こんな授業があったんだ│第44回│「特別教室」の授業〈後編〉│千葉保

こんな授業があったんだ 授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

初回から読む

「特別教室」の授業 〈後編〉
(2011年)
千葉保

〈前編〉から読む

2 ─世相反映する学校校舎

日清戦争後にできた「唱歌室」

 明治時代の小学校で最初にできた特別教室は、家庭科室の前身にあたる「裁縫室」でした。

──さて、2番目にできた特別教室はどこだろう?

「図書室だよ。本を読んで知識を得てほしいと、図書室をつくってるよ、ぜったい」 「わたしたちのグループも図書室だと思う」
「そうかな。理科室だよ」

──では、明治42年の文部省普通学務局「小学校建築四案」の図面を見てみよう。

文部省普通学務局「小学校建築四案」(青木正夫「明治・大正・昭和小学校建築史」)をもとに作成

「裁縫室、作法室があった」
「唱歌室というのもあるよ」
「手工室もあるけど、これって木工室?」
「昇降所や教員室が、男女わかれているよ。どうしてなの?」

──いろんな疑問がでてきたね。ここに『学校建築の冒険』(INAX)という本があります。このなかに、青木正夫さんが書いた「明治・大正・昭和小学校建築史」という論文があります。これを読むと、みんなの疑問がぜんぶ解けるよ。配るよ。では、読むね。

すでに明治8年頃から各県布達の小学校校則に掲げられ、教育令(明治12年)には、「凡学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルコトヲ得ス」と明記されるに至っている。 男女区分を最も厳密に行なうには、男女別に学校を設けることであったが、 大都市以外では就学率も低く学校を分けるまでに至らず、一学校内でブロックによって分けることが行なわれてきた。

「あっ、男女が別々の教室に分かれていたんだ」
「それで昇降口も別々なのか」
「裁縫室は女子のほうにあったんだね」
「唱歌室は両方にあるよ」
「手工室は男のほうだ」
「うん。だんだんわかってきたぞ」
「唱歌室と手工室は、どっちが先にできたの?」

 唱歌教室は、明治40年の「小学校令」によって必須科になる以前から、唱歌科を課した学校では設けられていた。現在の設置理由と同じように音楽器具が高価であり、それを共通に使うためと、その授業が他の教室の授業 を音によって妨害しないためであった。
  設置が見られるようになるのは、音楽を教えうる態勢が整った(明治)30年前後からである。音楽を教えうる教師が多くの学校に配されるのは、25年以後である。一方、教具である風琴(現在のオルガン)が輸入品でなく、 安く手に入るようになったのは、山葉オルガンが個人経営から株式組織に変わった30年前後からである。
 しかし、競って設置されるに至った主原因は、27・28年の戦後(日清戦争後)において、軍歌が一般に普及し、士気を鼓舞するのに力があったことから、唱歌への認識が高まったためである。

「2番目にできたのは唱歌室、つまり音楽室かあ」
「しかし軍歌の影響だなんてねえ」
「音楽とかけ離れてる感じだよ」
「ヤマハって、このころからあったんだね」
「株式組織になって大量生産して、オルガンが学校に入ってきたんだね」
「先生、このころの軍歌って、どんなの?」
「勝ってくるぞと勇ましく〜ってやつ?」(笑)

──それは昭和の戦争で歌われたものだね。明治時代のは、日露戦争のときのものを少しだけ知ってる。ぜんぶは知らないから、知ってるところだけ歌ってみるか
(拍手)

──♪とどろ砲音つつおと 飛び来る弾丸だんがん
   荒波洗う デッキの上で
   闇を貫く 中佐の叫び
   杉野は何処いずこ 杉野はずや〜♪

「おもしろい歌だね」
「勇ましい歌じゃないんだね」

──ロシアの軍艦を、旅順港のなかに閉じこめようと作戦したときのようすが歌われた歌だよ。

「軍歌に関係して唱歌室ができてきたなんて、知らなかった」
「ぜんぜん知らなかったよ」
「音楽室ができたのは、クラシックに関係あるのかなって思ってた」

写真提供=裏辺研究所
第一次大戦後にできた「理科室」

 最初に、日本に学校ができた明治初めのようすを見ていきました。

──さて、3番目にできたのは、理科室と図書室、どっちだろう?

「今度こそ図書室だよ」
「わたしも図書室だと思うな」

──では、またプリントを読もう。

理科教室の設置が飛躍的に増加したのは、第一次大戦後である。政府は敗れたとはいえ、ドイツの科学力に驚嘆し、近代兵器の出現に目をみはり、 理科教育の重要性をあらためて認識した。大正7年には、中学校、師範学校に生徒実験設備補助費を出し、8年には理科を小学校4年から課して時間数を増やし、理科教育の振興と設備の充実を促す訓令を発している。この督励と科学重視の風潮から、理科教室の設置は急激に増加した。

「えっ、理科室も戦争と関係があるの」
「ドイツは戦車や毒ガスを使ったんだよね」
「たしか、飛行機から鉄砲を撃ったって、読んだことあるなあ」
「科学兵器に日本は驚いたんだね」
「理科室まで戦争のためなんて、なんかイヤだなあ」
「特別教室は戦争と関係してできてる感じだね」
「わたし、もっと学問と関係あると信じてたのに⋯⋯」

さて、図書室はいつできたのか

──さて、残りは図書室だね。プリントに書いてある?

「手工科については書いてあるよ。教室として設置されるのは、第一次大戦後に都市の学校に設けられはじめて、昭和期に入って、農村の学校にも設けられるようになったって」
「図書室については書いてないね」
「図書室は、いつできたの?」

──明治30年に帝国図書館制の公布が出ています。そして明治32年に図書館令が公布され、公立図書館が設置されはじめます。わたしが住んでいる鎌倉には、 明治44年に町立図書館ができています。

「意外と遅いね」
「もっと早くから図書館があったと思ってた」
「同じころに、学校の図書館もできていったんでしょ?」

──日本が戦争に負けて、アメリカから教育使節団が調査にきました。かれらは、 日本人がひとつの思想に凝り固まった原因は、多様な本を読まなかったことに原因があるから、「学校に図書館を設置していろんな本を読ませなさい」と、昭和21年に勧告しました。
 それをうけて昭和28年に学校図書館設置法が成立し、「学校には図書館を設 けなければならない」という設置義務が入って、すべての学校に図書室がつくられるようになっていったのです。わたしが小学校に入ってから、図書室ができたのです。

「知らなかった」
「アメリカの人にいわれて、できたんだ」
「たくさん本を読んでたら、戦争しなかったかも」
「もっと早くできたと思ってたのに、どんでん返しだ。うちのグループも正解しなかった」

 学校の特別教室にも隠された歴史がありました。運動場や制服なども、調べて いくと、意外な歴史がみえてくることでしょう。

[授業後の感想]

⃝●―特別教室をつくる理由は、子どもの教育のことだけ考えてつくったと思って いたので、戦争が大きくかかわっていることに驚いた。

⃝●―音楽室は情操教育のために最近つくられたものだと思っていたけれど、軍歌 を歌わせるためにつくられたなんて、意外だった。

⃝●―あるのが当たりまえと思ってた特別教室に、歴史があったなんて驚きました。

●―特別教室がなにかしら戦争と関係していることに驚いた。

●―学校には図書室があるものだと、当然のことのように考えていたので、まさか設置されたのがいちばん遅いとは思わなかった。

●―ドイツの毒ガスなんかの科学力に驚いて理科室をつくったなんて、あ然とした。

●―教育が戦争だとか、そういう国の利益のためにするものであってはいけないと思った。

 特別教室から、学校教育が国策と深く連動して推移してきたことがみえてきました。また、普通教室の基準は20坪の広さとされました。1坪あたり4名、1教室80名の教室規模が基準だったのです。この基準は100年後も学校建築に踏襲されています。1人の先生がより多くの子どもに一斉に教授する「東アジア型教育」と呼ばれる、安上がりの日本の教育の姿が学校建築からみえてきます。

[参考文献]
 青木正夫「明治・大正・昭和小学校建築史」、『学校建築の冒険』(INAX)所収
 横須賀薫・千葉透・油谷満夫『図説 教育の歴史』(河出書房新社)、
 鎌倉市教育委員会『鎌倉教育史』、ほか
[校舎写真提供]裏辺研究所ウェブサイト http://www.uraken.net

この授業について

 1872(明治5)年9月、明治新政府は学制を発布します。
ゆう(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」という理想を掲げ、全国に学校建設の命を発したのです。しかし、維新後まもない政府は財政基盤が未熟なまま、近代国家としての多方面の整備に追われており、学校建設にかける予算はわずかなものでした。
明治初期に建てられた校舎が、日本各地にいくつか保存されています。
 長野県松本市のかい学校、佐久市の中込なかごみ学校、宮城県とよ尋常小学校を訪ねました。登米尋常小学校は外観もしょうしゃで、外に張りだした廊下やバルコニーにはなつかしさを感じます。これらのどの校舎にも、当時の人びとの学校への期待やあこがれを感じました。地域の人びとは経済的な負担に耐え、地域子弟の教育のために学校を建てました。ですから、当時の学校は文化の中心であり、地域のコミュニケーションの中心として、寄り合いや夜警の屯所とんしょとしても使われています。
 その後、自由民権運動が激しくなると、学校を使用した政府批判の演説会なども開催され、政府は学校に住民を立ち入らせないようにしていきます。ふたたび地域の人びとが学校に入るのは、明治後半になっての運動会からだったといいます。校舎からも歴史がみえてきます。
 県や市・町の「教育史」から、このほかいろんな授業が構想できると思います。ぜひ、そうした史誌を手にとって概観されることをお勧めします。

授業のためのワンポイント

●─学校沿革誌はどこの学校にもあります。それには特別教室の設置の記述もでてきます。自分の学校の歴史は、身近なだけに子どもたちの知的好奇心を引きだします。自校の歴史とこの授業を対比していくことも楽しいと思います。この授業では、一般的な日本の学校建築のようすを概観しましたが、ぜひ地域性をいかした味つけも考えてください。

●─特別教室から、戦争との結びつきが見えるとは、子どもたちは予想もしないでしょう。国の政策と学校の関係を見つめることは、子どもたちの今後の歴史を見る目を確かなものにしてくれると思います。

(おわり)

出典:千葉保『はじまりをたどる「歴史」の授業』太郎次郎社エディタス、2011年

千葉保(ちば・たもつ)
1945年生まれ。神奈川県鎌倉市の小学校教員をへて、同県三浦市の小学校校長をつとめる。のち、國學院大学講師。「カード破産の授業」「使い捨てカメラの授業」「原発の授業」など、身近な題材を斬新な切り口で社会の問題へとつなぐ授業をつくりつづける。主著に、上に紹介した『授業 日本は、どこへ行く?』のほか、『学校にさわやかな風が吹く』『はじまりをたどる「歴史」の授業』『食からみえる「現代」の授業』『コンビニ弁当16万キロの旅』など。