こんな授業があったんだ│第13回│ペルソナが人間の深層を語る 仮面ってなんだ〈後編〉│久保敏彦│

こんな授業があったんだ 授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

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ペルソナが人間の深層を語る
仮面ってなんだ〈後編〉
久保敏彦
(1995年・高校1年生)

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仮面(ペルソナ)づくりでこころや身体と対話する

 きょうは、みんなの作った仮面を見ることができる……、そう思うと、私はこころなしか早足で階段をかけあがり、教室へとむかった。廊下には数人の生徒たちが窓ぎわに立っている。私のくるのを待っていたかのように話しかけてきた。

「先生、見てください。この仮面、作るのに大変だったんですよ」
 仮面を手にした彼らの顔は、爽やかな笑いであふれている。
「よくできているね。紙ねんど、和紙、こりゃ、作るのに大変だったと思うよ。すばらしい」
 短い会話だったが、労作を認められたことに、生徒たちは満足そうである。ずいぶん頑張って仮面を作ったのにちがいない。

生徒たちが作った仮面

 教室にはいると、机のうえにはそれぞれの仮面が置いてある。なかには大事なもののように、箱にいれてあるのもいくつかある。隣どうし話しあっている生徒たちは、いつにもまして元気がいい。自作の面を見せあい、話がはずんでいるグループもいる。教室は活気に満ち、話に夢中になっている彼らの姿から「モノをつくる楽しさ」と「完成させた喜び」が伝わってくる。

「仮面づくりと発表会を終えて」のレポートによれば、最初から喜んで作った生徒もいれば、はじめはイヤイヤ作っていたが、だんだん楽しくなった生徒もいる。家族の話題になったというエピソードがいくつもあり、心があたたまる。

 仮面の形を整えたり色塗りをしたりするには、自分のイメージが大切である。このことは胸の奥にしまっていた気持ちを引きだすことにつながる。作りながら感じる心の揺れや動きが、仮面に微妙な表情として表れ、作り手に語りかけてくる。しだいに感性が鋭敏に研ぎ澄まされていく。仮面と自分との葛藤をはじめる者もいる。仮面をかぶったクラスの仲間の姿に、いままで見たことのない別人ともいえる姿を発見する。こうして、予期しなかったドラマが、「ペルソナ」の授業にいくつも生まれていった。

「お面づくりで失敗だったと思ったことは、鼻をつけなかったため、思いがけないところに影響がでてしまったこと。鼻がないので間の抜けた顔に見える。お面をかぶると自分の鼻が押さえられてしまう。ぼくは人と違うお面を作ろうと思い、生まれてからずっと鼻がつまっているので、“そんなものいらない”という気持ちで鼻をつけなかった。だが、お面をつけてみると納得がいかなかったので、もう一個作った。自分としては、角ばったものよりも丸みのあるほうが自分の顔になりきれることがわかった。紙粘土のフォルモを使って、立体的なお面も作りたかった。友だちのお面は個性が出ていて、お面を見ているだけでもあきない。その辺にいそうな顔のお面がずいぶんあった。お面は非日常なものなのに、どこにもいそうな表情が多いと思った」

「私はお面を、4回も作りなおしました。作っていると心の底から“ちがう、ちがう”っていう何かがこみ上げてきて、“これは私の求めているものじゃない”というところまで達すると、ものすごく腹がたってしまいました。私の頭のなかには、いろいろな案がうずをまいていて、どれをとるべきかわからず、それらがごっちゃごっちゃに混ざってしまって、どうしようかと途方に暮れてしまいました。みんなはどうして、あんなにできるのだろう……と不思議で不思議でしようがありませんでした。“私には自分っていうものがないのかなぁー”とつくづく思いました。結局、最後に作った4つめの面は、私の理想像みたいのがテーマになったのです。まっ白いところは、きれいになりたいっていう気持ちで。目しかないところは、冷静に物事を見るということを意味していて、その他いろいろ私がこうありたいという願望のつまったものです。その反面、こんなに冷たそうな人間になりたいという気持ちもつまっています。でも、この面は私にフィットしません。あまりにもいろいろな気持ちを込めすぎたので、かぶってもフィットしてくれないんです」

 このように、仮面づくりを、自分の心や身体を見つめることからはじめた生徒がほとんどだった。意外に思ったのは、「冷たいお面を作りたかった」と書いている生徒がほかにも多かったことである。また、「意地悪そうなお面」をイメージしたという生徒も珍しくない。このことは何を意味しているのだろうか。日本の社会には、喜怒哀楽が激しいと“気分屋”とみられ、歓迎されない傾向がある。高校生のなかには、多感な青春時代に、自分の感情をあまり表面に出そうとしない者がいる。その反動のあらわれだろうか。それとも、『よい子』からの脱皮の願望であろうか。これらのことが発表にどうつながっていくのか、興味深いところである。

仮面発表会にはなにかが起こる予感が⋯⋯

「『お面づくりをやります』といわれたときは、“ヤッター”と思いました。まさか高校にはいって、お面づくりをやるとは思ってもいなかったからです。お面づくりといえば、幼稚園のときに、毛糸で髪の毛をつけて節分の鬼のお面を作ったのと、小学校のとき、象のお面を作った二度だけでした。なんかクラスみんなで、教室でお面を作っているとき、友だちの見たことのない一面というか、童心にもどったというか、それぞれの人が、ふだんの授業では見せたことのない顔を見せていた。みんな真剣に、そして楽しそうに作っている。他の教室は授業をやっているのに、この教室だけが別世界にきたというか、異様な雰囲気に包まれているような感じがしました。でも、これが普通で、いつもの授業のほうが変なんだと思います。みんなが50分間、一言もしゃべらずに、ひたすら先生の話を聞き、黒板をノートに写すなんてどこかおかしい」

 モノを作るのは楽しい。その楽しそうな姿をたがいに見あうことも、クラスの一体感を感じたり、友だちと共有する体験を深めあったりすることになっている。高校生になると、一年間おなじクラスにいても、一回もことばをかわさない人はかなりいるという。したがって、クラスメイトでありながら、お互いのコミュニケーションは薄く、毎日の生活や学習のなかでクラスの連帯感を感じる場面は少ないようである。「モノづくりや発表会」は、お互いを知りあうということになり、クラスのまとまりを育てていく。生徒たちの取り組む姿勢とまとめの感想文によって、「彼らが望んでいるものは、仲間との心のつながりなのだ」と、私はあらためて考えさせられた。

 次週からの発表日を抽選し、それぞれグループでの話しあいやリハーサルにはいった。「アドリブでいこう」の声が聞こえる。紙にストーリーを書いて、役づくりをしているところもある。あとで知ったことだが、発表の内容を決めてから、その登場人物のお面を作ったグループもあった。まだ作りあげていない者や、友人のお面を見て、ふたたび作りなおしたという生徒もいた。お面は発表日までに完成していればいいことにしてある。心が揺れ動く時間は、たっぷりあったほうがよい。

 発表の条件は3つである。時間は3分から5分をめやすとする。仮面そのものの表情を大切にしたいので、ことばを使わないノンバーバルとする。小道具や衣装、音響効果などは自由とする。発表はビデオに撮り、作品として残す。後に貸し出しをし、自分たちの発表をはじめ、みんなのペルソナをふたたびみることができる。

 いよいよ発表日となった。教室のなかは「何かが起こる」期待感でいっぱいになっている。発表予定者は緊張した顔つきで、打ち合わせをしている。他の生徒たちはリラックスしている。両者のギャップが、いつもと教室の空気を変えている。

「それじゃあ、ペルソナの発表をはじめます。予定では、1時間に4〜5グループです。メンバーが休みなどで発表できないところもでてくると思いますので、そんなときは、予備日にまわってもらいます。発表で大切なのは『うまくやらなくちゃ』ということではなく、とにかく、みんなのまえでお面をかぶって発表するという、のっぴきならない状態で、自分で作ったペルソナをかぶることです。それだけで十分に意味があります。何がどうなっても、失敗ということはありません。演ずるほうも見る側もペルソナをおおいに楽しみましょう。最初のグループは準備にはいってください」
 机を下げ、黒板のまえにスペースをつくる。出番の生徒たちは廊下で準備をはじめた。ザワザワしている教室は、まるで開演まえの芝居小屋の雰囲気である。

仮面をつけると、別人に変身する

◆電車のなかの迷惑

 仮面をつけた3人が、一列にくっつけて並べた三脚の椅子に腰をおろしている。BGMに駅構内の雑踏の音が流れる。電車の発車を知らせるホイッスルとともに、一人の女性があわてて飛び乗ってきた。両手に大きめのバッグを持ち、服装はオバサンふう、上向きかげんのツンとした顔つき。空いている椅子がないかと探している。ないようである。座っている3人に目をとめ、わずかに空いている隙間に無理やり割り込もうとする。すると端の若者が椅子からはじき出された。オバサンは腰をおろし、膝のうえと隣にバッグを置く。電車が動きはじめる音が聞こえ、カンカンと鳴る踏切音が臨場感をだしている。はじき出された若者は、オバサンをいまいましく見る。反対側のドアのところに行き、ポケットからウォークマンをだして聴きはじめた。

 突然、♪ビー、クワイヤァー♪ 英語のボーカル、ロックの音楽が大きな音で響く。オバサンと座っているふたりは、その若者を「えっ、なに!」とばかり見あげる。若者はその視線を気にもせず、頭を振ってリズムをとり、ロックにノリノリである。オバサンはフンと開きなおり、膝のうえのバッグも脇に置き、並んだ2個のバッグのなかをあれこれと捜し物をする。隣の女性は迷惑そうに、横に少しずれる。若者は音楽にノリまくって、腕をスウィングする。その腕が座っている女の子の肩に何回も当たる。女の子は隣からずれてきた女性と若者の腕を気にしながら、狭い隙間に身体を小さくし、窮屈そうに下を向いて耐えている。

 やがて電車は駅に着く。オバサンがいちばんはじめに席を立ち、つづいて女性も降りる。若者が最後に出ていく。3人の後ろ姿を見送った女の子は、ホッと息を吐き、肩をストンとおとした。静かになった電車には、駅を案内するアナウンスが響いている。

 この「電車のなかの迷惑」はとても好評だった。メンバーがふだんとまったく違う姿を見せてくれた。あつかましいオバサン役はみごとだった。気の弱そうな女の子役も存在感があり、最後にホッとするオチが決まった。ウォークマンを大きな音で聴き、リズムに首を激しく振っていた役に、「いつもおとなしい彼女の意外な一面を見た」との感想が多かった。

 その彼女は、「私は、電車のなかで、ボリュームを大きくして音楽を聴く、はた迷惑な若い人だった。ひとり、やたらノリまくっていないといけない。リハーサルのときは、まともにはできなかった。どうしても照れが出てしまう。とうとう本番。お面をかぶってみると、ずいぶん視野が狭くなる。メガネをはずすから、ろくに物が見えない。そうなると、なんだか“こうなりゃ、ヤケだ。やってやろうじゃない。開きなおりだ”という気になってくるから不思議。練習のときより、よっぽどノッてやれたな、と思う。お面は、それだけでずいぶん人の気分を変える。『別の自分』というと大袈裟だけれど、『他人のふり』ができてしまう。ちょっと怖いような気もする」と書いている。

 このように、ストーリー性のある発表は、身近なところに題材を求めたものが多かった。ことばを使わないことが条件なので、このようなテーマは演ずるほうもやりやすく、見るほうもわかりやすい。一人でのソロ(独演)も2〜3人いた。そのなかで強烈な印象を残した発表があった。

祈り

 男子が横向きで、片膝立ちになっている。黄色の面をかぶり、その表情はうつろな目をしている。両手を胸のまえにしっかり組み、お祈りをしているようである。重厚なパイプオルガンの音が流れ、賛美歌の歌声が響く。しばらくすると、反対の方向へと向きを変える。すると白い面の表情となり、そのまま、お祈りを続ける。やがて正面を向く。ひとつの面が、中心から黄色と白のふたつの表情に分かれている。彼は賛美歌とともに、両手を胸に大きくクロスし、深い祈りをささげている。

 そのとき、突然、音楽が変わった。ベートーヴェンの「運命」、出だしのジャジャジャジャーン。立ちあがった彼は、天を仰ぐように両手を広げ、しばらくするとオロオロしながら歩きはじめた。途方に暮れたように頭を抱え、膝立ちにしゃがみ込んでしまう。音楽は「運命」のエンディングとなる。ジャン、ジャン、ジャン、ジャッジャン。それに合わせ、膝立ちで右に左にと、身体の方向を激しく変える。両手で天を仰ぐ姿勢のままで、黄色と白の面が、まるで画面が変わるように交互に動く。音楽とその動きがピッタリで、大きな拍手が湧きあがった。

 どちらかというと寡黙な彼が、ふたつの顔の面をつけ、思いがけないほどの感動的な発表をした。

祈り

「彼の発表はすごいと思いました。あそこまで自分を捨てられるものなんですね。見ているほうが恥ずかしいけど、みんなのまえであれだけできる彼は、すごい勇気というか度胸があり、すばらしいと思います」

 こうして、さまざまな仮面の発表がつづいていった。

ひとは仮面をつけて生きている

「いろいろな人のペルソナやその発表を見て、とても楽しかったです。いつものその人からは想像できない表情のペルソナを作ってきたりして、その人の違った一面を見ることができました。自由にペルソナを作ることは、心を素直に表現することとイコールに近いのかなと思いました。自分が作ったペルソナは、半分は笑っていて、もう半分は怒っているペルソナです。顔では笑っていて、心のなかでは怒っていることがあります。そんなちぐはぐな顔をひとつのペルソナで表現してみたかったのです。ほんとうだったら、怒っているときは怒って、笑いたいときは笑う。そんな顔と心の関係が普通なのに、いまの複雑な杜会では、感情をじっと押さえて、顔ではニコニコしていなければならないことが多いと思います。できれば心と顔の一致した関係のペルソナを作れたらいいなぁと思います。けっして上手には作れませんでしたが、のびのびと気ままに、自由に作れて、よかったと思います。『ペルソナ』ということばは、神秘的な奥の深い響きを持っていると思います。それだけにペルソナの授業は、奥深いものだったような気がします」

「“面づくり”……はじめ、この話を聞いたとき、『なんてめんどうくさい。やりたくない!』って思いました。作りはじめても気がのらず、いいかげんにやっていきました。ところが……ある日、私にとってもっともショックな事件が起こってしまいました。その日の夜、ずっと泣いて、ぐちゃぐちゃになりました。そして、そして、何を思ったのか、つぎの日にはすっかり元気になって“えーいっ!”ってお面を作りました。それまで作っていたおとなしい顔のお面を、ぐちゃぐちゃの顔にしたくなりました。はじめはかわいくて、きれいなお面を作るつもりだったけど、自分に嘘をついている気がして、思いのままに作りました。さてさて、できあがってみて、すごく気持ちがさっぱりしました。だけど、なんて気持ちの悪いお面なのでしょう……。怒りを押さえて、つくり笑いをしているみたい。なんだか自分でも怖くなりました。それから、ずっとお面を隠していました。恥ずかしくて机に出せませんでした。

 発表の日がだんだん近づくと、怖さがましてきました。嘘でもいいから、かわいいお面を作りなおそうって、何度も考えました。いま考えてみると、あのお面を見ても、みんなは『う〜ん、へんなお面だなぁ』くらいにしか思わなかったと思うけれど、私にとって、あのお面は自分のいちばんイヤな心(?)みたいなもので、あのお面をつけて、人のまえに立つのは、すごく勇気のいることでした。なんだかバカみたいだけど、すごく悩みました。でもどうにでも変わる嘘の自分じゃなく、“ほんとうの私”になりたい。そう思って、お面と向かいあうと、お面が大好きになりました。

 発表の当日、なんだか自分でも信じられないくらい、思うままにうごけました。踊っているとき、すごくいい気分でした。先生に『違和感がない』って言われたとき、“ドキッ”としました。終わってしばらくしたら、急に身体の力がぬけて、いろいろなことを思い出して、悲しくなりました。お面は、いままでレッスンに消極的だった私が、はじめて、自分の身体全部で“感じる”ということができたレッスンでした」

 予定していた発表が早く終わり、時間に余裕があるときなどは、ペルソナに関係する話をした。

「古来より日本では『顔にその人のすべてがあらわされる』という考えがあります。このような考えにより、能の面が発展してきたと言われています。日本は、顔を重んじる文化です。たとえば、『きみは会社の顔だよ』とか『顔を立てる』などと、ふだんの会話にも比喩的に使われています。また、顔のことをマスクとも言いますが、マスクの語源はラテン語の〈masca〉、魔女という意味だったようです。二重人格をダブルマスキングといいますが、ユングという心理学者は、彼のペルソナ論に、ダブルマスキングと関連する興味深いことを書いています。

 ユングによれば、『人はすべて仮面ペルソナをつけて生きている』という。ペルソナは二つの役割を持っている。一つは、『社会のなかで役割を担い、それをスムーズに遂行していく働き』。つまり、それぞれの人が、自分に与えられた役割にふさわしい仮面をつけているほうが、ものごとがうまく運ぶということです。会社の社長は社長らしく、教師は教師らしくのようにです。ここで気をつけなくてはならないのは、プライベートなときでも、社長のままであったり、教師をしている父親や母親が家でも教師のままでいると、堅苦しくなり、まずい。ペルソナは、自分のおかれている場所や状況で意識的に変えていくものだと言うのです。もう一つは、『自我を守る』のに役だつ。素顔を人目にさらさなくてもすむということです。『余所 よ そいきの顔』などがそうですね。あいそ笑いもペルソナのひとつになります。ペルソナは、社会生活をできるだけ支障なくおくるための役目をしていると論じているのです。

 みんなの発表のなかで、一人で3つの面を重ねていて、順番にとりはずしていった人や、劇のなかでお面を取りかえた人もいました。意表をつかれたのは、一つの面を逆さにすると、別の顔になるという発表でした。これなどは、まさにユングがペルソナ論で言わんとしているところです。どの発表も興味深く『人間とは何か』を考えさせられます」

 このような話をまじえることは、仮面の発表を演じ、見ることが味わい深くなり、ややもすると発表の後半で生まれやすいなれあいや気のゆるみをふせぎ、授業に新鮮な活力を与える。

道化やダンスの世界を仮面で演じる

◆ボディービルに対する、ぼくたちの見解

 コメディーふうの発表もいくつかあった。そのなかで、「ボディービルに対する、ぼくたちの見解」は、身体の動きと仮面の表情が、軽妙なおもしろさとなり、笑いの連続となった。

 とぼけた猿顔風の男がひとりウロウロしている。音楽が流れる。賛美歌のコーラス。みんながドッと笑う。まえに発表した「祈り」の音楽だった。彼はコーラスとともに、ボディービル・コンテストのポーズをとる。服を着ているが、腕の筋肉を盛りあげてみせるしぐさ、つづいて両手をまえに組み、胸の筋肉を見せるポーズ。背中をむけて肩の筋肉、まえに向きなおり、両手を後ろにまわし、全身の筋肉を……と。ひとつひとつの動きが音楽にとてもマッチし、ほんとうのボディービル・コンテストのようである。違うところは、猿顔の表情と細身なからだ。それらが、ボディービルのポーズとあわず、そのミスマッチが滑稽で、ひとつポーズをとるたびに笑いが起きる。

 音楽が「運命」に変わる。そこに丸顔の二人がやってきた。“何をしているんだ”とばかり、指をさし、ポーズをとり続けている猿顔の肩を押す。反対からも押しつけ、二人は去っていく。猿顔の彼は追いかけ、二人に何かを話す。三人はふたたび戻ってくる。音楽は「田園」(ベートーヴェン)となった。荘厳なオーケストラの演奏をバックミュージックに、三人はそろって同じボディービルのポーズをとりはじめる。踊るようにポーズを変えていくその呼吸は、みごとにピッタリあっている。ひとつのポーズをきめるたびにみんながドッと笑う。

 最後は、背中むきになり、顔を少しでも見せようと、ふりむきかげんになる。両手を鳥の羽のように肩から大きく広げ、三人そろってお尻をピコッとひねる。大きな笑い声がわきおこる。およそボディービルとほど遠い顔と身体つきの三人が、それも「田園」のオーケストラ演奏にあわせ、ポーズを変えていく。劇でもない、ダンスでもない、不思議なおもしろさを表現していた。そこにはピエロが演じるような、仮面による道化の妙味が感じられた。

◆白と黒の世界

 ダンスに重点をおいた発表もあった。

 3人の女子が、椅子に並んで座っている。3人とも白と黒の面をつけ、衣装は黒のトレーナーに下は黒のジャージだ。手袋と靴下は、片方ずつ白と黒にしている。シューズは白。全体を白と黒に統一している。エスニックふうのゆっくりした音楽が流れはじめた。3人は椅子からゆっくり立ちあがり、横一列に並ぶ。まんなかの生徒が膝を深く曲げ、立ちあがりながら右手を胸元から大きく円を描くように遠くへ広げていく。そばの2人は、その動きを視線で追っていく。まるで映画のスローモーションのようである。

 つぎに3人は縦一列になって片膝立ちとなる。いちばん後ろの生徒がスーッと立つ。まんなかの生徒は中腰となる。すると白と黒の仮面3個が階段状に並ぶ。正面を見つづけている3つの面からは、なにやら迫りくるものを感じる。ふたたび、もとの横一列に戻り、立った姿勢で3人そろって胸元から遠くへと腕を開いていく。視線も開いていく腕の先を追いかける。指先が伸びきったところで静止し、その手を顔にもってくる。白と黒の面を片手で覆い隠し、腰を曲げて沈んでいく。エスニックの不思議な音楽にあわせ、ひとつずつの動きがゆっくりていねいである。白と黒の面や衣装によるこの発表は、劇とはまったく異なる、異次元のダンスの世界を演出し、静寂な仮面の魅力を十分にひきだしていた。

 そのメンバーの一人は、「みんな、けっこう恥ずかしがったりするのに、やるときはどうどうとやるところがおもしろいな……と思いました。私はどうどうとしていなかったけれど、自分なりに一生懸命やれた。ふだんおとなしそうな人もペルソナをつけると意外になりきっていたし、人間ってパッと見ただけではわからないですね。人まえに出るのをイヤがりそうな人でも、先生に『レッスンしよう』って言われて、スッとまえに出ていったりしたのは、ちょっとビックリしてしまいました。こういう保健の授業は、人間の奥にある部分をけっこう人のまえにだすような気がします。口では『ちょっと、ヤダナァー』なんて言いながら、しっかりやってしまうのがおもしろいと思います。私もなんだかんだで結局、みんなのまえで踊ってしまったし。みんなそんなにイヤがってはいないんじゃないかな」と書いている。

“ペルソナって何か”から“生きるとは”の探究へ

◆顔

 ペルソナの発表も最後となった。

 男子3人のグループ。シンセサイザーによる現代音楽が宇宙や深海をイメージさせる。机をはさんで二人が正面をむき、椅子に座っている。1人は青と黒にまだらに塗りわけた面をつけている。うつむきかげんの姿には孤独を感じる。1人はシルバーに覆われた無機質な般若のような面。神秘的な音楽がそれぞれの面にあっている。2人はお互いの顔を見る。やがて立ちあがってじっくり見つめあう。お互いの顔を手で触れ、輪郭をなぞっていく。“不思議な顔形だ……”と感じているようである。

 そこへ一人の男が鏡を持ってきて、机に置いていく。青の面は、その鏡を手にとり、自分の顔をしげしげと見る。鏡を覗きながら、えつしたように片手で顔を覆う。天を仰ぎ、嘆いている。その様子を見ていたシルバーは、鏡を譲り受け、自分の顔を覗きこむ。思わず手が震える。鏡を置き、2人は両手で顔を覆う。2人はガックリと椅子に腰をおろし、視線を床に落としたまま静止している。

 このストーリーは、「昔むかし、はっきりとはわからない時代、神的な創造者によって、2人の人間が顔をつくられ、命を吹きこまれ誕生した。2人は顔に興味をもち、形や美しさについて考えるようになる。自分の顔を見て当惑し、悩んでしまう。あとはそのときのアドリブですすめる」が、おおまかな内容だったという。演技が終わった後も、教室は静寂に包まれていた。笑いの多い発表のなかで、このような発表はインパクトがある。ブルーの面をつけた男子はつぎのように書いている。

「面づくりをする。あぁ、また変な授業をやりはじめたと思ったが、工作は嫌いではないし、けっこう気楽なので喜んでいた。作ったお面をかぶって何かを表現すると聞き、みんなのまえでなんかやらなきゃいけないのかと嫌になった。バカバカしい。絶対やらないと思った。ところが一番目のグループの発表を見てから考えが変わってきた。こういうことは不真面目にやったほうがとてもかっこ悪く、おもしろくない人だという感じを与えてしまう。やるからには一生懸命やりたいと思いはじめた。もともと中途半端は好きじゃない。音楽や動きを工夫して頑張った。お面づくりには特に力をいれた。

 この授業はお面づくりの延長である。お面が大切だ。音楽や動きは、そのお面のよさをひきだすために重要だが、やはりお面がしっかりしていなくてはならない。表情には苦労した。どういう表情にするか、どうすればそんな表情をだせるかなど、いろいろ考えた。最初は和紙をはっただけですまそうかと思った。それだと顔の凹凸がうまくだせなかったので、さらにそのうえに粘土を薄くていねいに……と思ってもなかなかうまくいかない。気をつけてなんとか作りおわった。発表当日、ハプニングがあったが、自分たちなりにうまくできたと思う。終わった後、なんだかスッキリした。一生懸命やってよかった。とても満足している。いっけん、たいした授業でなく、遊び半分のようでも、そのなかには、大切な意味がふくまれていると思う。自分がひとまわり成長したように感じる。このようにすごい『生きている授業』をこれからもぜひ続けてください」

 ペルソナの学習は、ひとつの答えを見つけるものではない。各自が発表のなかで感じたり考えたりしたものが大切な答えである。その答えは、ひとつではないし、すぐに見つける必要もない。ブドウ酒が長い年月を経て、静かに発酵し、味に深みを増すように、ペルソナで感じたものが、「人間とは何か」や「生きるとは何か」に結びつき、これからの人生に役だつことを切願している。

 このペルソナの授業は、生徒に好評で、その後もつづけている。時間が十分にとれないので、このとき作った生徒の面と私がさらに作った面で、演じる授業を一時間しかやっていない。もう一度、面づくりからじっくり取り組みたい学習内容である。

付記──“ペルソナの授業”その後
ペルソナって? その答えはペルソナのなかにある

ペルソナづくりは、生徒の内面を変えていく

 1時間だけのペルソナの学習を数年つづけてきた。一年間だけでは“学びの掘り起こし”はどうしても浅い。ペルソナの学習は、自分が仮面を作ることから始めることがなにより大切だと改めて思った。2年生1クラスを担当した年、2学期の授業時数12時間のうち、ペルソナの実演に1時間、製作に2時間、発表に3時間と計6時間を充当した。学期の半分をペルソナにかけることにより、従来の学習領域ができなくなるが、ここでの内容は、3学期において生徒たちがフィールドワークの研実発表のテーマとすることが多い。

 以前の経験から期待感をもってペルソナづくりをすることの予告をした。ところが予想に反して、多くの生徒たちに歓迎されなかった。「仮面づくりと保健にどんな関係があるのだろうか……」「先生や仲間による仮面の実演を見て“すごい”とは思ったけれども、自分がやるということに結びつかない」「いくら仮面をつけたって、人前でなにかをやるには抵抗があるし、恥ずかしいに決まっている」などと、否定的な意見が多く寄せられた。それでも、ペルソナづくりの発表をすることにした。

 モノを作るということは人を変える。仮面をつくることに否定的な生徒たちの内面がいちじるしく変化していった。仮面づくりを通じて自己との対話が始まり、発表により自己や他者との発見と出会いが生まれていった。

「ペルソナを作ろうとしたところ、どう作っていいのかわからないというか、作るという意欲が全然出てこなかった。“こんなの作ってどうするんだろう”とか“仮面をつくって、どうなるんだろう……”などと思っていた。課題なんだからと渋しぶ作りはじめたら、一日一日と和紙を一枚一枚貼っていくうちに、何かわからないけど、自然に、楽しいという気持ちになり、もっと自分の納得のいくものを作ろうという意欲が出てきた。最初は和紙を五枚くらい重ねて貼ったら終わりにしようと思っていたが、いつのまにか二十枚、三十枚と貼っていき、仮面の形を変えたり、出っ張りぐあいで表情をつけてみたりした。いろいろ手を加えてできあがったものは、無表情のヌボーとした仮面だった。

『“ペルソナ”というものは、その人、作者の感情・性格が自然と表れてくる』と先生が言っていたけれども、そうなのだろうか。ぼくは仮面と対話をすることができたのだろうか、たぶんできなかったんだろう。いや、しなかったんだろう。“自分”というものと向きあい、“自分”というものを見つめること、真の自分を発見することを、ぼくは今まで避けてきたように思われる。本当の自分をさらけ出すことを恐れている。自分の考えや感情を表に出せない(出さない)でいる。仮面を作りながら気づいたことである。今回の“ペルソナの授業”で、仮面を作り発表することは、今まで考えてみようとしなかった自分の内面的な問題を考えてみるいい機会となり、ぼくにとってはよかったと思う。他の人たちはどう思っているかはわからないけど、ぼく自身は、“ペルソナ”これはとてもいい授業だと思う」

 ペルソナの製作と発表を通じてのレポートには、内面的な変化を書いている生徒が珍しくない。「鏡」をテーマにした女子のグループは、シンセサイザーによる現代音楽の幻想的なBGMで、息をのむようなゾクゾクする世界を演じた。鏡をはさみ相対するふたりが立っている。ふたりはさまざまな動きを同じようにする。やがて鏡のまえに立っている一人が、鏡に映っている自分に引き込まれていく。鏡の世界の自分と実際の自分が入れ替わってしまうというストリーである。鏡の世界にはいってしまった役の生徒は、つぎのような感想を書いている。

ペルソナを被ることで、“学び”を深める

「『ペルソナってなに?』
 私にはずっとわからなかった。その疑問が少し解けたのは、先生のプレゼンテーションを見たときだった。白い仮面をつけ、マントを巻いて、先生が私たちのほうに振り向いた瞬間、『あっ……』と息をのんだ。どうしてと言われると、ひじょうに説明しにくいけど、空気が変わった。ピンと空気が張った。

 仮面をつけた先生が、ゆっくりと手で私たちを招く。そのたびに心臓が圧迫された。背筋に、何かゾクゾクッとするものを感じた。『ペルソナ』の意味するもの……形にはなっていないけど、この空気とか緊張とかそういうもので、私のからだが『ペルソナが何か』ということを感じとった。心と身体と、神経のひとつひとつまでが一緒になって、その空気を吸収した。

 それではどうやって作ればいいのか。どうすればあんな空気をつくりだす『顔』ができるのか。わからないまま、型に粘土をペタペタと貼っていく。不思議なことに、いつのまにか、それは形になっていた。できてきた白い仮面をつけて鏡をのぞきこむ。『顔』らしくなっている。でも、まだ『仮面』をつけた『私』でしかなかった。なにかちがう。先生のとはどこかちがう。再びペタペタとやった。何度も鏡を見た。何度めかに鏡をのぞいた時、見知らぬ自分と目があった。相手は無表情だった。無表情のままこっちを見ていた。『これが私の仮面だ』と思った。もっと神秘的なものにしたくて色を塗った。青い仮面にして鏡をのぞいた。なんだか、こっちに向かって笑っている気がした。とても怖くなった。『鏡に映る自分が怖い』。自分が感じたこの恐怖感を、みんなにも知ってほしくなった。知ってほしいというより、共感してほしかった。プレゼンテーション、私たちのテーマは『鏡』。

 私たちの発表は練習が必要で、何度も練習した。でも、仲のよい友達とやっていると、どことなくほのぼのとした雰囲気が自然に出てきてしまい、私があのとき感じた、鏡のなかの自分にたいする恐怖感はまったく表せなかった。そのような状態のまま本番となった。半ば諦めて、仮面をつけて相手(鏡のなかの私と対になっている現実世界の友達)と向かいあった。BGMが流れはじめ、相手が近づいてくる。その瞬間だった。相手が怖い。練習していたときの、私の知っている友達ではなくて、まったく見知らぬ『顔』が、笑ったり、眉をひそめたりしている。その時、私は空気をはっきりと感じた。それは先生のときに感じたものより、もっと大きな衝撃だった。あの時、私の体が感じたのは「私」の目から見た『ペルソナ』だった。でも、今感じたのは私の『ペルソナ』から見た『ペルソナ』だった。まったくちがうふたつの『ペルソナ』が、お互いに笑いかけ、語り合い、仮面の下の『私』たちの知らない知らない表情をつくり出している。

 仮面をはずした後、いつもと変わらぬその友達に『恐かった』と言ったら、その友だちも、私の仮面が笑いかけてきて恐かったと言っていた。

 みんなが仮面をかぶってプレゼンテーションするのを見ているうちに、いくつかの発見をした。

 まず、本当の無表情の仮面が身体の動きにともなって、さまざまな表情を見せること。そして、仮面をひとつ付けただけで、まったくちがう『だれか』になってしまうということである。いつもはもの静かな人が、仮面を付けたことで活発になったり、真面目な人が荒っぽくなったりする。でも、そんなふうに感じながら、最終的にこのように考えるようになった。

 日常世界のなかでは、あるひとつの仮面をかぶっていて、プレゼンテーションのときに仮面をかぶったときの状態が、仮面を脱いだ状態なのかも知れない。『ペルソナってなに?』という私の初めの疑問にたいする答えは、はっきりとは言えないけれど、このように思う。

 人は内と外、裏と表というように、相反する『自分』を持っている。でも、どちらかの『自分』は、呼び起こされるのを待つべく、ひっそりと眠っている。その『自分』を外に出すには、もうひとつの『顔』が必要なのだ。その『顔』がペルソナではないか。ペルソナは、内に隠れている、人間のもうひとつの気質を呼びおこすための『力』を発見するきっかけだと私は思う」

 今回、ふたたびペルソナづくりから取り組んでみて、この“ペルソナづくりと発表”の学習は、今後も続けていく価値がある内容であることを確信した。生徒たちの作ったペルソナやその発表とそのプロセスをまとめた感想から、“深い学び”の確かな”道筋”を手ごたえとして感じている。

出典:久保敏彦『教室に“学びのライブ”がやってきた!』、初出『ひと』1995年12月号、太郎次郎社

久保敏彦 (くぼ・としひこ)
1953年・石川県生まれ。東海大学体育学部卒業後、同大学大学院体育学研究科の体育社会学研究室にて、M・ウエーバーの社会学研究手法およびR・カイヨワなどのプレー論を中心に学ぶ。 その後、病院の「楽しい運動療法」“セラピューティック・レクリエーション”のフィールドワークに携わる。 ヤマハ・ジャズ・スクール、竹内敏晴演劇研究所“ことばとからだ”のワークショップなどを通じ、“レッスンのある学習”スタイルをつくりだす。 1995年4月、都立高校教諭を休職し、東京学芸大学大学院教育学部研究科入学。健康教育の実践研究をライフワークとする。 2000年5月、死去。