こんな授業があったんだ│第25回│俳句は子どもの感性を鋭くする〈後編〉│青木幹勇

こんな授業があったんだ 授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

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俳句は子どもの感性を鋭くする〈後編〉
青木幹勇
(1980-90年代 ・ 小学校)

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俳句学習は片隅におかれている

 俳句ブームの仲間入りはとにかくとして、国語科の学習内容として俳句をとりあげることは、戦前から行なわれています。したがって俳句教材も、国定教科書時代から用意されてきました。
 昭和8年から行なわれた『小学国語読本』、いわゆる「サクラ読本」の第12巻には、次のような作品がとりあげられています。

  雪残る頂一つ国ざかひ       子規

  菜の花や小学校のひるげ時

  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

  犬が来て水のむ音の夜寒かな

  夕月や納屋もうまやも梅の影    鳴雪

  矢車に朝風強きのぼりかな

  夏山の大木倒すこだまかな

 かつて、俳句教材といえば、なんといっても、芭蕉、蕪村、一茶の古典作品が幅をきかせていましたが、右のように、子規、鳴雪の作品をとりあげたことは、俳句を子どもの理解に近づけようとする、近代俳句の選択だったといえるでしょう。
 この後、戦後になって編集された、国定最後の教科書「こくご」「国語」の4年生用・下にはじめて、子ども俳句作品が載せられました。これは、この教科書の編集責任者であった石森延男氏の発案によるもので、そのとき石森氏の委嘱を受けて、子ども俳句の選択にあたったのが、石井庄司、花田哲幸、荻原井泉水、中村草田男各氏だったそうです。
 右の教科書には、子どもの俳句が20句ほど掲載されていますが、そのなかから7句をとりだしてみました。

  かあさんがぼんやりみえるかやの中

  こがらしや子ぶたのはなもかわきけり

  すみきったボールの音や秋の風

  秋風にプールの水がゆれている

  二重にじ青田の上にうすれゆく

  朝つゆの中に自轉車のりいれぬ

  持ちかえしせんこう花火のゆれている

 教材としての適否はとにかくとして、子どもの作った俳句が教科書に登場したのは、これがはじめてだといえるでしょう。
 右の国定教科書を最後に、教科書は民間検定教科書になりました。民間検定教科書になっても、俳句教材はずっと載りつづけてきました。ところで、その民間教科書のなかで、教材はどのように処遇されているか、過去はとにかくとして、現在使われている3社のそれを見ますと、

   ❶─すべてが、6年生の前期に学習される配置になっています。
   ❷─その教材は、短歌、さらには、自由詩と抱きあわせの単元になっているところなど、各社、似たりよったりです。
   ❸─それらの単元で、どんな俳句がとりあげられているか。やはり芭蕉と蕪村はどの教科書にも顔を出しています。
   ❹─これまでかならず登場していた子規のほかに、子どもたちにも、なんとかなじめると思われる、現代の著名な作品が、5〜6句掲出されてきました。

 とかく、いまなお俳句に関しては、保守的だと思われる教科書の編集は、まだどこも、子どもの俳句はとりあげていないようです。憶測するところ、教科書教材としての評価が定まっていないというのが理由でしょう。
 教科書は、右のような作家の作品をとりあげ、まず、その句意を解説しています。教科書によっては季語、定型、文語表現などにふれているものもありますが、教材としてとりあげている意図は、もっぱら俳句の理解におかれていて、俳句を作るという学習への志向をみせているものはほとんどありません。
 そのように、教科書という側面からみると、ここでも目下のところ俳句は、国語科指導の片隅におかれた影の薄い存在ということになっています。
 教科書がこのような状況であることも、要因の一つでしょう。まだまだ俳句の学習が、子どもにとっては特殊なもの、さほど積極的に学ばせなくても、という意識は拭われていないようです。子どもにとって俳句も作文であり、詩を作ることと一連の学習であるとすれば、その切り替えが求められます。
 世間一般では、幼稚園の子どもでさえ、どんどん作っているというのに、多くの国語教室では6年生、それも、俳句を読むという学習にとどまって、作るというところに手を伸ばしているクラスは、限られた一部の教室ということでしょう。
 俳句はブームだといわれるのに、国語科における俳句指導の一般的現状は、右のようにとらえることができると思います。
 このような教科書教材をどのようなねらいで指導したか、これもわたしの憶測ですが、一般的には第一に、句の解釈、つまり、どういうことがまれているか、それをわからせること、そして、それに加えて定型と季語などのことなどがとりあげられたかと思います。
 しかし、俳句は、小学校はもちろん中学でも、すでに何度も述べてきたように、国語科指導の傍系におかれていました。俳句が、わが国の庶民的な文芸ではあっても、それはもっぱら大人のものとしてあるので、子どもの学習対象としては、十分に認められていなかったことは事実です。

  古池や蛙とびこむ水のをと

  菜の花や月ハ東に日ハ西に

というようなよく知られた作品であっても、それがわかるためには、大なり小なり体験的な理解が必要です。そうでないと、表現されている情景、あるいは、表現の内側に漂っている句の趣といったところまでは、よくわからないはずです。理解するといっても結局は、教師の解釈を聞かされることが中心なので、子どもにとってさほどおもしろい学習にはなりにくいのです。それならといって、

  雀の子そこのけそこのけお馬が通る

  痩せ蛙負けるな一茶にあり

のような句がとりあげられることもありましたが、はたしてこれらが、俳句を学びはじめる子どもたちにとって好ましい教材となり得るかどうか。俳句指導にとっても、どんな教材を用意するか、その発掘や選択は重要な課題です。前述のような俳句指導の不振は、第一にこの教材に問題があったともいえるでしょう。

俳句のよさは伝わっていた

 わたしは、子どものころから、俳句になじめる家庭環境に育ちました。しかし、作ったことはほとんどありません。そこに俳句があり、家に集まる人びとの俳句話もしばしば耳にしましたが、それらのことが、わたしの詩心、俳句への関心を触発する教材性をもっていなかったのです。しかし、門前の小僧で、俳句の理解は、たんなる注釈を聞いたり読んだりするのとはちがった経験になっていたかもしれません。
 わたしが本気で作句に取り組んだのは、あの戦争の末期、大勢の子どもたちと雪の越後で暮らした集団疎開の一年でした。
 その後、四十幾年、ときに中断したこともありましたが、なんとか作りつづけてきました。はじめは、卒業する子どもたちへのはなむけとして3年ごとに作った句集が3冊、その後、十年あまりへだてて第四句集ができています。
 ある小さな句会に参加していましたところ、どうしても引き受けざるをえない事情になり、いまは、その句会のまとめ役もさせられています。
 こうして俳句とのつながりは生涯ついてまわりました。戦前・戦中も、教科書教材の指導をきっかけに、たびたび作句指導に手をつけたこともあります。いまはもう還暦にとどこうとする教え子たちのなかには、それをよく覚えている子どももいます。
 詩人の芥川賞といわれるH氏賞を受賞している石川逸子さんは、『十代にどんな教師に出合ったか』(未来社編集部編、未来社刊)という本のなかで書いています。

 青木先生はまた、私たちに、和歌を作らせ、俳句を作らせた。何首でも一週間ごとに自由に提出させ、優れたものをプリントし、授業で取り上げた。私はたちまち和歌を作り、俳句作りに熱中していった。学校の往き帰りまで頭はそのことで占められ、これまで漫然と眺めていた風景が作歌の対象のなかで、新しいものとして見えてくるのに驚いた。「夕げの煙冬の雨に消えていく」そんな破調の俳句を作って、「これはいい」授業のなかで賞められるとただもう嬉しく、一首でも多くプリントで取り上げられたいと励むのだった。

 石川さんは、昭和17年、わたしが上京して最初に担任した4年生のクラスにいました。
 右の文章は、短歌・俳句の学習を中心に書いたものではありません。わたしの担任するまえには、学習にも行動にも、活気のない消極的な子どもだったようです。いや、そう思いこんで萎縮していたらしい石川さんが、わたしとの生活の2年目あたりから、学習に目覚めてくる過程を書いたものです。が、少しオーバーにいえば、その学習開眼のきっかけになったのが、国語科での表現の学習だったというのです。
 石川さんは、その記憶を詳しく書いていますが、遠いむかしのことですから、どんな指導をしたか、わたしはほとんど覚えていません。
 石川さんたちを担任するまえ、宮崎時代に受けもった教え子のなかにも一人、現在、宇部市に住み、そこでご主人と二人で短歌雑誌『あらつち』を編集し、短歌の指導をしている吉武久美子さんという主婦がいます。石川さんより、2〜3歳年上でしょうか。吉武さんも小学校の5〜6年生時代、わたしから詩や短歌・俳句などの指導を受けたのが、今日につながっていると、歌集『幼な髪』(日本現代歌人叢書)に書いています。
 吉武さんは元の姓を日野といいました。彼女が文集にのこしている「吾家の歴史」によると、日野家はなかなかの名門です。父君は宮崎大学の前身、宮崎高等農林の教授でした。植物学の大家で、宮崎の観光名所の一つになっている「青島」の熱帯植物群その他を克明に調べられたことは有名です。
 わたしの担任したクラスは、5年生で男女に分けたので、女の子ばかりの十六名でした。当時のことを思い出すには格好な文集「南の窓」がのこっています。昭和14年秋、戦火が中国に広がっている時代でした。
 ガリ版刷りで150ページ、「よくもまあ!」と驚くほどていねいな手書きの文字です。かなり多彩な編集ですが、巻末には火野葦平の「土と兵隊」の抜粋を載せてあるのにはちょっと驚きました。
 「頑張り屋さん」、これがあのころの日野久美子さんの記憶です。現在の吉武さんとは緊密につながりませんが、文集に載せてある短いものを1〜2、引きだしてみましょう。

  母のあむ毛糸を見ても秋はきた。

  朝露にはねをぬらしたとんぼがとまっている。

 ここに掲げるのは、いささか場ちがいの感なきにしもあらずですが、彼女の歌集『幼な髪』から何首かを引用させてもらいましょう。

 まず、連作「夢殿」から2首。

  仰ぎ見れば今しも歩みきますがに仏は足を進め立ちます

  香に灼け黒ずむ天平の如来仏もの言ひたげに口むすびゐる

 短歌文学賞受賞作のなかから、

  赤錆びし回天魚雷に雨うちて散りくる桜の花びらの付く

  万感は言葉にならずと出撃の遺書は短く母に宛てあり

 吉武さんは、ご父君のご他界後、遺作を整理して歌集『群竹』出版の親孝行をされました。
 この時代にも、かなり熱心に作文指導をしましたが、それが今日の吉武さんにつながっているとは思えません。上にあげた石川、吉武の二人は、そもそも詩的表現能力に恵まれていたのでしょう。わたしにできることがあったとすれば、たまたまわたしが、その才能に小さな火をともす点火の役回りだったのだと思います。
 この人たちに、短歌や俳句を指導した青年時代のわたしは、これという指導の体系、これならという俳句・短歌の指導方法をもっていたわけではありません。教材にしても、教科書教材をどう理解させるかという授業が中心で、作歌・作句、つまり表現への展開は付録だったのだと思います。
 戦後になっても、短歌・俳句の指導はしばしば行なってきました。そのなかには中学生の指導もありますが、そのころまではまだなにひとつ新しい俳句指導の発想は見出されず、たいていは、未熟であり、不徹底の授業だったと思います。
 その原因はいくつか考えられます。なかでも、

   ❶─この俳句なら、教材の大部分が古典俳句だったので、わたしの指導意欲にも欠けるところがあり、また子どもの関心にアピールさせるだけの指導力ももっていなかったこと。
   ❷─定型、季語、文語表現などにこだわったこと。
   ❸─作ることへの、これといった指導法が手にはいっていなかったこと。

などをあげることができると思います。
 子どもにとって、俳句は古くさい、よさがわからない、約束ごとなどがめんどうだ、というような声なき声があったのではないでしょうか。

出典:青木幹勇『授業 俳句を読む、俳句を作る』1992年、太郎次郎社

青木幹勇 (あおき・みきゆう)

1908年、高知県に生まれる。2001年12月没。
宮崎県師範学校専攻科卒業。同附属小学校をへて、東京高等師範学校、東京教育大学(現・筑波大学)の附属小学校にて長く教鞭をとる。
1953年より25年にわたり、NHK「ラジオ国語教室」放送を担当。
月刊誌『国語教室』編集・発行責任者。授業研究サークル「青玄会」代表。
『青木幹勇授業技術集成』全5巻(明治図書)、『子どもが甦る詩と作文』『生きている授業 死んだ授業』『第三の書く』『授業・詩「花いろいろ」』『授業・詩を書く「風をつかまえて」』(以上、国土社)など著書多数。
作句歴としては、臼田亜浪、田川飛旅子に師事したのち、無花果句会に所属し、同会を主宰。句集に『露』『風船』『滑走路』『牛込界隈』がある。