フリチョフ・ナンセンと出会う│第2回│冒険と学びと平和を愛する人びとへ〈後編〉│新垣 修

リレー連載  フリチョフ・ナンセンと出会う 稀代の探検家にしてノーベル平和賞受賞者ナンセンとは、いかなる人物だったのか。21世紀のいまに届く、彼の伝言に耳をすませる。

稀代の探検家にしてノーベル平和賞受賞者ナンセンとは、いかなる人物だったのか。21世紀のいまに届く、彼の伝言に耳をすませる。

冒険と学びと平和を愛する人びとへ
ナンセンからの伝言〈後編〉
新垣 修

辱めを他者に課すことなかれ

 フリチョフ・ナンセンを知る人は、彼の多彩な経歴のどの時代に馴染みや関心があるかで、おおよそふたつのグループに分かれるでしょう。一方は、前回のエッセイで扱った冒険、つまり、グリーンランド横断や北極探検の時代。他方は、人道支援活動の時代です。今回のエッセイでは後者にスポットライトを当てますが、そもそも探検家がなぜ、人道支援活動の世界に踏み込むことになったのでしょうか。そこから話を始めましょう。最初のきっかけは、彼がノルウェー独立を指導し、外交官になったことでした。

 19世紀のノルウェーは、スウェーデンと同君連合の関係にありました。憲法や議会、政府の維持は認められていましたが、外交権は事実上スウェーデンが握っていました。つまり、ノルウェーはまだ完全独立を果たしていなかったのです。フラム号の探検成功が伝えられたちょうどそのころ、ノルウェーでは独立の機運が高まり、スウェーデンとの関係は緊迫の度合いを増していました。1905年8月にはそれが頂点に達し、軍事衝突間近の危険な空気が漂っていました。

 極北探検後に国民的英雄となったナンセンも、独立運動の輪の中心にいました。しかし彼は、スウェーデンとの武力対決を望んでいませんでした。一戦交えるべきだと叫ぶ熱狂的愛国主義者たちに、ナンセンは、両国民の未来の関係を見据えながらこう説きました。

「われわれは、自分たちが苦しんだような辱めを他者に課すことを望まない。許容と寛容によってスウェーデンを助けよう。それは、われわれにとって合理的かつ賢明なことだ。スウェーデン国民を辱めることなく、連合を解消できるはずだ」

 ノルウェー政府は、独立運動の中心にいたナンセンを非公式の特使に任命して、英国への接近を図ります。ナンセンは1か月近く英国に滞在して、母国独立の正当性を訴えました。ノルウェーの国民投票で立憲君主制が多数を占めると、ナンセンの外交努力も実を結び、同国はついに完全独立を果たすのでした。

 独立のために働いたナンセンの人気は絶大で、ノルウェーの首相か大統領になるよう誘いがありました。彼はそのたび、「私は学者であり探検家であるから」という理由で申し出を辞退しました。しかし、国王がノルウェー大使となるよう求めたときにはもう断れず、1906年、ナンセンは在英国ノルウェー大使となりました。これが、外交の世界に彼が踏み込んだ経緯です。

「新しい船」国際連盟

 ナンセンが国際問題に関与したもうひとつのきっかけは、第一次世界大戦後に設立された国際連盟です。戦争がもたらした惨害に、ナンセンは深く傷つきました。しかし彼は、軍縮や民族の自決、植民地問題の公正な解決といった原則を源流に発足した国際連盟に平和の灯火を見出します。そして、国際連盟に極北探検時のフラム号を重ねあわせ、人類の希望を乗せて新たなコースを帆走する「新しい船」と呼びました。

 人びとの強欲の衝撃やエゴイズムの圧力をしなやかにかわすべく、これまでにない発想で建造される船が必要だ。その船は、フラム号のように、だれも見たことのない、まったく新しいものでなければならない。そして、少数の強者ではなく、すべての人びとの同意によって舵が取られるべきである──そんな思いから、ナンセンは、講和会議や国際連盟の活動にノルウェー代表一員として参加しました。

 ところが、講和会議や国際連盟は、彼が理解していた理想からずいぶんかけ離れたものでした。それはまるで、一部の強者が、自分たちに都合のよい「古い船」を再建するかのようでした。描かれた理想と、目の当たりにしている現実。その溝に愕然としながらも、ナンセンは、国際連盟を「新しい船」にしようと努力を続けました。

 やがてナンセンは、国際連盟において傑出した存在となりました。彼の役割のひとつは、委任統治に関する報告者でした。委任統治とは国際連盟における統治方式のことで、連盟から委任された国が、独立していない地域を統治することです。じつはナンセンは、グリーンランド横断時に、約5か月間にわたりイヌイットと生活を共にしています。そんな経験をもつのは、国際連盟では彼だけでした。そのとき、20世紀における世界平和達成の鍵を知ったのかもしれません。

「世界における先進の人民と途上の人民の関係は、今世紀を運命づけるものであり、計り知れないほど重要なのだ。世界平和とわれわれの文明の基礎が今後どうなるか。その答えは、この関係によって生じる問題をどう解決するかだろう」

1920年11月15日、スイスのジュネーブで開かれた国際連盟第1回総会
ノルウェー代表を務めるナンセンは、4列め左から2番めに座っている[Boissonnas撮影、NLN]

ナンセン・パスポートは偉大な一歩

 第一次世界大戦直後の国際社会は、難民問題に揺れていました。革命やボリシェヴィキの台頭による政治的影響だけではなく、かんばつなどによる社会的影響のため、ロシアから多くの人びとが出国したのです。難民は、貧困に苦しみ、孤独に怯える惨めな日々を送っていました。ところが、各国政府は、パスポートを持たず不規則に入国する難民が社会事情を悪化させ、雇用市場を圧迫する脅威になるかもしれないとみていました。

 そこで国際連盟は、1921年にナンセンを「ロシア難民高等弁務官」に任命しました。ナンセンと彼の同僚たちは数多くの難民を救済しましたが、その活動は難民の命を守ることだけにとどまりませんでした。ナンセンらは、これをたんなる慈善緊急支援と考えたわけではなく、国際政治の枠組みに位置づけ、国家を問題解決に直に関与させようとしたのです。具体的には、通行許可証と身分証明書の機能をあわせもつ国際証明書の発給を各国に提案しました。「ナンセン・パスポート」として知られるものです。各国政府は、ナンセン・パスポートを発給することで難民の存在を国際的に承認し、これを所持する人びとを正式に受け入れるようになりました。このパスポートをナンセンは高く評価しました。

「ロシア難民受け入れにおける、より公平な分担に向けての偉大な一歩である」

左:フランス発行のナンセン・パスポート。右:ブルガリア発行のナンセン・パスポート
[左:米国議会図書館、https://hdl.loc.gov/loc.wdl/wdl.11576/右:Jan Dalsgaard Sørensen撮影、Fridtjof Nansen Institute]

 ナンセンたちはまた、労働力が余剰気味の国家から、それが不足している国家へと難民を移動させるよう尽力しました。たとえば、ブルガリアでの道路工事の労働力を補うため、数千人の国際移住の調整を図りました。のちになって、ナンセンはより自覚的に、難民支援をヨーロッパの雇用問題解決に結びつけようとします。

 さらに、多くの難民がその日のパンを手に入れることで精一杯だったこのころ、ナンセンは、高等教育を含む教育の機会の提供に強いこだわりをみせました。そこにはふたつの局面がありました。ひとつは、ロシアへの自主的帰還が実施された場合です。難民の大学生や教育を受けた子どもたちが帰還後、受け入れ国で得られた知識や技術を用い、ロシアの復興に貢献することへの期待です。もうひとつは、ヨーロッパ各国による受け入れや定住が続く場合です。現実にも、ほとんどのロシア系難民は帰還できませんでした。しかしそれでも、難民の教育は社会にとって有益だとナンセンは考えました。

「難民の利益に資する国際連盟の働きにより、勤勉で高等教育を受けた難民が世界のさまざまな地域にわりあてられ、定住した。これにより、文明化の基準が引き上げられた」

 このように、ナンセンが主導する難民支援は、命の救済だけではなく、ヨーロッパの社会的・経済的安定、ひいては未来の平和まで見据えたものとなりました。

数千万人を見殺しにできるのか?

 グリーンランドを横断し、北極点に最接近した若き日のナンセンは、たびたび英雄として描かれます。「失敗するはずだ」という周りの声をはねのけ、だれも思いつかなかった方法で過酷な自然にたち向かった彼は、たしかにヒーローでした。しかし、人道支援時代の「ナンセン船」は、順風満帆とは呼べませんでした。大流にもまれて遠くまで押し戻されたこともあれば、難破寸前まで追いやられたこともあります。

 たとえば、1921年から翌年にかけロシアで発生した飢饉に対応するための救済支援です。ロシアでは革命や旱魃に続き、穀物の大凶作が起こりました。食糧政策のまずさも手伝い、多くが餓死しかねない状態に追い込まれていました。とくにウクライナなどの事態は深刻で、刻々と冬が近づくなか、多くの人びとが死の淵に立たされていました。

 飢餓の危機にある人びとに心を痛めたナンセンは、数千万の命が脅かされている事情を説明し、支援を求めました。しかし、各国の反応は冷たいものでした。

「飢饉よりも大きな脅威がある。それは共産主義イデオロギーだ」

 西側とロシア=ソ連政権の外交関係が冷えきっていた時期、これが国際連盟における支配的な見方だったのです。各国政府は、飢饉と飢餓に苦しむロシア人を助けることで共産主義体制が強化されることを恐れていました。そのため、国際連盟は消極的姿勢に終始したのです。

 大きな失望とともに、悲しみとも怒りともつかない情念を抱きながら、ナンセンは、国際連盟総会の壇上から加盟国代表に語りかけました。

「私は信じている。そこにじっと座り、何もできなくて残念だと、冷淡に応えることなどあなた方にはできないと。人類の名において、純粋で神聖なものすべての名において、私はあなた方に訴える。家では妻や子が待つあなた方に、私は訴える。考えてみたまえ。女性や子どもたちが飢えて死を迎える、これが何を意味するのかを。私はこの場から、各国政府に、欧州の人びとに、そして世界に救済を訴える。急ぐのだ。とり返しのつかない後悔をするまえに」

 彼の演説は万雷の拍手を得ました。しかし、それ以上のもの、つまり、国際連盟からの実質的な援助はありませんでした。

飢饉に見舞われたロシアで。1921年11月〜12月、現地を視察したナンセンが撮影した写真から
左:マークシュタットの病院にて。右:ヴォルガ地方の孤児院にて[NLN、NRK]
子どもたちが食料配給所で受けとる食べものを味見するナンセン[NLN]

戦争の経費を難民のために

 ナンセンは、もうひとつの活動でも苦渋をなめました。1926年から1929年のあいだに膨大なエネルギーを捧げた、ロシア在住のアルメニア系難民の支援です。ナンセンがその支援に尽力した理由は、彼らの悲惨な状態に心を痛めただけではありません。19世紀以降、周りの大国に翻弄されてきたアルメニア人こそ、彼ら自身の大地、つまり、独立国を持つべきだと思ったのです。それが、戦後の新たな国際秩序の下で平和を生みだす土台となるはずだと信じていました。

 そのため、ナンセンは絶え間なく働きました。ロシアの定住地域を現地調査した彼は、水不足を問題視し、アルメニア系難民が定住できるよう、かんがいや排水を進めるための資金集めに奔走しました。国際連盟や関係各国を説得するとき、必要な融資額は戦艦の2年間の維持費分で十分だと述べました。

「戦争に使われた金銭は、その後の改善のためにはなんの役にもたたない。だが、難民への融資は再生産的だ。人びとの家と幸福を築き、世界の繁栄を増進するのだから」

 にもかかわらず、国際連盟と各国の反応はそっけないものでした。いったんは支援を約束した主要各国が、その後、すべてを「忘れる」こともありました。この問題を解決するために結んだ各国の約束のほとんどはにされました。ナンセンにはそれが裏切りにも思え、ときには厳しい口調で批判しました。ですが結局、政治の壁を乗り越えることはできませんでした。

 事態の打開をねらったナンセンは、難民高等弁務官職の辞任を申し出ました。ところが、国際連盟は辞表の受けとりすら拒否。ナンセンはおおいに気落ちしました。アルメニア系難民救済にかかわる経験は、彼の心に深い失望と挫折感を刻印しました。彼が願った結果からあまりにかけ離れていたからです。このころの激務と失意により、ナンセンは徐々にやつれ、周りにはそれが惨めにすら映ったほどでした。

 しかし、報われなかったナンセンの努力への惜しみない敬意と恩は、アルメニア人によって示されてきました。ナンセンがこの世を去ったあと、ナンセン事務所の所長となったマイケル・ハンソンは、アルメニア人を前にアレッポで講演をしたときのことを回顧しています。

「私の口から『ナンセン』という言葉が出るやいなや、すべての観衆が立ち上がり、2分間の黙祷を捧げた」

 そしていまなお、ナンセンは世界各地で生きるアルメニア人の記憶の中に生きています。1991年に誕生したアルメニア共和国には、ナンセンにちなんで命名された道路や場所、建物が数多くあります。ナンセンの働きを忘れない人びとは、いまだ、オスロにある彼の墓を訪ねては感謝の言葉を捧げるのです。

シリア、アレッポのアルメニア系難民[Vartan Derunian撮影]
アルメニアを視察するナンセン。1925年6月。ギュムリにある孤児院にて[NLN]

むすびにかえて──筆者からのメッセージ

「ナンセンからの伝言」をお読みいただき、ありがとうございました。フリチョフ・ナンセンという人物に、どのような印象をもたれたでしょうか。

 つい先日、私は『フリチョフ・ナンセン──極北探検家から「難民の父」へ』を上梓しました。執筆中に私が垣間見たナンセンの姿は、けっして、難題をなんなくクリアする超人ではありませんでした。とくに人生の後半で、裏切り、冷遇、無関心という大波に幾度も打ち砕かれるさまは、むしろ不器用な人間そのものです。

 しかし、ナンセンのそんな生々しい姿にこそ、彼の真価があるのだと思います。ナンセンは幾度も転びました。しかしそのたび、飢えに苦しむ人びとや難民のために立ち上がり、彼らの盾となろうとしました。闇の中で輝き、これに打ち勝つ光となろうとしました。

 21世紀のいまにおいても、ナンセンと同じ価値を内面に備えた人は、けっして少なくないと思います。「自分ファースト」が当然視されつつある時代ですが、家族や友人はもちろん、隣人、そして見知らぬだれかのために日々奮闘する人びとがいます。転んでも、倒れても、また立ち上がり、もう一歩踏みだそうとする人びとがいます。闇の中で輝き、これに打ち勝つ光になろうとする人びとがいます。

 この本は、そんな人びとに時を超えて届けられる、フリチョフ・ナンセンからの伝言です。くじけそうなとき、尻込みしたくなるとき、彼はきっと何かを語りかけてくれるはずです。

ナンセンが北極探検に使用したブーツとナイフ[Jan Dalsgaard Sørensen撮影、Fridtjof Nansen Institute]

(前編から読む)

新垣 修(あらかき・おさむ)
沖縄出身。国際基督教大学(ICU)教養学部教授
PhD in Law (Victoria University of Wellington)
国連難民高等弁務官事務所法務官補、国際協力事業団(現・国際協力機構)ジュニア専門員、ハーバード大学ロースクール客員フェロー、東京大学大学院総合文化研究科客員准教授、広島市立大学教授などを経て現職
主著
『フリチョフ・ナンセン──極北探検家から「難民の父」へ』太郎次郎社エディタス、2022年
『時を漂う感染症──国際法とグローバル・イシューの系譜』慶應義塾大学出版会、2021年
The Oxford Handbook of International Refugee Law (chapter contribution/co-author, Oxford University Press, 2021)
The UNHCR and the Supervision of International Refugee Law (chapter contribution, Cambridge University Press, 2013)
Refugee Law and Practice in Japan(single author, Ashgate Publishing, 2008)

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