[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし【第一期】|第3回|硬直した線引きが生む差別意識(安田菜津紀)|安田菜津紀+木下理仁

[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし 安田菜津紀+木下理仁 じぶんの国籍とどうつきあっていけばいいだろう。 「わたし」と「国籍」の関係のあり方を対話のなかから考える。

自分の国籍とどうつきあっていけばいいだろう。 「わたし」と「国籍」の関係のあり方を対話のなかから考える。

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[往復書簡]第3回
硬直した線引きが生む差別意識
安田菜津紀


 木下さんへ

 心のこもったお返事、ありがとうございました。父はおそらくなにかしらの「手違い」で、韓国側への登録がなされず、かといって「出生地主義」ではない日本では、日本で生まれたことだけをもって日本国籍を取得することはできず、日本の書類には「韓国籍」と記されているにもかかわらず、事実上の無国籍状態に陥ってしまったのでしょう。だからこそ、その後の日本国籍取得の手続きは、とても苦労し、時間もかかったようです。木下さんがおっしゃるように、父は制度の狭間で、さまざまなことを諦めてきたのかもしれません。ただそれでも、父が最後まで諦めなかったことがあります。それは、子どもの幸せのための選択でした。

 私と、13歳年上の兄は母親が違い、兄の母は私が生まれるまえに他界しています。父は兄の母と籍を入れず、しばらくは兄のことを認知もしていない状況でした。私は父の死後、戸籍を見てそれを知り、父がずっと兄のことを冷遇しているのだとばかり思っていました。

 なぜ父がその選択をしたのか、少しでも手がかりがないかと、私はあるとき、国籍法について調べてみました。そして、気がついたのです。兄が生まれた年は、国籍法が改正されるまえで、子どもの国籍は「父系主義」で決められていました。つまり、通常の婚姻手続きを経て兄が生まれた場合、兄は父の国籍である「韓国籍」になっていたはずです。父はどうやらそれを、避けたかったようなのです。

 もちろん、「韓国籍であることが不幸」、「日本国籍を取得することが最良の幸せ」ということを一概に言いたいのではありません。ただ父の場合、在日コリアンであることによって自分が経験した「嫌な思い」を、子どもに味わわせたくなかったようなのです。

 2004年以前は、結婚していない夫婦の間の「非嫡出子」の戸籍には、「長男」や「二女」などといった続柄ではなく、「男」「女」と表記され、非嫡出子であることが一目瞭然でした。そうしたことも含め、当時は現在よりもさらに非嫡出子が差別などにさらされやすい時代背景があったようです。それでも、当時の社会状況のなかで、“子どもにとってより生きやすい形は何か”と、父なりに揺れ動きながら考えたとき、兄が日本国籍の子どもとして育っていけるよう選択をしたのだと思います。

 私は、父が子どもたちに経験させたくなかった「嫌な思い」とはいったいなんだったのかと、ずっと考えてきました。父は自身のことをあまり語らず、母にも断片的にしか生い立ちを伝えていなかったようです。昨年、父が残したわずかな言葉と、戸籍に刻まれた記録を頼りに、父の生家があった京都市伏見区を訪れました。

 父の生家跡地はすでに駐車場となり、アスファルトで覆われてしまっていました。そこからほど近い鴨川の対岸は、かつて京都朝鮮第一初級学校があった場所です。2009年12月から三度にもわたり、「在特会」と呼ばれる集団がこの学校を襲撃し、子どもたち、学校関係者がまるで生きるに値しないかのような、醜悪な差別の言葉を拡声器で大量に浴びせていきました。子どもたちにとっては、命の危険さえ感じる深刻な事態だったことでしょう。この事件が残した傷は深く、当時、この学校に子どもを通わせていた親御さんは、そのお子さんから「朝鮮人って悪いことなの?」と尋ねられたことがあったそうです。

 その襲撃のようすはいまでも、ネット上に動画として残されています。彼らはこうしたヘイトクライムを、エンターテインメントとして消費しつづけています。その動画を観ながら、思ったのです。父が子どもたちに見せまいとしていたのは、こういう光景だったのではないか、と。

 木下さんが先の手紙で書いてくださったベトナム・ルーツの方のように、帰化申請のさい、近所の評判まで聞いてまわられたり、大量の書類を書き、何度も面接を経なければならなかったりすることは、私もたびたび耳にしたことがありました。父の場合がどうだったのか、じつはよくわかっていません。きっと家族に迷惑をかけまいとしていたのでしょう、母は父の日本国籍取得の手続きにはほとんど関われなかったとふり返ります。ただ、木下さんがおっしゃるように、帰化申請の仕組みは、「品行方正な、あるべき日本人」になることを制度として求めているように思います。

 いまでも忘れられないことがあります。幼いころ、父に絵本を読んでもらっていたとき、父は文章をすらすらと読むことができませんでした。簡単に読めるような大きなひらがなのページでさえ、何度もつかえるのです。私はしびれを切らして、「もういい!」と父の膝から立ち上がり、思わずこう言ってしまったのです。「お父さん、日本人じゃないみたい!」。父は少し困った顔をして、静かにただ、笑っていました。

 当時はまだ、父の出自も、国籍のことも、なにもかもを知らずにいたころでした。けれども、あのなんともいえない表情から、「父にとって言ってほしくない言葉を言ってしまったのかもしれない」という漠然とした感覚だけが、幼いながらに残りました。子どもが「日本人」になることがより幸せだと思い、そのために試行錯誤を重ねながらも選択をしてきた父にとって、その言葉はどれほど残酷なものだったのでしょうか。

 私自身は、「国籍」をいますぐ撤廃すべき、とまでは思いません。けれども「どちらかでなければならない」と強いられたり、線引きを硬直化させることによって、その仕組みからこぼれ落ち、苦しむ人たちがいるのであれば、つねに制度を見直したり、変えていく必要があるのではないかと思っています。

 そして、制度の仕組みだけではなく、人の意識の問題もあります。その国籍や民族性をもって、「○○人は~」という大きな主語で語ることは、その集団をのっぺらぼうのように扱ってしまい、憎悪や差別意識が増長されていくように思います。木下さんが最後に書いていたように、父が何かに抗っていたのだとすれば、「私は書類に記載されるような“数”や“記号”ではない、ここに存在するひとりの人間だ」と示そうともがいていたのかもしれません。

 私も明確な答えを出すことができておらず、ぼんやりとしか考えることができていませんが、木下さんは今後、「国籍」のあり方はどう変わっていくべきだと考えていますか? ぜひ、感じていること、考えていること、また教えてください。

 

安田菜津紀(やすだ・なつき)
1987年神奈川県生まれ。NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)所属フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)、ほか。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。