本だけ売ってメシが食えるか|第7回|店をやるにはセンスがいる|小国貴司

本だけ売ってメシが食えるか 小国貴司 新刊書店員から独立して古書店「BOOKS青いカバ」を開店して5年。「本」という商品を売る仕事の持続可能性を考える。

新刊書店員から独立して古書店「BOOKS青いカバ」を開店して6年。「本」という商品を売る仕事の持続可能性を考える。

第7回
店をやるにはセンスがいる

お金をかけた什器じゅうきのいま

  さて、前回の続きです。

 開店時にいろいろとカスタムしてつくってもらった、店内入ってすぐの木の什器。最初はとてもスッキリしていて、本もゆったりとした空間を使いながら陳列できていたのだが、現在はどうかというと、こんな感じ。

 什器の上に木箱を重ねて、どんどん上に伸びていっている印象だ。

 手前側は当初からこのような使い方をしようと思っていたので、上に伸びるのは問題ないのだが、厄介なのは(厄介っていっちゃった)つぎつぎに増える新刊書籍である。

 最初は、新刊と古書が唯一混ざる場所として、この木の平台を想定していた。しかし、新刊の仕入が多くなるにつれ、前面平台は新刊だけのスペースとなっている。つまり古本屋であるうちの店の中で、ここだけは、新刊書店の新入荷台の機能なのだ。

 ほんとうはもう少し整理して、この台に置く新刊書を減らし、古書と新刊が並置される空間として使いたいと思っていたのだが、なかなかそうもいかない。なぜか?

 一言でいってしまうなら「新刊を返品できないから」というのがその理由だ。

 新刊を10冊仕入れたら、10冊売れるということは、まずない。というか、10冊入れて10冊売れるなら、もう5冊仕入れたくなるのが人情で、そうするとかならず売れなくなるときがやってくる。10冊のうち残ったのが1冊で、それを棚に入れるというのが、いまも昔も新刊仕入の理想だが、返品できないわれわれのような書店は、そもそもその棚に入れるために棚から1冊抜かなくてはならず、結果、その抜いた1冊も在庫となる。

 そうなると必然的に、新入荷の新刊の仕入部数を絞るか、たまーに売れる棚の既刊をまわさない(再発注しない)かの2択になる。とはいうものの、棚の既刊は、ずっと置いておきたいという1冊も多いので、そこで第3の選択肢が登場するわけだ。

 それが「棚の拡張」である。ほんらいであれば、新刊と古書が混在する唯一の楽しい空間として想定していた木の什器が、いつのまにか新刊台に変わってしまった。

 新刊書はこうしてどんどん増えていく。何も対策をしないと気づけばデッドストックだらけ、なんていう状況になりかねない(ほんらいは売りたいと思っている本なので、デッドというのも寂しいが)。

 昨今勃興している小規模の新刊書店、いわゆる独立系書店の最大の悩みはこれだろう。体感的には、なすがままにできるキャパシティは3~5年くらいではないか? 「売」と「残」のバランスが崩れて、店内が在庫だらけになってしまい、先々を考えるようになるのが、おそらくこのタイミングだと思うのだ。

 かくいう僕の店も、そのくらいの時期に「これは対策しないとな」と本格的に思い、いまも危機感はつねに感じている。まともな古本屋なら新刊なんて手を出さないだろう。でも、うちの場合、新刊は商売ではなく、意地である。赤字にはなるが、定期的に損切りをして、古書にして販売する。まぁ、売りたいと思って仕入れた本なのだから、古書にしないと売れないのならばしかたがない。

 しかし、買取で仕入れた本でさえ値引きができず、資産として持ちつづけるか、損失として計上して捨てるかしかできない新刊書のしくみは、一考の余地があるだろう。だって委託で預かっているわけではなく、買い取っているのだから。

 というわけで、当初の予定どおり棚を使えているか? と問われたなら、「がんばっています」としかいえないのが、現実である。不甲斐ない。

カオスのなかの秩序

 店をやるには最低限のセンスは必要である。

 ここでいうセンスは、べつにカッコよく本をディスプレイするとか、いい本を仕入れるとかではまったくない。そんな一歩先のくふうの話はいろいろな小売についての教本を読めば、だいたいわかる。わかるのと実行するのが別であることは、僕が体現している。いわゆるVMD(ビジュアル・マーチャンダイジング)の講座はいくつか受けたけれど、いまの自分の店でそれを活かせている自信はない。まったく、というより、ひとつも覚えていないのだ。お客さんに手に取ってもらう陳列について、なにか聞いたような覚えがあるのだけれど⋯⋯

 というわけで、ここでいうセンス、というのは、たったひとつ。

 ここがものを売る場所であると魅せるセンスである。

 恥ずかしながら、仕入の量をコントロールできない僕の店は、ダンボールやら値付け前の本などが、たくさん床に置いてある。もちろんそれがないほうがよいのは知っている。基本的に、店の中には商品以外のものがあるべきではないからだ。

 しかし、それは古本屋のさだめ(言い訳、ともいう)。仕入はある日急に、大量にやってくるし、買えるときは、とにかく大量の本を買う。そして、その大量の本をなかなか仕分けできないままに、また大量の本を買い、なんてことはよくある。月に2度くらいある。そうすると、店はだんだんとカオスになっていく⋯⋯

 でも、それでもなお、一定のルールはあるべきである。唯一にしてぜったいのルールとは?

 それは、これが買っていいものなのかどうかを判別させるということだ。

 古本屋さんというのは因果なもので、つねに値付けをしていない商品との闘いである。お客さんにとっては棚に並んでいる商品よりも床に積まれている本のほうが魅力的に思えるようだ。なかには「床に積まれている本しか見ていないのでは?」というお客さんもいる。でも、ほんとうは、店には値付けしているものだけを運ぶべきである。

 それが無理ならば、せめて、「値付けしていないものが並ぶエリア」と「売場」を区分けするべきである、と思う。うちの場合は日々「未値付けエリア」が通路を侵食しているのだが、それでもいつかぜったいにそのエリアをなくすことを夢見ている、これでも。

 しばらく店を留守にしているあいだに、「未値付けエリア」に置いてあった段ボールが、「売場」にポツンと置いてあったりすると、「ああ⋯⋯おれの売場が⋯⋯」と思ったりするので、なんというか、カオスのなかにもいちおうの秩序はあるのだ。

 町の古本屋さんで、営業しているのか営業していないのか、よくわからないお店というのがたまにある。もちろん店を開けているということは何かしらで儲けているわけだが、お客さんにとってはたいそう不思議な存在だろうと思う。その不思議さの最大の要因は、壁のように通路を、入口を塞ぐ本の山だろう。 この本の山が、はたしてお客さんに開いているのか、それともお客さんの購買を拒絶しているのか。

 店の中がどんな状態でも、売っている本を「これは売り物ですよ」とわからせること。それが本屋にとっての根本的なセンスだと思うのだ。より正確にいうならば店で売って食べている本屋にとってのセンスである。雑然としていても、きちんと売り物であることを主張して、それが入れ替わること。手にとっていいものだと主張すること。これほど大事なことはない。

 僕の大好きなお店に白金の「小川書店」という古本屋さんがある。はじめてこの店を訪れたときには驚愕した。昔ながらの古本屋の間取りなのだが、店内の棚の前にズワーーーーッと本が積まれている。それは職人技といえる積み方で、少しくらいさわっても微動だにしない。おそらく足下から本が並んでいるであろう本棚は、上から三段目くらいしか見えない。胸くらいまでの高さまで、本が積まれているのだ。こうなると頭が混乱する。

「こ、これは⋯⋯売場⋯⋯なのか?」

 古本屋に通うもののマナーとして「均一台の商品を買うときは釣りが出ないようにする」「袋は持参する」「売り物以外にはさわらない」をみずからに課していた僕は、この棚の前の商品をさわっていいものかどうか、迷いに迷った。しかし、これが売り物でないとすると、店の棚は上3段くらいになる。おそらく棚に並んでいる商品よりも、床から積まれている商品のほうが多いであろう。

 意を決して、積まれている本のいちばん上の1冊を手にとる。そして最終ページをめくる。

 あった!! 値札が! ある!!!

 そして2段目も3段目の本も、値札があるのだ!

「これは⋯⋯売場だ⋯⋯!!」

 うず高く積まれている本のすべてが「商品」なのだとすると、その在庫量は凄まじいものになる。もう大興奮である。崩さないように気をつける必要はあるが、おそらくいちばん下の1冊まで、これは値段がついているのだろうと思わせるお店。それはたしかな信頼である。

 自分のなかで「売場とは? 店とは?」と築いてきた価値観が、ガラガラと崩壊する瞬間でもあった。でもひじょうに心地よい崩壊であった。

 カオスのなかにも秩序はある。小川書店のそれは、未値付けのものは売場にはない、というものなのだ。

 僕がめざしている店の姿は、どんな姿であれ、「ひとつはルールのあるカオス」なのかもしれない。そのルールはまだ見つかっていないが。

 

小国貴司(おくに・たかし)
1980年生まれ。リブロ店長、本店アシスタント・マネージャーを経て、独立。2017年1月、駒込にて古書とセレクトされた新刊を取り扱う書店「BOOKS青いカバ」を開店。

BOOKS青いカバ