こんな授業があったんだ|第39回|20世紀とテーラー・システム〈前編〉|里見実

こんな授業があったんだ 授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

初回から読む

20世紀とテーラー・システム 〈前編〉

里見実

ノルマに追われる労働者たち

スポーツでは燃える労働者がなぜ仕事を怠けるのか?

 つぎに掲げるのは、フレデリック・テーラーの『科学的管理法の原理』(上野陽一訳編、産業能率大学)の一節である。
 今回は、この文章を手がかりにして、現代社会における労働の変容について考えていくことにしたい。のちほど、二つの問いを提出するので、君たちの考えをきかせてほしい。

 イギリスおよびアメリカ人は世界のなかでもスポーツの好きな国民である。アメリカの工員がベースボールをやり、イギリスの工員がクリケットを遊ぶ場合に、かれらは勝たんがために、ほとんどその全力をつくすといっていいであろう。全力をあげて最大点数をかせごうとするのである。もし自己の全力を出さないものがあったときには、クイッターと称して、周囲の人びとからひじょうにいやしめられることになっている。
 その同じ工員が翌日、工場のなかにはいってくると、全力をあげて最大限度の仕事をしようとはせず、むしろ、とがめられぬ程度になるべく仕事を少なくしようとする。すなわち、当然できる分量よりもはるかに少しにとどめておこうとするのである。多くは当然なすべき一日の分量の二分の一または三分の一ぐらいにとどめようとする。もし全力をつくして一日分の最高の生産をなすようなことがあれば、仲間のものからひじょうな非難をうけることになる。それはスポーツの場合にクイッターとしていやしめられるどころの騒ぎではない。
 故意に仕事をのろくやって、一日分の仕事のあがらぬようにすることを、アメリカではsoldieringといい、イギリスではhanging it outといい、スコットランドではca canaeといっているが、これはほとんどすべての工場に共通した現象であり、建築業にもかなり行なわれている。

 怠けが一般的に見られるのは、工場労働もしくは建築業のような協同作業においてであることを、テーラーは同時に指摘している。個人の労働の成果と能率が目に見えるかたちで顕在化される庭師や馬車の御者の労働とは異なって、集団作業の場としての工場では、工員の間にかならず怠業への傾向がうまれてくる。工員たちはお互いに牽制しつつ、仕事の能率を抑えにかかるのである。「怠けることはどの工場に行ってもほとんど一般的であった」。労働者は怠け者である。それが集団としての労働者の特徴である、とテーラーはとらえるのである。
 ベースボールやクリケットで全力を尽くす労働者が、なぜ工場では「怠ける」のか。二つの原因がある、とテーラーは考える。第一に、怠けは人間のもともとの本能だ。ラクをしたがるのは、人間だれしもがもつ生まれつきの傾向だ。だが、もう一つ、他人をおもんぱかり意図的に怠けがおこなわれる場合があって、工場労働のなかではそれがひじょうに顕著になる、とテーラーは考えるのである。工員たちは、協調して計画的に仕事のスピードを落とす。それによって自分たちの利益が守られると信ずるからだ。
 テーラーの捉え方について、君たちはどう思うだろうか。今回はまず、テーラーのこの解釈の可否について、できるだけ多角的に討論してみたい。スポーツのなかで全力を尽くす労働者が、どうして工場のなかでは「怠ける」のか。君たち自身はそれをどう捉えるだろうか。
 労働者の「怠け」にたいしてテーラーが打ちだした対策が、いわゆる「科学的管理法」scientific managementであった。基準となるべき仕事のスピード、それゆえにまた一日の標準的な作業量が、雇い主にも工員にもはっきりせぬままに揺らいでいて、仕事のノルマが合理的に指導統制されていないことが、これまでの管理法の最大欠陥だと、テーラーは考える。フィラデルフィアのミッドベール・スティール会社で、1883年当時、機械工場の職長としてはたらいていたテーラーが、この「弊害」に対処してとった手法は、つぎのようなものだ。
 まず労働者がおこなう作業をいくつかの動作に分解する。観察対象としては、仕事ぶりが能率的で、実直かつ調査にたいして協力的な工員が選ばれる。かれらの所要作業時間を各動作ごとにストップ・ウォッチで測定して、その集計値から各仕事の最短時間を割りだしていく。これがいわゆる「標準時間」である。適切に、すなわちもっとも効率的におこなわれた場合の、その仕事の所要時間である。
 標準時間を割りだすこととならんで、だれがおこなってもその時間内に仕事が効率的に遂行されうるように、作業方法と道具の標準化がすすめられる。動作のムダをなくす。適切な道具を適切な場所に配置する。ベスレヘム製鋼所での鉱石すくいの例について見ると、それはこんなふうになる。
 この会社の構内ではたらく上手なショベル使いは、みんな自分のショベルをもっていた。会社から供給されるよりは、自分で買うことを希望した。かれらは、1すくい3.5ポンドの粉炭をすくったその同じショベルで、1すくい38ポンドの塊鉱をすくってもいた。
 テーラーたちはもっとも仕事のうまい労働者二人をモデルにえらんで、ショベル1すくいの鉱石の重さと1日にこなした総トン数との相関関係を調べた。第1日、1すくい38ポンドのときは、それぞれの労働者は1日、25トンをこなした。つぎの日、ショベルの先を切ってそれを少し短くした。1すくい34ポンドの鉱石がはいる。この日の総トン数は30トンであった。さらにショベルを短くして、1すくい30ポンドにすると、出来高はなおも増加していく。そうやって最後に、1すくい21または22ポンドのときに、1日にこなした鉱石の量が最大になることがわかった。それ以下にショベルを短くすると、1日の出来高は急速に下がっていくのである。
 以上のことから判明するように、作業をもっとも能率的にするには、鉱石の種類におうじた多様なショベルを会社側が用意して、1すくいの鉱石がおのずと最適量21~22ポンドになるように仕組むことが必要だ。重い鉱石には小さな平たいショベルを、灰のように軽いものには大きい深いスコップを、コークスにはフォークを、というように何種類ものショベルを使いわけて、だれがやっても21.5ポンドの鉱石が向こうからはいってくるように仕向けるわけである。
 こうして標準作業量が達成されると、日給の60%の割り増しが支給される。朝、会社に出ると、各人の昨日の成績が示され、割り増しの有無が知らされる。道具の使い方が悪く、60%の割り増しがもらえない労働者にたいしては、作業管理者(工員あがりの〈先生〉)の「指導」がはいる。「ねえ君、どうも調子が悪いようだね。君の知ってのとおり、給料を高くとる者でなくては、ここの仲間にはいってはいられないのだ。どうしてもダメなら、出ていってもらうより仕方がない。君はショベルの使い方を忘れたのではないか。きっとそうだろう。見たまえ、こうやるんだ」と。
 そして「2~3日または4~5日のあいだ、〈先生〉が必要におうじてソバについており、正しい使い方に戻るまで世話をしてやるのである」「これは科学的管理法の主要な特色であるから、十分に了解してもらいたい」と、テーラーは書く。「これは彼らをこきつかうのではない。親切である。教えるのである。私が子どもで何か習おうと思っている場合には、こういうふうにやってもらいたいと思うことで、それを実行しているにすぎない。鞭をふりあげて、シッカリヤレとどなるのとはわけが違う」。
 soldierng――すなわち怠けをやめて、能率的に仕事をすることは、他ならぬ労働者自身にとっての利益なのだとテーラーは強調する。最大のスピードで仕事をすれば、一国、一企業の生産は倍増する。生産費は低下し、市場は拡大されて、不景気・失業・貧乏は克服されよう。労働者の俸給も増えて、かれらはより高い消費水準を享受し、その仕事と生活により大きな満足と幸福を感じることになるであろう。
 テーラーによれば、怠けは集団としての労働者の特質であった。それゆえに怠けを解消する管理は、必然的に労働者を集団から引きはなし、かれらを個人的な達成にむけて動機づけるというかたちをとることになる。それを可能にするのは、能率におうじる賃金体系である。すなわち、割り増し賃金という刺激によって、個々の労働者のヤル気を引きだしていくわけである。
 とはいえ、いわゆる出来高給という方式をテーラーは採らない。むしろ出来高払いが集団としての労働者の怠業を促進した、とかれは考えるのだ。精を出してはたらいた結果、工賃単価が切り下げられるという苦い経験をなめた労働者たちは、以後けっして自分たちの仕事の能率水準を引きあげようとはしない。みんなが能率をあげれば、そのぶんだけ雇い主はわれわれの工賃単価を切り下げようとするだろう。そう労働者たちは考える。相互の競争を避け、突出した仕事ぶりを集団的に牽制することこそが自分たちの利益を守る途だ、と。
 テーラーのこの科学的管理法は、労働者に、あるいは労働の未来に、何をもたらしただろうか。それは労働をどう変えただろうか。テーラーがめざしたように、科学的管理によって怠業は阻止されただろうか。
 テーラー・システムの登場が、労働の歴史における一つの時代のメルクマールであることは確かだが、それはどのような意味においてメルクマールなのか。要するにテーラー・システムの帰結は何だったのか。まず、各自で予想をたててみよう。

 ほかに中岡哲郎『人間と労働の未来』中公新書、ブレイヴァマン「労働と独占資本」富沢賢治訳・岩波書店を参照。

労働はつねに強いられた苦役か?

 君たちのアンケートの結果をもとにして、話をすすめていきたい。ほんとうは回答の一編一編を取り上げて議論したいところだが、典型的な回答、やや異色な回答だけを、いくつか選んで紹介したい。
 労働者の「怠け」について。これに対するテーラーの捉え方を、君たちはどう見るか、というのが私の第一の問いであった。この点については諸君の意見のバラつきは比較的小さいが、それでも対立がないわけではない。つぎに紹介する回答のどれがどれと対立し、どの主張とどの主張が相互に繋がり、補完しあっているか、それを吟味しながら読んでみてほしい。

〈怠け〉が人間の本能だという点は私も同感である。まして好まずおこなう労働や、余分に力を注いでも報酬が増えない場合は当然である。そして自分が怠けたい場合、人が勤勉に働いているのを不愉快だと思うのもよくあることであろう。
 スポーツはたいていの場合は楽しく、多くの人間が勝ちたいと思う。しかし、労働は多くの場合、苦痛である。しなくてすむなら、そうしたい。協調してしなくてすむ状況ができるなら、みんなで怠けることもするであろう。  (法4 成田美佐)

〈怠けは人間のもともとの本能である〉というのは一面において真実を突いている。〈労働〉は好き嫌いにかかわらず、〈生きるため〉にすることであるのだから、気が乗らないのにも無理はない。結果において怠業的に映るのはそのためであろう。対してスポーツは好きでやることであるから、全力を尽くしたくなるのだろう。
 また、英米における文化階層についても考えねばなるまい。貴族・富豪らによる〈上流文化〉と、それに対抗する〈労働者文化〉が、この国ぐにには存在する。〈上〉からの管理強制に対し、労働者たちはそれに呑み込まれぬようにさまざまな抵抗を試みるという〈闘争〉がつねに展開されている。いま取り扱っているケースにおいてもこうした見方が可能ではないだろうか?  (文4 飯島崇)

 一人が全力を尽くしてしまうと、工場管理者にとってはそれが全体の基準となってしまう。他の多くがサボッていることがばれて、一日のノルマの量が増えていってしまうだろう。工員たちは自分たちの仕事を怠けることにより、一日のノルマを下げる努力をしている。そうすると工場管理者のほうでも一日の仕事をあまり高くは見積もらない。工員たちは少ない仕事でホドホドの賃金を貰う。一種の駆け引きではないか、と思う。  (法4 中塚佐貴子)

 テーラーの捉え方はもっともであると思う。だれだって人間ならラクしたい、怠けたいと思う気持ちはあるはずだ。しかし、そういった気持ちと同時に、一生懸命やろう、がんばろうといった気持ちをもっていることも事実だ。実際、労働者たちがスポーツに向ける気持ちが、そのいい例だろう。それだけスポーツにがんばれるのだから、やり方しだいで労働に対しても全力を尽くすことができるはず。とくに工場労働のような協同作業の人が怠けるということは、がんばっても利益の差がなく、仕事にもやりがいがないからだろう。でも、スポーツは勝っても何の利益がつくわけでもない。  (文3 田村恭子)

 スポーツで勝ったときに得る満足感は、まさに自分の手で勝ち取ることのできるものである。それを得たときの喜びは何にも代えがたく、その充実感はほんとうに素晴らしいということを労働者やそれ以外の人はよく知っていると思う。
 工場においての労働ではスポーツのような満足感を得るのはむずかしいだろう。作り上げた製品を消費者が利用して喜んでいる姿を見ることはないし、“ああ、この仕事をしていてよかった”と思えることもないだろう。だから一生懸命やろうという気も起こらないのだと思う。  (史3 知念あかね)

 私も正直言うと授業を怠けて居眠りをしてしまうことがあるが、それは本能によって怠けるというよりも、自分がいったい何をしているのか、その行為自体に疑問や反発を感じるときに怠けているのではないか。  (文4 岩見美穂)

〈怠け〉は人間のもともとの本能だとしても、それだけではなくて、全力を尽くすことも人間の本能だと思う。スポーツで全力を尽くすのは、スポーツをするのが好きだからという基本がある。そんなにスポーツに熱中するのは、賃金のためにやっているからではないからだ。何かをやって、それで賃金を貰うことが目的なのではなくて、そのスポーツをやることそのものが目的だから。何かをする、そのことそのものに全力を尽くすのだと思う。
 工場での作業を怠けるのは、そこでの労働そのものが目的ではないから。スポーツをするように、それをするのが好きで楽しくてやっているのではなくて、労働をして賃金をもらうために労働しているから怠けるのだと思う。賃金をもらうことが目的であって、労働は賃金を稼ぐための手段にすぎない。労働そのものが目的でなく、手段にすぎないうえに、その行為が楽しくともなんともないものだったら、もう怠けるしかないでしょう。
 労働者が工場で労働をすることは、労働者自身のためということにつながらない。どんなにがんばって働いても、自分は雇用者側が儲けるための道具であり、自分はいくらかの賃金をもらうだけという立場だったら、賃金さえもらえば仕事そのものにそんなにがんばる理由も必要もなくなってしまう。  (経4 岡田美紀)

 原因として賃金の問題が関わっているのではないだろうか。仮に労働者全員が全力で働いて生産量が増えたとしても、そのぶんが自分たちの賃金に上乗せされるとは考えていなかったのだろうと思う。それならいっそ楽しくない仕事に全力を傾けるよりは、みんなで楽しめるスポーツに全力を傾けるほうがいいという考え方になってくるのではないだろうか。  (法4 富田勝治)

 彼らはスポーツの大好きな国民である。工場で仕事に全力をついやしてしまうと後の練習に響く。だから工場では手を抜いて仕事をしているのだろう。彼らは生活のためにもちろん仕事をしているのだろうが、どちらかというとあとの楽しみのためと見受けられる。スポーツが抑圧された気持ちの発散の場となっているようにも思われる。  (文4 大野和美)

 人が怠けるときとはどういうときかというと、たいてい自分が手抜きをしても安全なときである。もし自分が怠けていることがだれかに知られ、罰せられる可能性があったり、直接、給料の金額にひびくようなことがあれば、人はそんなに怠けないだろう。自分に直接害がないと、人は怠けるのである。  (聴講生 福田裕子)

〈他人を慮り、意図的に怠けがおこなわれる〉という点は何だかおもしろいと思った。“出るクイは打たれる”というアンモクのリョウカイがあって、それが働く。スポーツの場合も、労働の場合も。それが工場のなかでとくに顕著にはたらくのは、やはり労働者たちが“弱い立場”にあって、集団になる必要がある、集団にならなくてはならない、という雰囲気があるからではないか。  (史4 芹沢健治)

 テーラー自身が伏せている論点を、田村・知念・岩見・岡田さんたちは掘り起こしている。労働の質の問題だ。労働者が〈怠け〉るとすれば、それは労働がたんなる労苦、意味と魅力をうしなった苦役に堕しているからだ、というのである。
 労働というものは、どの道、そんなに魅力的なものではありえないのではないか、という疑問をもつ人も少なくはないだろう。「本来、労働は辛くて、苦しくて、きついものだ」「人はだれでも、仕事=苦、遊び=楽というイメージをもっているはずである」……そんな意見を書いている人が多かった。労働とはしょせん止むを得ずにおこなう苦役である。だからこそ、労働者たちは示し合わせて〈怠ける〉のだ。成田さんや飯島君の文章にも、いくぶんそうした見方が表現されている。現実の労働がそういうものとして存在しているのだから、このような意見が多数を占めるのは、それはそれとして当然だろう。苦役としての労働、それがまたテーラー・システムの前提でもあったはずだ。
 だが、もし労働が意味と魅力を欠いたたんなる苦役にすぎないとすれば、その労働によって人間がみずからの創造的可能性を開花させることは不可能だろう。労働は人間の自立を阻害し、その知的・道徳的な発達を抑圧する桎梏以外のなにものでもありえない。労働は「必要悪」であって、そこに積極的な価値を与えるすべての思想は欺瞞であるといわなければならないのである。このことを直視しなければならない。労働のありようが非人間的なものになればなるほど、観念的・偽善的に「労働の尊さ」が強調されるのは周知のことだ。
 もう一度、最初のアンケートを思い起こしてほしい。あそこで、百姓の息子の(労働をとおしての)学びに肯定的な評価を与えた人が、いま、労働とはしょせん必要悪にすぎぬと思うとすれば、その人の意見は一貫性を欠いており、前回のアンケートにさいして、かれの思考は自己欺瞞に陥っていたといわなければならない。

分業と仕事の単純化は労働者をラクにしたか?

 だが、労働はつねに強いられた苦役でしかありえないと断定することは、現在の労働のありようを宿命として絶対化するものではないだろうか。テーラーはそうすることによって一つの社会の労働のありようを絶対化し、絶対化することによって、それをさらに強化したのである。
 産業革命以前において、いや、産業革命の時代においてすら、労働者の熟練は多くの産業で生産力の決定的な構成要素であった。職人的労働者は独立生産者としての自立性をすでに失っていたが、にもかかわらず実際の労働過程は、仕事に通暁した労働者自身の裁量に大はばに委ねられていた。
 機械の登場がある種の手作業と熟練を不要にしたことは事実だが、反面、機械は機械をうごかし、機械を製作する新しい種類の職人的労働者を層としてうみだしてもいたのである。また、自分たちこそが職場の主人公であるという自負と発言力を、かれら職人的労働者はもっていて、それは自分たちの仕事にたいする強い誇りと愛着心とに結びついていたのである。
 かれらの「職人気質」の特徴は、すでに引用したミルズの文章が、これを簡潔に描いてくれている。職人にとっては、労働そのものが遊びであり、愉楽の源泉である、とミルズはいうのだ。かれはこうも述べている。

 職人の生活の唯一の動機は労働である。彼は労働とは無関係なたんなる安逸の世界に逃避することはない。彼は労働を通じて見出し発展せしめた価値や技能を、労働以外の生活面にも持ちこんでくる。彼の暇な時の雑談といえば仕事の話である。彼の友人も彼と同じ生活をし、彼と共通の感覚と思想をもった仲間である。彼にとっての閑暇は、彼の毎日の生活における忠実な伴侶である労働について考えるための時間なのである。職人にとっての休息はたんなる動物的な休息ではなく、次にきたるべき労働に個性を与え、新鮮な独創力を養うための思索の時間である。

(『ホワイト・カラー』杉政孝訳)

 ミルズの職人像はあまりにも清教徒的だ、と思わないわけではない。しかし、仕事のなかに自分の生きがいを見いだしている労働者がいて、また、そういう労働者の誇りと充足感をささえうる質をもった仕事が存在していたという事実は重要だろう。一人の労働者が仕事をとおして、自分の職人としての、あるいは生活者としての成長をかちとっていく、その展望なり道すじなりが日々の労働のなかに用意されていた、ということである。
 たしかに、そういう労働者は少数の特権的な存在であって、他方には膨大な単純・未熟練労働者がいた。そして、これらの誇りたかき職人的労働者を削減し、安価で使いやすい未熟練労働者にとってかえることは、産業革命以来の資本家の夢であった。
 その産業資本家たちの夢は、ヨーロッパでは労働者の抵抗に阻まれて容易には実現しなかったが、アメリカでは比較的早くから労働の細分化と単純化が進捗した。
 互換性部品の組み立てによる同一品種の大量生産は、労働の細分化や単純反復作業化をうながす最初の重要な契機となった。アメリカではつとに1798年、エリ・ホイットニーがマスケット銃の互換性部品生産を開始しており、この方式は19世紀中に時計、ミシン、タイプライター、農業機械、そして自転車工業などでも採用されていった。同じ規格の部品を同じ手順で大量につくる新しい製造方式は、複雑で多様な一品生産の作業に必要とされる熟練工の勘とコツの多くを不要なものにした。熟練労働者の層がうすく、労働力の主要な供給源を新入りの移民労働者に求めていたアメリカであればこそ、こうした方式がいち早く採用されえた、ともいえるだろう。
 ホイットニーの兵器工場を訪問した同時代者のひとりは、つぎのように記している。

 マスケット銃のいくつかの部品が、このシステムのもとで、いろいろな製造工程を数百から数千個の単位で運ばれていく。そのさまざまな工程の中で、それらは連続的に機械加工されるが、それが労力を大幅に減少させているばかりでなく、その形と大きさがきちんと定められているため、作業にあまり熟練を必要としない。この工場の構成がこのようになっているので、ほとんど経験をもたない者あるいは無経験者でも働くことができ……略……
 事実、ホイットニー氏は新入りの未経験工員への教育が容易であることを知って、違ったシステムの下で仕事を習った者の偏見と戦うよりも、そうすることを一貫して好んだのである。

(ロルト『工作機械の歴史』磯田浩訳、平凡社)

 ホイットニーが目指したこと、それは〈機械の中に技能を組み込〉んでしまうことであった、と『工作機械の歴史』のなかで、L・T・ロルトは指摘している。
 分業が進行し、労働が単純化され、ルーティン化することによって、労働者の日々の労働はより単調でより貧しいものになった。ミルズのえがく職人的労働者とは対照的に、もはや労働者は仕事のなかにスリルや手応えや達成の喜びを感得することはできない。仕事の外で――スポーツや、遊びや、ささやかな消費によって、満たされぬ日々の労働のウサを発散することがかれらの唯一の慰めとなるのである。
 つぎのような指摘は、この背景を的確に言いあてたものだといえよう。

 テーラーのいうように仮に工場の労働者が怠けたのだとしたら、それは工場が近代の産業化の典型的な場所だからではないだろうか。そこでは人間が機械のなかに組み込まれるようなかたちで、利潤追求のため徹底した合理化が行なわれる。そして一生懸命、最大限の能力を発揮すれば労働者はさらに厳しい労働条件のなかで働くことをますます強要されることになる。一生懸命やればやるほど、搾取する側が笑うだけで労働者は自分の首を絞める結果になるのではないかと思う。彼らにとって労働は生きる糧を得るための手段であり、自己実現の場とはけっしてなりえないのだ。 (文2 福原千春)

 労働者は仕事を意図的に怠けているのだと思う。きっと、彼らはこの仕事にあまり魅力を感じていないのだろう。使われる立場の人間だから、与えられたものをしぶしぶこなす、といった感じなのだろう。彼らにして見れば、ほんとうにやるべきことは他人から与えられる仕事ではなく、自分たちから行動するスポーツのほうなのだと思う。  (文2 井上陽子)

 労働者の怠業は、アメリカ人の「民族性」に起因するものであって、勤勉な日本人の民族性をもってしては理解しにくいものだ、という論旨を展開している諸君が少なからずいたのは、私としてはひじょうに気になることだ。理解するためではなく、理解を拒絶するための護符として「民族性」という呪文を振りかざしているとしか思えない。
 怠けがアメリカ社会のある歴史的な状況のなかで顕著になったということはあるとしても、それは理解可能な、そしていまの日本の状況ともけっして無縁ではない普遍的な社会事象としてあるのであって、民族性などという偏見と紙一重の曖昧な概念で一つの民族をおとしめ、理解の埒外に排除する発想をとってはならないだろう。唯々諾々と自分の首を絞めつづける日本の労働者の「勤勉さ」を、日本人の「民族性」で説明することが誤りであることと、それは同断なのだ。

(つづく)

出典:里見実『働くことと学ぶこと』太郎次郎社、1995年

里見実(さとみ・みのる)
1936年生まれ。1965年から2007年まで國學院大學に勤務したのち、現在は現代教育思想や中南米演劇などの研究と翻訳に取り組む。2022年没。
おもな著書に『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』、『学ぶことを学ぶ』、『学校でこそできることとは、なんだろうか』、『学校を「非学校化」する』(以上、小社刊)、『ラテンアメリカの新しい伝統』(晶文社)、『タイにおける地域再生運動に学ぶ』(農文協)など多数。
おもな訳書に、パウロ・フレイレ『希望の教育学』、セレスタン・フレネ『言語の自然な学び方』、ピーター・メイヨー『グラムシとフレイレ』(以上、小社刊)、ベル・フックス『とびこえよ、その囲いを』(監訳、新水社)、アウグスト・ボアール『被抑圧者の演劇』(晶文社)などが、共訳書にパウロ・フレイレ『伝達か対話か』、モアシル・ガドッチ『パウロ・フレイレを読む』(以上、亜紀書房)などがある。