本だけ売ってメシが食えるか|第10回|たどり着く先は、「編集」|小国貴司

本だけ売ってメシが食えるか 小国貴司 新刊書店員から独立して古書店「BOOKS青いカバ」を開店して5年。「本」という商品を売る仕事の持続可能性を考える。

新刊書店員から独立して古書店「BOOKS青いカバ」を開店して6年。「本」という商品を売る仕事の持続可能性を考える。

第10回
たどり着く先は、「編集」

いまこそ店売の再評価を

 

 本というのは不思議なもので、純粋なデータにはおそらく永遠にならないだろう。

「絶対に、なにがなんでも読みたい…!」という1冊ならば、それがどんなかたちであれ読めるということだけでありがたい。コピー用紙に印刷されているものでも、テキストデータでも、とにかく読めればかまわない。

 しかし、人間は身勝手なもので、そこまでの情熱をもっていない本には、読めるということよりも、読んでいられる快楽を優先する。質感や読みごこち、電子ならば使い勝手を求める。場合によっては、どの電子書籍リーダーを使うかということにこだわりはじめるだろう。それは聞く読書でも同じで、読み上げている声の質感を選ぶというのは、ありえると思う。

 つまりどのようなかたちであれ、「読めればいい」が満たされると、「どうやって読むか」が、読む意欲の違いになってあらわれるのだ。

 紙の本でいえば、それは装丁の違いだったり、持ったときの本の心地よさ、カッコよさ、文字の読みやすさだったりする。ほかにもあげればキリがないだろう。それこそが、本を書く作家だけではなく、作る編集者や、装幀家を含め各種デザイナーがあまた存在する理由だし、意義である。

 では、われわれ書店はどうか?

 もちろん第一義は「読めること」を満たすことだ。発売された本はどのようなものでも、自分の店に来るお客さんが喜んでくれる本なら歓迎する。

 しかし、「うわぁ、出版されるって楽しみにしてたけど、こんな本になっちゃったかぁ」と思うこともある。逆に「期待していなかったけど、これは……売れる!」と思うこともある。もちろん、期待と実際のクオリティの両方が満たされて、期待どおりに売れそうと思うこともたくさんある。とはいえ、こればかりは実際に本を手に取ってみるまでは何もわからないのだ。いくら発売予告のチラシやデータを見ても、本を手に取るまでは、ほんとうに売れそうかどうかはわからない。

 では、店に入荷するまえにその商品を実際に手に取る術はないのか?

 かつてはあった。

 それは「店売」という取次にあった機能である。20年前には当たりまえのようにあった「店売」は、いまこそ必要な機能ではないか? そう思う。

 かつて店売へは、フェアを組むためのヒントを探しにいくこともあれば、どうしてもほしい新刊などは発売日に行くと店売店頭にフリー分(店売における店頭在庫。取次が抱えている在庫のうち、行き先の書店が決まっていない在庫のこと)が並ぶこともあるので、それを買いにいくこともあった。しかし、それがひとつなくなり、ふたつなくなり、気づけば取次で店売を持っているところは絶滅寸前だ。

 BOOKS青いカバを開業してしばらくは、トーハンの店売に通っていた。おもに絵本の仕入に行っていたのだが、僕の店のような小さな書店でも、登録さえすれば現金払いで買うことができた。

 絵本は、とくに文字の質感と絵がマッチしているかを個人的には重視しているので、その本から漂う「匂い」のようなものをチェックするには、やはり実物を手に取ることが一番だ。それを確認しながら仕入部数を決められるトーハンの店売にはひじょうに助けられたし、ロングセラーが多い絵本のようなジャンルは、版元にとってもありがたい場所だったのではないだろうか。

 いまでも週に一度は八木書店(神保町にある古書店で、新刊書の取次も手がけている)の新刊店売をひやかす。いまや絶滅危惧種の店売が、まだまだ力を持っているのだと思わせる場所だ。

 ここを頼りにしている書店は多い。発売前の見本を手に取って仕入部数を決められるのはたいへんうれしいし、大手取次のトーハンや日販に比べると狭い場所ではあるが、それでも八木書店の契約している版元の新刊はひととおり見ることができる。毎週あたらしい発見があり、BOOKS青いカバの品ぞろえのバックアップになっている。

 小さな書店が増えているいま、取次からの配本に頼らない店づくりをするところもまた増えている。しかし、その品ぞろえは、SNSの話題や本の書誌情報をもとにしたものになるか、ほかの書店で見た本をもとに仕入れる、いわば周回遅れのものにならざるをえない。物体としての本のよさを伝えたいと思う本屋が増えているのに、実物を見て販売の参考にする機会が減っているのは、皮肉なものだと思う。

 もしほんとうに本を支えるインフラが必要ならば、本を仕入れるプロである書店の能力を最大限にバックアップする取次の見本市のような機能は、いまこそ求められていると思うのだが。それこそが、また書店の多様性に資するに違いないと思うが、それは自分だけだろうか?

古本屋の唯一の商機

 電子書籍について考えると、なんというか、小学校時代は仲よくて、おたがいの家に毎日のように遊びにいって「おれたち大人になっても週1回は遊ぼうな!」って言いあっていた友だちが、急に親の仕事の関係で海外に転校。ずっと手紙のやりとりをしていたけれど、中学に入るころにはなんとなく途切れて、でもメールアドレスくらいは知っているし、連絡とろうと思えばとれるけど「どうしてるかな?」って思っていたある日、「久しぶり。来週1週間日本に帰国するんだけど、久しぶりに会おうよ」となって、でもむかしのあのころのような話はできないんだろうな、って思っている友人について考えるのに似ているけど、自分にはそんな友人はいない。

 親密ではあるけど、長い目で見るとけっして交わらない道を歩んでいる感じと言おうか。

 かくいう僕も電子書籍はけっこう使っている。電子書籍でしか読めない本もかなりあるし、驚くような出会いもある。図書館には行っても本を借りることはないから(借りた本はなぜか読みきれない)自分のなかで図書館ユーザー率よりは電子書籍ユーザー率のほうが高い。比べることでもないが。

 国立図書館のデジタルコレクションは、その利便性が向上しているし、検索性も高い(ちょっとまえの話になるが、「ドラゴンクエスト」と検索すると本居宣長がヒットし、それは本居宣長の本に書かれたドラゴンクエストというイタズラ書き(?)がヒットしていた、という笑い話があった)。

 デジタルコレクションは利便性や価格(基本無料)からして、現在の古書業界にとっては一番の「敵」ともいえるかもしれない。これによって減る売上は確実にある。でも、誤解しないでほしい。だからといって「民業圧迫だ! いますぐやめろ!」と言うつもりはない。というか、そんなことをしても、人間は退化を許さない。一度開いてしまった扉は、よっぽどのことがないと閉まることはない。

 だからわれわれ古本屋としては、これをどうやって「メシ」につなげるか考えるしかないのだ。

 それは書籍のもつ「モノ」としての価値であり、体験であると言いたい気持ちがあるけれど、そんなものは風前の灯なのではないか? 生まれたときから紙とデジタル、場合によってはデジタルのみで育った子たち(いまはかろうじて絵本は紙で、という文化があるからそんな子はいないかもだが)からしたら、「紙? なんかいい点あるんですか?」みたいな話だし、印刷技術が吟遊詩人をアートにしたように、早晩、紙の本は日常から退場し、アートの世界に収まるのだろう。

 もちろん電子書籍は、大きな力、つまりほんとうの所有者である配信者の一存でどうとでもなってしまうモノだから、けっきょくは紙の本を持っているかどうかが決定的な決め手になるのだが、そもそもそんな世界が来るのならば、電子か紙かなんて、瑣末で平和な論点でしかない。そんなかんたんに情報が操作される未来なんてディストピアでしかない。つまり、やはり紙は限られた世界に退場するしかない運命なのか。消え去ることはないにしても。

 と言いながら、そんな「アートたるべき」紙の本は、年々加速度的に整理されて捨てられている。そこには有象無象の本、紙がある。重い本は真っ先にお役御免になり、故人の蔵書はただの紙くずと化す。

 古本屋はそこにしか商機がない。「ゴミ」の中からいかにして商品を作りだすか。白鳥がみにくいアヒルの子であったように、アヒルの子が白鳥ではないように、そこにあるものにどこまで唯一性を見出せるか。見出した唯一性を、世界にどう納得させるか。大きなことを言えば、それが仕事の役目なのだと思う。

 なにもかもが膨大なデータになっていけばいくほど、たぶん、そこから個別性への揺り戻しがある。いま世界中で起きている人権意識の高まりや、エスノグラフィー、オーラルヒストリーの興隆は、そのような文脈なのだろうと思う。ブログやSNSというメディアが、個別の声を拾い上げながらも、そのほとんどがただのデータにしかならなかったというデジタルへの絶望は、たぶん紙や電子の枠を超えて、「編集」への回帰をうながすだろう。それは、われわれにとっては、大きな商機となりうる。

 編集という古本屋の仕事。そこにフロンティアが、いまもむかしもある。

 

小国貴司(おくに・たかし)
1980年生まれ。リブロ店長、本店アシスタント・マネージャーを経て、独立。2017年1月、駒込にて古書とセレクトされた新刊を取り扱う書店「BOOKS青いカバ」を開店。

BOOKS青いカバ