[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし【第六期】|第3回|「自分事」と「正義」について思うこと(木下理仁)|金迅野+木下理仁

 

[往復書簡/第六期]第3回
「自分事」と「正義」について思うこと
木下理仁


きむ しんさんへ

 こんにちは。魂のこもったお便り、ありがとうございました。

 キムさんが言いたいことを、まだ十分に理解できていないところもあるかもしれませんが、ぼくなりに感じたことを書いてみます。

 ルーツ(“roots”と“routes”)の話で、ひとつ思い出したことがありました。

 うちの両親が70歳を過ぎて病気やケガでたびたび入院するようになったとき、ぼくは、親の面倒をみるために実家のある名古屋に戻ろうかと考えたことがありました。30代半ば、神奈川県国際交流協会で仕事をして7、8年たったころのことです。

 仕事でお世話になっている人たちにその話をすると、「ここ(神奈川)でやってきたことはどうするの」と聞かれたので、ぼくは、「もともと神奈川に“根っこ”がある人間じゃないし……」と、あまり未練はないような答え方をしたのですが、そのとき、在日コリアンの女性に「根っこは自分でつくるものよ」と言われたのです。

 たしかにそうですよね。

 “roots”(根)としての「祖国」から「引き剥がされ」て日本で暮らすことになった在日の人たちは、いろいろな“routes”(経路)を経ながら、こっち(日本)であらためて自分の新しい“roots”(根)を張るために努力し、いつも「たたかって」きたわけですから。

 その人は、ぼくがこれまでやってきた、そしてこれからやろうとしていること(routes)をもっと大事にしろと言いたかったのかもしれません。「神奈川で積み上げてきたものや、私たちとの関係を放りだして逃げるのか」という意味にも聞こえ、ドキッとしたのを憶えています。

 キムさんもそうですが、「当事者」が発することばには、その人が経験してきたリアリティの重みがあります。

 国籍を奪われたり、本名を言っただけでローンが組めなかったり、アパートが借りられなくなったり、従兄弟が民主化運動に参加して逮捕されたり……。「普通の日本人」は、そんなこと経験しませんから。

 ぼくは、在日の人たちにいつも引け目を感じていました。子どものころからたいした苦労をしてこなかったので、自分には在日の人がもっているような切実な問題意識やリアリティがない。だから相手のことを理解できない。理解できないから「ともに生きる」ことができない。国際交流協会で「多文化共生」というテーマで仕事をしながら、じつはそれが「自分事」になっていないという不全感をずっと抱いていました。

 そんなぼくが初めて、「あ、これかもしれない」と思ったのは、国際交流協会で仕事をして13年目、2003年の春のことです。

 2002年9月の日朝首脳会談で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による日本人拉致の事実が明らかになって以降、各地で朝鮮学校に対する嫌がらせが続いていました。当時、神奈川県と神奈川県国際交流協会が県内の多くの民族団体やNPOなどと実行委員会を組んで実施していた国際交流イベント「あーすフェスタかながわ」※1 の関係者が集まったとき、会議終了後の雑談のなかで、朝鮮学校の元校長先生からその話を聞きました。

「最近、学校に対するいやがらせの電話がひどいんですよ。電話だけならまだしも、子どもたちが通学途中に石を投げられたりして危ないので、いまは登下校の時間帯、駅から学校までの通学路に教員や保護者が立って子どもたちを見守っているんです」

 そのとき、思わず口をついてことばが出ました。

「それって、おかしいですよね。朝鮮学校の関係者だけで子どもたちを守ってるなんて。子どもを守るのは、大人の責任じゃないですか。日本で起きていることなのに、日本人の大人は何もしないなんて」「1年中、通学路に立って見守るのは無理かもしれないけど、せめて入学式の時期だけでも安心して学校に行けるように、日本人も通学路に立って子どもたちの安全を守るとか……」

 すると、その場にいた人たちから、「いいね。やりましょうよ」「私たちも入学式に行って、いっしょにお祝いしましょう」という声がつぎつぎに上がり、その場で、朝鮮学校の入学式の日から1週間、ボランティアで毎朝、通学路に立って子どもたちを見守ること、入学式では、皆で会場の入り口に立って新入生を迎えることが決まりました。

 それから20年以上続いている「入学おめでとう応援隊」の活動。※2 朝鮮学校の入学式に行って、ハングルと日本語で「入学おめでとう」と書かれたオレンジ色ののぼりを持って「おめでとうございます」「チュッカハムニダ」と声をかける。たったそれだけのことですが、朝鮮学校に子どもを通わせる保護者の皆さんにとても感謝され、はじめは、こっちが逆にとまどいました。裏を返せば、それだけ朝鮮学校が日本の社会のなかで孤立し、何十年ものあいだ、ずっと身を固くして、自分たちだけで学校を守るしかなかったということだと思います。

 以下は、最初の年にいただいたお手紙にあったことばです。

 今、緊迫した情勢の中で、我が子が入学式を迎えるにあたって、親としてはとても複雑な心境でありました。世間では、朝鮮学校へ通う子供達を快く思っていない人達も少なからずいることでしょう。そんな中、4月5日、小雨の降る寒い日、『入学おめでとう』の旗をかかげて応援してくださった応援隊のみなさんの姿に、どんなに勇気づけられたことでしょう。また、子供達の通学路まで見守ってくださり、これより心強いことはありません。涙の出る思いでした。「朝鮮学校へ通う親子を応援してくれる日本の方達がいる!」何よりうれしいことです。ピカピカの1年生の我が子も、皆さんの応援に背中を押され、これから始まる学校生活を楽しんでいくことでしょう。これからも、暖かく見守ってください。

 玄関のドアを開け、学校に着くまでの間、そして、横浜駅の公衆電話から我が子の声を聞いてから家に着くまでの間、毎日、緊張しながら時を過ごしています。正直言って、こんな不安を抱えながらわざわざ遠くのウリハッキョ(私たちの学校=朝鮮学校)に通わせずに、近くの日本学校に通わせようかと思ったこともありますが、子供がウリハッキョに通いたいと言います。そんな中で、今回、NPO団体の方が朝鮮学校に通う子供達のため、貴重な時間をさいて大変なご活躍をしてくださり、本当に感謝しております。私達も大変勇気づけられ、励まされました。

 まさか、日本の方から見守られて入学式が行なわれたなんて、信じられません。(中略)実際、目で見てビックリしました。「入学おめでとう」の言葉がすごくうれしくて、本当に応援隊の皆様にはげまされました。そして、自分の子を、朝鮮の子を守ってくれようとする日本人もこんなにいるんだから、親として、もっとこの子達のために頑張らないと、という気持ちがわいてきました。それに、日本の子供達のことも同じように接して見守ってあげたいと思いました。これからの子供達がこれをキッカケにもっと仲良くこの日本の社会で生きてほしい……そういう社会にしていきたいと思いました。本当にあの雨の中、ありがとうございます。

 あの会議のとき、なぜ、自分の口からあんなことばが出たのか、よくわかりません。そこにいる人を説得しようとしたわけではなく、その瞬間、感じたことをそのまま、半ば独り言のように口にしただけです。

 でも、ぼくは、あのとき初めて、問題を「自分事」としてとらえたのだと思います。それを境に、日本で暮らす外国人にかかわる問題は、マイノリティの立場にある外国人だけでなく、日本人もほかならぬ「当事者」なのだということが、ようやく腹落ちするようになりました。

 キムさんの「手紙」にあった、焼身自殺をした米国の若者のことをネットで調べて、なんともいえない、重苦しい気分になりました。彼は、パレスチナのガザ地区で起きていることを「当事者」として引き受けたがゆえに、いまの世界の状況に絶望し、自分の怒りや悲しみをそのようなかたちで表すしかなかったのでしょうか。

 戦争をしている国(の政府)は、それぞれの「平和」を守るため、自分たちこそが「正義」だと主張し、世界中で正義と正義がぶつかりあっています。

 子どものころは、ウルトラマンや仮面ライダーのような「正義の味方」をカッコいいと思っていましたが、あまり声高に「正義」を連呼されると、うさんくささしか感じなくなります。それはたぶん、どんな正義も、「その人が考える」「その人にとっての」正義でしかないからでしょう。その「正義」は、しばしば、「対話」など無駄だ、不要だと結論づけるために用いられ、小さな声(疑問や反対意見)は、ないものとされてしまいます。

 ウルトラマン・シリーズには、ときどき悲しい過去を背負った怪獣や宇宙人が登場することがありました。祖国に見捨てられた元宇宙飛行士の“ジャミラ”とか、自分の星に帰れなくなって河原でひっそり暮らしていたにもかかわらず、「宇宙人」だといって敵視され、町の住民の襲撃を受けて命を落とした“メイズ星人”とか。とくにメイズ星人が出てきた「怪獣使いと少年」という話(「帰ってきたウルトラマン」第33話)は、在日韓国・朝鮮人やアイヌの人びとへの差別の問題をモチーフにしているといわれます。

 あれはきっと、ウルトラマンが「正義」の名のもとに戦いつづけることに耐えきれなかった番組の制作者が、どうしても作らずにはいられなかった、「小さな声」をつぎの世代に伝えるための物語だったのでしょう。そうした感覚を、ぼくも持っていたいと思います。


※1 あーすフェスタかながわ

※2 入学おめでとう応援隊

 

木下理仁(きのした・よしひと)
ファシリテーター/コーディネーター。かながわ開発教育センター(K-DEC)理事・事務局長、東海大学国際学部国際学科非常勤講師。1980年代の終わりに青年海外協力隊の活動でスリランカへ。帰国後、かながわ国際交流財団で16年間、国際交流のイベントや講座の企画・運営を担当。その後、東京外国語大学・国際理解教育専門員、逗子市の市民協働コーディネーターなどを経て、現職。神奈川県を中心に、学校、市民講座、教員研修、自治体職員研修などで「多文化共生」「国際協力」「まちづくり」をテーマにワークショップを行っている。1961年生まれ。趣味は落語。著書に『チョコレートを食べたことがないカカオ農園の子どもにきみはチョコレートをあげるか?』(旬報社)、『難民の?(ハテナ)がわかる本』『国籍の?(ハテナ)がわかる本』(ともに太郎次郎社エディタス)など。