こんな授業があったんだ│第41回│「スイミー」を読む〈前編〉│鳥山敏子

こんな授業があったんだ 授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

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「スイミー」を読む 〈前編〉
(小学2年生・1982年)
鳥山敏子

 実践記録「『スイミー』(レオ゠レオニ作、谷川俊太郎訳)を読む」、全9時限+運動会に向けた踊りの実践から、ピックアップしてお届けします。
 五時間目の授業は、群れの仲間を失ってさまよう小魚スイミーが海で出会う生き物たちの描写を、一文ごとに確かめていくところから。

その場面、その場面を生きて朗読する

五時間目●からだを動かしてイメージをつくる

ドロップみたいな いわから 生えて いる、こんぶや わかめの 林。

   ⋯⋯「スイミー」(光村図書・こくご2年上)より。以下同じ

 ドロップを知らない子、信絵ひとり。豊子が信絵に説明するが、「あめみたいで……」からことばがうまくでない。「〝あめ〟っていったけど、〝あめだよ〟」といわれて、ますますことばがでてこない。ほかの子が色についてつけたしている。なんとかわかったらしい。
わたし―――「ほんものをこんどもってくるよ。『ドロップいわ』ってどんな岩だろう」
ひろ子―――「ドロップだから、ドロップではない」
和子――――「透明で、ドロップみたい」
かほり―――「いろいろな色がまじって光っている」
児玉――――「そのうえに色をぬっているみたいな岩のこと」
山田――――「透明なもので、いろいろな色の岩」
藤原――――「岩の上についたにじ色の岩」
理栄――――「山田君のいうように透明な岩で、いろいろな色がついているか、にじ色のくらげが泳いでいるのが透明な岩にうつっているの」

うなぎ。かおを 見る ころには、しっぽを わすれて いるほど ながい。

子どもたち―「わかんないよ。〝しっぽをわすれる〟って?」
わたし―――「スイミーはどこからどこへ泳いだのだろう」
浜地――――「しっぽのほうから頭のほうへ」
 10人ぐらいは、わからないといっている。
「よし、体育館へいこう。みんなつながって」
 長い列。相手の肩に手をのっけてつながってすわる。
 「いちばん前の人が顔、いちばん後ろの人がしっぽ。ゆき子ちゃん、スイミーになって」。ゆき子は意味がわからないようだ。しっぽだった田中君にスイミーになってもらい、ゆき子はしっぽにまわる。田中スイミーは、しっぽからずうっとずうっと泳いで、先頭の顔のところまで。
「うなぎ。かおを見るころには、しっぽをわすれているほどながい」
「ほんとうにしっぽのことわすれちゃったよ」
 そして、田中君は先頭にすわって顔になる。つぎはスイミーをやりたい、琴恵、須藤、川上、三塚、山口、敬、の順。だんだん、みんなやりたくなってきたようだ。列をとび出すものもでてきた。全員にやらせよう。しっぽから頭までいき、うなぎの段落を声に出していってみる。言いおわったら顔になる。ひととおり全員やっておしまい。
「ほんとうに長いなあー、しっぽのことわすれてしまったよ」
 よほど気にいったのだろう。休み時間も、そうじの時間もつい口からついて出てきてしまう。
「うなぎ。かおを見るころには、しっぽをわすれているほどながい」

    ◎樫野寿俊
 体いくかんでながーい、うなぎになりました。そして、ぼくたちは、スイミーのふりをして、うなぎをみました。そしたら、かおをみるころには、しっぽをわすれているほどながかった。よく見ても、わすれちゃった。ぼくは「おもしろかったなあ。たのしかったなあ」っていいました。

    ◎飯島照子
「うなぎ。かおを見るころには、しっぽをわすれているほどながい」をやりました。みんな、ならんでつながった。わたしは、ひろこちゃんのうしろにならんだ。田中くんが、一ばんうしろだから、田中くんがしっぽ。かおが、ことえちゃん。
 わたしは、さいしょ、そのいみがわからなかった。そのいみは、ぜんたいがわからなかった。でも、だんだんわかってきた。うなぎは、とってもからだが、ほそながい。しっぽから、スイミーはみたから、かおをみる時は、しっぽのことをわすれたっていういみだよ。わたしは、いみがわかった。

 この授業のあと、うなぎの顔がイメージできず、親にたのんでうなぎやさんへいったのは砂長裕子ちゃん。お母さんの話では、なんと30分近くも、じっとうなぎをみていたとのこと。

六時間目●「、」と「。」の朗読のちがい

そして、風に ゆれる もも色の やしの木みたいな いそぎんちゃく。

 いそぎんちゃくについてきく。知らない人、知っている人、みんなに説明できる人。「糸みたいな、手みたいなのがいっぱいあって……あのう……」と、須藤くんが、わからない人たちにむかって説明しはじめる。
「元気な魚をつかまえて、その糸のような手でつかまえて、毒汁を出して弱くするんだよ」と庵君がつっかえた須藤君につづける。ひとでと混同する子がいて、寺田、須藤が説明を補足する。教室にあるひとでをみせる。いそぎんちゃくは絵本の絵。やしの木についてもきいてみる。写真でいちおう説明し、絵本の絵と比べてみさせる。まえにもどって、「けれど、海には」から「いそぎんちゃく」までをみんなで読む。琴恵、かほりは、それぞれひとりで。
 白い模造紙につぎの部分を墨汁で書いたものを黒板にはった。

 その とき、いわかげに スイミーは 見つけた、スイミーのと そっくりの、小さな 魚の きょうだいたちを。
 スイミーは いった。
「出て こいよ。みんなで あそぼう。おもしろい ものが いっぱいだよ。」
 小さな 赤い 魚たちは、こたえた。
「だめだよ。大きな 魚に たべられて しまうよ。」
「だけど、いつまでも そこに じっと して いる わけには いかないよ。なんとか 考えなくちゃ。」
 スイミーは 考えた。いろいろ 考えた。うんと 考えた。
 それから、とつぜん、スイミーは さけんだ。
「そうだ。みんな いっしょに およぐんだ。海で いちばん 大きな 魚の ふりをして。」
 スイミーは 教えた。けっして、はなればなれに ならない こと。みんな、もちばを まもる こと。

 いままで一度もひとりでは読みたがらなかった有貴子が、はじめの段落までを読む。澄んだ声。おどろいている、みんな。
「『スイミーはそのとき』で始めると、どんな文になるかな?」と問いかける。子どもたちが口ぐちにいっているのをまとめる。
「スイミーは、そのとき、いわかげに、スイミーのとそっくりの、小さな魚の兄弟たちをみつけた」
「そうだね。どう感じがちがう?」
「紙に書いてあるほうは自分がすぐスイミーになって見つければいいけど、あとのは、スイミーのとそっくりの小さな魚の兄弟たちをつくって、それからそれを見ることなの」
「なるほど、こちらのほうは、自分がスイミーになって、岩かげをみているところに、スイミーのとそっくりの小さな魚の兄弟たちがあらわれるというわけね」「そう」
「もう一度、読んでみて」。子どもたち、読む。
「あれ、『いわかげにスイミーはみつけた』のところは〝。〟になっているのかな。わたしのかきまちがいかしら。本をあけてしらべてみて」
「先生、あってる、点だよ」
「よかった。でも、みんなのなかに〝。〟で読んでいた人がいたよ。〝、〟になるように読んでよ。でも、最初は〝。〟にして読んでもらおうか」
〝。〟にして菅野くん読むが、「見つけた」の語尾がしり上がりになってしまう。もう一度やってみる。〝。〟に近い。玲、浜地、三塚、〝。〟に近いが、あやうい。みんなで、そして、理栄、これは完全に〝。〟になる。
 どうも最近の子どもたちの語尾は、流れて、パシッと完了しない。だれに伝えるともなく宙に浮いてさまようような言い方である。本気で相手に向かって話すという意志の欠落なのか、気になってしようがない。山口、藤原、柳、鈴木、長田、樫野、佐久間、敬、豊子、照子、田中、砂長、山田、柿内、児玉、かほり、萩原、須藤、木村、庵、和子、〝、〟と〝。〟の区別がからだでできるようになったところで、全員で〝、〟にして読む。これは比較的スムーズ。つぎはふたたび〝。〟にして読む。

呼びかける距離による朗読のちがい

 スイミーは いった。
「出て こいよ。みんなで あそぼう。おもしろい ものが いっぱいだよ。」

「『出てこいよ』って、どこから?」「岩かげ」
「岩かげって?」「岩のかげ、岩のうしろのかげ」「かげって、お日さまが当たると、反対側にできるでしょ、それとおなじように、岩の反対側で、こちらからは見えないところ」「かんたんにいうと、岩のうしろのこと」
 声の高い琴恵が一段と高い声をはりあげて、身ぶり手ぶりでいう。「岩があるでしょ。そのうしろのほうで、岩のかげになっているところ」「そう、岩のむこうがわでよく見えないところ」とつづける須藤君。
「スイミーになって、いってもらおう」。田中君にいってもらう。
「田中君、だれにいったの?」「小さな魚たちに」
「どのくらいはなれているの?」「考えないでいっちゃった」
「もう一度やってみて」。一回目は近くにいる小さな魚たちに。「藤原君のあたり」
「今度は、もう少しはなれたところに呼びかけて」。距離をかえて呼びかける。声が大きくなり、からだもその方向に向かってのり出していく。
「藤原君のあたりにいる小さな魚たちにいってみて」。三上、照子、ひろこ、山田。「みんなのところから、わたしのところに向かっていって」。いっせいにやったところで、「すぐ窓の外のへちまだなのところの三年生にむかって」。三年生がふりむいている。「運動場の桜の木にむかって」。大きくなる声。「あの遠くののぼり棒のあたりに」。
 距離によって声がちがうことがつかめたようだ。ただ声量を変えるということだけではないのだ。これも日ごろ気になっているのだが、すぐそばにいるわたしに向かって大声をはりあげる子どもたちがいる。あれはどうしてかなと思う。浅い呼吸で、うわずった声で話しかけられると、自分にいわれている感じがしないから、もう一度いってもらったりする。
「理栄ちゃんが呼びかけるのはどのあたりの小さな魚なのか、よくきいてね。先生は、まず最初にこっそり理栄からきいておくから」。理栄はわたしに耳うち。十メートルさきのフェンスをめざす。
「出てこいよ。みんなであそぼう。おもしろいものがいっぱいだよ」
 庵、菅野、長田、敬がどのあたりかをいっている。それぞれの意見に同意を示し、自分の感じがはっきりしたところで理栄がいう。だいたい当たっている。

「だめだよ。大きな 魚に たべられて しまうよ。」

「今度は小さい魚になるんだね。となりの人にこたえてみて」
 やっぱりいた。大声をはりあげる子が。意外とできない子がいるものだ。五、六回くりかえす。羽鳥、長沢さんにやってもらう。これも距離をかえて。となりの人に。豊子、みんな、江島、敬、木村、上條、佐久間、藤原、樫野、長田、かほり、須藤、有貴子。敬が読んでいるところに、野口ゆみが遅れてはいってくる。敬、もう一度。読めた。
「すぐできちゃう、早くできちゃう子もいるけど、くり返し、くり返しやってできる人もいるんだよ。わたしも敬とおなじに何度もくり返してやっとできるほうなんだ」
 そのこ、のぶえ、玲、琴恵、山口、柿内、川上、児玉、羽鳥、阿部、岡本、田中。これだけくり返せば、読むのがやっとの子も、聞いているうちに読めるようになる。しかも、ひとりずつの声がちがい、スイミーとの距離がちがい、こたえ方がちがうのだから、ひとりひとりのちがいを子どもたちがうんと気づいていく勉強でもある。こうして書くと、なんでもないようにみえるが、みんながじっときいているなかで、声を出すのは覚悟がいることであり、順番や指名も、予想以上に子どもたちを緊張させる。

スイミーになったり、小さな魚になったり

「だけど、いつまでも そこに じっと して いる わけには いかないよ。なんとか 考えなくちゃ。」

 まだぜんぜん読んでない人、全員に読んでもらう。
「小さい魚たちは、スイミーにこういわれて、どう思ったんだろう」。ひとりずついってもらう。
「そんなこといったってこわい」「しかたがないよ」「そうだなあ」「このままでいいや」「外にでたいなあ」「広いところで思いっきりおよぎたいなあ」「なにかいい方法はないかな」など、それぞれにいう。
「そうだね、小さい魚たちもみんなそれぞれ、いろんなことを思ったんだろうね」

 スイミーは 考えた。いろいろ 考えた。うんと 考えた。

 全員でよむ。が流れてしまっている。「になってないよ」「うんと考えたんだよ」。もう一度、読む。「いろいろ」「うんと」がきわだち、自然に「考えた」がもりあがっていく。

 それから、とつぜん、スイミーは さけんだ。
「そうだ。みんな いっしょに およぐんだ。海で いちばん 大きな 魚の ふりをして。」

「ふりをして、って?」とわたし。「まねのこと」「大きな魚のかっこうをすること」「ほんとうはそうではないけど、そうみたいにすること」
「そうだね。もう一度、読んでみよう」
「ちゃんとこと」を要求。「さけぶ」と「どなる」を区別して、もう一度、読む。「そうだ!」「いっしょ」「いちばん」「大きな魚のふり」がはっきりしてくる。敬、柳、萩原、砂長、鈴木、小野田、ひとりずつ「スイミーはいった」から「ふりをして」までとおして読む。スイミーになったり。小さな魚になったり。スイミーと小さな魚がいる場所がまるで手にとるようにわかる。「さけぶ」行為になるには、どうしてもある集中が必要になるのに、みんなよくやった。

七時間目●スイミーが考えたこと、教えたこと

 スイミーは 教えた。けっして、はなればなれに ならない こと。みんな、もちばを まもる こと。

「豊子ちゃん、スイミーはなにを教えたの」
「……海でいちばん大きな魚のふりをして泳ぐことを教えた」。しばらく、文章の前後を読んでいた豊子ちゃんはこたえた。すかさず、菅野と和子の声。「そうではないよ、『けっして、はなればなれにならないこと。みんな、もちばをまもること』を教えたんだよ」と意見をいう。
 豊子とおなじ考えは、かほり、ゆうこ、萩原。
「『スイミーは教えた』というところから一つの段落になっているから、教えたことは、けっしてはなればなれにならないことと、みんなもちばをまもることだよ」とてるこは、段落のことで豊子ちゃんたちに意見をいう。
「てるこちゃんのもあるけど、『スイミーは教えた』とあって、それは、『はなればなれにならないこと。もちばをまもること』をさしているから」と理栄。さらにそれらを受けた和子は「てる子ちゃん、理栄ちゃんのもあるけど、海でいちばん大きなふりをして泳ぐことを教えたという豊子ちゃんのでいいけど、あそこに、『スイミーは教えた。はなればなれにならないこと。みんなもちばをまもること』となっているから」と、まだうまく整理できないまま、みんなにいま自分のこんとんとした状態をだす。
 須藤君はそれをきいて、「それだったら、『海でいちばん大きな魚のふりをしておよぐことをスイミーは教えた』とかくよ」と熱っぽく和子に向かう。
「さけんだことなの、海でいちばん大きな魚のふりをして泳ぐんだというのは」。和子は少し自分のなかでいわんとすることがはっきりしてきた。
 ここで、豊子とおなじ考えだったわけを、ずっとだまって考えていたかほりが、やっとことばをさがしながら、だしていく。
「『みんないっしょにおよぐんだ。海でいちばん大きな魚のふりをして』というところがどうして教えている感じがするかというとね、『そうだ』といってさけんだことだけど、みんなに、『ふりをして』っていったのは教えている感じなの」
 かほりが言い終わるのを待って琴恵がいう。
「さきに『さけんだ』とかいてあるでしょ。『スイミーは教えた』はあとに書いてあって、そこが一つの段落になっているでしょ。『大きな魚のふりをして』はスイミーの意見というか、考えで、教えたことではないの。教えたのは大きな魚のふりをするための方法で、二つ教えたの」
 これでだいぶみんなははっきりしてきた。
「スイミーが教えたのは、大きな魚のふりをする方法なんだね。最初スイミーが『いちばん大きな魚のふりをして』ってさけんだとき、小さい魚たちは、どう感じたんだろうね? みんな小さい魚になってみてごらん。わたしがスイミーになっていってみるよ」。聞く用意ができてる子どもたちにむかってさけぶ。「そうだ。みんないっしょにおよぐんだ。海でいちばん大きな魚のふりをして」
 小さな魚たちにこたえてもらう。「うん、いい考えだ」「そんなことできるかな」「おもしろそうだけど、こわいな」「やってみたい」「しっぽのほうならいい」「いちばんまえはいやだな」「どうすればできるんだろう」……。ひとりひとりの子どもたちの状態がじつによくでてくる。
「ね、そういうことなんだよね。そして、小さい魚たちもいろいろ考えて、スイミーの意見に賛成したんだね。それから、スイミーは大きな魚になる方法を二つ教えたんだね。けっしてはなればなれにならないことが一つ。はなればなれって?」「みんなばらばらになること」「あっちこっちへいっちゃわないこと」
「そうだね。二つめはみんなもちばをまもること」
「もちばを守るって」と和子。
「もちばを守るということはね、みんなならんだところを守って、どっかへいっちゃわないこと」。須藤君が説明をする。「わかった、もちばって、ならんだときの場所のこと」と和子。「わかんないよ」という声がでる。
「和子ちゃん、わかんないという人に説明してあげて」とわたし。
「あのね、一年生の六月、桃園二小のマークづくりで、みんなそれぞれの場所をもったでしょ」と説明しはじめたことを琴恵がうけて、六十周年記念のマークを運動場に全校生徒でつくったときの話を補足する。「ならぶとき、いちばんまえとか、後ろとかを持ち場っていうの」と和子がまとめた。わたしはもうすこし正確にわからせたい気持ちになる。

みんなで大きな魚をつくる

「うん、そうだね。もっとよく考えてみようか。じゃあ、やってみよう。だれかスイミーになって、みんなを小さな魚たちにしてやってみてよ」
 琴恵はいう。「先生、できないんじゃない。魚はさ、海のなかで上のほうにぷかんと浮いているでしょ。ここは空気のなかだから、上へ浮かべないよ」
「それじゃ、こんどのプールでやろうよ」と子どもたちも琴恵に賛成する。「もちば」ということばをもっと理解させようとしていたわたしの考えと衝突する。大きな魚を教室の床に絵をかくようにつくらせて、もちばさえわかればいいと考えていたわたしと、床ではなく、水中に泳ぐ魚をイメージしていた子どもたちと。
「できる、ここでやってみよう」。須藤君はなにやら考えて、十人をまえに出してならべていく。ところが、下の図のように、十人で魚の形をつくってみたものの、足のほうがちっとも魚らしくなくて、困ってしまった。
 琴恵が助っ人。発想をかえたらしい。全員まえへ出て、しゃがんで魚の形、つまり、上からみた魚の形。黒い服を着た子を目にする。ひらめのように海の底を泳ぐ感じ。
「このままで泳いでごらん」。みんないっしょに動いてみるが、間隔があきすぎて、形がすぐくずれてしまう。自分の場所、受けもった場所をまもらないと役割がはたせないことが、これでわかった。
「自分の場所を守る」「自分の場所を変えないで動くこと」「ただ自分の場所というのじゃなくて、その場所を守らないとみんながこまる場所のこと」
「もち場」の意味をなんとか、さぐっていったようだ。

 みんなが、一ぴきの 大きな 魚みたいに およげるように なった とき、スイミーは いった。
「ぼくが、目に なろう。」

 一ぴきの大きな魚をイメージする。どのくらいの魚かをそれぞれ思いえがく。イメージした魚をみて、「ぼくが、目になろう」をもう一度、読みながらイメージしていく。
「この魚の大きさは?」「海でいちばん大きいの」
「そうだね、大きいといえば、マグロやサメや?」「クジラ」「クジラは38メートル」
「……だね。スイミーたちがなった魚は?」「海でいちばん大きな魚」「だから、それよりも大きいんだよ。それをつくれたかな。なにしろいちばん大きいんだからね。いいかな」
 こうして、魚のイメージをうーんと広げたところで、もう一度、読む。
「ぼくが、目になろう」がはっきり小さな魚たちにとどいていない。
「『ぼくが、目になろう』は、だれにいったの?」「スイミーが、小さな魚たちみんなに」「そうしたら、その魚たちみんなに、いちばん前からいちばん後ろまで、こちら側から向こう側まで、みんなにきこえるようにいわなくちゃあね」「そうかあ」「そうなんだよ」

八時間目●ことばの感じを表現して読む

 子どもたち、ドロップを口にふくんで、顔がほころんでいる(五時間目を参照)。教室中を甘いにおいが漂う。いままで学習したところを、自分のはやさでずっととおして全員で読んでいく。しだいに立ちあがっていく子もいる。
 最後までの文章をピンクの模造紙に墨汁で書いて、黒板にはりだしてある。

 みんなが、一ぴきの 大きな 魚みたいに およげるように なった とき、スイミーは いった。
「ぼくが、目に なろう。」
 朝の つめたい 水の 中を、昼の かがやく 光の 中を、みんなは およぎ、大きな 魚を おい出した。

 最初は山口君に、最後の段落を読んでもらう。樫野君が感想をいう。「山口君の言い方は、お湯の感じがした」。つ・め・た・いの音が、お湯のようなひびきで、つめたくない水だというのだ。琴恵も、「サンズイのついた水で、たまっていてあんまり動かないお湯のように聞こえる。口があんまりあかないからだ」と指摘。
 山口君、もう一度挑戦。「もう少し、つめたくして」。二度、三度目でつめたくなった。柿内、砂長、牟田、山口、柳、木村、寺田、和子、理栄とつづき、つめたい感じの水になってくる。
 ところが、なんとかつめたい感じを出そうと一生懸命になった敬が、「朝のつめたい、つめたい、水の中で」とやってしまう。大笑いする子どもたち。敬もしまったという顔をして笑っている。
 「敬、つめたいを一回で、二つぶんのつめたい感じを出してみてごらん」「……朝のつめた――い水の中を」「うん、なったね」。友だちにも認められてにっこり。琴恵、豊子、三上、田中、川橋、阿部、江島、樫野、鈴木、川上、萩原、長沢、山田、児玉。
 少々オーバー気味の子もいるが、あえてふれないでいたら、柳君、「ぼく三つぶんくらいつめたくしたい」といって、「つめた―――い」という。なるほど感じはでてる。山田君、「十個分」といって、「つめた――――――い」となる。
 「あのね、そこを伸ばさなくったって、【つめたい】感じはだせるよ」。口ぐちにやってみる。これが確認できたところで、朝の「あ」「さ」の音についてふれる。からだをもっとひらいた状態で「あさ」をいう。
 「昼のかがやく光の中を」。和子、庵君、お日さまのてっているようすを手であらわしながら。樫野、岡本、琴恵、有貴子、川上、川橋、山口、木村、三上、敬、佐久間、柿内、寺田、三塚、児玉、阿部、江島、須藤。「みんなはおよぎ」でふたたびイメージなしで読んだ子がいるので、もう一度。
 「朝のつめたい」から最後までをとおして、かほり、和美、米沢、小野田、江島、児玉、川橋、阿部、ゆみ、読む。

子どもたちの感想文から

    ◎江島知加子
 スイミーのお話は、かなしいとか、うれしいとかがよくかわっていく、いいお話。気にいったよ。先生、スイミーたくさんよませてね。みんなも「スイミー」すきだよね。みんなもよみたいよね。
 すどう君が、もち場ということおしえてくれた。すどう君、どこで教えてもらったのかな。
 さいごまでよんで、とっても気もちがすーとしたよ。

  人一倍おとなしい山田賢一君は、つぎのように書いてきた。

「スイミーは教えた」から、ぼくはいっしょうけんめい口をうごかしながらよみました。じぶんで大きな声は、ださなかったけど、ちゅうくらいは出した。ほんとにいい文。ぼくは、スイミーをよむとき、かんがえてないよみかたを、いっしょうけんめいじょうずによんでるだけ。
「あさ」っていういいかたが、よくできなかった。「けっして、はなればなれにならないこと」っていういみは、わかってたけど、「みんな、もちばをまもること」っていういみがわからなかった。スイミーは、赤い魚たちとあって、くろい目になるために生きてたかもしれない。
 山口君が、「つめたい」っていったけど、ぬるいかんじだった。だから、ぼくも、ぬるいかんじになってしまうかもしれない。
 スイミーが生きていたから、小さな赤い魚たちは、生きられるのかな。

(後編につづく)

出典:鳥山敏子『イメージをさぐる』太郎次郎社、1985年

鳥山敏子(とりやま・としこ)
1941年、広島県生まれ。1964年、東京都で小学校教師に。60年代の教育科学運動のなかで実践を深め、先駆的な授業を生みだす。70年代、竹内敏晴らの「『からだ』と『ことば』の会」に参加。80年代をとおして「いのちの授業」を実践。また、教師としての宮沢賢治を研究する。94年に公立学校を退職し、ほどなく「賢治の学校」(現「東京賢治シュタイナー学校」)を立ち上げる。著書多数。『いのちに触れる』『イメージをさぐる』(ともに太郎次郎社)、『親のしごと 教師のしごと』(法蔵館)、『生きる力をからだで学ぶ』(トランスビュー)など。2013年死去。