〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす│第10回│理論的なだけでは「公正」たりえない│朱喜哲

〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 朱喜哲 ちゅ ひちょる 「公正」とはなにか。「正義」とはなにか。 その言葉の使いこなしかたをプラグマティズム言語哲学からさぐります。

「公正」とはなにか。「正義」とはなにか。
そのことばの使いこなし方をプラグマティズム言語哲学からさぐります。

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第10回
理論的なだけでは「公正」たりえない


「残酷さ」への着目と「正義」の構想

 前回、政治の最優先課題を「なによりまず残酷さを低減せよ(Putting cruelty first)」とするジュディス・シュクラーの考え方を紹介しました。政治哲学は「正しいことば」の扱い方を検討し、わたしたちがどのように皆にとっての利害にかかわる政治を営むのかを考えます。そのさい、あえて単純にいえば「何がめざすべきなのか」について検討するのか、それとも「何が避けるべきなのか」について検討するのかという二方向のアプローチがあるでしょう。「恐怖に対峙するリベラリズム」を掲げるシュクラーは明確に後者をとっています。

 こうした路線は、これまで連載でとりあげてきたロールズ流のリベラリズムとも親和的なものです。ロールズにおいても、「何を善とするのか」(善の構想)については個々人が自由に思い描くことであって、かならずしも一致しません。しかし、そのを守るためにも、各人の善構想とは離れて、国家をはじめとした強大な公権力をどう運用するかについての大方針である「正義」については一致できる構想を描く必要があるのでした。

 そこで今回は、「残酷さ」に注目することが、どうやって一致できる正義の構想になりうるのか、前回に引き続いて考えてみたいと思います。


身体感覚としての「残酷さ」は相対的か

 さて、前回最後にモンテーニュを通じて確認したように、「残酷さ」はわたしたちにそなわった悪徳であるといえます。そして、とりわけそれが権力の勾配とかけあわさるとき、恐ろしいまでの残虐性が、組織的に発露されうることは歴史が示すとおりです。しかし、歴史に思いを馳せるとすると、他方で次のような疑問も浮かぶかもしれません。

 そうはいっても、のかについては、それこそ歴史や文化的な背景も大きく作用して判断がわかれるのではないか。そして、多数派にとっては残酷だとさえ思われていなかったような蛮行は数多くあったし、これからもあるのではないか、と。この疑問が問題になりうるのは、「残酷さ」の基準が時代や文化、さらには個々人によって異なるのではないか、というふうに派生するからです。第二回で紹介した用語でいえば、「残酷さ」の基準は、けっきょくなのではないかという疑問です。もしそうであれば、多様な善構想を超えて共有されうる正義の構想の基盤にすえることはむずかしいでしょう。

 こうした疑問について、まずシュクラー自身がどう対処するかを見ていきましょう。たとえば前回の引用で、彼女は「〔残酷さの判断基準となる〕恐怖を感じるのは、身体の反応であり、心の反応でもある。ゆえに人間ばかりでなく共通する」と述べていました。1 身体感覚に訴えることで、シュクラーは「残酷さ」について普遍的に——相対主義に陥らず、いつどこでも成り立つものとして——とらえることができると考えているのです。

 しかし、この説明戦略にも物言いがつけられると思います。というのもシュクラーは、「残酷さ」については理論的に定義したり、説明によって説得したりするようなものではないと述べています。それにかわって持ち出すのが「生物としての」感覚である「恐怖」でした。この点に関しては、人間とほかの動物とのあいだに区別はありません。だとすると、「残酷さ」低減も——人間へのそれと同様に——政治の最優先課題ということになるでしょうか。

 シュクラー自身は、「残酷さ」の身体性を強調しつつも、その害悪の中心をあくまで「自由を侵害する」という点においています。これはシュクラーが政治哲学者として西洋的な自由主義リベラリズムの文化に根ざした議論をおこなっているからで、そこではやはり暗黙のうちに人間と動物とのあいだには一線が引かれているようです。

 しかし、この動物への残酷さの問題は、この感覚が時代や文化、人それぞれにおいて相対的なのではないか、という疑念にちょうどあてはまるものでしょう。現代においても、典型的には動物の肉を食べることの是非や、そのさいに焦点になる動物の種類や線引きをめぐって、まさに「文化的伝統への侵害」だとか、「一方的な価値観の押しつけ」といった表現が飛び交います。こうした議論状況からすると、やはり「残酷さ」の感覚に依拠して政治的な一致をみることはむずかしいのではないか、と思われるかもしれません。


「文化」や「伝統」で「残酷さ」は正当化できない

 そこで、もし「文化的伝統」などを盾にして、(特定の)動物を食べる習慣の継続を主張したい場合を考えてみましょう。このとき穏当な路線としては、批判者側が指摘する「残酷さ」を多少なり認めて、「たしかに少々残酷かもしれないが、仕方ない事情がある」などというかたちで、肉食をなんらかの「必要悪」とする方針になってくるでしょう。しかし、この路線の場合、少なくとも倫理的な面では撤退戦の一途をたどることになりそうです。

 というのも、最初の一線を譲ってしまえば、ではどうすれば「悪」(残酷さ)の度合いを減らせるのか策を講じたり、そもそも「必要」の度合いを再評価したり、といったかたちで譲歩していくことになるだろうからです。そして、じっさいに現実の動物食や毛皮の利用等をめぐる国際的な議論の展開は、おおむねこうしたルートをたどっているのではないでしょうか。

 程度の差はあれ、ひとたび動物食が「残酷である」ことが認められはじめた社会では、遅かれ早かれその残酷さはなるべく低減したほうがよい、という規範がはたらき、じっさいにその方向へと習慣が変わっていきます。それは「だって、かわいそうじゃない」「肉食、気持ち悪いからムリ」という——広い意味で——身体的・生理的な反発ですから、理論的に説得して以前の習慣に戻るよううながすことはできないからです。

 こうしてみると、シュクラーの掲げる「なによりまず残酷さを低減せよ」とは、一見するとよりな社会をめざす消極的な表現ですが、じつはとても原理です。そして、この「残酷さ」の身体感覚に訴える戦略は、その強さゆえに、先ほど述べたようにシュクラー自身は政治哲学者として暗黙のうちに引いていた、人間と動物とのあいだの何らかの理論的な「線引き」さえをも無効化しうるようなものなのです。

 最初から「残酷さ」をいっさい認めない、という路線だとどうでしょうか。先ほど確認したように、「残酷さ」の訴えは、議論を通じての説得というよりも感情移入を通じての共感として効果を発揮します。そのため、文化集団としての公式な見解がどうあれ、言論や報道の自由が認められる社会においては、その構成員の全員が自分たちに届いた「残酷さ」の訴えにまったく影響されないことは考えづらいことです。

 こうした強力な訴えに対する戦略としては、たとえば「文化的な侵略」といったレトリックをもちいて「外部」からの批判への反発を煽り、内部集団の結束を高めるような路線があるでしょう。じっさいに動物倫理をはじめ「西欧の価値観に基づいて、他国の文化的伝統を破壊しようとしている」とする反発が見られることは珍しくありません。

 肉食などのトピックについてであれば、残酷さの感覚は「文化によってそれぞれ」という反発に共感するひとも少なくはないかもしれません。このタイプの反発が成立しがたいことは、すでに示唆しているとおりです。ただ、動物倫理の場合には——シュクラー自身も暗黙のうちにおこなっているように——人間と動物とのあいだには線引きが可能だとする直観をもって、この線引き感覚の文化相対性に訴えるルートは残されるかもしれません。しかし、議論の余地なくと同じ人間に対して行使される残酷さについては、そうもいきません。

 たとえば具体的な時事的トピックとして、ちょうど2021年後半から進行しているアメリカ軍撤退(敗退)後のアフガニスタンにおいてふたたび統治権力に返り咲いたタリバン政権における、とりわけ女性をはじめとした市民への強権的な抑圧、残酷な蹂躙について、わたしたちはどう考えるべきでしょうか。

 こうしたケースであっても、たとえば「そもそもアメリカが仕掛けたアフガン戦争こそ、帝国主義的な暴挙であり、近代的な国家建設を『善』として押しつけたことじたいが文化的な侵略だった。本来の部族連合社会とイスラーム統治による秩序が回復することは、自治の本来の趣旨であって、部外者が批判・介入すべきではない」というような論調は存在するでしょう。しかし、個別の事案について、被害者や犠牲者の存在を知り、その状況を断片的にであれ見聞きしたとき、上記のごとき——結果的に、抑圧の構造を追認ないし傍観することになる——な言説はやはりそのまま支持することはできないでしょう。

 シュクラー自身のことばを借りれば、次のようにいえます。2

〔残酷さの最小化を掲げる〕恐怖に対峙するリベラリズムについて、その方針があまりに「西洋的」で、あまりに抽象的であるなどと言って拒絶するような類の頑迷な相対主義は、きわめて呑気で、きわめて安易にを忘れてしまうため、とても信じるに値するものではない。


あまりに「西洋的」でも、あまりに抽象的でもない

 文化についての相対主義的な見方は、たしかに各文化を尊重するという観点で一定の重要性があります。ちょうどリベラリズムの基本として、個々人単位での「干渉されない自由」を「消極的自由」として紹介しましたが(第8回)、同じように文化集団ごとの単位でもそうした自由を認め、異なる価値観(善構想)が共存することをめざそうというのは、そう悪い響きではありません。

 しかし、そうした「個人」と「文化集団」とを置き換えた類推がなりたつためには、そもそも集団の構成員が自分たちの文化単位での習俗・慣行について、——個人の習慣と同様に——自己決定している(と思える)ようなしくみがなければいけません。そして、ほとんどの場合に「伝統」の名のもとで営まれる社会システムには、有利なかたちで否応なく被抑圧的な立場を強いられている個人・集団が存在するでしょう。

 まず、やや抽象的なレベルで指摘できるのは、こうした「強者と弱者」からなる構造を「文化」等によって正当化しようとき、それを声高に唱えるのは「強者」の側だということです。じっさいのところ、力の勾配による不遇や身体的・感情的な苦痛にさいなまれる「弱者」の側が、自身や周囲の身にふりそそぐ「残酷さ」を低減することを望むであろうことは、、まちがいないはずだというのがシュクラーの見解です。

 ここでの「実情や構造について知る」という条件は、「報道の自由」など民主主義の基本をなす別の主要パートの整備も含め、決してかんたんなものではありません。しかし、原理的な可能性としては、つねに構成員が自身の属する集団の規範や慣行について「異議申し立て」できることがリベラリズムの本懐です。そして、この原理に由来する体制のを許容していることじたい、グローバル単位の覇権主義としてリベラリズムをとらえる——あまりに「西洋的」であるという——批判がポイントを外しているといえる根拠になります。

 もうひとつ、「あまりに抽象的である」という批判が残っています。私見では、シュクラーの「恐怖に対峙するリベラリズム」最大のポイントは、この批判に対しての応えかたにあると思います。つまり、ここまでくり返したように「残酷さ」のような「悪」は、身体的・感性的なものであり、究極的にはという点です。ゆえに上記のような抽象的で一般的な説明も可能ですが、シュクラーはまずなによりも「残酷さ」のに、それぞれのケースにおける力の不均衡のあり方と抑圧者—被抑圧者の関係性にこそ目を向けるようにうながしているのです。


語りえない「悪」と向き合うためのことば

 シュクラーは、わたしたちの日常に絶えることのない「悪」に着目することで、「自由」や「正義」といった正しいことばが陥りがちな空転——抽象的で、具体的なケースで考えづらいこと——を避けようとします。これはきわめて実際的な戦略です。というのも、おそらくほとんどの場合において、残酷さにさらされた被害当事者は、それを説明する理論的なことばなどもたないからです。

 端的にいって、身体的な苦痛のさなかにあって、ひとは理性的なことばをもって苦痛を理路整然と説明することはできません。そしてまた、圧倒的な力の勾配にもとづいた抑圧の構造において、理論的なことばを支配するのもまた強者の側です。そのことばを使わざるをえない——それ以外にことばをもたない——弱者は、みずからを表現するためのことばをもてないのです。

 身体的な苦痛の体験、あるいは現在進行形での抑圧的な社会構造のなかで味わう個々の「残酷さ」について、わたしたちが——自分自身のことについてさえ——表現することばをもちえるとしたら、それは理論ではなく、フィクションやルポルタージュ、詩をも含むような「物語」ではないかとシュクラーは述べています。3

悪というもの、なかでもとりわけ残酷さというものは、どこまでも合理的に説明することができず、ただ物語だけがその意味をとらえることができるのではないか。

 職業的な理論家であるところの政治哲学者シュクラーが、みずからのリベラリズム概念の中心に置く「残酷さ」について、究極的には理論的な説明ができないと述べ、「物語」に希望を託そうとするこの一節は、とても感慨深いものです。これはしかし、シュクラーの理論家としての敗北宣言ではなく、むしろひとりの生身の身体をもった個人としての誠実さでしょう。

「残酷さ」に対処するとは、先述したように、当事者にとっては異議申し立てをするためのことばづかいを提供し、そしてそれを可能にするような基本的な「正しいことば」を整備することです。しかし、前者はそんなにたやすいことではありません。異議申し立ては、多数派にとって耳ざわりのよい、理路整然としたことばで提起されるものではないからです。そもそものはじまりである、自身を表現するためのことばをもたないという剥奪感、そうした境遇で生きるほかないという残酷さは、理論によって説明されるものではありません。

 わたしたちは、当事者にとってみずからを表現するためのことばを獲得することが、どれほどの難業になるのかを直接知ることはできないかもしれません。しかし、文字どおりありがたいことに苦難とともにつむがれたじっさいのことばづかいから、垣間見ることができます。

 たとえば日本語においては、CP(脳性マヒ)当事者として川崎バス闘争をはじめとした異議申し立てをおこなってきた「青い芝の会」の中心人物のひとりである横田弘は、当事者による自己表現、文芸の領域もまた重要な運動の領域だとみなしていました。なぜなら、そもそもの出発点として、自分たちはみずからを表現することばをもたない、あらかじめ奪われている、というのです。4

私たちの肉体は、生まれた時から、あるいは、CPとして発病した時から奪われつづけてきている。
言葉も意識も肉体のあり方を基として発想される。つまり奪われた肉体であるところのCP者は、常に奪われた言葉と意識でしか物を見ることしかできないし、行動することもできないのだ。

 この横田の述懐は、シュクラーの「恐怖に対峙するリベラリズム」と共鳴しています。すなわち、圧倒的に非対称な力の勾配があり、社会において持ち分の領域と自己表現をもたないという状況において、ひとはみずからのことばもまた、もちえないのです。「自分たちのことば」を得ることと身体的・社会的な持ち分(権利)をもてることとは不可分なのです。


理論的なことばだけでは足りない

 こうした社会的な正義の実現(残酷さの低減)と私的な表現との関係については、シュクラーから影響を受けて同じ用法で「リベラリズム」をもちいようとするリチャード・ローティの語りが参考になるでしょう。彼はシュクラーの議論を念頭に置きながら、次のように述べています。5

苦痛は非言語的である。すなわち、苦痛こそが、人間存在がもっているもののなかで、言語を使用しない動物たちと私たちを結びつけているものなのである。そのようなわけで、残酷な行為の犠牲者、苦しみを受けている人びとには、言語によって語りうるものはほとんどない。だから「被抑圧者の声」なるものや「犠牲者の言語」なるものは存在しない。犠牲者がかつて使用した言語はもはやはたらいていないし、新たにことばで語るには、犠牲者はあまりにも大きな苦しみをこうむっている。そうであれば、彼女たちの状況を言語に表現する作業が誰か他の者によって彼女たちのためになしとげられなくてはならないだろう。リベラルな小説家、詩人、ジャーナリストはそのような作業に長けている。リベラルな理論家は通例、そうではない。

 これは一読すると、当事者自身のボキャブラリーに対して酷薄すぎるように思われるかもしれません。しかし、先ほどまでのシュクラーや横田の引用を踏まえると、そのように社会分業の話として解釈すべきではないでしょう。つまり、どんな当事者であれ、「残酷さ」の渦中におかれたその時点においては「みずからのことばをもたない」という洞察が、ここにはあります。

 残酷さのただなかにあって、ひとはそのもっとも困難なときを、先人がつむいだ「物語」やことばによってのりきることができます。そして、そののちになってはじめて、かつての自分のために、あるいは類似した渦中にある仲間のためにことばをつむぐことができるようになるのでしょう。

 重要なのは、「恐怖に対峙するリベラリズム」において、理論じたいはこの役割をまっとうできないということです。だからこそ、「残酷さ」に対処していくためには、理論的な「正しいことば」の検討とともに、場合によっては「正しくない表現」が物語や詩としてつむがれる自由さを確保しなければなりません。

 正しいことばを考えることは、たんなる「ことば狩り」や「ポリコレ棒」とは一線を画しています。それはむしろ、私的な領域における表現の豊穣さを前提にせねばならず、公的な領域においては「正しいことば」をうまくもちいる必要があります。次回、このふたつの領域について、考えていきます。

1 ジュディス・シュクラー(大川正彦訳)「恐怖のリベラリズム」、『現代思想29-7』、青土社、2001年、128頁。邦訳を参考にしつつ、原文を参照して訳出しなおしています。また強調の傍点は引用者によるものです。以下も同様です。

2 同書133頁。

3 Shklar, J. (1984) Ordinary Vices, Harvard University Press, p.6.

4 横田弘『〈増補新装版〉障害者殺しの思想』、現代書館、2015年、38頁。

5 リチャード・ローティ(斎藤純一・山岡竜一・大川正彦訳)『偶然性・アイロニー・連帯』、岩波書店、2000年、191-192頁。邦訳を参考にしつつ、原文を参照して訳出しなおしています。また強調の傍点は引用者によるものです。


 

朱喜哲(ちゅ・ひちょる)
1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。大阪大学社会技術共創研究センター招へい教員ほか。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。前者ではヘイトスピーチや統計的因果推論を研究対象として扱っている。共著に『信頼を考える――リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房、2018年)、共訳にブランダム著『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房、2020年)などがある。