[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし【第四期】|第2回|「人と人」、「心と心」が乗り越えるもの(朴英二)|朴英二+木下理仁
[往復書簡/第四期]第2回
「人と人」、「心と心」が乗り越えるもの
朴英二
木下理仁さんへ
お久しぶりです。お手紙ありがとうございます。
木下さんと「あーすフェスタかながわ」で出会ったころは、私もまだ20代でしたが、あのときの経験は私の人生においても重要なポイントだったと思っています。
神奈川県は在日コリアンもそうですが、中華街もあり歴史的にも国際色豊かな地域ですが、それまでは、ふだん生活をしていて外国人と知り合う機会というのはほとんどありませんでした。イベントの企画や運営の過程でいろんなルーツを持った人たちと出会い、価値観や考え方の違いを共有できたことで、「多様性」という問題意識を若い時期に持つことができました。
短編映画『まとう』は、映画専門学校の卒業作品ですが、脚本も私一人で書いたものではなく、日本人の友人たちとともにつくりあげた作品です。
朝鮮学校卒業生である私が朝鮮学校の話を書く。主観が強く押し出されることは当然です。智絵の想いや考えはなんとなくわかりますが、それに接したときに友美はどのように反応するのか? そこはかんたんではありませんでした。制作チームは10名ほどいましたが、メンバーに朝鮮学校のことを話したときの反応が私にとっては新しく、それをそのまま友美のセリフに活かしました。
同じような環境、背景をもった者どうしで話しても出てこない反応や疑問。それをどのように理解し受け入れるのか? 浅く表面的な関係では現れることはなくとも深い関係になれば生まれる葛藤。そういった意味で歴史や文化の違いを乗り越える難しさを感じることもあります。
しかしそれを乗り越えるのも結局は「人と人」、「心と心」なんだと考えています。
さて、質問がありました。私にとっての「国籍」と「ルーツ」と「アイデンティティ」の関係。とても難しい問いでもあります。
少し私の生い立ちを少しお話しさせてください。私は「韓国籍」の父と「朝鮮籍」の母のあいだに生まれた在日朝鮮人3世です。補足になりますが、韓国籍の私が「在日朝鮮人」とあえて表現するのは、国籍よりも「朝鮮半島にルーツを持つ者」というところに重きをおいているからです。
幼いころ、両親は離婚し、数年後に母は再婚します。再婚相手(現在の父)は、日本人です。日本国籍の父、朝鮮籍の母、そして韓国籍の私。一つ屋根の下に、「国籍」が3つも存在していたわけです。
日本人の父が私たちに「おまえたちは朝鮮のルーツを持っているから朝鮮学校に通ったほうがよい」と言ってくれたおかげで、私は朝鮮学校に通うことができました。大人になったいまでも父に感謝しています。
家庭内に多様性があったことは、とても恵まれた環境だったと感じています。食文化にしても言葉にしても、テレビを見ていても、小さな葛藤の連続でしたし、私が高校生くらいになったころには、時事問題などで父とよく討論したりぶつかったりしましたが、でも結局は家族なんです。
私はルーツ、アイデンティティを大切にしています。
それはけっして1か0で区分するものではなく、グラデーションのように繋がっているものと考えます。しかし「国籍」は、明確に違いを区分し、制度的に差をつくることを可能にしてしまいます。多重国籍を認めている国ではそうでなくとも、それを認めていない国では差別を生み出します。
「日本で生まれ育ったんだから日本国籍に変えたらいいじゃん」とよく言われます。それをかんたんに受け入れられない自分がいます。
在日韓国・朝鮮人に対する差別的な政策や、社会環境のなかで生きてきた私にとっては「抑圧に屈する」ような感覚があるのかもしれません。かといって、日本国籍を取得した人たちを批判したり、否定するものではありません。あくまで、現時点での私のこだわりであり判断です。
ヘイトスピーチはなくならないかもしれない。でもそれが放置されるような環境が改善されたら、子どもたちの時代にはもっと自由になるのかもしれません。
国籍の話だけでこんなに長くなってしまいました。ルーツとアイデンティティについてはまた次回お話ししたいと思います。
木下さんにも聞きたいことがあります。木下さんの多様性に対する寛容な考え方、生き方はどんな経験を経てそれに至ったのか? いつも聞きたいと思っていました。
よろしければぜひお聞かせください。
朴英二(ぱく・よんい)
大阪生まれ横浜育ちの在日コリアン3世。バンタン映画映像学院卒業。「蒼のシンフォニー」「ニジノキセキ」などドキュメンタリー映画を製作、公開。DMZ国際ドキュメンタリー映画祭、ダラスアジアン映画祭などで受賞。