[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし【第三期】|第5回|一人の“ひと”と出会うことから(木下理仁)|サヘル・ローズ+木下理仁

[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし【第三期】 サヘル・ローズ+木下理仁 じぶんの国籍とどうつきあっていけばいいだろう。 「わたし」と「国籍」の関係のあり方を対話のなかから考える。

自分の国籍とどうつきあっていけばいいだろう。 「わたし」と「国籍」の関係のあり方を対話のなかから考える。

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[往復書簡/第三期]第5回
一人の“ひと”と出会うことから
木下理仁


さっちゃんへ

 こんにちは。お元気ですか。お便りありがとう。

 さっちゃんに「お兄ちゃん」と呼んでもらえるのは、とてもうれしいけれど、ちょっと緊張します。「お兄ちゃん、そんなにぼーっとしてないで、しっかりしてよ!」とハッパをかけられそうで(笑)。でも、一方で、兄としては、いつもいつも全力でがんばっている妹が、わるい人にだまされて傷ついたりしないか、過労で倒れてしまったりしないか、心配です。気をつけてくださいね。

 それにしても、さっちゃんからの最後の質問。
「いま、幸せ?」と聞かれたら、なんて答えますか?
──きついなあ。この質問。でも、さっちゃんに聞かれたら、正直に答えないわけにはいかないなぁ。

 幸せじゃないです。

 ぼく自身は、健康状態も良好で、ご飯が美味しく食べられて、いろんなチャンスを与えてもらって楽しく仕事ができているけれど、身近なところに、つらい思いをしているひとがいるので。

 不登校、ひきこもり、うつ、からだの不調。自分の家族や親しい友人がつらい思いをしていると、自分も幸せにはなれない。孤独に苦しんでいる彼らに、ぼくはうまく寄り添うことができず、いつも申し訳ない気持ちでいます。

 じつは、ちょっとした不注意からある犯罪に巻き込まれて、納得がいかないまま刑務所にいる友人がいます。彼はイラン出身です。

 裁判の一審では、通訳もいいかげんで、はっきりした証拠もないまま、「……と推察される」というだけで20年もの懲役刑が言い渡されました。検察も裁判官も、はじめから彼が犯人だと決めてかかっていたのではないかと勘ぐりたくなります。その後、控訴審でも有罪。再審請求も認められず、IT業界の最先端で仕事をしていた彼が、いまは刑務所で「布団挟み」の組み立て作業をしています。

 いちど有罪判決が出てしまうと、それを覆すのは、ものすごくたいへんです。だれが見ても疑いようのない決定的な証拠がないと、裁判(再審)を始めることすらできません。本人がいくら無実を訴えても、それだけでは、壁は1ミリも動かないのです。

 彼がイラン人だということが、犯罪の捜査や裁判のときに、彼に不利に働いたのではないか。関係者の心のどこかに思い込みや偏見があったのではないか。ぼくは、どうしても、そう考えてしまうのです。彼が「日本人」だったら、あるいは、イランではない、べつの国の出身者だったら、結果は違っていたんじゃないかと。

 この世の中からすべての「偏見」というものがなくなったら、どんなに平和で生きやすい世界になることか。

 偏見をなくすためには、「知る」ことが必要。だから、さっちゃんのように「伝える」仕事をするひとの存在はとても重要です。

 そして、もうひとつ、自分自身がひとと「出会う」こと。たった一人のひととの小さな出会いでも、そのひとが属している「カテゴリー」の意味を、がらっと変えてくれることがあります。

 コロナのおかげでいろんなことをオンラインでやらざるをえなくなったときに、ぼくが新しく始めたことがあります。「TAKOトーク」というオンラインのおしゃべり会です。

 二人一組になってたがいにインタビューをして、そのあと、ほかのひとに自分のパートナーを紹介します。自己紹介じゃなくて、ほかのひとを紹介する「他己紹介」だから「TAKOトーク」。さっちゃんの苦手なパソコンの画面越しのおしゃべりだけど、オンラインなら簡単に国境を越えて、いろんなひとに会えるので、とても楽しいです。

 TAKOトークに外国のひとが参加してくれることもあります。このあいだ、イエメンから参加してくれたひとがいました。首都のサナアで日本食のお店を営む、日本語のとても上手な男性。

 イエメンでは2015年から、もう7年も紛争が続いています。軍事施設だけでなく、民間人の住む地域が爆撃を受けることも「けっこうある」そうですが、もう慣れっこになっているようすで、戦闘機が来ても「ああ、またか、という感じです」と、こともなげに言っていました。戦闘機が通りすぎると衝撃波で窓ガラスがぜんぶ割れてしまうので、いつも開けっぱなしにしているという話も聞きました。

 びっくりして、「なんでそんな平気な顔してるんですか!」と言うと、肩をすくめて「しかたないですよね」と。そんな話をしているあいだにも、向こうが停電になってパソコンの接続が切れてしまい、しばらくしてもどってきて話を続けるという状態でした。

 たぶん、日本では、イエメンがどこにあるか知らないひとも多く、400万人もの避難民がいることも、ほとんど知られていないんじゃないでしょうか。

 ウクライナのようにメディアがしきりに伝える出来事には人びとが関心をもち、支援の手も差し伸べられるけれど、知らない国のよくわからない問題は放っておかれる。さっちゃんが言うように「報道されていないだけで、現在進行形」の問題なのに。

 そういえば……もう30年もまえの話ですが、いまでも思い出すと胸がいたむ経験をしたことがあります。

 仕事でアフリカ関連のイベントを企画したときのこと。その一環で、アフリカの民芸品を売って、売上をアフリカの貧しいひとたちの支援をしているNGOに寄付することになり、商店街にある銀行の前のスペースを借りました。日曜日なら銀行が閉まっているので大丈夫だということで。銀行のひとは、「ちょうどよかった。いつも変な物売りの外国人が来て、困ってたんです」と言っていました。

 そして当日の朝、そこへ行くと、一人の男性が、もう地面に布を広げて外国の土産物やアクセサリーを並べはじめていました。

 ぼくは、「今日は、銀行から許可をもらって、ぼくらがこの場所を使うことになっているので、どいてもらわない困る」と、そのひとに場所を明け渡すように言いました。「銀行から許可をもらっている」「われわれは仕事なので」「アフリカの貧しいひとを助けるためにやっているので」と。

 そのひとは、不機嫌な顔でぶつぶつ言いながら荷物をまとめていなくなりました。去りぎわに、「日本人はアフリカは助けるけど、アフガンは助けない」と捨て台詞を残して。

 ソ連軍の侵攻を受けて混乱に陥り、400万人もの人びとが難民となっていたアフガニスタンのことを、ぼくはそのとき、なにも知らなかったのです。

 知らなかったこと、彼の話を聞こうともしなかったこと、とても恥ずかしいし、申し訳ない。本当に悔やまれる思い出です。

 ぼくらはもっともっと、いろんなひとと出会わなきゃいけない。出会って、話して、知らなくてはいけないことがいっぱいある。難しい本を何冊も読んで勉強するよりも、一人のひととの出会いが大きな意味をもつことがある。たとえ、たった一人でも、そのひとがいま、生きて、話していることは、確かな現実だから。さっちゃんの手紙にあった「出会った責任」について考えるきっかけにもなるかもしれない。

 世界の問題を考えるときは、「国」を単位に考えるよりも、生きている「ひと」の具体的なイメージをもつことから始めることが大切だと、ぼくは思います。

 さっちゃんが伝える「言葉の花束」が多くのひとに届いて、たくさんの笑顔が生まれますように。よかったら、TAKOトークにも遊びにきてください。

 さっちゃんは、「幸せ」って何だと思いますか。

【サヘルさんとの往復書簡記事一覧】

 

木下理仁(きのした・よしひと)
ファシリテーター/コーディネーター。かながわ開発教育センター(K-DEC)理事・事務局長、東海大学国際学部国際学科非常勤講師。1980年代の終わりに青年海外協力隊の活動でスリランカへ。帰国後、かながわ国際交流財団で16年間、国際交流のイベントや講座の企画・運営を担当。その後、東京外国語大学・国際理解教育専門員、逗子市の市民協働コーディネーターなどを経て、現職。神奈川県を中心に、学校、市民講座、教員研修、自治体職員研修などで「多文化共生」「国際協力」「まちづくり」をテーマにワークショップを行っている。1961年生まれ。趣味は落語。著書に『国籍の?(ハテナ)がわかる本』(太郎次郎社エディタス)など。