本だけ売ってメシが食えるか|第12回|大事なのは「本屋」じゃない|小国貴司

本だけ売ってメシが食えるか 小国貴司 新刊書店員から独立して古書店「BOOKS青いカバ」を開店して5年。「本」という商品を売る仕事の持続可能性を考える。

新刊書店員から独立して古書店「BOOKS青いカバ」を開店して6年。「本」という商品を売る仕事の持続可能性を考える。

第12回
大事なのは「本屋」じゃない

本屋が減るのはあたりまえ

 

 電子書籍元年のことを思い出した。そもそも電子書籍元年がいつのことか、調べないとわからない(令和元年が西暦何年か思い出せないように)。調べると、どうも2010年のことらしい。でも自分の記憶はぼんやりと違っていて、2012年くらいにAmazonのKindleをはじめ楽天koboやその他の端末もあいついで発売された記憶が、自分のなかの電子書籍元年だ。

 とはいうものの、そのときぼくは新刊書店で働いていて、電子書籍端末を店頭で販売していた本屋も多かったし、「ページをめくっている感覚」「目にやさしい」みたいなことを売り文句に、「これからは書店は端末とコンテンツのダウンロードカードを売る時代」みたいなことを考える人もいた。

 それを現場のぼくたちは、やや半笑いで見ていたような気がする。表紙が描かれたカードを並べて「本屋です」と言って、いったいだれが店に来るというのか。カードを並べて「選書です」ってマジで言ってる? という感覚だった。2012〜2013年に文庫の売上が落ちだして、そんなのはスマホのせいだと火を見るより明らかなのだが、対策会議などをやっていた気がする。いま思えば蟷螂とうろうおのである。

 なので、いくら「紙の質感」や「ページをめくる感覚」を売りにしても、スマホのもつ利便性や快楽には太刀打ちできるはずもなく、やがてすべてはスマホやタブレットに集約されていくのだ。

 事実、電子書籍は便利である。いつでも買える、買えばすぐ読める。プラットフォーマーがそれを買えなくするのは容易で、そうなったら買った本であっても読めなくなることを差し引いても、いまやかなりの数が電子書籍化しているし、紙では読めない本もたくさん出ている。

 絵本でさえも、もはや紙の本の聖域ではない気がする。子どもと出かけるときに絵本を何冊も持っていくのは物理的に不可能だが、電子書籍は何冊でも持っていける。そして、動画を見せるよりも、それがたとえ電子であっても、絵本や童話を見せるほうを多くの親は選ぶだろう。ということは、紙の本にとってはなかなかに厳しい戦いが続くことになる。

 コンテンツを売る出版社にとっては、正直どちらでもいいことかもしれないが、本屋にとってはたいへんなことである。紙の書籍の流通量は今後、電子書籍が拡大すればするほど減っていくだろう。いま調べたら、2022年の電子書籍市場は6000億円ほどで、前年から10%ていど伸びている。そして恐るべきことに、2011年のそれと比べて、10倍ほどになっている。これが紙の市場に影響を与えていないはずがない。

 もちろん、紙のよさはある。紙でしかできないこともあるし、愛情をもってくれている人も多くいるのは知っている。が、市場が減っていくなら、その売場たる本屋が減っていくのは当然のことであると、あえて言いたい。あなたの町から本屋がなくなるのは、あたりまえなのだ。それを受け入れてからしか、物事は始まらないのではないか?

 消えていく本屋を保護するより大切なことが、もっとある。本屋が大切なのではなく、本というコンテンツをどう守り(それが紙であれ電子であれ)、それを得る手段を、ひとりでも多くの人から奪わないこと、そっちのほうが大事なのだと思う。本屋が大切なのではなく、本が大切なのだ。

 ただし、ぼく個人にとっては、いうまでもなく、自分の本屋が大切だ。それは、本屋ではなく、「わたしの店」なのだから。わたしの店を多くの人が「自分の店」と思ってくれるように、店は努力するべきなのだと思う。

不必要な本が豊かさをつくる

 さて、いささか暴論めいたことを書いたが、「本屋が大事なのではなく、本が大事」というのは本心です。そうして「わたしの店」はなおさら大事というのも、矛盾するようであるが本音である。なので、昨今の閉店する書店に対して多くの人が残念がるのは、それを表明するSNSが普及したので目につくようになっただけで、惜しまれる店はむかしからたくさんあって、多くの人に純粋に愛されていた店なのだと、少しうらやましさがないわけではない。

 そうした愛着ある書店への思いとは別に、1軒の本屋がなくなることで生まれる、出版界にとっての売上以上のマイナス要因は、「ひとの行動習慣が変わること」だと思う。

 趣味や購買という行為には、その人の行動習慣が深くかかわっている。ふだん使い慣れた店があることや、つい買ってしまうというのは、その人に根づいたもので、われわれ商売をやっている人間は、その習慣のなかにどうやって入っていくか、どうやってその習慣の頻度を上げられるかを、多かれ少なかれ考えているはずだ。季節ごとのセールや周年祭のようなものは、まさに習慣の取り込みだ。スマホをついつい触ってしまうのだって、ここ10年ちょっとで人類が身につけた行動習慣である。SNSもまたしかり。毎日どうでもいいことでもきちんと投稿するのは(うちの店にとっては開店のお知らせがそれにあたる)、まさにこの習慣化である。この習慣こそが商売を生む。行きすぎると依存も生みだすが、依存はまたさらに多くのお金を生む、というのも事実である。

 そして読書というのは、習慣が大きなカギとなる趣味だと思うのだ。本屋に通う習慣がある人ほど本を買い、本を買う習慣がある人ほど、雪だるま式に買う本は増えていく。

 先日、ある買取先で「そうだよなぁ」と大きくうなずいたことがあった。たくさんの本を縛っている最中にお客さんが話してくれたことだが、引っ越しのときに業者にこう言われたという──「本って、すさまじい量を持っている人か、ほとんどないかの2択なんですよね。ほどほどの量の人って少ないんです」。

 ほどほどの量というのがどの程度かわからないけれど、たしかに買取に行く場合でも、とにかく量は大事である。こまめに蔵書整理をされている稀有な人もいるが、そういう人こそ尋常じゃない量の本を買っているから、手元に残した本だけでもかなりの量になる。本好きであればあるほど、読みきってから新しい本を買うという人はまれで、読みきらないうちから、本は買ってしまうものなのである。

 本が雪だるま式に増える理由、それはまさに「そこに本があるから」としか言いようがない。毎日の通勤通学の途中に、散歩の通り道に、つまり日々の行動圏内に本屋があるから。だから本を買ってしまうのだ、と思う。そうしてそのような習慣は、行動圏内にあった本屋がなくなってしまうと同時に失われてしまう。もちろん、ネット書店や隣駅の本屋が代替になる場合はあるだろう。でもそれは、ほかに本に接続するツールがある場合や(他人からの紹介など)、運よく代替となるお店があった幸福なケースにすぎない。

 本屋に行く、という行動習慣は多くの場合、自分の生活圏内の本屋に行くということだし、その生活圏内の本屋がなくなったとき、それはそのまま、その人から本を奪うことになりかねない。とくに高齢の人にとっては代替手段など見つからず、そこで生まれていた売上は、そのまま消えることになる。

 本屋がなくなっても、ほんとうに必要なものをだけ買えればよい、というのはたしかにそのとおりなのだが、必要なものだけでいいならこんなにあふれだす本は不必要なわけで、反面その不必要な本が、豊かさをつくっているという面もある。ムダは豊かさでもある。原材料の木材がムダだと言われれば別だが、コンテンツとしての本がムダだとは(そう言いたくなる気持ちがわからなくはないが)、ムダと価値は表裏一体なのを知っている古本屋としては、なかなかそう言いきることができない。

 

小国貴司(おくに・たかし)
1980年生まれ。リブロ店長、本店アシスタント・マネージャーを経て、独立。2017年1月、駒込にて古書とセレクトされた新刊を取り扱う書店「BOOKS青いカバ」を開店。

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