こんな授業があったんだ|第40回|20世紀とテーラー・システム〈後編〉|里見実

こんな授業があったんだ 授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

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20世紀とテーラー・システム 〈後編〉

里見実

<前編>はこちら

ノルマに追われる労働者たち(前編からのつづき)

仕事の主導権をにぎるものはだれか

 テーラーの「科学的管理法」によって何が変わったか。これに対する回答もはなはだ多様であった。いくつかを例示しよう。

 テーラー・システムが「個々の労働者のヤル気」を引き出すということに注目した点はすばらしいと思う。 (経4 中島貞)

 テーラー・システムによっていままでの労働は“やらされる”という受け身的なものから、“やる”という積極的な変化をうんだだろう。集団でがんばっていくという団体行動も必要だと私は思うが、そのまえに各個人に仕事に対する意欲をうえつけることが結局、集団組織、つまり会社の利益につながり、自分にその利益がかえってくるという前向きな考えにつながっていくのだろう。  (文3 田村恭子)

 いい加減で良いという妥協をなくし、仕事を能率よくこなせるようにしたと思う。競争原理を導入し、優越感が得られるように、みんな頑張るようになったと思う。それは割り増し賃金が貰えるからであり、自分の生活を豊かにしていけるからである。労働者の生活を考えてくれているんだという実感が能率を上げたのだと思う。   (文4 小口浩史)

 このシステムのまえは、労働者は〈怠け〉があるぶん、“自分が仕事をしているのだ”という実感があったと思う。しかし、システムの導入後は、ほんとうに仕事が“義務”になってしまったのではないかと思う。   (文3 古谷恵)

 テーラーの科学的管理によって生産は上昇し、一国の経済規模はより大規模に成長するようになったことは確かであろう。しかし、能率を重視する結果として、労働者の〈怠け〉という問題以外の別の問題が出てきたのではないだろうか。科学的に管理されることによって、労働者は使用者に完全に管理されるようになり、生産過程における一つの部品となる状態をつくり出したのではないだろうか。能率だけが一人歩きし、労働者の人間性を奪い、生産システムの一つの機械にしてしまったのではないか。   (文3 横瀬晋)

 結局、人間が“仕事をする機械”に成り下がってしまった、ということであろう。そもそも労働者を賃金との関係でしか見ないところに無理がある。それはテーラーが単純労働の場合しか見てないから、このように単純なシステムしか出てこないのだろう。労働すること全体が目的でそれに満足を見いだすことのできる労働だってあるのだから。   (史3 児島克樹)

 社会の工場化を進めた。さらに、あまりできのよくない工員に仕事を教え、工員の利益を保証することによって労働倫理を強化し、工場での生産過程の不安定要素をかぎりなく少なくするように作用した。そして個人の利益保証でヨコのつながりを切断してゆき、労働組合等の組織をできにくくしていった。フーコーのいう社会の監獄化とも接合して、従順な身体へ人びとを訓練してゆき、完全に管理可能なものに仕立てあげようとしているように思われる。
 しかし、怠業は完全には阻止されてはいないように思われる。労働者はテーラー・システムにかなった怠けを行なっているように思われる。   (哲3 錦俊成)

 テーラーの科学的管理は人間を人間としてとらえているのではなく機械として捉えているように見受けられる。怠ける労働者は少し減ったかもしれないが、このシステムは日本の企業などでも見られる管理社会を生みだし、働く人びとは会社が立てたノルマを達成しようとあくせくする余裕のない毎日を送ることになる。   (哲3 仲野友美)

 人びとの個人主義を促進してしまったのではないかと思う。やったほうが勝ちである、自分もやらねば置いていかれる、という意識におののきながら労働することしかできなくなってしまう。人と敵対するから、自分は自分、人は人という個人主義がはびこってしまうようになったと思うのである。   (文3 春木麻子)

 このシステムだと、割り増し賃金という刺激によって個々の労働者のやる気を引きだしていくこともできるし、労働者は労働に自信をもつことができるようになるでしょう。怠業者は賃金が増えない、したがって生活も苦しくなることが予想されるので、怠業は阻止されるのではないかと思います。   (経3 張智富)

 労働者は、割り増し賃金を手に入れるために標準作業量を達成しようとする。がんばって能率的に仕事をしてノルマを達成すれば賃金が増える。だから怠けないで能率的に仕事をする。使用者側にとっても労働者の怠業を解消することができて、労働者も多くの賃金を手に入れることができて、〈科学的管理法〉は大成功のように見える。だけど、労働者にとって労働そのものが意味のないところで、高賃金獲得のために労働能率を上げていくことは、労働そのものをもっともっと無意味なところへ追いやっていってしまうと思える。労働者にとっては、高賃金獲得のためにより能率的に仕事を行なうことが主要な関心事となって、労働をとおして学ぶなんていうことを感じているヒマはなくなってしまうし、そもそも労働そのものが、労働をとおして自己が成長していくような労働ではない。
 全体から分解された作業を、標準時間内で、標準の方法・動作で、ただこなしていく。何か問題につきあたったときに考えて、自分で工夫・改善していって、一つのものをつくりあげるのではなくて、分解された単調な作業を決められた様式にしたがって、ただひたすら“こなして”いく。労働者にとって労働は学びの過程などではまったくなくて、それどころか、改善の工夫のために自分で考える必要もなくなってしまう。労働者のやるべきことは決められたことを、ひたすら“こなして”いくだけである。こんな〈労働〉では、そのものに目的や意味があるはずはない。   (経4 岡田美紀)

テーラー・システムは、人がみな同じだけできるという考えをひろめ、どの人の労働も同じように行なわれるようにした。労働の達成を個人のものにしつつ、労働から個性を排除してしまったのだと思う。また能率におうじる賃金体系は、労働の動機を金のみに結びつける考えを助長しただろう。個人にとっての労働自体の意味を希薄にしてしまったのだと思う。   (法 成田美佐)

〈科学的管理法〉は、その名のとおり、労働管理強化の一環としてとらえてよい。個々の労働者のヤル気を引きだすかげで、労働者のヨコのつながりを分断することによって、使用者側の立場の強化がなされている。
 一時的な怠業阻止の効果を割り増し賃金制はもたらすかもしれないが、そのシステムによる労働者の行方にかれら自身が気づいたとき、再度、怠業行為は起こり得るし、気づかなければ労働者集団は〈個〉へと解体され、かれらはその立場を弱めさせられるばかりなのではあるまいか。   (文4 飯島崇)

 テーラー・システムというのは何だかサビしいものだと思えた。すべてが“能率”と“効率”。〈標準〉を決め、それを達成するとゴホウビに割り増し料金。達成できないと、何となく辱めを受ける成績主義。正直いってよくわからないのだが、こんなことを続けていたら、労働者たちに嫌気がさしてきて、〈出家したい〉みたいな気持ちになるのではないでしょうか。
 テーラーが〈ムチをふりあげてシッカリヤレとどなるのとは違う〉〈親切である。教えるのである〉というこのシステム。何だか密かな強制を強いるこのシステムはコワイと思った。テーラーとは、一体何者だろうか。   (史4 芹沢健治)

 

 重要な論点は、君たちがすべて言いつくしてくれているような気がする。とりあえず、明白な誤解だけを訂正しておきたい。
 テーラー・システムの導入によって、標準作業を達成できる工員とできない工員の能力差がはっきりして、労働者の個人差が拡大するのではないか、と予想した諸君がかなりいた。
 テーラー・システムの特徴のひとつは、成田さんが指摘しているように、だれもができるように仕事を単純化した、ということなのである。
 たしかにテーラーは熟練工員をモデルにして標準作業を設定したが、それはかれらの仕事を新入りでもできる単純な操作に分解し、規格化することによって、熟練した技能工の必要性そのものを削減・除去するためであった。より知的で、技術的により複雑な作業をも単純化し、それを使用者側の管理のもとに掌握しうるものにすることが、テーラーの科学的管理法の目標であったのだ。
 ノルマを達成できるかどうか、という点に関していえば、たしかに個人差がはっきりしてくるし、テーラー・システムによって労働者のヨコのつながりが分断され、一人ひとりが互いに競争関係におかれることは明らかであるが、しかし、そこで露呈されるのは仕事のうえでの「能力」差ではなく、労働者個々人の勤勉度、つまりは忠誠度の差であるはずである。特別な「能力」を必要としないように仕事のシステムを変えていくことこそがテーラー・システムの眼目なのだから。標準作業量が達成できないとすれば、それはできないからではなく、怠けているからである、とテーラーは確信をこめて断言する。
 成田さんが巧みに表現しているように、テーラー・システムは、「労働の達成を個人のものにしつつ、同時に労働から個性を排除した」のである。

つくる過程と学ぶ過程

構想と実行の分離によって労働は空虚になる

 テーラー・システムによって、使用者側の立場は強化された。労働過程を掌握するのはもはや現場の労働者ではない。仕事をあらかじめ計画し、指示し、査定するのは管理者であり、労働者は狭く限定された課業を、定められた速度で、与えられた指示にしたがって遂行するだけだ。
 かつて労働者の精神と肉体のなかに内化され、蓄積されて、労働過程の主導的な契機となっていた労働者の技術的な知識と技能は、生身の労働者から分離されて、規則や公式として外化され、システム化された。そして、最終的には〈機械〉のなかに吸収されることになる。労働者の身についた技能を生身の彼から引きはなすこと、「工員の頭の中にしまってあるすべての知識を管理の側に集めてしまう」こと、それがテーラー・システムの第一原理であると、アメリカの労働経済学者のハリー・ブレイヴァマンはいう(『労働と独占資本』富沢賢治訳、岩波書店)
 伝統的な機械工の場合、旋盤作業だけをとりあげても、個々の労働者がその過程でおこなう決定の範囲はきわめて広く、大きい。原料の選別から取りつけ、切削工具の選別、削りとる厚み、切り込みの深さ、工具のリップ角および逃げ角、削りの圧力、機械の周速、送り、引く力、その他などなど。テーラーはこれらの工程にかんするすべての情報を収集し、分類し、集計する。各段階で選択された機械操作のなかから最良の組み合わせを求め、これを規則・法則・公式にまとめあげる。「以後、彼の機械工たちは、自分自身の知識、経験、伝統よりも、むしろこれらの実験データから引き出された指令にしたがって労働させられるようになった」。〈名人〉は邪魔者になる。働く者自身の知識や判断は無価値なものになり、工員のなすべき行為はオフィスのなかで他律的に設定される。労働過程は労働者の能力にはまったく依存せず、全面的に管理者の実践に依存するものとなるのである。
「頭脳労働は可能なかぎり、これを職場からとりさり、これを計画部または設計部に集めてしまわなければならない」と、テーラーはいう。これを換言すれば、「構想」と「実行」を分離するということだ。「人間を労働能力の点で動物よりも優ったものにしている本質的な特徴は、実行が、なされようとしていることの構想と結びついているというところにある」(ブレイヴァマン)。労働はもともと、すぐれて目的意識的な行為である。何をつくるか、どうつくるか、という意匠を頭にえがき、心にいだきながら、それを実現すべく一つ一つの手だてを講じていくトータルな過程が労働というものだろう。この労働の固有に人間的な特質が、テーラーと、かれがその利益のためにたたかっている企業家にとっては諸悪の根源なのだ。労働は単純化され、労働者は愚鈍化されなければならない。「仕事をあらかじめ計画する人と、仕事を実行する人とでは、まったく異なったタイプの人が必要とされる」(テーラー)のである。
 労働の内容がますます空虚なものになり、非人間的なものになることへの対価として、テーラーが差しだすのは60パーセントの割り増し賃金である。賃金という外的な刺激によって、労働意欲を喚起するのである。だが、岡田さんが指摘しているように、これはもっぱら賃金のために強化され、かつ無意味化された労働に耐えるということであって、労働そのものものが意欲の対象になるということではない。労働は労苦にすぎず、その気晴らしとして、消費に、スポーツに、あるいはより刺激的な娯楽に人びとが駆りたてられていく生活の構図が見えてくるのではないだろうか。
 労働の変容は、労働者運動の担い手を変え、運動の質をも変えた。先に引用したセルジュ・マレは、B段階すなわちテーラー以後の労働運動の変質を、つぎのように分析している。

① 労働運動の中核的な担い手が、熟練工から単能工あるいは半熟練工に移行する。同時に労働運動は大衆的な規模で広がり、強化される。
② 熟練工のなかでは階級意識は、「搾取されている」ということと「富の生産者である」ということの二重の意識によって同時に特徴づけられている。搾取は生産者としての立場から感受されている。しかし、単能工・未熟練労働者にとっては、労働は何ら彼じしんの主体的活動ではない。そこで階級意識はただ一つ「搾取されている」という感覚にもとづくものとなり、その搾取は富の分配の不平等として感受される。階級意識は生産活動(=労働)と直接結びつかなくなり、もっぱら社会的・政治的な自己意識として表現される。職人的な存在様式と技能という「失うべき財産」をもつ〈労働者階級〉は、もはや失うべき何ものをももたぬ〈プロレタリアート〉に転化するのである。
③ こうして労働運動における闘争の重点も移行する。労働過程そのものをみずからの手で掌握し管理するアナルコ・サンジカリズム的な路線はしだいに後退し、運動の主要な目標は労働の成果配分へ、さらには政治闘争(政権奪取闘争)へと移行する。労働者の闘争もまた、獲得すべき何物かを、労働そのものではなく、その外部に求めることによって、自己の人間的な存立基盤を〈戦闘的〉に掘りくづしていくのである。

労働の衰退にともなって学びも衰退する

 この「教育」の講義のなかで、われわれがとりわけ「労働」の問題にこだわるのは、それがもっとも根源的な人間の自己形成の営みでもあるからである。人間は、労働をとおして生産物をうみだすと同時に、じつはかれ自身をも産出している。人間それ自身が労働の制作物なのである。ある学生が、課題レポートのなかで、労働には二つの過程が内在していると述べている。

 一つは自己の対象化である。みずからの能力を、労働という行為によって、対象のなかへ、労働生産物のなかへ、移しかえる過程である。労働がそういう行為としてあるからこそ、人びとは、その労働の過程と結果に対して、『自分の仕事だ』という実感をもつ。
 もう一つは労働のなかで、さまざまな経験や知識を獲得し、仕事の能力をみずからのなかに蓄積していく過程である。   (武藤直子)

 

 前者を「つくる」過程、後者を「学ぶ」過程ということもできるだろうが、そんなふうに区別だてをするまでもなく、労働のなかでこの二つの過程は同時的に進行しているのである。外的素材にはたらきかけ、それをつくりかえて、人間が自己の文化の世界を構築していく過程は、かれが対象的世界に学びながら活動的に自己を再形成していく過程でもある。こうした可能性をもつ労働が、そのほんらいの性格を喪失し、劣化していくということは、人間が自由な主体として自立していく決定的に重要な契機が奪い取られていくということでもある。それは人間存在にとってきわめて根源的な危機であるといわなければならないだろう。
 労働をdegrade――いわば「下等化」する動きは、テーラー・システム以降、急速に進行し、それは基本的にいまもつづいている。先に引用したH. Bravermanの『労働と独占資本』のサブタイトルは、Degradation of work in the Twentieth Centuryとなっている。degradation of work、訳書ではこれは「労働の衰退」と訳されている。
 衰退し、低落化するのは、賃労働という意味での狭義の労働ばかりではない。労働のありようは人間の生活態度の全般に波及する。これについては、時間意識の問題と関連させてあらためて考えていきたいと思うのだが、労働者が仕事のなかにほんとうの意味での励みを見いだすことができないということと、学校で学ぶ若者たちが「与えられたものを、しぶしぶこなす」という仕方で「学習」に「従事」していることとの間には、なにか本質的な連関があるのではないだろうか。労働の衰退と、学習の衰退。両者はべつのことではないようだ。
 江戸川の町工場ではたらく森清氏は、数多い著書の一つで慨嘆している。

今日ほど〈労働〉が見失われている時代はあるまい。……〈労働の喜び〉といった表現がひどく古めかしく感じられるほど、〈労働〉は私たちの生活から遠ざかっている。

(『ハイテク社会と労働』岩波新書)

 労働の衰退はいまに始まったことではない。資本主義とともに始まる「産業合理化」の歴史は、すなわち労働の衰退の歴史であったといっても過言ではないだろう。
 だが、ここ数年、コンピューターと産業用ロボットの導入によってもたらされたいわゆるME革命とともに、「労働の衰退」はさらに決定的に加速化された。衰退どころではない。いまや労働の終焉すらもが語られているのである。分野によっては、ほとんど人影のない無人工場もすでに出現している。
 労働の終焉とまではいわぬにしても、労働のなかで人間が直接的に「物」にはたらきかける場面はしだいに狭まっている。小関智弘氏の『粋な旋盤工』(風媒社)や『鉄を削る』(太郎次郎社)のなかに描かれている「物」と直接にかかわる熟練労働の世界は、今日、その存立の基盤をますます狭められているといわなければならないだろう。「物」よりも「情報」を処理することが、仕事の世界ではしだいに大きな比重を占めるようになった。

私はこの世の労働をよく見ているから、それが決して堕落的なものでなければならぬ必要はないということも知っている。土地を耕し、網を投げ、羊を欄に入れたりする、こういう労働は荒い仕事であり、多くの困難をともなうが、これも、暇と自由と適当な賃金という条件さえいれられるならば、われわれの最上のものにとってもよい仕事である。煉瓦工、石工といったような人々は、もし芸術が当然にあるべき本来の姿をもつものならば、これらの人々は芸術家であって、単に必要であるだけではなく、美しい、故に幸福な労働をしているのである。われわれが廃止する必要のあるのは、このような労働ではない。誰も必要としていない幾千という品物を作り、私が前に語った、誤って商業と称している、競争的な売買の要素としてしか用いられないような品物を作るような労働こそ廃止すべきなのだ。

(ウィリアム・モリス『民衆の芸術』中橋一夫訳、岩波文庫)

 これは工芸家として、作家として、また社会理論家として知られた19世紀イギリスの社会主義者ウィリアム・モリスのことばである。
 一人の工芸家であったウィリアム・モリスは、それゆえにまた、労働の廃棄と労働の再生をはげしく追求する社会主義者でもあった。ひたすらパンのために、辛く退屈な日々の仕事に耐える労働者が存在する社会は、不正であるのみならず、不毛な、「美」をつくりだすことのできぬ社会であり、汚物のなかで棲息する兜虫が汚物になじんでみずからを醜悪化していく社会であった。
 かれの代表的なロマンス『ユートピア便り』(五島・飯塚訳、中央公論版世界の名著41)は、未来のユートピアにたくしてイギリスの現在を撃つ一種の文明批評であるが、そのユートピアの語り部のハモンド老人はいう。

「労働の報酬がないって? 労働の報酬は生きることそのものです。それでは足りませんか」
 老人はつけくわえていう。
「報酬はたっぷりありますよ。
つまり創造という報酬がです。その創造の喜びに対して、もしあなたが金を請求しようとするなら、そのつぎには子供を生んだことに対しても請求書を送る、というようなことまで聞くことになりますね。」

 人間には働くまいとする自然の欲望がある、という時代の通念に、ハモンド老人はシャルル・フーリエふうの「労働快楽説」を対置しているのである。商業主義のもとで労働はたんなる痛苦に堕した。しかし、優秀な仕事ができるということは何ものにも優る人間の本然の喜びであり、それを求めることが人間の自然の欲求というものだと、老人は主張するのである。

 折々われわれが、ある部分の仕事があまりに不愉快だとかめんどうだとかわかったばあい、われわれはその仕事はやめて、その仕事によって生産されたものはいっさいなしですませてきました。これでもうはっきりおわかりになったと思いますが、こうした状態のもとでわれわれのする仕事はすべて、多かれ少なかれ、することが心身の楽しい活動なのです。ですから、仕事を避けるかわりにだれでもが仕事を求めます。

 芸術は、労働における人間の喜びの表現である、とモリスはいった。それは、いわゆる「芸術家」の特権的な営みであってはならない。中世においては職人たちの労働は、それそのものが創造であり、芸術的な制作活動であった。それが芸術の「当然にあるべき本来の姿」なのだ。モリスにおいては、芸術と労働は同義であった。
 モリスのことばに鼓舞されて、宮沢賢治は有名な『農民芸術概論』を書いた。百姓の、辛く、きびしい日々の労働を、創造の喜びの表現たらしめていく、その抵抗の営みが賢治のいう「農民芸術」であった。
 こうした労働を、あるいはこうした芸術を、われわれはどのようにして奪回し、みずからの行為として手操り寄せていったらよいのだろう? 「今日ほど〈労働〉が見失われている時代はない」と指摘される、その「今日」において、われわれは、どこに、どのような労働のかたちを再発見していくことができるのだろうか。それは、われわれがみずからの学びをどう創出していくかという問いと不可分だろう。

空虚な労働に満ちた社会を学びによって超える

 ここまでくると、閑暇か労働か、という二者択一はもはや意味を失う。
 百姓の息子のテコのエピソードから出発し、古代ギリシャのポリスの教育観にふれながら、私はこれまで閑暇と労働をあえて対比的に論じてきた。そこから見えてくるものがないわけではない。しかし、いま、どう労働をとりもどすのか、ということを考えていくと、この二項対立的な問題の立て方ではどうしても袋小路につきあたってしまう。
 森氏がいうように、「労働」は私たちの生活からますます遠ざかりつつある。われわれは生産労働から「解放」され、あるいはきり離されて、いわば脛かじりの身分で学校での勉学をつづけているわけであるから、上記の二分法をもってすれば「閑暇」を享受しているということになる。労働は仕切りの向こうの別世界でおこなわれている他人の営みということになるわけである。
 ところが、そうともいいかねる疎外状況が「閑暇」のなかにも浸透していて、われわれがテーラー・システムのなかで見てきた労働の衰退とでもいうべき事態は、労働の場から隔てられているはずのわれわれにとっても、意外に近しいものになっているように思われるのである。自由な時間としての「閑暇」を謳歌しうる者が君たちのなかにはたして何人いるだろうか。
 だが、ちょっとポジティブに考えてみよう。
 たとえば、本を読んだり、ものを調べたりするという学生の行為は、労働ではないのだろうか。情報を加工するということは、それ自体、ひとつの労働ではないだろうか。労働は、学校を卒業し就職した後におこなう業務であって、いまの大学での勉強は労働とは別なものである、ということになるのだろうか。
 私たちは労働という概念を、商品をうみだす生産労働や、「物」をつくる労働だけに限定せずに、もうすこし人間の多面的な活動のなかに内在している普遍的な過程としてこれをとらえかえしてもよいのではなかろうか。そうすると逆に、職人たちの仕事のしかたが、町工場のことは何ひとつ知らぬわれわれにとっても、自身の日々の営みと通底する意外に身近なものに見えてくるのではないだろうか。
 一見、われわれは狭義の「労働」から切り離されているのだが、にもかかわらず、われわれもまた、それぞれの生活のなかで、ある種の労働をおこなっている。工場や事務所だけが、労働の現場ではない。私たちの生活の場のすべてが、ある意味では労働の現場なのだ。職業につくつかぬにかかわりなく、人はすべてが、かれ自身の労働の世界をつくりだしていく当事者なのである。
 学校も同様である。
 後編では、私たちはより多く「学校」という空間について議論することになるだろうが、学校もまた、疎外と創造の両義性をともにふくんだある種の労働の場として、これをとらえることができるだろう。
 学校ということばが「閑暇」を意味するスコレから派生したことは前に述べた。一方、英語やフランス語では、勉強を意味することば(work, travail)は、労働を意味することばと同一である。閑暇という名をもつ「学校」のなかで、生徒たちは「労働する」のである。その労働のありようを問うことが、われわれのつぎの課題となるわけである。

 ほかに小野二郎『ウィリアム・モリス』中公文庫、森清『町工場』朝日新聞社、中岡哲郎『科学文明の曲りかど』朝日新聞社を参照。

(おわり)

出典:里見実『働くことと学ぶこと』太郎次郎社、1995年

里見実(さとみ・みのる)
1936年生まれ。1965年から2007年まで國學院大學に勤務したのち、現在は現代教育思想や中南米演劇などの研究と翻訳に取り組む。2022年没。
おもな著書に『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』、『学ぶことを学ぶ』、『学校でこそできることとは、なんだろうか』、『学校を「非学校化」する』(以上、小社刊)、『ラテンアメリカの新しい伝統』(晶文社)、『タイにおける地域再生運動に学ぶ』(農文協)など多数。
おもな訳書に、パウロ・フレイレ『希望の教育学』、セレスタン・フレネ『言語の自然な学び方』、ピーター・メイヨー『グラムシとフレイレ』(以上、小社刊)、ベル・フックス『とびこえよ、その囲いを』(監訳、新水社)、アウグスト・ボアール『被抑圧者の演劇』(晶文社)などが、共訳書にパウロ・フレイレ『伝達か対話か』、モアシル・ガドッチ『パウロ・フレイレを読む』(以上、亜紀書房)などがある。