〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす│第5回│「道徳としての正義」とトランプ現象│朱喜哲

そのことばの使いこなし方をプラグマティズム言語哲学からさぐります。
第5回
「道徳としての正義」とトランプ現象
ドナルド・トランプと「正しいことば」
前回は、日本の小学校「道徳」科目の学習指導要領をとりあげ、「公正」「正義」といった正しいことばの用例を見てきました。そこで確認できたのは、こうしたことばが文字通り「道徳」の徳目として、つまり個々人の内心や努力にかかわるものとして登場することでした。
公共的な関心ごとである「正義」を、個々人の「思いやり」や「良心」の延長線上にあるものとして論じることは、一見するとそんなに悪いことではないと思われるかもしれません。みんながやさしい社会。それはそれで理想的だし、たしかに現実的ではないかもしれないけど、めざすことのなにが悪いのか、と。
どうして「道徳(あるいは『お気持ち』)としての正義」が問題ぶくみなのか。前回も後半に「会話の止め方」という観点からいくつかの指摘をしましたが、今回あらためて考えてみたいと思います。
そのさい、この連載でも何度かとりあげてきた2020年のアメリカ大統領選におけるもう一方の陣営のことばづかいに注目します。すなわち2016年の選挙から4年間、アメリカ大統領として君臨したドナルド・トランプと彼を支持したひとびとが、どんなふうに「正しいことば」を扱っていたのかを垣間見ていくことにしましょう。
なおこうした趣旨から、今回はトランプおよび支持者のことばづかいに言及します。以下、そうした箇所では事前に注記いたしますが、引用箇所は飛ばしてもらっても論旨は追えるように書いたつもりです。また地の文として書く場合には、語尾を「〜だ」「〜である」体としました。ご留意のうえ読みすすめていただければさいわいです。
トランプ時代を「予言」した哲学者
2016年11月、アメリカ大統領選挙の開票が進み、多くの予想を覆して共和党の大統領候補トランプの当選が決定的になると、メディアはこぞって「有識者」になぜこんなことになったのか理由を求めました。日本でも、「トランプ現象」というフレーズが飛び交っていたのを覚えておられる方も多いでしょう。
そうしたなか、「トランプ大統領の登場を予言した」として注目を浴びた一冊の本があります。それは『アメリカ 未完のプロジェクト』という1998年──したがって大統領選挙の20年近く前──に出版された本です。1
著者は哲学者リチャード・ローティ。彼自身はトランプ時代を見ることなく、2007年に亡くなっています。ローティの名前は連載第1回でも登場しましたので、覚えておられる方もいるかもしれません。そのさいには、ことばの乗りこなし方に関連して、「会話の根本的ルールは、それを打ち切らないことである」という主張をおこなった哲学者として紹介しました。
ローティはとくに1990年代以降、政治的な主題についても発言することが増え、その時期の代表作といえるのが『アメリカ 未完のプロジェクト』です。2016年11月に「予言」として注目されたのは、ちょうど以下の箇所でした。2
〔…〕労働組合員および組合が組織化されていない非熟練労働者は、自分たちの政府が低賃金化を防ごうとも雇用の国外流出を止めようともしていないことに遅かれ早かれ気づくだろう。時同じくして、彼らは都市郊外に住むホワイトカラー層――この人たちも自らの層が痩せ細ることを心底恐れている――が、他の層に社会保障を提供するために課税されるなどまっぴら御免だと思っていることにも気づくだろう。
その時点において何かが決壊する。都市郊外に住めない有権者たちは、一連の制度が破綻したと判断し、投票すべき強い男を探しはじめることを決断するだろう。その男は、自分が当選した暁には、せこい官僚、ずるい弁護士、高給取りの証券マン、そしてポストモダンかぶれの大学教授といった連中にもはや二度と思い通りにさせない、と労働者たちに約束するのだ。〔…〕
2016年11月以降、わたしたちは、この「強い男」の顔を鮮明に思い浮かべられるようになったわけです。ローティの予言は続きます。
起こりそうなことはつぎの通りだ。黒人や非白人系アメリカ人、そして同性愛者たちが過去40年かけて獲得してきたものが一掃されてしまう。女性に対する冗談めかした侮辱がふたたび飛び交うだろう。〔…〕高等教育を受けなかったアメリカ人たちが、大卒の連中から適切なふるまいについて指図されることに対して感じてきたあらゆる憤りが、ついにそのはけ口を見出すのだ。
以上の三段落が「予言」として、当時のSNSをかけめぐったものでした。いささか時代を感じることばづかいもありますが、いま見直してもそのインパクトは色あせないのではないでしょうか。
なにが「予言」されたのか?
ローティの「予言」にはいくつかのポイントがあります。順を追ってみていきましょう。まず一段落目で示唆されているのは、2016年には誰の目にも明らかになり、メディアで繰り返されるフレーズとなった政治的な「分断」ないし「分極化」です。
同書が書かれた1990年代後半のアメリカでは、現在につながる政治状況が生じつつありました。民主党(クリントン)政権下でグローバル化政策が推進され、西海岸のテック企業がアメリカ経済を牽引していくと同時に、旧来の主幹産業であった自動車製造業や石油産業が衰退していきます。
ITバブルに湧き、グローバル経済の中心地として成長する東西海岸や都市部に住む「リベラル」層と旧産業の担い手だった労働者層とのあいだでは、「ニーズ」の所在がまるで違うものになっていました。そして民主党政権はリベラル層の支持のもと、雇用の国外流出や移民の受け入れ拡大という形で新たなメンバーのニーズに応える政策を進めるのです。
これには三段落目も重要です。「新たなメンバー」は、移民や国外の労働者ばかりではありません。人種やジェンダー、セクシャリティに関するそもそも存在していた多様性がじょじょに公認され、とりわけリベラルを自認する左派にとって重要な政治的主題となりました。また同じように、環境問題、気候変動についてのとりくみは地球規模での利害関係を明確にしましたし、そこでは「未来の人類」という観点も登場します。
こうした利害の当事者となる「新たなメンバー」の(再)発見と参入は、自分たちがルールを守って並んでいる列への割り込みである。それはフェアではない。そう感じられ、憤るひとたちの存在が、政治的なバックラッシュの原動力になるだろうことが予言されていたわけです。
なお、この「列への割り込み」や「フェアではない」といった表現は、社会学者アーリー・ホックシールドが執筆した『壁の向こうの住人たち』に登場するものです。3 同書はトランプ政権誕生の土壌となったアメリカ南部で支持者たちに聞き取り調査を重ね、そのひとたちが深く共感する物語──ホックシールドは「ディープストーリー」と呼びます──を描きだし、2016年の全米ベストセラーになりました。
同書を手がかりにしつつ、トランプ現象の原動力となった怒りという感情が、「正しいことば」の代表である「公正さ(フェア)」とどのように関係していたのか考えてみましょう。
「アイデンティティ・ポリティクス」の時代
ホックシールドは、トランプを支持するひとびとと継続的な会話を重ねていくことを通じて、そのひとたちがけっして「狂信者」や「理解不可能な他者」ではないということを明らかにしていきます。そのひとたちから見えている光景、深く共感されている理路というものは、わたしたちにも理解可能なものなのです。(もちろん、そのうえでの賛否は別の話です。)
それは、たとえばつぎのような語りです。4
〔公民権運動や女性解放運動が進展した〕一九六〇年代から一九七〇年代へ移行すると、社会制度と法律制度に的を絞っていた運動が、個人のアイデンティティに焦点を当てた活動へと変化した。世間の同情を引くには、ネイティブ・アメリカンか女性かゲイでありさえすればよくなったのだ。〔…〕これらの社会運動は、列に並んでいたあるひとつのグループには目もくれなかった。それは、年配の白人男性だ。とりわけ、地球を救う役に立たない領域〔すなわち製造業や石油産業などの旧来産業〕で働いてきた男性は置き去りにされた。こうした人々もマイノリティだったのに。あるいは近い将来そうなるはずだったのに。
これは先ほどの「列への割り込み」を指しています。キーワードになるのは「アイデンティティ」です。もし現在不遇であり、配慮されるべきアイデンティティをもった集団こそが政治の主題──「アイデンティティ・ポリティクス」──になるのだとしたら、それは自分たちだって同じだ。つぎつぎと列に「割り込まれ」るなか、いつ自分たちの番が来るのか。ましてや、割り込んでくる者に怒りの声をあげることは「政治的に正しくない」とされ、東西海岸のリベラル層からは、無知で無教養であると軽蔑される。もう我慢の限界だ。──こうした理路です。
ただちに付言すれば、少なくとも人種的・性的その他のマイノリティは、新たに「割り込んだ」存在などではありえません。もともとそこに居て、ニーズをずっといだいていたにもかかわらず、公的にはその存在と権利を認められてこなかったのです。あるいは、私的にも自身のニーズを表現することばさえ持てなかったのでした
また、直近のブラック・ライブズ・マターを引き合いに出すまでもなく、反差別を訴える社会運動がいつまでも絶えないのは、マイノリティが「つぎつぎと列に割り込」み、権利を要求するからではありません。公的に認められているはずの権利を踏みにじる出来事が、ごく日常的に頻発しているからです。
「マジョリティの怒り」を分節化する
しかし、それでもなお「割り込まれた」と感じることそれじたいには、一定の理があるかもしれません。以下、三点にわけて検討してみます。
まず、これまで意識されてこなかったマイノリティ属性、移民や環境問題を筆頭にしたグローバル規模および将来世代に向けた「分配的正義」という議題は、それに先立って、だれが分配される単位としての「われわれ」なのか、という点について合意をみないことがありえます。もちろん、「合意」があろうとなかろうと、存在する事実そのものは変わるはずもありません。しかし、このメンバーシップ感覚の醸成が、分配的正義が機能するために重要であるということはたしかです。
二点目に、「列に並ぶ」メタファーがそうであるように、配分されるべき(とりわけ)経済的資源そのものは有限であり、優先順位もまた政治的な論点です。そして配分される原資となる全体のパイが限られている場合には、なおさら深刻に感じられるでしょう。このとき相対的に多数派であり、すでに権益を有している属性集団が、再配分が進むほど、じょじょに自分たちの「取り分」が減らされているという剥奪感をいだくとしたら、それじたいは理解しうることかもしれません。
なお、この点については、たとえば同性婚のようなイシューがそうであるように「差別の撤廃」の実現とは、少なくとも字義通りの意味での「有限な資源の奪い合い」ではないということが即座に指摘できます。だれかが──あってしかるべき──権利を得ることが、なぜ既得権の持ち主の剥奪感につながるのかは、それじたいときほぐすべき「ことばづかい」上の課題でもあると思います。
三点目に、本連載の趣旨からしてもっとも重要な観点があります。それは仮定法的な言い方になりますが、つぎのようなことです。もし「政治的正しさ」の内実が、弱者にやさしくふるまうのがよい人間だという「道徳としての正義」に依拠するものだとしたら、現時点で多数派である集団が「列に割り込まれた」などと不満を募らせることは道徳的に悪いと責められていることになります。これは、熱心なキリスト教徒として善良であろうとする南部の白人集団にとっては、信仰上受け入れがたい屈辱的な非難です。
しつこく付言しますが、前回まで論じたように、少なくともロールズ流の「正義」用法は、こうした「道徳としての正義」ではありませんでした。それはわたしたち個々人の「善」の構想とは独立に、社会をいとなむ構成員として課され、また政治を通じて調整される公共的な構想です。
しかし、じっさいの言説、とりわけ批判的な議論の場においては、少なくとも批判の受け手側が「道徳としての正義」観をもっている場合には、「政治的な正しさ」の提示は自身の道徳心を非難されていると受けとられるでしょう。そうしたさいに「おまえたちこそ、えらそうに道徳を説きながら、自分たちのような新たな弱者をいたぶり、侮蔑しているではないか」と叫びたくなる──そうした回路が生じても不自然ではありません。
ロールズ流の用法に即して、「フェアではない」というバランス感覚にかかわる社会的資源の配分の公正さについて、宗教的アイデンティティに抵触しないかたちで整理しながら論じることは──少なくとも理論的には──可能です。そして、その過程には二点目の論点であったことばづかいをときほぐし、一点目の論点であった「われわれ」という感覚をどのように醸成するのか、といった課題があるはずでした。
しかし、こうした課題は遂行されることなく、2016年に潜在的な「怒り」に火をつけ、煽ることを原動力とする「強い男」が現れることになります。
「感情」に火をつけたトランプ
南部ルイジアナ州をフィールドとして、政治家としてのトランプ登場以前から調査を重ねてきたホックシールドは、「現象」のはじまりをつぎのように記しています。5
〔…〕まさにあの現場では、トランプ登場のための舞台装置が整っていたのだとわかる。マッチが炎を上げる前の、火がついたばかりの瞬間だったのだ。三つの要素が重なっていた。まず、わたしが話を聞いた〔南部の〕人のほぼ全員が、一九八〇年以来、経済基盤が不安定になっているのを感じ、「再分配」という考え方が出てくるのを覚悟していた。また、彼らは文化的に疎外されていることも感じていた。人工妊娠中絶や同性結婚、ジェンダーの役割、人種、銃、南部連合の旗をめぐる自分たちの考え方が、どれもこれも全国メディアで時代後れと嘲笑されたのだ。さらに、集団としての規模が小さくなってきたような気もしていた。〔…〕自分たち〔白人キリスト教徒〕が包囲された少数派のように感じられていたのだ。
予備選挙に挑む共和党大統領候補としてルイジアナに降り立ったトランプ候補は、次のように語りはじめます。6
トランプは聴衆に感謝の言葉を述べると、自分がいかにして支持率を伸ばしてきたのかを語り出した。「最初は七パーセントで、わたしは完敗だと言われました。しかしやがてそれは一五パーセントになり、二五パーセントになり……」ここから主語が“わたし”から“われわれ”に替わる。「われわれは上昇気流に乗っています……アメリカは最強になり、誇り高き富める国になるのです。わたしはメッセンジャーにすぎません」
かくして「われわれ」というフレーズは、少なくともアメリカ合衆国という利害をともにする共同体ではなく、そのなかでの特定の集団の紐帯を示すものとして機能しはじめます。壇上のトランプ候補は、会場でプラカードを掲げて差別的言動に抗議する者たちを壇上から指差して「奴らをたたき出せ」とくり返したのち、つぎのことを宣言します。7
「もはや黙ってはいられません。わたしたちは、声の大きな騒がしい多数派になるのです」
これは、「列に割り込まれた」日々を黙って耐えてきた善良な「声の小さい多数派(サイレント・マジョリティ)」という自己イメージをいだく者たちにとって、またとない「勇気づけ(エンパワメント)」のメッセージとして機能します。感情をゆさぶり、火をつけたのです。ふたたびホックシールドの観察を引用します。8
感情について言えば、トランプの選挙遊説では、ほかにもきわめて重要なことが起きていた。〔…〕政治的に正しい表現や考え方を強いられる窮屈さから解放されたような感覚が生まれて、集会の高揚感に拍車がかかったのだ。「政治的な正しさなど、忘れましょう」トランプはそう呼びかけた。彼は、“政治的に正しい”姿勢だけではなく、一連の感情のルール──つまり、黒人、女性、移民、同性愛者に対する適切な感じ方とされるもの──までも捨てようとしていたのだ。
このホックシールドの書きぶりに対しては、まず指摘すべき点があります。それは、トランプの煽動が「政治的な正しさ(political correctness)」を捨て去ろうという反公共的呼びかけを、「感情のルール」と政治的正しさを結びつける「道徳としての正義」を介在させることによって感情に訴え、あたかも正当化できるかのような理路になっているということです。公的な権限を預かる政治家は、少なくとも公共の場でこうした理路を開陳すべきではない、ということはまず強調しておきたいと思います。
いずれにせよ、ルイジアナ州でトランプ候補は熱狂的な支持を獲得します。キリスト教福音派の支持を受けていたテッド・クルーズ候補に大差をつける41パーセントという得票を獲得したのでした。それからの4年間で、どれだけ公共的な「正しいことば」の権威が毀損されたのかということは周知のとおりです。
「当事者性のことば」と「正しいことば」
さて、今回紹介したトランプ支持者の「ディープ・ストーリー」と、それに同情的なホックシールドの筆致は、共感と理解ができるものであると思われます。しかし、先取りしたように、そこには「正しいことば」の運用をめぐる問題があるというのが、わたし自身の考えです。
トランプ支持者たちの語りにおける「道徳としての」正しいことばの用法を地の文においても採用することによって、ホックシールドは道徳とは独立な語彙であるはずのロールズ流の「公正としての正義」の用法を見失っているようです。もちろん、トランプに票を投じた一人ひとりの「ディープストーリー」は共感可能であり、同意せずとも理解はできます。
また、すでに指摘したように、「共感」という回路を通じて「われわれ」という感覚を回復することは、いつだって必要でかつ困難な課題です。しかし、こうした課題を遂行するために、「正しいことば」を適切に使うことを曲げるのは本末転倒と言わねばなりません。
理由は少なくともふたつあります。第一に、アイデンティティ集団としての「われわれ」に訴える話法は、そもそも「政治的正しさ」が顧慮すべき存在が無視され、ないがしろにされている事実に対するだれからも否定されない「異議申し立て」として有効なのでした。それを「政治的正しさ」を打ち捨てる根拠として容認することは、異議申し立ての目的であったはずの利害調整をめぐる政治的な議論の場そのものを脅かすことにつながるでしょう。
第二に、前回も論じたように道徳心や個人の感情を「正義」の基礎とする話法は、いくつものパターンの反駁不可能な論法を可能にしてしまい、会話をたやすく強制的に打ち切ります。私的なコミュニケーションにおいてはいざ知らず、だれにとってもその利害にかかわる政治をめぐる対話において、一方的に打ち切れる話法が跋扈することは招かれざることです。
トランプと支持者たちマジョリティによる「アイデンティティ・ポリティクス」話法の乗っ取りは、こうした危険性を的確に突き、自分たちの無敗の力の源泉とした事例でした。このことは「正しいことば」と集団的アイデンティティを関連づける場合に、いわば「ヒヤリハット」の観点から絶えず注意喚起されるべき大事故であったと思います。
ただし、こうした懸念はマイノリティ当事者にとっても、もとより意識されていたことでした。アイデンティティ・ポリティクスへの反省的吟味が、当事者のことばづかいを奪うものではないことを確認するためにも、最後にこの点を見て稿を閉じましょう。
「ブラック」としてのアイデンティティをつねに強調してきた哲学者コーネル・ウェストは、2020年の大統領選挙をめぐるインタビューで、次のように述べています。9
人種やジェンダーをアイデンティティとして特権的なものにしてしまい(fetishize)、弱肉強食の資本主義システム全体の批判に結びつけないのはたやすいことです。そのたやすさこそ、わたしたちがどれほど切実に労働者や貧困層と強い連帯をもたねばならないのかということを教えてくれていると思います。わたしたちは、それらのアイデンティティのみを特別視して〔貧困や経済と〕別個の問題にしてしまうことによって弱肉強食の資本主義に対する批判が本来そなえるべき誠実さ(integrity)と一貫性(consistency)を見失ってしまってはならないのです。
ここでもただちに付言すれば、アイデンティティにかかわる当事者性を特権的に主張できる「たやすさ」が確保されることじたいは、とりわけマイノリティ当事者による異議申し立ての回路を確保するうえできわめて重要です。「他の論点など知らない。とにかくいま不当な扱いを受けた」とつねに表明しうる場をつくらねばなりません。
ただ同時に、ウェストが強調するとおり、アイデンティティの問題は──ここではバイデンの経済政策における姿勢が問われているため「資本主義」とされていますが──、分配的な正義をめぐっての議論、全員の利害にかかわる公共的な会話と地続きにあるものです。
ある観点において弱者であることと、別の観点において強者であることとは、実質的には矛盾なく両立します。そしてこのことは、特定の場面において特定の当事者として特権的な──だれにも否定されるいわれのない──訴えが可能でありうることを損ねるものではありません。
アイデンティティにかかわる「当事者性のことば」と「正しいことば」をめぐって、両者をともに乗りこなすことの困難さについて自覚しつつも、どちらも手放さすに漕ぎつづけることはできるはずです。それこそが、わたしたち皆が「トランプ現象」から学ぶべき教訓のひとつではないかと思います。
1 リチャード・ローティ(小澤照彦訳)『アメリカ 未完のプロジェクト』、晃洋書房、2000年。なお原題は Achievinng Our Counntry なので、直訳すると『われわれの国をなしとげる』とでもなるでしょうか。選挙後に同書を紹介したニューヨーク・タイムズ紙の記事によれば、大統領選が決した三日後に法学者リサ・カーがtwitter上で同書からの引用画像を投稿し、それが大量に拡散されたことで一挙に話題になり、その日のうちに入手困難になったそうです。
2 『アメリカ 未完のプロジェクト』原著89-90頁(邦訳96頁)。訳文は邦訳も参照しつつ、原文から訳出しなおしています。また強調の傍点は引用者によるものです。以下も同様です。
3 アーリー・ラッセル・ホックシールド(布施由紀子訳)『壁の向こうの住人たち アメリカ右派を覆う怒りと嘆き』、岩波書店、2018年。第9章より。
4 『壁の向こうの住人たち』300頁。〔〕内の挿入、傍点による強調は引用者によるものです。以下同様です。
5 同書313−314頁。
6 同書315-316頁。
7 同書319頁。
8 同書321-322頁。
9 2020年10月に公開されたインタビューから訳出しました。傍点による強調は引用者によるものです。
朱喜哲(ちゅ・ひちょる)
1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。大阪大学社会技術共創研究センター招へい教員ほか。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。前者ではヘイトスピーチや統計的因果推論を研究対象として扱っている。共著に『信頼を考える――リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房、2018年)、共訳にブランダム著『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房、2020年)などがある。