[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし【第六期】|第2回|“roots”と“routes”(金迅野)|金迅野+木下理仁

 

[往復書簡/第六期]第2回
“roots”と“routes”
金迅野


 ご無沙汰しています。ご活躍のご様子は、さまざまな媒体を通じて耳にしていました。今回は、編集者の尹さんを通じてお話をいただき、お引き受けいたしました。不足の多い者ですが、よろしくお願いいたします。

 木下さんとの出会いは、木下さんもおっしゃるとおり、神奈川県国際交流協会がぼくの職場になったときでしたね。木下さんは謙遜して「たくさんのことを教えてもら」った、とおっしゃってくださいましたが、ぼくは、当時をふり返ると恥ずかしいと思うことがたくさんあります。

 とくに行政能力の高かった木下さんには、いろいろな場面で、気づかぬうちにおおいに助けられていたはずなのに、じゅうぶんに気づけていなかったのではないだろうか。みずからのあり方をふり返るときに湧き上がる自戒の念を抱きながら、同時にいまもときに抱く「ざらざらする」感覚をめぐって、考えつづけてきたことをもって応答したいと思います。

「アイデンティティ」や「人権」はいまも大事なテーマとして考えつづけていることです。ただし、交流協会で仕事をしているときのスタンスとは、若干、変わってきているかもしれません。そのことは、「外国」につながるさまざまな「ルーツ」をもつ子どもたちを主人公にした「エスニック・キャンプ」をはじめ、さまざまな「出会い」のなかで多くの人びとに教えられたことを噛みしめつづけてきたからかもしれません。

「ルーツ」というとき、英語では同じ発音ですが、“roots”と“routes”というふたつの言葉を思い浮かべることができます。通常、「外国につながる人たちのルーツ」というときには、“roots”をイメージすることが多いと思います。それは間違いではないと思いますが、一方で、“roots”という言葉には、「どこから来たのか」という問いとともに、揺るがない「根っこ(複数であっても)」のようなイメージがついてまわるように思うのです。

 国籍が「根っこ」と重ねられることもままあります。書いてくださった娘の1歳の誕生日のときの「トルチャビ」のことも、そのような文脈でとらえられることが多いと思います。それをすべて否定しようとは思いませんが、ぼくはそこに少し違う文脈を加えたいと思っています。

 韓国が軍事政権下にあった1970年代から80年代にかけて、体制に抵抗しつづけて政治犯として死刑宣告を受けたきむという詩人が、文化の定義を問われたときに、「文化とはたたかいの結果だ」と語ったことがあります。その言葉に自分を引きつけて語るのは不遜にすぎるかもしれませんが、「根っこ」である場所から引き剥がされ「生活の次元」をうしなった移民/亡命者が、からだで表現する「文化」には、ある種の「たたかいの結果」が宿っていると感じています。

 ぼくの場合は、ぼくの父や祖父たちが植民地下では「日本国民」であったのに、1947年の5月2日の最後の勅令によって「当分の間、外国人とみなす」とされて以来、一方的に外国人にされたという経緯にもかかわるのかもしれません。翌日の5月3日に日本国憲法が施行されますが、その主体が「すべての自然人」から「すべての国民」に書き換えられたということも考えるとき、「文化」は食べ物や生活習慣などに還元できないものを含むことがあると思うのです。

 それは、「外国人」になったことで、公務員になれなかったり(敗戦前は朝鮮半島出身の国会議員もいました)、公営住宅に住む権利がなかったり、銀行の融資を受けられなかったり、就職を拒否されたり、家を借りにくくなったりという生活上の具体的な不利益とつながっているからです。

 ささやかなことですが、小学校3年生(1968年)のときに父親がクレジット系のデパートで書斎の机を分割で買おうとしたときに、拒否され、父が激怒したことで、その後楽しく食事をするはずの休日がだいなしになったという記憶があります。ぼく自身も結婚するとき(1988年)、家を借りようとして物件を紹介されたあと、本名を告げた瞬間になんども拒否されるという経験をしています。在日コリアンの歴史には、このようにあまたの個人に現実に起きていた「国籍」による不当な扱いに強い違和感を抱き、抗おうとした経験が刻まれています。

 ぼくは、そのような「たたかい」の軌跡を含んだ生の歩みを“routes”と呼びたいと思っています(routesと複数形にするのは、自分の来し方を想起するときに、そのつどその軌跡のあり方が変わるということを意味します。それがアイデンティティの複雑さやゆらぎ、ふくらみを表すことができると思っています)。

 それは、民族衣装や家の装飾などの手にとってわかるものとは違って、たとえばあのキャンプで、弁当箱に雑巾の搾り汁をいれられて、「味噌汁だ、飲め」と言われながら、日々を耐えて、キャンプのために「1年を過ごしてきた」と語った台湾「ルーツ」の少年の、その語りそのものとその語りが湧き出てくるからだ全体に宿った「ことば」によって、現れるものでもあると思うのです。そういうことをしきりに考えていたことが、ぼくの「からだ」にもなにがしか現れていたのかもしれません。

 そして、それは「日本」の社会のなかではあまり「普通」のことではないから、そういうからだをもつぼくが、木下さんの眼には「恐い」存在として映ったのかもしれません。そして、そのことの「理解」の共有が広くこの社会のなかであまりなされないことを、「ざらざらする」というふうに、当時、表現したのかもしれません。

「現場」という言葉のことも言及してくださいました。ぼくはあまり覚えていないのですが……(笑)。しかし、この言葉もじつはずっとぼくなりにあたためて噛みしめてきた言葉です。ぼくがいま「現場」という言葉にこめたいと思っているのは、活動実践の「現場」という通常の意味ばかりでなく、自分が影響されると同時に自分もなにがしかの影響を与えながら生きている「生活世界 Lebenswelt」(哲学)や、なにかの事態に直面したときにその事態の解釈をするその仕方はなにに起因するのかを考えることをうながす「場 champ」(社会学)であったり、異なる“routes”をもつ者同士が、構造的にはけっして対等ではないのに視線が交差する(見る/見られるという関係が固定的にならない)ということが起きて「出会い」が生じる、そのような「場 contact zone」(人類学)というふうに考えたいと思っています。

 わたしたちが生きている現代社会には、じつにさまざまな「問題」が生じています。戦争、暴力、貧困、震災……。そのことは多くの場合、情報として伝達されますが、ぼくが日々感じるのは、「おまえはどちらの側なのだ」という無言のうちに示されているコードのなかに、そっと身勝手な「正義」が示されているかもしれないということです。

 そういうときに感じるのは、世界のどこかで、あるいは自分の身近で、そのような事態のなかに埋めこまれている暴力や苦難を被っている人びとの具体的な「痛み」を、「現場」を生きながら深く「受け止める/引き受ける」(メルッチ)ことの欠如です。そして、その欠如がもたらすのは、「正義」の名のもとに「公正さ」を犠牲にすることではないか、と感じています。それは、「当事者」という言葉や「加害」と「被害」の間にひかれる線引きが自明のものとされる瞬間などにも感じることです。

 先日、アメリカ空軍の兵士がガザへのイスラエルの攻撃に抗議してワシントンDCのイスラエル大使館の前で焼身自殺をはかったとの消息に接しました。それは、みずからのいのちを否定してまで、いのちを奪われただれかの「痛み」を「受け止め/引き受け」たすえに起きたことなのかもしれません。大きな構造のなかで暴力に加担させられてしまうことから逃れようがない、身が引き裂かれるような無念と絶望の魂のありようが伝わってくるような気がします。

 しかし、それも「たたかいの結果」といえるのか、いまぼくは「ざらざら」した心をもって深く自問しつつあります。彼(?)の心のなかにも「ざらざら」が生じていたであろうこと、その「ざらざら」が、暴力にさらされて理不尽に奪われたあまたのいのちたちへの強い共感によって、おそらくはぼくのそれよりもはるかに深くジリジリと身が焦がされるようなものであったと、精一杯想像しながら……。そして、そのような強い共感に至ることなく営むことのできているぼく自身の生のあり方を顧みながら……。

 そのように自問・自省しながら、フラッシュバックのように浮かんできたのは、先に述べた金芝河さんが死刑宣告を受けるような時代の韓国の風景です。BTSやNEWJEANSのようなK-POPが世界を席巻しているいまでは想像しにくいことかもしれませんが、1980年代、ぼくは、韓国の学生たちが体制に抗議して焼身自殺するという報道になんども接していました。ソウルで学生運動をしていた従兄弟が逮捕されたという電話を受けたときの、喉がからからになるような感覚を忘れることはできません。

 当時、ぼくは、日本で学生をしながら、「世界にひろげよう友だちの輪!」という無邪気な合唱が毎日お昼にお茶の間のテレビで響いていたり、『なんとなく、クリスタル』という、なかばブランド品のカタログのような小説がヒットしたり、なぜか多くの学生がテニスラケットをもって「ネクラ(根暗)」といわれないようにしている、いまにして思えば異様な明るさをたたえた(むしろ暗さを強迫観念的にクレンジングしていた)時代の空気を吸いながら、しばしば、からだが分裂しているような感覚に陥ったのをおぼえています。そこにも「ざらざら」が横たわっていたのかもしれません。

 木下さんは、いま、焼身自殺という抗議のあり方が戦争や暴力をめぐって現代社会に起きてしまったことをどのように感じていらっしゃるでしょうか。

 ぼくは牧師として、あるいは教員として、人前で語ることがありますが、その語りは大丈夫だっただろうか、といつも自問せざるをえません。そういうふうに語ったり考えたりする自分は「どこにいるのか」、そしてなにを「受け止め/引き受けたのか」、という問いをもって自分を射抜くことを大事にしたいと思うからです。あなたやわたしが織りなすその「語り」は、そこがどういう「現場」であることを意識しながら編まれつつあるものなのか。それは「同じものや事柄を見ても、人によって違うふうに見えるのはなぜか」という問いともからむことです。そういえばこの往復書簡も「問い」が隠れたプロットになっていますね。

 去年、風巻浩さんと出した『ヘイトをのりこえる教室』(大月書店)でも、いわゆる「正解」ではなく、そういう問いを大事にして極力散りばめたつもりです。それは読む人を試す試験官のようにではなく、ぼくもある状況に直面したとき、どこにいるだろうかと、読者とともに自問しながら書いている、ということを伝えたかったからです。

「わたしたちはどう生きるのか」。この問いをただ表面だけなぞるのではなくて、自分にとって決定的なときに、この問いが自分のからだをくぐりぬけるように本気で自分に対して問うことをも、ひとつの「たたかい」のあり方として大事にしたいと思っています。「たたかい」はしんどいことも多いけれど、その果てに現れる「現場」で出会うことになった人とのつながりこそ、このうえもなく大事なものなのではないだろうか。あるいは「出会いそこなった」経験を含めて……。それはあのキャンプの少年少女たちに学んだことです。

 だいぶ長くなってしまいました。

 ところで、木下さんのいまの「現場」はどこですか。(微笑)

 

金迅野(きむ・しんや)
在日コリアン2世の父と自称江戸っ子の日本人の母のあいだに東京で生まれた。東京には台湾人のいとこが、朝鮮半島の南北にもいとこがいる。出版社、神奈川県国際交流協会、川崎市ふれあい館などを経て、2012年から在日大韓基督教会横須賀教会牧師。2020年から立教大学大学院特任准教授。専門は、実践神学、多文化共生論、人権教育など。共著に『ヘイトをのりこえる教室』(大月書店、2023年)。