フリチョフ・ナンセンと出会う│第4回│極地探検史とナンセン——時代と融合した稀有な存在│荻田泰永

リレー連載  フリチョフ・ナンセンと出会う 稀代の探検家にしてノーベル平和賞受賞者ナンセンとは、いかなる人物だったのか。21世紀のいまに届く、彼の伝言に耳をすませる。

稀代の探検家にしてノーベル平和賞受賞者ナンセンとは、いかなる人物だったのか。21世紀のいまに届く、彼の伝言に耳をすませる。

極地探検史とナンセン
時代と融合した稀有な存在
荻田泰永

 私は2000年より、カナダ北極圏やグリーンランド、北極海、南極大陸を中心に、おもに単独徒歩による冒険をおこない、これまで北極と南極を1万キロ以上歩いてきた。2012年と2014年には、北極点無補給単独徒歩到達という、極地冒険の最高難度に挑戦したが、到達は果たせなかった。また、2018年には日本人では初となる南極点無補給単独徒歩を成功させることができた。この20年、極地に向きあって生きてきた私にとって、ナンセンとは探検家としてだけでなく、人間として最大級の尊敬の念を覚える人物である。

 ナンセンの人生全般に関しては、本連載の第1回第2回で、『フリチョフ・ナンセン』著者の新垣修さんがまとめているので、どのような人物かはぜひ一読いただきたい。私も北極圏を中心とした冒険をおこなう身なので、ナンセンによるフラム号の漂流航海がどれだけの偉業であるかを書こうかと思ったのだが、前回の服部文祥さんに熱く語られてしまった。さて、何を書くべきかと悩んだ。私の視点からナンセンの政治家としての側面を書くこともできず、やはり探検家という視座からの話になる。そこで、ナンセンという個人の探検家像ではなく、極地探検史をとおして見たときの、ナンセンの立ち位置とその業績に関して語ってみたいと思う。

2014年、北極点無補給単独徒歩挑戦時の筆者。この年の北極海の海氷は荒れに荒れていた
2014年、北極点無補給単独徒歩挑戦時の筆者。この年の北極海の海氷は荒れに荒れていた
(以下、写真は荻田氏のもの──編集部)

時代とともに変遷する北極探検の動機

 そもそも極地探検が本格化したのは16世紀、大航海時代を迎えた欧州に始まる。大航海時代のまえ、マルコ・ポーロが残したと伝わる「東方見聞録」のなかで、アジアの豊かな資源について紹介された。欧州では豊かな東方への志向が高まるが、陸路を行くのはあまりに困難で時間がかかった。15世紀になり、造船技術が向上したことをきっかけに、大航海時代が幕を開けた。

 最初に世界を支配したのは、ポルトガルとスペイン、ふたつの海洋国家だった。トルデシリャス条約により、アメリカ大陸を含む世界を東西に二分していた。当時の探検家というのは、新世界に版図を広げていくための先遣部隊である。

 大航海時代以降の探検の動機として「三つのG」という言葉がある。Gold、Gospel、Groly である。経済、宗教、名誉、という「三つのG」による動機に後押しされ、各国は世界に覇権を広げていった。香辛料をはじめとするアジアの資源を求めた経済活動。新世界を中心にカソリック教会が手を伸ばした宗教活動。そして、新たな発見を誇りとした名誉への希求。

 スペインとポルトガルに追従しようとねらう国もあった。それが、オランダやイギリスだった。後続国もアジアに手を伸ばしたいが、アフリカや南米の南端を周航する既存航路はスペインとポルトガルに押さえられ、手が出せない。であればと、未だ手つかずの北方に新規航路開拓を求めた。ユーラシア大陸の北側を通過する北東航路、そして北米大陸の北を通過する北西航路、ふたつの航路開拓をねらい、北極の探検が始まった。

 16世紀から17世紀には、いくつかの探検隊がイギリスやオランダから北極圏に派遣された。しかし、スペインとポルトガルが弱体化するにつれて、北方への航路開拓の必要性が失われ、やがて北極探検は忘れられた存在となった。

 世界がふたたび北極圏に目を向けはじめたのが19世紀。当時、世界に覇権を拡げていたのが、イギリスとフランスの二か国。両国は長い戦いのすえ、1815年にナポレオンが打倒されることで、イギリスが勝利を収めた。が、その直後にイギリス海軍はある問題を抱えた。フランスと戦うために海軍力を増強してきたところ、肝心の敵を失ったことでその使い道がなくなってしまった。兵卒は人員整理できても、将校は残る。イギリス海軍は、将校ばかりがあふれる不均衡な海軍となってしまった。戦う敵も失い、やることのない将校ばかりの海軍では出世もできない。その将校のなかから、自分たちが出世できる機会を創出するため、長らく忘れられていた北極探検に目を向ける者が現れた。

 海軍副大臣ジョン・バロウが政府に働きかけ、イギリス海軍が中心となって北極探検が始まった。この前世紀の18世紀、博物学の発展とともに、未知の動植物や鉱物を求めて探検家が世界に出ていく時代を迎えていた。かつて大航海時代の探検が、経済・宗教・名誉に顕される動機であったものから、探検と科学が結びつく時代になっていた。19世紀、イギリスでふたたび始まった北極探検の動機は、表向きは科学であったが、その根底にあったのは海軍将校たちの出世の機会創出でもあった。

 イギリスは、当時自国領であったカナダ北部の未知の海域を明らかにするため、多くの探検隊を派遣する。そのなかでは、1845年に出発したフランクリン隊129名全滅という、悲惨な結末を迎える隊もあった。ナンセンは、フランクリンの探検記に強く影響を受けている。フランクリンがなぜ帰ってこれなかったのか、英国流の探検の構えの是非を研究していた。

フランクリン隊も臨んだランカスター海峡を、100kgものソリを引きながら進む筆者(2011年)
フランクリン隊も臨んだランカスター海峡を、100kgのソリを引きながら進む(2011年)

探検・科学・政治の結びつきの頂点で現れたナンセン

 こうして、北極探検の歴史というのは、その動機を含めて時代とともに変遷していった。フランス革命以降、国民国家が形成されていくことで、国民が所属する「国家」の意識が欧州を中心に醸成されていく。ここで探検は政治とも結びつき、「国威発揚」にも利用されていく。個人の探検の成果が、民族的な成果に置き換えられ、国家的な一体感を演出するものとなる。ナンセンがグリーンランド横断を成功させ帰還したさいや、フラム号による北極海漂流を終えて帰還したさいの熱狂は、まさにこれだ。

 探検と科学、そして政治が結びつき、その頂点で登場したのが、フリチョフ・ナンセンである。探検、科学、政治のそれぞれで世界最高峰の実績を挙げた人物だといえる。本連載の前回で服部文祥さんが書いたとおり、探検家として人類史上最高峰であるといえる。また、科学者としてだれも解明していなかった北極海の謎を解き明かし、その後の北極研究にも多大な影響を与えた。そして、難民支援をはじめとした人道活動をおこない、ノーベル平和賞を受けるほどの政治家となる。

 ナンセンは、多くの発見をした点で優れた探検家であったが、また彼が残した問いも、のちの世に大きな影響を与えた。

 フラム号による北極海漂流は、シベリア沖で沈没した探検船ジャネット号の残骸が、3年後に遠く離れたグリーンランドの海岸線に打ち上げられていたことに端を発する。この事実を知ったナンセンは、北極海を横断する海流が流れているにちがいないと確信し、フラム号をその海流に乗せて漂流させようと試みた。それから約40年後、1937年に当時のソ連科学アカデミーは、北極点に設置した観測所に人員を残し、数か月に渡って漂流させながら科学的な観測をおこなった。この発想の端緒となったのも、ナンセンの漂流航海に多大な影響を受けてのものだった。ナンセンが残した問いは、のちの世の研究者たちの手で解明され、科学は発展していった。


カナダとグリーンランドを隔てるスミス海峡。筆者の2016年の単独行では、この氷上を歩いて渡った
カナダとグリーンランドを隔てるスミス海峡。2016年の単独行では、この氷上を歩いて渡った

航空機と無線通信が存在しない最後の時代

 ナンセンが探検をした時代というのは、地球の大きさが人間と比例関係にある、本来の地球の大きさのなかで探検ができた最後の時代だった。20世紀になり、第一次大戦を迎えると科学技術が飛躍的に進歩する。そこで進歩した技術は探検の世界に持ち込まれ、探検は劇的に変化した。その技術の最たるものが、航空機と無線通信だろう。このふたつの技術が、物理的な距離の壁を決定的に超えた。

 ナンセンが探検家だった時代は、この主要な技術が「存在しない」最後の時代だったのだ。

 航空機と無線通信というふたつの技術がもつ意味とは何か。単純な話で、無線通信は連絡がとれる、航空機は助けにいける、ということだ。現代の、都市生活に慣れシステムの奴隷のように生きる人びとにとっては、いつでも連絡がとれて、いざというときには助けにいけるほうがよいことであると考えるだろう。しかし、文明世界と北極海という物理的な距離が存在することで、人間の身体性は真に開花する。どうあがいても連絡はとれず、助けもこない。その瀬戸際に立たされたとき、人間が真に輝く瞬間を迎える。科学技術の射程外に人間が飛び出るとき、身体性をもって人類に新たな知見をもたらす人こそが、新しい時代を開拓する。それは、人類がアフリカを出て以来、連綿とくり返してきた発展の歴史だ。

 私は、もしナンセンの時代にすでに無線通信技術が存在していれば、ナンセンは無線をフラム号に搭載したと思う。事実、フラム号には風力発電による電灯など、当時の最先端装備が搭載されていた。ナンセンは、懐古主義やロマンチシズムで探検をしていたのではなく、当時の技術が持てる最善を尽くしていた。しかし、まだフラム号に搭載できるような無線は存在していなかった。いまでも、通信機器を持たずに僻地を旅する探検家は存在する。しかし、現代の探検家は「存在するが、持たない」ことを選択する一方で、ナンセンの時代は「存在しない」ことを前提としている。その前提条件が異なるのだ。

探検とは、知的情熱の肉体的表現である

 ナンセンの北極探検の少しあと、1912年に南極点に到達しながら帰路に全滅したイギリスのスコット隊。その後方支援隊員として生還したアプスレイ・チェリー=ガラードが、スコット隊の顛末について書き残した『世界最悪の旅』に、つぎのような一節がある。

「探検とは、知的情熱の肉体的表現である」

 これは、探検とは何かをもっとも端的に、そして的確に言い表した至言だと私は思う。

 とかく、世の人は冒険や探検をおこなう人に対して、なぜそこまで寒い思いをして、辛い思いをしてまでそれをやるのかと問う。寒い、辛い、疲れる、痛い、それら肉体的に表出される部分というのは、動物も同じだ。動物だって寒いし痛い。しかし、人間がなぜあえてそれを受け入れるかといえば、知的情熱があるからだ。翻って、知的情熱があるがゆえに肉体的な辛さを受け入れるのは、人間だけである。つまり、チェリー=ガラードの言葉とは、人間とは何かをも語っている。

「人間とは、知的情熱を肉体的に表現する生き物である」──そう、私には読めてくる。

 冒険や探検とは、気合や根性の話ではなく、過酷な土地に向きあう人間の知性と理性、そして肉体の物語だ。

南極大陸を移動中の筆者。50日間、毎日10km歩き、2018年1月5日(現地時間)、南極点に到達した
南極大陸を移動中。50日間、毎日10km歩き、2018年1月5日(現地時間)、南極点に到達した

 ナンセンは、赴く土地の過酷さ、知性の高さ、理性の鋭さ、そして肉体の強さ、そのすべてが高次元で融合していながら、その行為が時代性とも融合した稀有な人間であったといえる。

 もし仮に、ナンセンが現代に生きていたら何をしていたのだろうかと想像することがある。私が二度挑戦し、苦杯をなめた北極点無補給単独徒歩という困難な課題も、ナンセンが現代的な装備と知見を身につけたら、いともやすやすと成しとげてしまうのだろうかと思う。私にとって、フリチョフ・ナンセンは尊敬する人物であり、羨望の対象であり、そして憧れである。

荻田泰永(おぎた・やすなが)
北極冒険家。1977年、神奈川県生まれ。2000年より、カナダ北極圏やグリーンランド、北極海、南極大陸を中心に、おもに単独徒歩での冒険を実施し、計17回の北極行を経験。2018年には日本人初の南極点無補給単独徒歩到達に成功。2017植村直己冒険賞受賞。これまでに北極と南極を1万km以上踏破。2021年には冒険研究所書店を開業し、本と冒険、旅をつなぐ活動をしている。著書に、『考える脚』(KADOKAWA)、絵本『PIHOTEK 北極を風と歩く』(井上奈奈・絵、講談社)、『書店と冒険』(生活綴方出版部)など。