ある社会にはなんらかの「正義」の構想がありますが、必ずしも「公正」だけが唯一の候補ではないというのです。
ここまで話を進めると、やっぱり「ある正義と別の正義との間には調停できない対立が……」と例の常套句をもち出したくなってくるかもしれません。しかし、少なくともロールズが「善の構想」と「正義」を区別したことの意義は失われていないことに注意してください。
ロールズのテクニックにならうならば、安易に「正義なんて……」というひとには、「そりゃそれぞれになにがいいと思うかで対立することは当然あるけど、『正義』ってことばはそれと別にとっておこうよ」と返せばよいわけです。
わたしたちが社会という単位で、どのような構想を「正義」として選び、また合意を形成するのか。そのプロセスじたいが、まさしく政治なのです。
「正しいことば」に息を吹きこむ
ロールズ以降、少なくとも哲学や政治学の分野で、彼の成し遂げたことばづかいの工夫、そのテクニックを念頭に置かないことはありえません。同じく、少なくともアメリカにおいて、先人の知恵に学んでいる政治家がもちいる「正義」や「公正」というボキャブラリーは、このロールズ的な用法が念頭に置かれているはずです。
したがって、今回紹介したハリスやバイデンの演説での用法もまた、ロールズ以降の「正義」概念でしょう。わたしたちが対立する利害や立場を超えて、どのような構想であれば合意できる「正義」たりうるのか。その構想を打ち出すのが政治家の仕事であり、最初から合意を放棄し、分断を煽ることは——少なくともロールズが考えた――政治の営みではありません。
この意味での「正義」を堂々と語り、その構想の内実を明らかにし、合意形成に向けた手続きの適正さの確保に力を尽くすこと。そのように「正しいことば」が正しく運用されるならば、アメリカにおいて理念はまた活力をとり戻すでしょう。その見果てぬ一歩をふたたび踏みだそうというのが、2020年11月の勝利演説のもつ歴史的意義なのだと思います。
1 2020年11月7日の勝利演説の動画と書き起こしから訳出しました。強調の傍点はわたしが付与したものです。以下すべて同様です。
2 1965年のセルマでの一連の出来事は、2014年公開の映画『グローリー / 明日への行進』(原題はSelma)でも描かれました。
読書ガイド
■ロバート・ブランダム『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』
(加藤隆文・田中凌・朱喜哲・三木那由他訳、勁草書房、2020年)
本連載が依拠している「プラグマティズム言語哲学」をリードする哲学者が、ロバート・ブランダム(1950-)です。ブランダムは本連載でとり上げることになるローティの弟子にあたり、「推論主義」という(途中で少しだけ言及した)哲学上の立場を展開しています。彼がどのように「プラグマティズム」を理解し、そして継承しているのか。また、「言語哲学」の世界にどのようなインパクトを与えているのか。それらがうかがえる書籍がさいきん日本語でも読めるようになりました。
わたしを含む4人の研究者で翻訳した、『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(通称「プラどこ」)という本です。本連載との関連でいうと、とくにブランダムにとって師であるローティを論じ、「ボキャブラリー」(ことばづかい、ことば選び)という概念を掘り下げる第5章(下巻収録)をおすすめします。(どの章からでもお読みいただけます。)
朱喜哲(ちゅ・ひちょる)
1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。大阪大学社会技術共創研究センター招へい教員ほか。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。前者ではヘイトスピーチや統計的因果推論を研究対象として扱っている。共著に『信頼を考える――リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房、2018年)、共訳にブランダム著『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房、2020年)などがある。