〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす│第6回│「会話」を止めるとはどういうことか│朱喜哲

〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 朱喜哲 ちゅ ひちょる 「公正」とはなにか。「正義」とはなにか。 その言葉の使いこなしかたをプラグマティズム言語哲学からさぐります。

「公正」とはなにか。「正義」とはなにか。
そのことばの使いこなし方をプラグマティズム言語哲学からさぐります。

初回から読む

第6回
「会話」を止めるとはどういうことか


あらためて、ことばを「乗りこなす」とは

 この連載は、「正義」や「公正」などといった「正しいことば」の意味について、その使を検討することを通じて考えてみよう、というものでした。なぜそんなテーマを掲げるのかといえば、それはどうも日本語では使いづらいこれらの「正しいことば」を使ようになるため、です。

 ここでの「うまい使い方」とか「適切に使える」といった表現は、「使える」とは区別されています。また、それを通じてめざされているのが「を理解する」ということ、という点も重要でした。正しいことばについて、「ほんとうの意味」をうんぬんするのではなく、じっさいの使用例——それもうまいものだけでなくヘタなものこそ——を参考に、いわばで使ってみるための勘どころを探ることを目標に、ここまで話題を重ねてきました。

 こうした課題感が、ことばを「」という表題に込められています。ちょうど自転車のように、教習所や免許のような社会制度があるわけでもなく運転技術の巧拙に明瞭な基準があるわけでもない、そうしたに相当するものが「ことば」です。では、どうすればこういった類のものを乗りこなせるのか。第1回から引用してみます。

先の自転車の比喩に戻れば、どれだけ説明書を読んでも自転車に乗れるようにはなりません。むしろ、実際に乗ってみて、ときには転んでみたり、事故につながる数々の「ヒヤリハット」を経験することで、乗りこなせるようになっていくものでしょう。

 この場合の「事故」に関して、哲学者リチャード・ローティを参照しつつ「会話の根本的ルールは、それをことである」という観点を紹介しました。この「会話」をような事態こそ「事故」であるという立場から、ここまでアメリカ大統領選や日本の初等教育における「道徳」科目のことばづかいを検討してきたわけです。

 さて、今回は具体的な事例から一歩引いて、そもそものところを考えてみたいと思います。なぜ上記のようなことが「会話のルール」として掲げられるのか。そして、それと「正しいことば」はどう関係してくるのでしょうか。


ローティのいう「会話」とはなにか

 まずもって「会話が止まる」ことはなぜ避けるべき事故なのか、というところからいきましょう。「ひとを黙らせる」ような言動をとることや、「それを言われたらもうなにも言えなくなる」ような話法をもちいることがという直観は、おそらく広く共有されうると思います。

 ただ当然のことですが、個別具体の「会話」はいつでも切り上げることができます。また途中で話題を変えたり、ときを置いて再開したりすることもできます。そして、ある会話につきあいつづけることが不快だったり、あるひとだけが会話をつづけるためのコストを払わねばならないといった場面においては、だれでもその会話を制止したり、話題を変えたり、そこから離脱することができるべきです。

 もっともこうした場合には、そうさせたほかの会話の参加者に上記の「会話を止める」タイプの言動や話法がもちいられていることも少なくないはずで、その場合には「事故」を起こした責任はそちらにあるということになります。しかし、個別具体の会話が主観的に好ましくないときに異議を申し立てたり、退出する権利はだれもにあってしかるべきです。ローティの掲げる「会話のルール」は、それを抑圧するようなものなのでしょうか。

 そんなことはない、というのがわたしの考えですが、それを説明するにはローティが「会話」ということばをどう使っているのかをていねいに見る必要があります。結論からいうと、ここでの「会話」とは、あるときある場所における個別具体的な会話のことも念頭に置かれてはいますが、より抽象的に「会話」全般について述べています。つまり、なんらかのコミュニケーション的な実践というものがはじまって以来、文字どおり綿、そして今後もつづくであろうの総体です。

 ローティは、政治哲学者マイケル・オークショットの著名な論文タイトルから借りて、これを「人類の会話」と呼んでいます。その論文「人類の会話における詩のことば」から、少し長いですが引用してみましょう。オークショットおよびそれを引くローティが、「会話」をなにから区別してもちいているのかがうかがえるはずです。1

会話において参加者たちは、研究や論争にかかわるのではない。そこには、発見されるべき「真理」も、証明されるべき命題や、めざされるいかなる結論もない。参加者たちは、互いに知識を伝達したり、説得したり、論駁したりすることにたずさわるのではなく、〔…〕互いに異なっていても、相容れないわけではない。もちろん、会話が議論のことばを含んでいてもよいし、論証が話者に禁じられているわけではない。しかし〔…〕のである。たとえば会話の参加者がある結論を逃れようとして、一見まったく無関係に思える発言をするようなこともあるだろうが、そのとき当該人物がしているのは、そろそろ退屈だと感じてきた、もっと自分にとって好みの話題へと話を転じることなのである。

 ここでは「」が「会話」と区別されています。より正確にいえば、個別の「議論」をふくんだ人類のコミュニケーションにかかわる営み全般が「会話」です。引用中にあったように個別の「議論」を打ち切っても、「会話」はつづけることはできます。そうして参加者や時間と場所を変えながら、営々とつづく「人類の会話」というのが、オークショットを引きながらローティが念頭に置いているものです。

 もうひとつ重要なのは、この意味での「会話」には、たとえば知識伝達や合意形成といった、というところです。もちろん「議論」であればこうした共通目標があるわけですが、「会話」には以上の目標はありません。


「議論」「探求」よりも「会話」が先にある

 もっぱら「議論」を生業とするようなひとは、それこそ「研究」を筆頭に、いかにもコミュニケーションがあるべきものとして置かれ、そのが日常における「会話」だという構図で考えがちです。自分たちの「議論」を通じて、日常のあいまいな事象がどうなっているかを明らかにしたり、どうあるなのかを提言したりすることは、とくに人文社会科学分野の研究者にとって職業的責任の果たし方でもありうるでしょう。

 オークショットは、ある意味で職業研究者としての自戒を込めつつ、「議論」ではなく「会話」をこそ先に置きます。ローティはさらに踏み込んで、自身も属している研究の共同体が営む「探求」もまた「会話」の一部であることはもちろん、それゆえに「探求」よりも「会話」が優先されねばならない、と述べます。2

探求に課せられた唯一の制約は、会話への拘束だけである。

 これは研究者としてはやや危険な主張です。というのも、このテーゼは科学的な探求が「議論の余地のない真理」のようなゴールを求めなければならない、といった制約の存在を否定しているからです。

 もっとも、そう宣言することじたいは安易で、研究者としては無責任なことでさえありえます。むしろ、そこからの職業研究者としての専門性を発揮した実務、つまり議論から区別された「会話」について、「議論」を旨とする哲学者としてなにを述べ、どう貢献することができるのかという過程にこそ、評価がかかってきます。

 では、ここからはその一端を見ていくことにしましょう。


いかにして「会話」は止まるのか

 わたしたちの具体的なコミュニケーションは、それぞれの場面ごとになんらかの目標があることも少なくありません。それを通じて相手になにかをしてもらうとか、そうでなくとも自分の意思を伝えておく、などといったことです。その結果に応じて、うまくいったりいかなかったり、ということはありえます。

 たとえば、周囲にひとがいる状態で「今日は寒いなぁ」とひとりごとを言ったとしましょう。周囲のひとは「そうでもないよ」と応じたり、共感を示してくれたり、あるいは窓を閉めてくれたり、「エアコン入れる?」などと質問してくるかもしれません。それぞれの場合ではまちまちで、ひとりごとに込めた意図しだいでは主観的には成否がわかれることになるでしょう。

 しかし、どのケースでも——話者の意図や相手の反応がどれであれ——「会話」は成立しています。「会話」には以上の共通目標などないからです。さらにいえば、その場にだれもいなかったり、全員に聴こえていないというような想定においてさえ、自分自身に向けた独話としての「会話」は成立しています。(独話のケースは飲み込みづらいかもしれませんが、「人類の会話」という観点を踏まえれば、自分自身のために書きつけた詩や日記などと同様に考えられると思います。)

 さてこうした「会話」観において、ローティが危険視する「会話が止まる」とはどういうことになるのでしょうか。それは、そもそも恐れるような事態なのでしょうか。というのも、この意味での「人類の会話」がということは、いささか想像しづらいからです。もっとも広い意味でコミュニケーション可能な存在者が、この世から完全に消え失せる、といったことでもないかぎり、は残りつづけるでしょうから、この恐れはおおよそ知的存在者の絶滅を心配するのと同程度のものかもしれません。

 さらに「会話」には特定の共通目標がない以上、その達成度から測られうるようなに訴えることもできません。個別具体の会話のシーンにおいて、それ以上の会話を打ち切るような言動がはびこるとして、それでも「話題を変える」といった手立ては残されますし、その場が沈黙のうちに終わったとしても、依然としてそこではなんらかの「会話」が成立していたと言えることは、先ほどの独話のケースからも示唆されます。

 しかし——ここが重要なところですが——、はありえます。これには「会話の総量」というような計量的で、おそらくコミュニケーション可能な主体の総数と経過時間に相関するような指標も考えられますが、単数形で表現される「人類の会話(the Conversation)」にはあまりふさわしくないかもしれません。むしろ「会話の」というような一見すると質的にもとれる指標を考えてみるのが有望そうです。

 この「会話の豊かさ」は、営まれる会話において登場することばづかい、すなわちによって評価できるでしょう。そして、こうした多様性が増大することは、「人類の会話」というものの存続可能性の向上にも寄与するはずです。これはちょうど「生物多様性」の確保が「自然環境エコシステムの持続可能性」を高めるような関係になると思います。それはつぎのような理路です。

 まず「人類の会話」とは、たしかにそれじたいの消失を懸念し、予防策を提言すべきようなものではないかもしれません。しかし個別具体の会話において、「会話を打ち切る」タイプの話法や言動がはびこることは、それぞれの主題においての自由なことばづかいの発展を阻害します。それはまず直接的には「それ以上は会話できない」主題を増やすからです。

 同時に、こうしたタイプの「黙らせる」話法は、「会話」の一部である「議論」のような一種の勝ち負けがある言論シーンにおいて、安易に「勝てる」(と思えてしまう)ことばづかいを提供します。この手の一見すると便利な道具は、語彙や推論という道具をみずから創り出したり鍛えたりする訓練を受けていない者にとって、その手軽さゆえについ頼ってしまい、ことばをめぐる訓練から遠ざけてしまいがちです。

 観測しやすいインターネット上で、とりわけ「正しいことば」が関係してくるような社会的・公共的な主題をめぐる「会話」の状況を見れば、少なくとも上記二点のメカニズムによって、どれだけその「豊かさ」が毀損されているかは明らかでしょう。


ローティ流の「会話」と「正しいことば」

 「正義」や「公正」といった正しいことばは、会話における事故を起こしやすい——それが、この連載が掲げていた課題感でした。これまで扱ってきた具体的な話題を踏まえ、今回掘り下げた「会話」についての哲学上の理解を背景に置くことで、この課題の解像度をあげたいと思います。

 「会話の止め方」として、この連載で具体的に言及した「お手軽なことばづかい」のひとつが、「正義」のでした。それは、「正しさ」について話している際に、「正義はひとそれぞれだからね」とか「こういう話は、どこまでいっても絶対に相容れないよね」というような安直な相対主義(「どっちもどっちで、それ以上話すことはない」)を招くものです。

 これに対しては、連載第2回第3回で、20世紀の政治哲学における泰斗であるジョン・ロールズの「正しいことば」の乗りこなしテクニック——「善の構想」と「正義」との区別——に基づいた処方箋を提案しました。第2回から引用します。

ロールズのテクニックにならうならば、安易に「正義なんて……」というひとには、「そりゃそれぞれになにがと思うかで対立することは当然あるけど、『正義』ってことばはそれと別にとっておこうよ」と返せばよいわけです。

 これは「正義」という語彙の使い方には慎重になろう、という程度の呼びかけです。しかし、その効果は絶大です。なぜなら「正義」から区別された「なにをいいと思うか」(個々人のいだく善についての構想)については、いくらでも相対主義をとってかまわないからです。そして、それぞれに自分の構想を私的なエピソードを交えながら語って聴かせあえばよいのです。それこそ今回掘り下げた語彙でいえば、これは「会話」の豊かさに直結します。

 この「善構想」の具体例として、宗教的信仰をあげることができます。信仰の話は、典型的にセンシティブな主題です。異なる信仰に基づいた複数の主張や推論は、直接的に対立しえたり、そうでなくとも受け容れられないものであったりします。しかし、そこで営まれるのが合意をめざす「議論」や、どちらがより真理かを決する「討議」ではなく、「会話」であれば、どうでしょうか。

 善構想についての相対主義は、信仰にかかわるような白熱しがちな話題に触れるコミュニケーションにさいして、なにも相互に論難しあったり改宗さえ迫るようなモードでなく、互いの信念とそのネットワークの相違を知るヒントを得ることもできるただのおしゃべりとして、心理的な距離をとることに資するものです。


正しいことばの使い方が「会話」を豊かにする

 もちろん、宗教的信仰は私的であると同時に社会的なものでもあります。たとえば衣食住の規則、あるいは同性婚や人工妊娠中絶といった公共的な主題をめぐって、一定の——たとえばその決定を投票に委ねるといったレベルもふくめた——合意を形成することを目標としたコミュニケーションが必要になることがありえます。このモードにおいて、先ほど「正義」という語彙をことが効いてきます。

 それぞれの私的な信仰=善構想とは独立に、それぞれ異なる善構想をもった者どうしが、しかし「皆でとりくむ命がけの挑戦(a cooperative venture)」であるところの社会をどう設計するかという公的・次元で登場するのがロールズ流の「正義」用法でした。第2回からまた引用すれば以下です。

わたしたちが社会という単位で、どのような構想を「正義」として選び、また合意を形成するのか。そのプロセスじたいが、まさしく政治なのです。

 信仰のごとき「善構想」においてはある種の相対主義を認めることで「会話」に徹したのと同じ参加者たちであっても、なんらかの合意形成を目標とするような「議論」に際しては、あくまで相互に一市民として「正義」によりかなう結論を探ることができるのではないでしょうか。それこそが、ロールズの「現実主義的なユートピア主義」でした。このとき、今回の議論を背景につぎのことが言えます。

 ローティの「会話のルール」からすると、ある意味でより基底的なものはあくまで私的なトピックを盛り込みやすい「会話」の領域です。「会話の豊かさ」は、こうした領域で安易な「論破」や「論難」をはじめとした事故を起こさせないことで、担保されます。上記の「正義」の節制的な用法が物語っているように、「会話の豊かさ」を支え、それを阻害する事故を抑止するには、会話の特殊なバージョンである「議論」を必要とする公的で社会的な「正しさ」の使いどころを制限し、ここぞというところで使うことが求められるのです。

 似て非なる複数の語彙とその際のモードを使こと。それこそが、「正しいことば」の乗りこなしにおけるテクニックということになります。


 さて、こうした展開からは、「正義」のような語彙が、もととは異なるニュアンスで受け取られるようになってきたかもしれません。第4回で日本の初等「道徳」教育を主題として論じたように、「正義」のようなことばは、「道徳」や「思いやり」といったものとは距離をとり、区別されるべきものです。そして、今回新たに紹介したように後者のリストには「宗教的信仰」も加わってきます。

 ここまで読まれた時点で、まだ「宗教的信仰を私的なものとして、公共的な正義から区別する」ということは、少なくとも直観的に受け入れがたかったり、現実的にむずかしいのではないか、と感じられているとすると、それはまったく正当です。今回だけでは、まだじゅうぶんに説得的な議論は展開できていません。

 したがって次回以降の宿題ということになりますが、ここからは「正義」や「公正」といった公的・政治的な「正しいことば」を使いこなすには、なにが求められるのかを検討していきます。

 それは、わたしたちが「正しいことば」をより使いこなし、それを通じてより正しくあるためには、ある面においてが求められる——ということです。

1 マイケル・オークショット(田島正樹ほか訳)『政治における合理主義[増補版]』、勁草書房、2013年、238頁。訳文から一部訳語や三人称代名詞の訳し方などを変更しました。また強調の傍点は引用に際して加えたものです。

2 リチャード・ローティ(室井尚・吉岡洋・加藤哲弘・浜日出夫・庁茂訳)『プラグマティズムの帰結』、ちくま学芸文庫、2014年、453頁。ただし、ここでの訳文は原文に即して訳出しなおしています。


【編集部より】本連載は次回より隔月連載となります。次回は2021年7月掲載予定です。

 

朱喜哲(ちゅ・ひちょる)
1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。大阪大学社会技術共創研究センター招へい教員ほか。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。前者ではヘイトスピーチや統計的因果推論を研究対象として扱っている。共著に『信頼を考える――リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房、2018年)、共訳にブランダム著『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房、2020年)などがある。