〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす│最終回│正義をめぐって会話する「われわれ」│朱喜哲

〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 朱喜哲 ちゅ ひちょる 「公正」とはなにか。「正義」とはなにか。 その言葉の使いこなしかたをプラグマティズム言語哲学からさぐります。

「公正」とはなにか。「正義」とはなにか。
そのことばの使いこなし方をプラグマティズム言語哲学からさぐります。

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最終回
正義をめぐって会話する「われわれ」


だれが「われわれ」なのか

 本連載を通じてずっと、広い意味で「政治」といえること——つまり、どうやって異なる利害をもったがいっしょになって社会を営むことができるのか——をめぐって会話をするために必要な「正しいことば」の使い方を考えてきました。最終回となる今回は、こうしたことばを使って会話し、共生する「われわれ」という単位について、あらためて考えてみたいと思います。

 この話題は、じつのところこれまで直接的にあつかうことを慎重に避けてきた(逆にいえば、間接的に問題の輪郭についてはふれてきた)のですが、ロールズ流のことばづかいテクニックにとって、ある意味ではもっとも根本的で重要な課題がひそんでいます。ここまで11回の連載を経て、ようやくこの話題をあつかう準備ができました。

 さて、まずはその「慎重に避けてきた」輪郭についてふりかえるところからはじめてみます。連載第2回では、次のように政治という営みを表現しました。

わたしたちが社会という単位で、どのような構想を「正義」として選び、また合意を形成するのか。そのプロセスじたいが、まさしく政治なのです。

 また第3回では、上述の表現に登場したようなロールズの考える「社会」の姿として、「皆でとりくむ命がけの挑戦(a cooperative venture)」という表現を紹介しました。こうした表現によって、社会の構成員である「わたしたち」を、それぞれに異なった利害関心(interest)をもち、なにをよい/財(good)とみなすかについて対立しうる考え方(「善の構想」)をいだいているようなひとたちだという理解を示してきたわけです。では、これをそのまま冒頭の問いにおける「われわれ」だと言い換えてよいものでしょうか。

 たしかに——そしてまさにここまで「慎重に」ことばを選んできたように——、この表現それじたいはだれも排除しないような、社会の構成員すべてをふくみうるような表現です。しかし、先に紹介したとおり「正義」をめぐっては、それを選びだしたり、合意をしたりするというがありました。そのプロセスのおりおりで営まれるのは、ほかでもなく(第6回で紹介した)「会話」でしょう。そして、そのときどきの「会話」には、それをおこなえる(望めば参加できる)メンバーという単位があります。

 ここで問題にしたいのは、具体的な意味で会話に参加しているか否かということではありません。たとえ時空間的にはその場に同席していたとしても、「自分はこの会話の一員ではない」「ここに自分の居場所はない」「自分の声がここでは聴かれていない」ということは起こりえます。この感覚それじたいは、おそらくわたしたちのだれもが個別の場面において程度の差こそあれ味わうことがあるでしょう。

 前回(第11回)のローティの比喩でいえば、場違いな「クラブ」に混ざってしまったとき、それが出入り自由なものであれば、肩をすくめて離脱して、ホームといえるような自分のクラブや自宅に帰ればよいのです。そこでは、自分が立ち去るほかなかった会話のことも題材に、さらに別の会話をつむぐことができるでしょう。(そうした最低限の「自分のクラブ」や「自宅」がだれもにそなわっているようにすることもまた、公共的な課題です。)

 しかし、公共的空間としての「バザール」において、どこにも居場所がなく、そこから排除されているひとたちがいるのであれば、それはバザールの安定的な運営にかかわる重大問題です。ローティの比喩にのっとって、あえて露悪的な物言いをすれば、それは遠からず「治安」についての重大なリスクを招来するでしょう。

 だれもにとって自分の利害にかかわってくる「正義」をめぐる会話——つまり「政治」の各プロセス——において、そこからあらかじめ除外されてしまっているひと、それに参加できないひとがいるということは、その理念の根幹にかかわる最重要事項なのです。


「正義をめぐる会話」への、届かぬ叫び

 本連載がおもに参照してきたロールズのことばづかいに対して、まさにこうした批判をおこなっているのがスタンリー・カヴェル(1926-2018)です。カヴェルは、ロールズとほぼ同世代のアメリカ人哲学者で、ハーバード大学の同僚でもあります。彼は映画や文学についての批評家としても知られており、フィクション論とも関連させながら、道徳性や倫理について論じています。

 カヴェルは、ロールズの『正義論』がじつは明示されていない、ひとつのアイデアによって貫かれていると言います。それが先述した「正義をめぐる会話」だというのです。1

さまざまに異なる社会的地位にある市民たちが、自分たちのそうした差異をどうするかという正義〔バランスとしての公正さ〕について、なにを「」のかというアイデアが、ロールズの道徳理論における説得性と独創性の根本にある。わたしは『正義論』全体を貫くこのアイデアを、と呼ぶ。

 ロールズの著作を読むとすぐ分かることですが、きわめて理論的に構成される彼の著作では、市民どうしがどんなふうに公共的なことがらについて話すことがありうるのか、そのシーンが具体的に描写されることはありません。しかし、ロールズはたしかにこうした会話が「」ための条件を理論的に考えようとしています。ですので、ロールズ正義論において「正義をめぐる会話」という営みこそが、じつのところ中心的なアイデアなのだというカヴェルの見解も的を射ています。

 こうして「会話」に着目するカヴェルのロールズ論は、ユニークな構成をとっています。というのも、その紙幅のほとんどがイプセンの戯曲『人形の家』論に割かれているのです。『人形の家』でおもに展開されているのは、ある家庭における「夫婦」の会話劇です。古典的名作として知られる戯曲ですので結末にもふれてしまいますが、この「会話」は主人公である「妻」ノラが最終的に家を出るというかたちで打ち切られます。ノラが会話を打ち切らざるをえないのは、「夫」が彼女をじつのところ「一人前の人間」として認めておらず、彼女のことを「人形」のように愛でていただけだったことが判明するためです。ふたりはごく私的なことについては話せても、夫はノラを対等に社会や経済、なにより自分たちの関係性や家族のあり方という公共的なことがらについて話しる相手とみなしていません。そして、それゆえに彼女は「会話」におけることばをもたないまま、すべてを置いて家を出るという行動でしか、怒りと屈辱を表現することができないのです。

 カヴェルは『人形の家』を念頭に、ロールズが暗黙のうちに(理念としては)だれもが対等な権利を有して参加しうると考えている「正義をめぐる会話」が失敗する瞬間というものを次のように指摘します。すなわち、最たる「会話の失敗」は会話の結果として生じることですらなく、そもそも会話のあつかわれていない、そこにいる権利をもたないものとされることなのです。2

会話が失敗するその瞬間は、ときに会話の拒絶として立ち現れる。あるいはまた、会話の申し出があったことじたいの否定として立ち現れる。〔…〕正義への叫び(cry;訴え)があるのだとしたらどうだろうか。その叫びは、不平等ではあるが公正な闘争においてというのではなく、〔闘争の〕はじめからていた(left out)という感覚をこそ表明しているのだ。


黙らせ、不平等を正当化する「力」

 ロールズの『正義論』には、たしかにこうした「叫び」に対してあまりに冷淡なのではないかと読める箇所があります。たとえばロールズは「憤激(resentment)を表明する人々は、なぜある種の制度が不正なのか、あるいはどのように自分たちは他者によって傷つけられたのかを用意ができていなければならない3」と述べます。カヴェルはこの一文をくり返し問題にします。4

彼〔ロールズ〕は、まさに〔…〕「特定の不正義の対象となっているのではなく、不正義そのものの対象になっている」ことの害をこうむっていると叫んでいる表現について、その〔会話における声としての〕適格性(competence)を否定しているように思われる。あるいはまた〔…〕社会を構成する大多数の個人が歴史のなかで声を奪われてきたということを証明しようとする表現についても、その適格性を否定しているように思われるのだ。

 ロールズの「異議申し立ては、その理由が説明される準備がなくてはならない」とする発言は、たしかに「正義をめぐる会話」における根本的な排除の典型にみえます。もし話せなければ会話におけるひとつの「声」としての適格性を認められないのだとしたら、そうしたことばをもたない、あるいはもつ余裕がないひとは会話に参加する権利を実質的に有していないことになるでしょう。カヴェルはつぎのように評します。5

これ〔ロールズの発言〕もまた正義をめぐる会話の一例だ。誰に説明する? 誰と会話する? 憤激に対して十分には耳が傾けられていないということそのものが、憤激の一部をなしているかもしれない。わたしは次のように思う。もっとも不利な立場にあるひとびとに対して正当化を要求するとは、同時にそれより恵まれた立場にあるひとびと、つまりすべてのひとであり、わたしたち自身の〔そこから利益を享受しているという〕不平等をたやすく正当化してしまうでもあるのだ。

 カヴェルの批判が指摘しているのは、叫び、憤激、不名誉の訴えに対して、それを表明するためには「正しいことば」を駆使した会話のテーブルにつくよう要請するというロールズの議論構成がもちうる暴力性です。カヴェル自身は、この事例を1879年の作品である『人形の家』を通じて描き出しますが、わたしたちは150年近くもたった現在においても、ノラが浴びたような暗黙的な排除のことばがいまだに流通していることを知っています。

 それは、たとえば男性がパートナーである女性に対して「こどもみたいなことを言うな」とか「社会のことを理解していない」などとような場面です。言語哲学が明らかにしてきたように6、こうした言語行為はまさに相手の発話内容を吟味する以前に、その検討の遡上に載せる権利そのものを無効化し、聞こえないことにするという点で、「沈黙化(silencing)」という効果を発揮します。

 ロールズの正しいことばの理論的枠組みは、こうした批判に対して、どのように応答しうるのでしょうか。それが今回、連載の最終回でとりあげる重要課題です。


「憤激」と「ねたみ」

 カヴェルの批判に対して、ロールズはどのように応答できるでしょうか。まずは批判の矛先が向けられていました、例の「憤激を表明するものは〔…〕説明する準備ができていなければならない」という文言が登場する文脈を確認したいと思います。それが登場するのは、『正義論』の「ねたみ(envy)の問題」と題された節です。

 第7回では「関心」のもつ負の側面について論じましたが、「ねたみ(嫉妬・羨望)」という心理もまたその典型でしょう。たびたび述べてきたように、わたしたちの「利害=関心」は相互に対立ものです。また対立までいかずとも、容易に比較することができるし、つい比較してしまうものです。いますぐに調整を必要とするほどの対立が生じていなくても、対立の芽はそこらじゅうに見いだすことができてしまいます。それは今日のソーシャルメディアが普及した社会ではなおさらです。

 一般的な文脈では称揚されがちな「関心」のネガティブな側面にも気をつける必要がある、というのが第7回の趣旨でした。わたしたちはつい想像力をはたらかせて、あらゆる事象を「自分ゴト」にして利害関心を発露させてしまいがちなので、それを自覚して適度にブレーキをかける必要があります。

 そこでも紹介しましたが、ロールズは「公正としての正義」が合意されうるための理想的な条件として、「相互に利害関心をもたない(mutual disinterested)」ことを挙げています。もしこの条件が実現しているならば、そこでは「ねたみ」は生じないことになりますが、現にこうした心理はありふれています。それが現にある以上、なんらかのかたちでそれも理論的な考慮にふくめなくてはいけません。

 ロールズが先の一文を登場させるのは、「こうした〔憤激のような〕特殊な心理を、正義論のなかに組み入れるにはどうしたらよいのかを描き出すものとして、ねたみの問題をとりあげたい7」という動機からなのです。この一見すると、カヴェルの批判とはむしろ真逆のベクトルをもった——つまり「正義をめぐる会話」がなされるプロセスにことばにならない叫びをもふくめ、そうした声を会話から排除しないようにできるのかを模索するという——動機から、なぜああした表現が出てくるのでしょうか。

 ここで重要なのは、またしてもことばを区別することです。ロールズは、「憤激(resentment)」とたんなる「ねたみ(envy)」を区別します。前者は、ニーチェ哲学に由来するカタカナ語としても流通している仏語の対応表現「ルサンチマン」のニュアンスも念頭に置くとわかりやすいかもしれません。これは社会的な力の勾配、強者と弱者という構図を背景とした、とか、あるいはと思われる事態においていだかれる感情です。

 それと比較して、後者の「ねたみ(嫉妬・羨望)」はたんに自身と他者の現状を比較したり、一方的に思いをはせることで生じる心理的状態です。そして、この心理そのものは道徳的な原理(「正当」「公平」「平等」など正しいことばで表現される理念)を参照したものではありません。

 こうした整理をふまえると、ロールズが言いたいのはつぎのようなことです。すなわち「憤激」とは——たんに「ねたみ」のような心理状態とはちがって——、それじたいはことばにならぬ「叫び」として訴えられるものであっても、「正しいことば」によってその理路を説明しうる、異議申し立てとしてあつかわれなければならないのだ、と。こうしたロールズのモチベーションを確認することで、カヴェルの批判のひとつの次元、つまりロールズの記述が「ことばにならぬ憤激」に対してあまりに冷淡であるように映ることについて、その真意をときほぐすことはできました。

 しかし、カヴェルの批判じたいは変わらず有効です。というのも、ロールズはやはりこうした「憤激」について、それを少なからず「正しいことば」に訴えながら説明する準備がなくてはいけないとも明言しています。だとすれば、会話における「声」として認められない叫びを発することしかできないひとは、いつまでも公共的な「正義をめぐる会話」に参加することさえできないことになりはしないでしょうか。


だれが「力」を行使しているのか

 こうした尽きぬ疑念に対して、わたしたちがまず確認すべきなのは、自分たちはおおむねという点ではないかと思います。つまり、ことばにならぬ「憤激」を表明するほかない側なのか、それともその「叫び」を聴こえない声としてあつかったり、なんとか聴きとろうとしたりするをもった、カヴェルが指摘する「力」を行使する側なのでしょうか。

 この手の大きな問いを立てるときについ陥りがちなのは、ここでの「立場」を抽象的なレベルの二分法としてとらえ、固定的で本質的なものであるかのように考えてしまうことです。具体的なレベルの個々の会話において、個々人がどちらの側でありうるのかは、そのときどきに異なることがありえます。ある場面において会話の正規メンバーであり、無自覚のうちに「力」を行使しているひとであっても、不意に自分にとって重要なアイデンティティの問題が暗黙のうちに、あるいはあからさまに踏みにじられたり、その場にいないことにされていたりする場面に出くわすことがあるかもしれません。わたしたちはどちらの立場に置かれることもありえるのです。

 しかし、実践的なレベルにおいて重要になるのは、具体的に生じる頻度、そしてなにより課題のではないでしょうか。具体的に日本語でなされる会話のシーンにおいて、本連載につきあってくれている皆さんをふくむ「わたしたち」のほとんどは、基本的に安心してしゃべっていることが多いでしょうから、その意味において先ほどの問いの後者、つまり選択肢をもち、「力」を行使する側に立っているはずです。

 したがって、個別の会話においてまず念頭におくべき優先的な課題は、そこでだれかを存在しないものとして顧慮の外においていないか、だれかの声を無視していないのかを絶えず自問することです。また、いっしょに会話する自分以外の「われわれ」のことばづかいやふるまいにも同様の観点から気をつけ、場合によっては介入することでしょう。

 たとえ、ときに自分自身が会話における「声」をもてず、顧慮の外に置かれていると感じられ、その場を立ち去ることをふくめて憤激を表明するほかない場面に出くわすとしても、その事実や体験それじたいは、課題にとりくむ優先度をなんら減じるものではありません。それは、わたしたちのほとんどがおおむねそちら側に立っている「われわれ」としての責任であり、わたしたちが共生する社会をどうにか営んでいくために必要な課題にほかならないからです。

 第5回で検討したトランプ現象を典型として、かつてマイノリティが「ことばにならぬ憤激」を表明するためにあみだした「当事者性のことば」が、今日ではマジョリティとされてきた側に乗っ取られるという事象は世界的に広がっています。こうした動向は、今回導入したことばで言えば「正義をめぐる会話」の営みを壊そうとする——ここまで述べてきた「力」とはベクトルの異なる、むしろ「憤激」それじたいがもちうるような力——のを示すものです。

 しかし、だからといって「憤激」を認めず「当事者性のことば」をいっさい使わないようにしてしまえとはならない——し、そんなことは不可能である——のは当然のことでしょう。というのも、こうしたベクトルの「力」こそが、まさに今回カヴェルの批判を通じて検討したロールズの枠組みがかかえうる死角、正義をめぐる会話における「われわれ」という単位が行使してしまう「力」へのカウンターとして、必要不可欠なものだからです。

 他方でまた、カヴェルの批判を真摯に検討し、現在の世界にあふれる「憤激」に向きあおうとすることの帰結が、「正しいことば」とその理念をかかげて社会をどうにか営もうとする構想そのもののが失敗したのだと嘆いたり、そんな理念は役に立たないのだからもはや放棄されねばならないなどと言い放つことであってはならないでしょう。こうした極端な態度は、あまりに安易で、文字どおり無責任かつ不誠実きわまりないものです。

 会話における「われわれ」という単位においてはたらく「力」を警戒することは、そのはたらきを自覚し、みずからもまたこの力を行使してしまう責任をもつひとりとして、会話の正規メンバーである「われわれ」単位において抑止することでした。そして、そのためにも「正しいことば」によって表明される理念は欠かすことができないのです。

 わたしたちは、こうしたベクトルにおいて対立する複数のことばづかいの手放してはいけません。どちらのくぼみにも倒れこんでしまわぬように、せいいっぱいバランスをとって、蛇行しながらでも前に進んでいくために「正しいことば」を乗りこなさなくてはいけないのです。そして、この「皆でとりくむ命がけの挑戦」としての社会を構成する一員として、こうした「乗りこなし」のテクニックをなんとか身につけてに出れるような、ちょうど責任をもてるメンバーを育てていくことは、わたしたち全員にとっての利害にかかわる重大事です。

 このつぎなるメンバー——世代的なことだけでなく、現時点の「われわれ」にはいないとされていたアイデンティティを保持する存在をもふくめた、将来ありうる構成員——わたしたち負っているとして、わたしたちは「憤激」をもまた「正しいことば」によって表明できることがのだと伝え、またみずからがその使いこなしの手本を提示しつづけなければならないのです。

 このような理路を経て、ロールズの一見して冷淡なあのことばは、社会においてすでに一人前の責任をもっている「われわれ」の側にこそ投げかけられたものであると理解すべきだということができます。そして、まさにそのことばが体現している「力」への自省と自制をうながしてくれるものでもある、ということができるでしょう。

 カヴェルが指摘する「聴かれえない声」としてあつかわれることの害悪、その残酷さを知りうるわたしたちは、「正義をめぐる会話」をけっしてあきらめず、それをつぎなるメンバーを巻き込みながら続けていかなくてはならないのです。


むすびにかえて

 最後に、ここまで本連載を通じて、わたしとの「会話」につきあってくださった方にむけて、ここまでの会話の経緯をふまえたうえでなければできないを、遅まきながらしてみたいと思います。ちょうど今回問うた「自分はどこに立っているのか」について、書き手であるわたし自身のことを少しだけ話させてほしいのです。

 ここまで、あえて明示的に語ったことはありませんし、逆に隠そうとしたこともありません——どちらの理由もここまでの連載を通じて推測できるようにしてきたつもりです——が、わたしは皆さんの多くとは異なるアイデンティティを有しています。それもたんに自分の民族性エスニシティそのものにこだわっているというより、日本語における「外国人」というカテゴリー、さらにそのなかでも旧植民地出身者の子孫として旧宗主国に生まれたという出自をもつことが、どうしようもなく重要なのだとたえず感じざるをえない環境で育ってきました。物心ついて以来、当時はとても言語化できなかった「憤激」をいだいたことは一度や二度でないどころか、とても数えきれません。

 ひとにはそれぞれに自身を規定するアイデンティティがありますが、それは個々人の体験ごとに異なる文脈に置かれます。また、ひとりのひとに帰属されるアイデンティティは複数組み合わさっていて、その組み合わさり方じたいにも固有の意味合いがありえます。ですので、ある一要素をとりあげて、それだけで「同じ」ということにはならないものです。

 同じ「外国人」でも、外見で判断されるひとや名前でさえわからない人など、さまざまな体験がありえ、それぞれに異なる文脈で自身のアイデンティティを形成するわけですから、ひとつの属性として束ねることにも無理があります。そのうえで、わたしの場合には、家族などごく狭いコミュニティ以外のすべてを占める「日本人」たちの会話の場において、自分が参加者ではありえず、そこでの「われわれ」にはふくまれえないのだということそれじたいが決定的に重要でした。

 しかし同時に、わたしにとって第一の、そしてもっとも身近なは、皆さんの多くと同じ、この日本語です。わたし自身も日本語によって、そしてかならずしも民族的「日本人」ばかりでない日本語の話者たちとともに、自分自身をかたちづくってきました。忘れられがちなことかもしれませんがごく当然のこととして、日本語の使い手は「日本人」だけではありません。いまのわたしは、かつて自分がいだいたことばにならない「憤激」を「正しいことば」と関連づけて理解し、どうにか説明できるようになったつもりですが、それはひとえに日本語において先人たちが重ねてきた「会話」の一端に加わって、ことばの使い方を学んできたおかげです。(もちろん、本連載がずっと参照してきたように、英語をはじめとした世界のことばから翻訳を介して地続きにある日本語でなされた会話、ということですが。)

 だからこそ、わたし自身はまずもって日本語でなされる会話において、自分がはたせる責任をできるかぎりにおいてはたし、会話がとだえることなく続くために貢献したいと、自分の利害関心としても願っています。そして、先ほどのひとつをのぞいた重要な点のほとんどにおいては、自分を表現するために現時点では存在しない、あるいはまだじゅうぶんには流通していないあたらしいことばを求めたり、周囲から特別な「説明」を求められたりすることなく生きることができる「われわれ」の一員として、否応なく行使してしまう力と恩恵を直視し、それにともなう応分の責任をまっとうしなければならないと思っています。この連載もまた、こうした動機をひとつの原動力として続けられたものです。

 さて、ここまで連載を通じて「正しいことば」をめぐる長い会話を続けてきましたが、最後に残されている課題を確認して連載を閉じたいと思います。それは、わたし自身がこうした語り口を選んで、皆さんと共有されうることばづかい上の責任について考えてきたこと、つまりこの連載それじたいがかかえている課題でもあります。すなわち、わたしたち自身が自分たちの責任として、「正義」や「公正」といったことばをあつかえるようになったとして、現時点でそのようなことばをもたず、ひとえに「憤激」として表明された叫びについて、わたしは——そしてあなたは——それをことができるだろうかということです。

 ここでの「聴きとる」というのは、それを正義にかかわる「声」として聴くことであり、しかし同時にそのように解釈されたときには聴こえなくなっていることばにならぬ叫び、憤激、屈辱感、不名誉の訴えとして表明される痛みの感覚それじたいをなかったことにしないことでもあります。それは個別の場面とそれ以降における態度や行動をもって示されうることであり、自分自身やすでに可視化されている「われわれ」のために「正しいことば」を使いこなすことよりも、もっとずっとむずかしいことでしょう。

 この難題をの課題として、これからの「正義をめぐる会話」の主題のひとつとして、いっしょに考えたいと願っています。本連載を通じて、もしその地点に立ってもらえたならば、それはじつのところ、わたしがこの長い会話を通じて言外に訴えたかった、もっとも重要な「叫び」もまた皆さんに届いたことになります。その可能性に賭けて、このまわりくどいあいさつを、最後の最後にさせていただきました。つぎにお話しする機会があれば、ぜひその応答を聴かせてほしいと願っています。

 それでは、ここまでおつきあいいただき、ありがとうございました。


*本連載は加筆のうえ、書籍化を予定しています。詳細が確定次第、本サイトならびに太郎次郎社エディタス公式サイトにて、お知らせします。ご期待下さい!


1 スタンリー・カヴェル(中山雄一訳)『道徳的完成主義』、春秋社、2019年、26頁。邦訳を参考にしつつ、訳文は原著から訳出し直しています。また強調の傍点は引用に際して加えたものです。

2 カヴェル『道徳的完成主義』、48頁。

3 ロールズ『正義論』、699頁。

4 カヴェル『道徳的完成主義』、49頁。

5 カヴェル『道徳的完成主義』、243頁。

6 こうした言語の作用の「悪い」側面について平易に紹介したものとして、和泉悠『悪い言語哲学入門』(ちくま新書、2022年)を推薦します。また「沈黙化」を提起した論考をふくむ記念碑的な論集、マリ・マツダほか『言葉は傷つける(Words That Wound)』も近く翻訳が出版されるそうです。

7 ロールズ『正義論』、696頁。


 

朱喜哲(ちゅ・ひちょる)
1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。大阪大学社会技術共創研究センター招へい教員ほか。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。前者ではヘイトスピーチや統計的因果推論を研究対象として扱っている。共著に『信頼を考える――リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房、2018年)、共訳にブランダム著『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房、2020年)などがある。