こんな授業があったんだ│第12回│ペルソナが人格を映しだす 仮面ってなんだ〈前編〉│久保敏彦│

こんな授業があったんだ 授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

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ペルソナが人格を映しだす
仮面ってなんだ〈前編〉
久保敏彦
(1995年・高校1年生)

仮面(ペルソナ)とは人格のルーツである

 教室にはいった私は、大きな箱から仮面をひとつずつ取りだし、フック付きマグネットで、黒板につぎつぎとぶらさげていった。白い和紙でできている人の顔のような面から赤い鬼の面、ピエロの顔をした面など、数にして10個。黒板にいくつもの仮面が一列に並び、じっとまえを見つづけている。それだけで異様な迫力がある。みんなが仮面に注目しはじめ、いままで騒がしかった教室のなかは声がなくなり、だんだん静かになっていく。仮面を見つめる興味深そうなその様子に“うまくいきそうだ⋯⋯”と、私の胸が高鳴る。きょうの学習内容は「仮面から人格とは何かを考える」である。面を見ているみんなの真剣な姿から、これからの50分間、私と生徒の数人が仮面をつけて演じるための興味づけができはじめていることがわかる。

 私はすぐにでも話しはじめたい気持ちを抑え、残りの準備をつづけた。面をつけたとき、全身が映るように等身大の大きな鏡をドアに立てかけた。BGMで音響効果をだすため、ラジオカセットも準備する。仮面に関する基礎知識のプリントや最後に書く感想の紙も配布した。“さぁ、はじめるぞ!”と自分に言いきかせた。

 私はみんなをゆっくり見わたし、話しはじめる。「オタマジャクシはカエルの子です。だれが育ててもカエルになるよね」と言う。生徒たちは呆気にとられている。仮面の話を期待していたはずが、カエルの話だからである。

「じゃ、人間はどうだろう⋯⋯? だれが育てても、人の子は人間になるだろうか⋯⋯?」
 目があった生徒に「君はどう思う?」とたずねた。
「オオカミ少女の例があるように、かならずしも人間になるとは思いません」

「そうだね。このオオカミ少女の例はみんなによく知られている話だと思います。人間は生まれたとき一つの個体、インディビデュアルとみなされる。これは社会学的な一つの見方です。胎児にも人権はあるという今日的な問題は、このさい措いておきます。個体であるインディビデュアルが人間としての教育をうけることにより“ヒト”になっていく。つまり人間の文化を身につけ、社会化していく。社会化とは、社会のルールを守るとか善悪の判断をする道徳とかのように、価値がともなう行動様式のことをいいます。こうして“ヒト”から“人間”になっていくという考え方があります。つまり、インディビデュアルがヒトのパーソン、そして人間のパーソナリティーになるというのです。ここで大切なことは、このような考え方が正しいかどうかではなく、このパーソナリティーということばに注目してほしいのです。日本語では『人格』と訳しています。それでは人格とは具体的にどんなものだろうか? 性格と人格に違いがあるのだろうか?」

 教室はシーンとなっている。黒板に仮面を並べて見せておき、何かが始まりそうな期待感をもたせている。しかし、なんだかむずかしい話をしている。生徒たちの顔には、いつものノリが感じられない。私だけひとり、これから教室でおきるドラマにワクワクしている。

 このような話は、仮面を演ずるまえに、ぜひ予備知識として知っておいてほしいのである。そうでないと、面をつけて踊ることは楽しいことだが、それは多くの生徒にとってたんなる道化で、内容の浅いパフォーマンスにしか映らない、残念な結果になる可能性がある。人格についての基礎知識を得ることは、仮面の魅力を高めることにつながっていくものと思われる。

「人形などを、ときにキャラクター・グッズともいう。また、FMラジオなどの音楽番組を聴いていると、『きょうのパーソナリティーは⋯⋯』と言っていませんか。一般的にキャラクターを性格、パーソナリティーを人格という。このキャラクターということばは、ギリシア語の『刻み込まれたもの』を意味することばがルーツです。ヨーロッパの学者はキャラクターということばを好んで使うようです」

「パーソナリティー(personarity)はラテン語のペルソナ(persona)に由来しており、もともとはギリシア劇で使う仮面をペルソナと呼んでいたのです。やがて劇での役割をペルソナと言うようになり、さらに登場人物、役者のことをさすようになったことばと言われています。アメリカの学者は、キャラクターよりパーソナリティーをよく使っている。きょうはこのパーソナリティーのルーツであるペルソナ、仮面がメインテーマです。この黒板にぶらさがっている仮面を、ぼくと君たちの何人かが実際につけ、動いたり踊ったりしてみようと思っています。仮面をつけ、演じることで『人格とは何か』を考えてみようというわけです」

仮面が人にのり移るとどうなるか

 ここまでの話になると、きょうやることの流れがわかり、生徒たちはリラックスした顔つきになってきた。仮面を背にした異様な雰囲気のなかで、ペルソナがどうのこうのと話すのだから、とまどってしまうのも無理はない。私はさらに話をつづける。

「世界中の国ぐにには、さまざまな仮面をつかう行事があり、それぞれに由来があります。一般的には宗教の儀式、呪術と関係しているものが多いようです。神が地上に降り、擬人化した姿をあらわすもの。神遊びといって、人間と神がともに遊ぶことから発生した祭り。豊作や豊漁を祈願したり、占ったりするなど霊的な世界と関係しているものとさまざまです。

 たとえば、日本海側の地方には、仮面の年中行事が数多くあります。代表的なのは秋田県の“なまはげ”ですが、ぼくの田舎の能登には鬼面をつけて太鼓を打つ“じんじょう太鼓だいこ”があり、テレビの“奥能登旅めぐり”などではかならずでてくるし、ドラマでのロケーションにもよく使われています。むかし、上杉謙信が輪島の名船という村を襲ったとき、村人が鬼面に海草をつけ、太鼓を打ち鳴らし、夜陰に乗じて敵を驚かし追いはらった。面をつけることにより、村人たちに妖鬼がのりうつったとして「御神乗り移り」または「御陣乗り」として、受け継がれている伝統行事です」

「ぼくはこの輪島の近くにある、みなつきという小さな漁村に生まれ15歳まで育ちました。そこにも毎年1月6日、“あまめはぎ”という仮面の神事がありました。これは一年中、海や田畑で働くと、足の裏にまめができる。鬼面で、蓑をまとった若い衆2〜3人が各家をまわり、家のみんながそろったところで、神棚と家族をおはらいする。これで、“まめ”がはぎとられていくことになる。それで“あまめはぎ”という。学校にはいるまえの小さな子どもがいると、『父ちゃんや母ちゃんの言うことをきいとぉるがかぁ。どんなげやぁ』などと脅かすしぐさをする。子どもは怖くてワァーワァー泣く。『言うことをきいとぉるいい子どもやもんで、堪忍してくだしねぇ』と親がお許しを請う。お祓いとお許しのお礼に、鏡餅を差しだす。♪あまめはぎが、ござった。もちみっつだしとけや♪と、子どもたちがはやしながらついて歩く。この面をつけるとき、酒をたらふく飲む。そして面をつける。酒のせいもあり、面が本人に憑依ひょういする。面がのりうつるんです。面のなかから見える世界は、いままで自分が感じていた世界とはまったく異なってみえる。面にはそんな力があるようです。面が人にのりうつるとどうなるか、憑依する場面をここで再現しようと思います」

 いくつもの仮面を背にしてのこのような話は、思いがけない効果を生んだ。語り部が物語の世界へ誘うように、教室のなかが神妙な雰囲気になっている。静かに張りつめたような空気が漂う。不安で落ちつかないような顔がいくつも見える。なかにはこれから始まる何かに期待しているような表情もあり、不安と期待が教室全体の緊張感を高めている。

赤鬼の仮面をつけて演じる

 黒板から仮面をひとつはずす。びっくりしたような大きな目で、口もとが怒っているようにも見える。赤く彩色されており、額や頬、鼻から唇の形など凹凸の激しい鬼面である。この面を手にとりながら、私は入り口のドアに立てかけてある鏡に向き、自分の顔や身体全体を映す。膝を床につけ、手にもっている赤い鬼面をじっと見つめつづける。すると身体の奥から激しく荒あらしい感情がこみあげてくる。その思いで一気に面をかぶる。鏡に映っている鬼面の自分は、まるで別人のように激しい気性をあらわにしている。用意しておいた布地で身を包む。赤い鬼面に、黄色と赤の市松模様の衣装。私はゆっくりみんなのほうにふりむく。

 太鼓の音楽テープが教室に響く。ドンドン、ドッドッドン、ドンツカドン。黒板のまえで、私は舞うように、和太鼓のリズムにあわせ思いのまま身体を動かす。顔をみんなのほうに向けたまま、できるだけ大きな動作をゆったりする。ときどき動きをピタッと止め、みんなをにらむように感情をむきだしにする。身体全体の動きから、指先まで気をはりめぐらせ、仮面を見て湧きあがった感情を、細やかな動きにまであらわしていく。ときどき生徒と目が合う。生徒はビクッと身を固くする。片手でゆっくり手招きをすると、オロオロする生徒もいる。その姿を見ると、私は鬼になったような気持ちが一段と高まり、激しい気性になっていく。

 みんなは身動きもせず、なかには耐えられないのか、机に顔を伏せている者もいる。4〜5分くらい踊りつづけた。ふたたび鏡に向かい、ゆっくり仮面をはずす。私はハァハァして、感情が高揚しているのがわかる。ゆっくり大きな深呼吸を数回し、気持ちを落ちつかせる。

「どうでしたか⋯⋯。これが仮面が憑依するということです。黒板にぶら下がっているときは、ただの面ですが、ひとたび人がかぶると、面にいのちが吹きこまれます。どんな面でも、だれがかぶっても、面はその表情をもってきます。笑っていたり、悲しそうだったり、喜怒哀楽のあるものを表情面という。表情がないようなものを中性面、ニュートラルとも呼んでいます。車でいえばギアがはいっていない状態です。中性面でも、かぶる人の感情が面にでてきます。見方によっては、むしろ表情面より中性面のほうが仮面の表情にとらわれないので、その人の感情が面にはっきりとあらわれます。どちらにしても、面は内側にすごい力を秘めているのです」と話しながらみんなを見ると、こわばった顔が多い。さきほどの余韻が残り、シーンとした空気に包まれている。

「久保先生が鬼の面をつけたとき、一瞬、先生だということを忘れた気がした。なんかまったく別人になってしまって、不思議だった。動作がつくと、その面の表情が変わっていき、別世界に自分がまぎれこんでいく感じがして、だんだん怖くなってきた。先生が面をとっても、胸のドキドキが続いていた。面は人を変える力をもっている」
「先生がお面をつけて、こっちを見たとき、ドキッとした。『なんだ、これは』という思いだった。動いている姿は、まるで黄泉よみの世界の亡者が、人をさらいにこの世に来たようだった。目が合い、手招きされると、吸い込まれていきそうで怖かった。背中がゾクゾクして寒気がした」などと、おなじような感想が多かった。赤鬼の仮面は、かなりのインパクトがあったようである。

「ぼくはきょうのために、黒板にかかっている面の半数を作りました。数があるていど欲しいので、演劇仲間から借りてきています。さきほどの赤鬼面は、彫刻家の友人が作ったものです。みんなのまえで、かぶってみたいと思っていました。これは、ぼくが作ったひとつです」と言いながら、和紙でできた白い面を、黒板からはずす。

「こんどは、君たちに『仮面』をやってもらおうと思います。大切なことは、面を見ていて湧いてくる思いや、面をつけた自分を鏡に映したときのイメージを、できるだけ保ちつづけることです。もし、動いているなかでイメージが変われば、仮面の印象も変わってくるから、それはそれでいいのです。能のようにゆっくり動くと表情がわかりやすい。またできるだけま横やま下を向かないで、顔を傾けるのは少しの角度で十分です。ぼくが手にしているこの面は、自分の『悲しみ』とは何だろうと考えながら作った『悲しみの面』です。人間のドロドロしたところを表したかったのです。ねんどで型を作り、その上にちぎった和紙をはり重ねていきます。和紙の白さを活かすために色を塗っていません。この面を二人の人にかぶってもらいたいのです。おなじ面が、かぶる人によって表情がどのように変わるのか、面から伝わってくるものにどんな違いがあるのか、そこを見てほしいのです。だれかやってみませんか!」と言っても、私の声だけが響き、沈黙がつづいている。

仮面がひとの内面をえがきだす

 仮面に興味があり、「やってみよう」と思っても、いまの緊張感のなかでは、自分から意思表示をし、まえに出るにはかなりの思いきりがいる。

 私が作った「悲しみの面」は、人間の顔よりやや大ぶりにできており、目じりが下がりぎみで、鼻は長く高い。口もとが細く大きく開いている。眉の部分が盛りあがっていて、バランスの悪い顔である。この白い仮面を差しだしながら「どう……やってみない?」と声をかけたら、スーッと男子が立ちあがった。「ウォーッ」と何人かから声がもれる。彼は黒板に向かって淡たんと歩いてくる。それまで張りつめていた緊張感がとかれ、止まっていたような教室の空気が動きだした。

「それじゃあ、ぼくのようにしなくてもいいから、面をつけて立っているだけでもいいよ。できれば、みんなのほうに向かって手を振るとか、気持ちにまかせて少し動いてくれると、仮面の表情がもっとはっきり伝わってくる。あまり考えないで、とにかくやってみよう」と言いながら、「悲しみの面」を手渡した。

 本人はかなりその気になっている。鏡のまえでじっと仮面を眺め、イメージづくりにはいった。私はBGMに喜多郎の「シルクロードのテーマ曲」を流す。面をつけた彼はゆっくりみんなのほうへふりむく。その姿を見て、みんなは一瞬息をのむ。仮面は彼の顔にピッタリはまり、仮面の顔をした人物になりきっている。音楽にあわせ、みんなのまえを歩きはじめた。立ち止まり、みんなにゆっくり左右に手を振る。その動作がおもしろくて、みんながいっせいにドーッと笑った。みんなの笑いに誘われて、本人もクックックッと笑う。しかし、笑っているはずなのに、仮面はまるで泣いているように見える。あまりにも悲しげなその表情に、笑い声が収まっていく。

悲しみの面
悲しみの面

「笑っていても、泣いている感じがした。仮面の力には、ただ驚いた。仮面をかぶると、その人の本当の顔を忘れてしまったというか、わからなくなってしまった。自分の知っている人のはずなのに⋯⋯。ずっと見ていると、ちょっと怖かった。けれど、楽しかった」

「笑った。でも、ものすごく怖かった。ほんと、お面って不思議ですね。人がつけるまえは、先生が『このお面は“悲しみ”を表現している』といっても、あまり、そう見えなかったけれど、つけてみると“悲しみ”そのものに見えました。思わず涙が出そうになった。と言いつつもオカシかった」

 悲しみと笑いを同時に演じた彼は、「お面をかぶると、何でもできてしまうような気がして、自分の気が抜けて、何かにしめつけられているようで怖かった。お面をとると、自分にもどった気がしてホッとした。お面の小さな穴から見える世界は、神秘的だった」と語っている。

 面を演じるとき、どちらかと言うと、前髪がさがっているほうが、面の縁が髪で隠れ、自然な感じがする。そんな髪形をしている、もうひとりの男子にきてもらう。

「おなじ面をおなじ曲でやってほしいんだけど。そうすると、面にその人の人柄がでて、見ているみんなは表情の違いがよくわかるので⋯⋯」と言うと、「椅子を使ってもいいですか?」と聞く。「いいよ、君のイメージが大切なんだから」。どうやら何か考えているようである。

 彼は椅子を用意して、鏡に向かう。私は早めに音楽を流し、雰囲気づくりをする。「シルクロードのテーマ曲」が広びろとした大地を彷彿させる。ゆっくり面をつけた彼は、椅子に腰をおろし、天井を見あげている。その姿は何かに思い悩んでいるかのように見える。視線をしだいに床におろし、考えこみはじめた。けだるい。生きることなんか⋯⋯といっているような、その姿には希望が感じられない。窓からさしこむ太陽は、仮面に影をつくり、けだるい表情をより鮮明にしている。大きな溜め息をハァーッとつきながら、肩をガックリ落とす。思わず“どうしたんだよ⋯⋯何があったんだよ”と声をかけたくなる。なんだかわけもなく悲しくなってくる。そこには面を作った自分の姿が見えた。私は慢性腎炎を患い、やがて人工透析になることに不安をもっていた。私の「悲しみ」とは、透析をうけながら生きていくことを受け入れようとしない自分の心だと、教えられた思いだった。

 彼は感想で「面というのは、そのときどきに表情が違って見えるけど、どの表情にも『悲しみ』がふくまれているような気がしてならなかった。自分でかぶったときは、心にうかんだ動きをしてみた。面をしていることを忘れる瞬間を感じた」と書いている。

「あの悲しそうな仮面をつけると、だれもが悲しく見えてしまうから、不思議だった。あの目でみつめられると、凍ってしまいそうになる。面というのは、普通の人の顔よりも、感情があらわれていると思う。あのままもっといろんな動きをしてほしかった。何かの演劇の舞台でもみている気分だった。BGMと仮面がピッタリあっていた」

「おなじ面でもつける人が違えば、お面の表情も違う気がした。そして違うお面でもつける人がおなじなら、おなじ表情をしているように思われた。お面のしたの素顔が、お面の表情ににじみでているのではないかと感じた」と、他の生徒たちも書いている。

 つぎは女子にお願いした。「きみが『かぶってみたいなぁ』と思う面を選んでみてね」と言うと、友人が作った面を手にとった。その仮面は少女の顔で、笑っている。丸い顔に頬が大きくふくらみ、小さな鼻がかわいい。おちょぼ口。いかにも楽しそうに目も笑っているが、どこか意地悪な感じがする。まえの二人とおなじように面をつけ、みんなのほうを向く。“あっ、どこかでこんな女の子みたぞ!”と思わずのぞきこんだ。本人はあまり動かず、顔の方向を左右に動かすだけだった。それだけでも、仮面の少女は笑いながら“フン、なにさ”と言わんばかりに、なにかを楽しんでいるかのように見える。

「鏡でお面をかぶった自分を見たとき、妙な感じがした。自分の顔にもこんな一瞬がありそうな気がした。よく“人は見かけによらない”と言うけれど、私は、人のこころがその人の顔にも自然に表れてくるものだと思う」と、その女子生徒は書いている。

「お面をつけると、本当にその人物になってしまうように感じた。顔の表情って、こんなに訴えかけるものがあるんだなぁ。人の顔を変えることは人の内面を変えることなんだと思った。髪形を変えただけでも、いままでとは違った気分になる」

 しだいに、仮面をつけ演じる時間がなくなってきた。もう少し多くの人がいろいろな面をつけ、演じたほうが、さらに深みがでたかと思う。しかし、演じた生徒や見ていたみんなの表情から、仮面に興味と関心をもったというような、いい手ごたえが伝わってきている。

「どうでした? きみたちの人生で、今後このように仮面をつけて演ずるというのは、まず、ないものと思います。そこでです、どう! みんなでそれぞれ仮面を作ってみようよ。面を作り、みんなで発表会をやろう。仮面は型紙で簡単に作れます。できれば来週からと思っているのですが」と話すと、生徒たちはシーンとしたままである。嫌なときは「エー」とか「そんなー」などと言う。

「それでは、次回からは仮面を作ります。自分はどんな面を作りたいのかイメージしたり、仮面の写真集などを参考にしたい人は持ってきたりしてください。各自で準備するものは、工作紙、ハサミ、色を塗りたい人は、ポスターカラーや絵の具のセットを持参してください。仮面の型紙やセロハンテープ、ボンドなどは、こちらで用意をします」
 こうして“仮面づくり”となった。

自分の思いをこめた仮面づくりへ

 教室がいつにもましてにぎやかだ。机のうえには工作用紙やハサミなどが置かれている。どうやら、お面づくりに気持ちがはしゃいでいるようである。「お面づくりのような工作は、きっと小学校以来だと思う。小さいころはよくいろんな物を作った。高校では音楽選択だから、もうこんなふうに、何かを作ることはないと思っていた。でも、保健でお面づくりをすると聞いたとき、とてもうれしかった」と書いていた生徒がいた。

「いまから、お面の型紙を配ります。ABCと3種類の型があります。予備の型紙は教卓に置いておきますから、自由に持っていってください。作り方はプリントに書いてあります。目や口の穴あけは、面の形ができてからやったほうがいいよ。鼻は型紙を変形させるのもおもしろくなるし、口がないのもいい。もし、もっとオリジナルなものにしたい人は、型紙の面にフォルモという紙ねんどで凹凸をつける。フォルモは画材屋さんにいけば売っています。木工ボンドを水溶きして、柔らかい紙を張り重ねても、表情に変化をつけられます。色をどうするのかなど、あれこれ工夫してみてください」

 仮面づくりが始まった。机を向きあわせ、グループで楽しそうにやっている。ひとりで型紙を眺め、どれにしようかと思案している生徒もいる。

 作り方は、『お面をつくる』(松延博著、大月書店)から、作りやすく、立体的になる型のものを選んだ。本には型紙を拡大コピーしてそのままつかえるように、親切な心配りがしてある。作り方も細やかで、写真つきで書かれている。生徒には、おおまかな作り方をメモにし、型紙とともにプリントして配った。

仮面の型紙 松延博『お面をつくる』(大月書店)から

①—型紙を工作用紙か厚紙に、のりではりつける。
②—切り取り線にそって、ハサミをいれる。
③—折り線にしたがい、折り曲げていく。
④—立体的に組み立て、裏からテープなどでとめる。
⑤—面の表に白い紙をはると、面がしっかりする。
⑥—裏に紙をはっていくと、さらに面がしっかりする。
⑦—目や口の穴あけは、型ができてからのほうがいい。
⑧—型をオリジナルにするには、水溶きボンドで紙を重ねて、何枚もはっていく。ティッシュも利用できる。
⑨—紙ねんどのフォルモを使うと、表情に凹凸がつけられる。色つきのものもある。300〜500円前後。
⑩—色塗りは、ポスターカラーやリキテックスがいいが、絵の具でも十分いい色となる。
⑪—止めヒモは、輪ゴムや糸ゴムをつかう。
⑫—いくつ作ってもOK。作品は評価の対象にしない。
⑬—評価は、「作る、演じる、見る」なかで、感じたもの、考えたことなどをまとめ、レポート提出でする。
⑭—発表は、1人から5人までのグループとする。
⑮—発表時間は、3分から5分をめやすとする。
⑯—ことばを使わないノンバーバルで表現する。音響効果や衣装は工夫するともりあがる。

 簡単なメモである。これで十分に面が作れる。

 面づくりの2時間目になると、ほとんどの生徒が色を塗っている。家で作ってきた者が多いようである。

「面づくりをはじめたら、人の顔が気になってきた。自分の顔を、いままで以上に鏡でじっくりと見た。電車に乗ると、向かいの座席に座っている人の顔が気になり、ひとりずつ順番に観察した。ひとつとしておなじ顔がなく、顔っておもしろいなぁと思うようになった」と書いていた生徒がいる。

「きょうで、仮面づくりをとりあえず終わりにします。つぎの授業は、年が明け、3学期になります。できていない人やもっと作りたい人は、冬休みを利用してください。ぎりぎり、発表までにできていれば十分です。発表日とその順番は、次回、年明けの一回目のとき、くじ引きで決めます。それまでに、ひとりでやるか、グループのメンバーはどうするか、それぞれ決めておいてください。発表の内容などは、グループや発表日が決まってから考えても十分ですし、後半の人は前半の人の発表を参考にできます。自分の面で何をやりたいかあたためておいてください。それじゃ、よいお年を!」

 こうして、仮面の授業に一区切りがつくことになった。

人格とは何かを追究する

 この仮面の取り組みは、つぎのような経過からはじめようと考えた。

 今日、日本の学校教育は「詰め込み主義」「知識偏重の暗記教育」などと、国内はじめ諸外国からも批判されており、その多様な指摘をマス・メディアで知ることができる。学校によっては、受験勉強にさしつかえるということで男女交際を禁じたり、有名校にはいるために「人生について考えるなどは、受験勉強にプラスにならない。そんな時間があるならば、勉強をしろ」と生徒に話す教員がいるという。しかし、中学生から高校生の時代は「生きるとは何か。人生とは何か」を真剣に考えはじめる年ごろである。受験のための教育は、若者が人生を哲学することさえも奪いとってしまうのだろうか⋯⋯。そうあってはならないと思う。

 私が担当している保健の授業の終わり4〜5分間、生徒たちはその日に学んだ感想を、名刺の大きさの紙に名前入りで書く。つぎの時間、クラス全員の感想や意見を印刷して配布する。これは生徒どうしや私とのコミュニケーションとなり、同時に生徒による授業評価にもなる。また、各学期ごとに、まとめをレポートすることにしている。この感想やまとめを読んでいると、生徒たちが自分の性格や人格について考え、人間関係について悩み、自分の生き方を模索している文章にであう。そこには高校生が人生に真摯に向きあっている姿を見いだすことができる。その問いかけに、少しでも応えることのできる学習内容とは「何をどのように」したらいいのだろうかと試行錯誤していた。

 そのなかで、生徒たちが興味を示す心理学や人間関係学の領域から「すぐ役立つコミュニケーションの理論とその方法」「自分の性格傾向を知ることのできる性格類型や因子分析の検査」「連想することばから絵と文をつくり、自分のこころを見つめる連想詩画法」「ことばは相手の身体に触れて働きかける──話しかけのレッスン」「仮面(ペルソナ)を演じることで、人格とは何かを考えてみる」の5項目を予定した。この学習は、1時間1テーマとし、具体的な理論と方法の習得や検査結果など目に見えるものから、絵や仮面など抽象的で各自の感性が重要な手がかりになっていくものへの流れを意識した。

 最後の「仮面」の授業をクライマックスに位置づけている。この「仮面」の授業一時間をきっかけに、その後、クラス全員が自分で仮面を作り、自作の面をつけてみんなのまえで演じる。この「面づくり。演じる。感じた感想や意見をだしあう」という学習により、人格とは何かを考え、個性とは何をいうのか、自己開示の方法、ノンバーバル(ことばを使わない)・コミュニケーションなどについて学ぶ。

 この5つのテーマを「こころシリーズ」とし、“いまの自分”から“これからの自分”へと自分が歩みたい人生の青写真をつくっていく、そんな具体的な動きへとつなげられないだろうかと思った。そのためには、各テーマひとつずつが、生徒のこころを深くゆさぶり、人間の魅力を多角度からとらえるトレーニングになる内容にしたい。そう思うと、このシリーズをなんとしても成功させたいと願った。

 私は、このはじめての試みである「こころシリーズ」を保健の1年生2学期の後半に行なうことにした。2学期で流れの勢いをつけ、その「発展」として3学期には面づくりと自作の面で演じる発表へとつないでいきたいと考えた。

 新しい年度になり新学期がはじまった。私は希望どおり1年生の保健を担当することになった。週1時間3クラス。保健は多くの高校で、1、2年生でそれぞれ週1時間が標準である。私は4月から「こころシリーズ」にむけて、少しずつ準備をはじめた。まず、学習の基礎となるプリント用の知識を収集するため、心理学関係の文献を読み、学問的な見解を情報カードにまとめていく。生徒が関心をもつようなやさしいコミュニケーションのハウ・ツウなどを、ロールプレイで楽しく学べるように、小道具などを準備する。性格の検査用紙は、大学の心理学研究室からサンプルをとりよせ、生徒にはどの検査方法が適しているか検討し、専門家の意見を聞く。連想詩画法については、新宿の朝日カルチャー・センターで受講し、私自身が生徒を指導できるようにと、学習の内容をはじめ投影法の考え方や分析の仕方を再度、学びなおした。

 夏休みには面づくりができないかと思っていた。そのころ、私が竹内敏晴演劇研究所のワーク・ショップに通うようになって5年間の月日が過ぎ、稽古場には馴染みの顔も増えていた。そのときのメンバー5、6人と仮面づくりをやってみようと、東京・調布市にお住まいの松延博さん宅へ、数日間通うことになった。

 松延さんは大学教授を退官後、劇団の役者として活躍されるとともに、さまざまな紙を利用しての「仮面づくり」で名の知れたかたでもある。大月書店『お面をつくる』は、だれでもが簡単に面を作れるテキストとして好評を博している。

 私たちはこのテキストを参考にしながら、ていねいな面づくりの指導を受けた。数日間でいろいろな材質と表情の面ができあがった。ダンボール紙を切り抜くだけの平たい面、テキストにある面づくりの型紙を利用し、厚紙に和紙をはる面、発泡スチロールを弓ノコギリのような熱線でズバズバ切り取って作る面、紙ねんどのフォルモを利用した起伏のある表情の面。ひとつの面ができあがるたびに、大きな鏡のまえで面をつけ、身体の動き方や表情のだし方などを工夫し、お互いに感想を言いながら、「仮面づくり」と「演ずる」楽しさを味わった。

 私はすっかりこの面づくりに夢中になった。自宅にもどってからも、世界の仮面の写真集を参考にし、油ねんどで型をつくり、そのうえに和紙をはり重ねていく、手間暇のかかる面を4つ仕上げた。面を作りながら、「生徒たちは、この面にどんな反応をするだろうか」と思うと、やがてこの面を使う日が待ちどおしく、みんなの驚く顔が目に浮かんだ。仮面の授業を“こんな話から、こんなふうに運んで”などと、いくつものイメージがどんどん広がっていく。

 こうして「こころシリーズ」を迎えた。各項目の学習は順調にすすみ、生徒たちはどの内容にも興味を示し、意欲的で楽しそうに取り組んでいる。2学期になると、私の実技(レッスンと呼んでいる)やワーク中心の学習方法にすっかり馴染んでいる。

 いよいよ「仮面」の時間となった。この日のために準備したいくつかの面を箱に入れ、私はどんな授業になるだろうかと、期待でワクワクしながら教室に着いた。

 ペルソナの授業は期待以上に、生徒たちに歓迎された。そして、仮面づくり。年が明け、第一回目のとき、どんな面が教室に集まるのかと思うと、私の胸ははずんだ。作っている様子では、かなり凝っているものも見うけられた。

後編へ続く)

 参考:松延博『お面をつくる』(大月書店)

出典:久保敏彦『教室に“学びのライブ”がやってきた!』、初出『ひと』1995年12月号、太郎次郎社

久保敏彦 (くぼ・としひこ)
1953年・石川県生まれ。東海大学体育学部卒業後、同大学大学院体育学研究科の体育社会学研究室にて、M・ウエーバーの社会学研究手法およびR・カイヨワなどのプレー論を中心に学ぶ。 その後、病院の「楽しい運動療法」“セラピューティック・レクリエーション”のフィールドワークに携わる。 ヤマハ・ジャズ・スクール、竹内敏晴演劇研究所“ことばとからだ”のワークショップなどを通じ、“レッスンのある学習”スタイルをつくりだす。 1995年4月、都立高校教諭を休職し、東京学芸大学大学院教育学部研究科入学。健康教育の実践研究をライフワークとする。 2000年5月、死去。