フリチョフ・ナンセンと出会う│第1回│冒険と学びと平和を愛する人びとへ〈前編〉│新垣 修

リレー連載  フリチョフ・ナンセンと出会う 稀代の探検家にしてノーベル平和賞受賞者ナンセンとは、いかなる人物だったのか。21世紀のいまに届く、彼の伝言に耳をすませる。

稀代の探検家にしてノーベル平和賞受賞者ナンセンとは、いかなる人物だったのか。21世紀のいまに届く、彼の伝言に耳をすませる。

冒険と学びと平和を愛する人びとへ
ナンセンからの伝言〈前編〉
新垣 修

リアル何刀流?

 ハンク・アーロン賞候補やチーム内MVP&最優秀投手に選ばれるなど、2022年度も活躍した大リーガー、大谷翔平のことを知らない読者はまずいないでしょう。いうまでもありません。先発投手として15勝を挙げ、打者としても34本塁打を叩きだした「リアル二刀流」です。

 一方、フリチョフ・ナンセンという名前にピンとくる読者はまず多くないでしょう。1861年、ノルウェーのクリスチャニア(現在のオスロ)近くで生まれ、第一次世界大戦前後を生きた人物です。20代半ばに理系分野で博士号を取った直後、グリーンランドの横断に旅立ちこれを成功させ、30代半ばには人類としてもっとも北極点に近づく記録を打ち立てました。40代半ばには母国・ノルウェーの独立に尽力し、在英国ノルウェー大使に就任。帰国後は、科学者として海洋学の土台づくりに貢献しました。50代半ばには、食糧危機に面した母国のため、使節団団長として米国と交渉。その後、国際連盟ノルウェー代表となると、捕虜帰還高等弁務官、ロシア難民高等弁務官、ロシア飢饉救済事業高等弁務官を兼任します。

 ナンセンは、その人道支援活動の功績が讃えられ、1922年にノーベル平和賞受賞を受賞しています。独立を願う母国の人びとを極北探検の成功で奮い立たせた外交官。動物学や海洋学などを専門とする学者。数えきれないほどの人びと──戦争捕虜や飢餓に苦しむ人びと、難民、無国籍者──の命を救った人道の巨人。いまであれば、彼は、「リアル・・・刀流」などといわれるかもしれません。

 今回と次回のエッセイでは、この、フリチョフ・ナンセンという人間──私たちと同じひとりの人間──が進んだ人生航路をたどり、21世紀のいまにも届く、彼の伝言を拾い集めることにしましょう。

56歳ころのナンセン[National Library of Norway (以下、NLN)]

困難と不可能の定義

 長身でナチュラルな筋肉。彫像のような表情に鋭い眼光。意思の強さが宿る怜悧な口もと。強靭、無骨で頑固な人。ひとたび目標を立てたら丹念に計画し、前進をはばむ壁があればそれを突き崩してでも達成をあきらめない超人。人並はずれた能力を武器に、ときには無謀とも思える押しの一手と、ねじ伏せるような力で手中におさめた成功。情熱と才能、野望が一体化し、「威風堂々」という言葉がよく似合う人物。ナンセンは、そんな印象で伝えられたり、語られたりします。

 あなたなら、「困難」と「不可能」をどう定義しますか? ナンセンはこう述べています。

「困難とは、ほとんど時間をかけずに何かをなしとげられることである」
「不可能とは、解決までに少しばかり時間がかかることである」

 どこまでもポジティブ思考。若いころのナンセンはそれが顕著でした。ですが、年齢と経験を重ねるにつれ、彼の内面のある部分が目立つようになりました。それは、何かに抗うだけではなく、自然の流れを受け入れ、むしろその流れに助けてもらうという姿勢です。それはあたかも、大海原の大流に身を任せ、「漂流」しながら目標地点に達するような生き方でした。

 同時に、知的好奇心や個人的野心に根ざした彼の関心は、なにひとつ希望を見いだせない人びとの救済と、世界平和の実現への挑戦へと移っていきました。自力ではどうにもならない閉塞的状況におかれた人びとのことを知ると、当時の国際政治の大流にみずからを巧みにゆだねながら、彼はだれにもまねできない独創的な方法で打開を試みたのです。闇の中で輝く光となり、闇に打ち勝とうとしたのです。

退路を断て

 スポーツに親しむなど快活な幼少期を過ごしたナンセンは、1881年にフレデリク王立大学(現・オスロ大学)に進学します。専攻したのは動物学。1888年、26歳のとき、「中枢神経系の組織学的要素の構造と組み合わせ」というタイトルの論文で博士号を授与されました。この論文の価値をひとことで表現するなら、のちの「ニューロン説」に先行する研究だったことです。ニューロン説は、神経細胞が個々に独立していて、それぞれが接触することで神経が構成されている、というものです。ナンセンの博士論文は、ニューロン説の概念を、脊椎動物の神経細胞などの観察と考察の結果から得られた範囲ですでに説明していました。

 研究室にじっと引きこもって顕微鏡をのぞきこみ、観察と解析に没頭する日々。その「静」の姿は、のちの極北探検家や人道支援活動家の「動」のイメージとは対照的です。当時の自分を、ナンセンはこう表現しています。

「私は顕微鏡の中で生きていた」

左:ベルゲン時代のナンセン[Sophus Williams撮影、NLN]、右:博士論文に掲載された神経組織図

 博士号取得から4日後のことです。世界最大の面積をもつ島、グリーンランドの氷冠を越えることを夢見ていたナンセンは、その横断に旅立ちました。極寒、不毛の島の内陸に足を踏み入れ横断した者は、少なくとも記録上は皆無でした。東海岸には船が待機できなかったので、デンマーク人が入植している西海岸に上陸して内陸に入り、Uターンして戻る──これがそれまでのグリーンランド探検の常識でした。つまり、横断という発想がなかったのです。

 ナンセンはこの常識に挑戦します。東海岸を出発し、西海岸を目指すというのです。西から出発したなら来た道を引き返せばいいのですが、東海岸出発なら、船が待てない出発地への後戻りはききません。進む道はただひとつ。前へ。ナンセンはこう語っています。

「退却の道を確保することは大きな賞賛を受けるが、目標に到達したいと思っている人びとにとっては罠である。私はいつもそう思っていた」

 グリーンランド横断計画のもうひとつの驚きは、スキーによる横断という手段でした。当時、移動手段としてのスキーの有効性は未知数でした。スキーヤーが内陸の氷を横断するという発想自体がそもそもなかったのです。おきて破りの逆ルートとスキーでの横断はあまりに独創的だったので、世間からのバッシングは凄まじいものでした。人びとはナンセンのことを、浅はかで荒唐無稽、彼の計画は失敗すると嘲りました。大谷選手が大リーグに二刀流で挑んだとき、「常識はずれだ」と批判されたことを思い出します。

 大谷選手は結果で批判を黙らせましたが、ナンセンも同じでした。1889年のことです。食料や水の不足、ルート変更といったさまざまな苦難を乗り越え、ナンセンは、記録上人類初のグリーンランド横断を無事成功させてノルウェーに帰国しました。27歳の彼は、楽団の演奏と大砲、蒸気船の艦隊とともに、岸壁を覆うほどのたくさんの人びとの歓声に迎えられ、一躍、時の人となりました。

ソリを引く隊員たち。1888年8月〜9月[ナンセン撮影、NLN]

極北探検

 やがてナンセンは、北極探検という夢を抱きます。当時、多くの探検家たちが人類初の北極点到達をねらいましたが、すべて失敗に終わっていました。なかには、船が流氷に挟まり大破するなど、悲劇的末路をたどるケースもありました。北極点までの最短距離をねらい、海流に逆らったことが過去の失敗の一因であることに気づいたナンセンは、独創的なアイデアで北極に挑みます。それは、シベリアから北極に侵入し、北極の氷をかき分けながら進んだあと、みずから船を流氷の中に「氷結」してそのまま「漂流」する、つまり、海流の力を借りながら、北極点、あるいはその付近に到達する、というものでした。

 これを成功させるため、ナンセンは、北極の氷群の圧力に耐えられるだけの構造をもつ頑丈な船を造りました。その船は「フラム号」。「フラム」(fram)とはノルウェー語で「前へ」という意味で、名づけ親はナンセンの妻でした。北極で船が凍結されれば、後戻りはきかない、もう、「前へ」進むしかない──ナンセンの計画と、ナンセン自身を象徴するかのような船名です。

 フラム号で旅立った北極探検は3年以上にわたりました。途中、ひとりの隊員と犬たちとともにフラム号から降り、みずからの足で極点をねらいました。極寒のなか、凍傷のためほとんど皮のむけた素手でもつれた犬の引き網を解いてやる作業は、もはや拷問でした。疲労のあまり、なんと歩いている途中で寝落ちすることもありました。しかも、立ちはだかる氷と雪にはばまれ、また食料不足のため、極点到達の達成を断念せざるをえませんでした。それでもナンセンは、1895年4月、人類史のうち、北極点にもっとも近い地点に到達しました。

 帰路の旅もまた苦難の連続で、壮絶という言葉のほうが適切かもしれません。スキーと徒歩、カヤックで、ナンセンと隊員は犬たちとともに果てしない氷上を移動しつづけました。疲労困憊のすえ、ある日、ふたりは腕時計のネジを巻くのをうっかり忘れてしまいました。GPS発信機などない時代です。一日の異なる時間の太陽の角度を利用し、経度・緯度を計算して現在地を割りだしていました。あわててネジを巻き直してみたものの、もうそこから先は、自分たちの正確な位置に自信がもてなくなっていました。

 これまで連れ添った犬たちを弱った順にみずからの手で殺め、その肉を刻み、生きている犬たちに餌として与える仕事は恐ろしいことでした。ときには飢えをやりすごすため、自分たちも犬の血を煮詰めたスープをすすることもありました。張りつくような生ぬるい鉄の味が喉もとを通りすぎるまでたえるのも、生き抜くためでした。

 恐ろしいといえば、ホッキョクグマに肝を潰されたこともあります。ナンセンたちを背後からつけてきたと思われるホッキョクグマは、まず隊員の側頭部に一撃をくらわしました。彼は、目から火が出るほど驚いてひっくり返りました。そこで、一方の手で拳をつくってホッキョクグマの攻撃を防御し、もう一方の手でその喉をつかむと全力で締め上げました。ナンセンと犬たちも助太刀したので、隊員はどうにか窮地を脱することができました。

氷の中のフラム号。1894年7月1日[ナンセン撮影、NLN]

極北を科学する

 ナンセンの大胆な計画と行動は、えてしてセンセーショナルな冒険として語られがちです。しかし、それは一面にすぎません。北極点制覇は確かにナンセンの野望でしたが、それ以上に、大切な目的がありました。それは調査です。科学者であった彼は、北極探検の真の意義を、科学への貢献ととらえていました。

 フラム号の隊員たちは、全長39メートル、全幅11メートル、船舶が水に浮いているときの船体の最下端から水面までの垂直距離5メートルという閉じられた船で、数年間を過ごしました。外界から完全に遮断された狭い空間での生活は、さながら「氷上の巣ごもり」のように思えます。ですが、ナンセンにとってはそうではありません。むしろ、「洋上の研究室」でした。彼は回想しています。

「フラム号での日々は、研究を行なう素晴らしい好機だった」

 北極探検のあいだ、ナンセンは、海水温度と塩分量の測定や天体観測、海流の調査などを丹念に行なっています。そのときに得られた調査結果は、海洋学や気象学などで長く活用されました。とりわけ注目すべきは、彼が持ち帰った情報により、北極には陸地がなく、そこが流動しつづける流氷に覆われた「どんぶり型の深海」であることが実証されたことです。また、北極海の水深が、4,000メートルを超えることも判明しました。

左:採水器を使った海水の測定。1894年7月12日[NLN]、右:ナンセンによる北極海の海底地形図[Fridtjof Nansen Institute]

 さらに、北極探検では、次世代に引き継がれる基礎データと重要な仮説も得られました。ナンセンはフラム号で航海中、「死水」あるいは「船幽霊」といわれる不気味な現象に、幾度も遭遇しました。風を切って航行したり、エンジンを全速力で回したりしても、船が何かに捕まったかのように、その場から離れられない状況に突然陥るのです。そこで彼は、さまざまな深さの水を採取し、その温度と塩分濃度を測定しました。その結果、表面には氷が溶けた汽水層、その下に塩分の高い海水があり、そのふたつの層のあいだに境界部があることを発見するのです。また、その境界部に内部波(液体内部で発生する重力波)が起こっていることも観測しました。

 ナンセンは、フラム号で得た情報を、スウェーデン出身で才能あふれる若き研究者、ヴァン・ヴァルフリート・エクマンに渡し、「死水」「船幽霊」の科学的解明を依頼しました。そしてエクマンは、みごとにその期待に応えます。この現象を水槽実験で再現することで、海水圧縮率の視座からこれを説明できたのです。エクマンのこの実証的な取り組みは、海の内部波の研究の基礎形成に寄与することになります。

 ナンセンは、ひとつの専門分野に閉じこもるタイプの科学者ではなく、科学者という枠には収まらない学者でした。動物学の分野から始まった学術的関心は、北極探検を境に、海洋学へと拡がり、彼はその体系化に貢献しました。のみならず、関わった分野は、地質学や解剖学、さらには地域研究や政治経済学まで網羅しました。ただ、彼が自由に超えたのは学問分野間の壁だけではありませんでした。ナンセンは、実践でも新たな領域に飛び立ってゆくのです。それは、人道支援。

 極北探検から人道支援へ。ナンセンは、新たな航路を、どう切り拓いていくのでしょうか。

(後編につづく)

新垣 修(あらかき・おさむ)
沖縄出身。国際基督教大学(ICU)教養学部教授
PhD in Law (Victoria University of Wellington)
国連難民高等弁務官事務所法務官補、国際協力事業団(現・国際協力機構)ジュニア専門員、ハーバード大学ロースクール客員フェロー、東京大学大学院総合文化研究科客員准教授、広島市立大学教授などを経て現職
主著
『フリチョフ・ナンセン──極北探検家から「難民の父」へ』太郎次郎社エディタス、2022年
『時を漂う感染症──国際法とグローバル・イシューの系譜』慶應義塾大学出版会、2021年
The Oxford Handbook of International Refugee Law (chapter contribution/co-author, Oxford University Press, 2021)
The UNHCR and the Supervision of International Refugee Law (chapter contribution, Cambridge University Press, 2013)
Refugee Law and Practice in Japan(single author, Ashgate Publishing, 2008)

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