〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす│第4回│道徳教育と「正しいことば」の危険運転│朱喜哲

そのことばの使いこなし方をプラグマティズム言語哲学からさぐります。
第4回
道徳教育と「正しいことば」の危険運転
学校で学ぶ「正しいことば」
前回までアメリカの話が続きましたので、そろそろわたしたちがもちいている日本語に立ち返ってみましょう。もとをただせば、日本語ではどうも「正しいことば」が気軽に使いにくいのではないかというのが、本連載の課題意識でした。
これまでとりあげてきたのは、たとえば「正義」や「公正」でしたが、たしかにどうもかまえてしまうことばかもしれません。「正義」というと、どうも冷笑的なニュアンスがつきまとってしまい、第2回でも指摘した「正義の反対は別の正義」のような相対主義的な用法も思い浮かびます。なお、こうした個々人の価値観としての「よきこと」は、「善(good)についての構想」と呼んでおいて「正義」はそれとは区別しよう、というのがロールズ流のテクニックでした。
では、「公正」はどうでしょう。こちらはさらに日常的に発話したり、見聞きする機会が少ないように思います。パッと思いつくのは、「公正取引委員会」とかメディアにかかわる「公正・公平な報道」あたりでしょうか。どちらも「どういう意味? 別のことばで言い換えてみて」と求められると、なかなか応答に窮しそうです。
こちらもロールズ流と比較してみます。前回紹介したように、ロールズ流の「公正」とは、「わたしたちが正義について合意するため場に求められる条件であり、各人に課せられる責務」でした。公正さとはふるまいの問題であり、それは一種のルールである——そう表現してみると、「公正な取引」とか「公正な報道」というのは、さしあたり類似した用法にも思われます。1
さて、こうした「正しいことば」を、日本でもいちおう公式に学んでいることになっています。それはつまり学校教育における「道徳」教科においてのことです。
「道徳」教科が掲げる目標
今日、日本における道徳の授業では、どんなふうに「正しいことば」が教えられているのでしょうか。あるいは、わたしたちの抱えるこうしたことばの「使いづらさ」の一端も、こうした教育にその理由が求めれるかもしれません。そんな問題意識をほんのり抱きつつ、具体的に見ていきましょう。
じっさいの授業シーンを見てみたいところですが、それはむずかしいので個々の授業を設計するために先生が参照する「学習指導要領」を見ていくことにします。今回とりあげるのは、2020年度から小学校で適用されている最新の指導要領です。2
新しい指導要領では、第2章の各節で各科目が扱われているのですが、「道徳」だけは「特別の教科」として第3章に単独でとりあげられています。ここで「特別」と言われるのは、この教科だけは評点による成績評価の対象外であったり、学校教育全体でおこなわれる道徳教育の「要」としての教科、といった位置づけ上の特殊さのゆえです。
小学校での道徳教育の目標は、以下のように述べられています。(第1章総則)
道徳教育は,〔…〕自己の生き方を考え,主体的な判断の下に行動し,自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うことを目標とすること。
それらしいことが書かれていますが、「道徳性を養う」ためには何をどうすればよいのでしょうか。指導要領ではつぎのようにあります。(第3章第1「目標」)
よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため,道徳的諸価値についての理解を基に,自己を見つめ,物事を多面的・多角的に考え,自己の生き方についての考えを深める学習を通して,道徳的な判断力,心情,実践意欲と態度を育てる。
一文が長くて文意をとりづらいのですが、ひとまず「道徳性を養う」には、道徳的な諸価値について理解することが必要だとされていることはまちがいなさそうです。第1回でも述べましたが、この連載の採用している言語哲学上の立場からすると、道徳的価値について理解するとは、そうした「正しいことば」を使いこなせることでした。
公正とは「差別はよくない」ということ?
道徳において扱われる「道徳的諸価値」のリストのなかには、そのものずばり「公正・公平・社会正義」という項目があります。(第3章第2 内容 C「主として集団や社会との関わりに関すること」)
この項目に対応する、各学年ごとでの学習内容はつぎのとおりです。
[公正,公平,社会正義]
〔第1学年及び第2学年〕
自分の好き嫌いにとらわれないで接すること。
〔第3学年及び第4学年〕
誰に対しても分け隔てをせず,公正,公平な態度で接すること。
〔第5学年及び第6学年〕
誰に対しても差別をすることや偏見をもつことなく,公正,公平な態度で接し,正義の実現に努めること。
学年を増すごとに段々と用語が登場してくることが印象的です。設計者としては、これらはすべて「公正・公平・社会正義」について段階を踏んでの言い換えだと考えているのでしょうか。わたしにはそうは思えないのですが、ていねいに見ていきましょう。
学習指導要領を見ていると、なんとなく自分の受けた「道徳」の授業の雰囲気や、ことばのニュアンスが思い出されるひともいることでしょう。わたしもそのひとりですが、こうして見返してみると、中学年のころは「分け隔てをしないように」(「みんな同じように」)とか、高学年になると「差別はよくないことだ」というのをくり返されたように思います。
日本語での「正しいことば」の使い方——そして使いづらさ——は、このあたりの初等教育ともおおいに関連していそうです。おそらくですが、熟練した日本語話者であっても、「公正・公平」は何となくペアで使ってみたり、その違いをうまく説明できないことは多いと思います。
また、これに「正義」を加えても事情は同じようなもので、「けっきょくどういうこと?」と問われたら、たいてい「差別」というキーワードをまじえて説明することになります。それも「差別はよくない」といった、個々人の心のもちかたにかかわる価値観として説明されることが多いのではないでしょうか。
上で紹介した指導要領では、「公正・公平」は態度にかかる形容詞でした。つまり、たんなる心もちに留まらず、さらに(それを理由として)「偏見や差別を許さない」というふるまいができるように、ということが教育としてめざされています。
つまりこの構図では、あくまで個人の内面、主観的な動機と、その発露としての個々人の行動が問題になっているのです。ロールズ流の場合、公正さとは一種のバランス感覚にかかわりますが、それはけして「気持ちの問題」ではありません。道徳的だから公正にふるまえるのではなく、どんな価値観をもっているとしても社会でともに生きる以上は公正でなければならないのです。
道徳の延長線上にある「正義」
こうした批判的な検討を裏づけるような記述を、学習指導要領の「解説」において見つけることができます。以下、「公正・公平・社会正義」を解説する箇所から引用します。3
社会正義は,人として行うべき道筋を社会に当てはめた考え方である。社会正義を実現するためには,その社会を構成する人々が真実を見極める社会的な認識能力を高め,思いやりの心などを育むようにすることが基本になければならない。
ここでの「正義」は、何らかの個人の道徳や倫理観(「人として行うべき道筋」)なるものが先にあって、それが社会という単位に拡張されたものだという理路になっています。だから、正義の実現にさいしても個々人の能力向上や良心——「思いやり」——の育成が必要になるという理屈です。
社会的な「正義」の実現は教育しだい。そう受けとれば、教育にかける意気込みを表明したものとも読めるかもしれません。しかし同時に、社会正義という公共的で政治的な関心事の成立が、わたしたち個々人の能力や良心の問題にされてしまってもいます。
この点において、ロールズ流の「正義」用法と異なることは明白ですが、続く一文を読むと、これが道徳教育の目標設定としても問題含みであることがわかります。4
集団や社会において公正,公平にすることは,私心にとらわれず誰にも分け隔てなく接し,偏ったものの見方や考え方を避けるよう努めることである。
最後の「努める」がかかる範囲の解釈がわかれそうですが、「接し」と「避ける」の両方にかけるのが無難でしょうか。そうすると「公正・公平」とは、つぎのふたつの努力目標にかかっています。ひとつは「私心にとらわれず誰にも分け隔てなく接」するという、およそ立派な大人であっても達成できてないようなふるまいへの努力。そして、もうひとつは「偏ったものの見方や考え方を避ける」という内面にかかわる努力です。
法外な目標は「正しいことば」を空虚にする
まず前者の努力目標が法外である、ということはすぐ指摘できます。ロールズ流「公正」も、ひととの接し方におけるルールではありましたが、それは共通する利害の配分におけるバランスの問題でした。そして、具体的なケースにおいて、どのような状態であれば公正が実現しているのかは原理的に特定できるものです。この場合、わたしたちはより公正である、そしてより正義にかなった社会というものを構想できます。
道徳においては、「公正」に加えて「公平(equality)」が併記され——それぞれ何が違うのかは書かれていませんが——、「誰にも分け隔てなく接する」という強烈な要請が入ってきます。この理念そのものは妥当でありうると思いますが、しかしこれを貫徹するとなると、それこそ「家族」のような社会的枠組とさえ衝突しそうです。
これは「公正・公平」のような公共的な理念を、個々人の私的な道徳観にスライドさせて語ってしまうことの、わかりやすい落とし穴だと思います。
たとえば、教師は生徒に対して公平に接する義務をもちますが、それは職業上の倫理です。一方で、もし身内に不幸があったというような場合に、私心にとらわれて家族のもとに駆けつけることを優先したとしても、道徳的に責められるいわれはありません。
また「公平さ」は——教師が体現するように——、社会制度において実現がめざされるものです。たとえば「男女雇用機会均等法」というような場合がそうです。これは「機会の公平」、この場合は就業のチャンスが平等に分配されている状態をめざすという理念を掲げた法です。このとき「公平さ」を実現させることは採用組織(に属する者)が公的に担う責務であって、個々の採用担当者の思いやりや良心の問題ではありません。
こうしたことはわかっているはずなのに、どういうわけか小学校の道徳教科では「公正・公平」を、個々人が努力して養うべきものとして教えることになっているのです。それはあまりに途方もない、法外な目標設定でしょう。こうした「正しいことば」が日本語において空虚に響くとしたら、それは初等教育における用法と無関係ではないと思います。
日本における「正義」の息苦しさ
さて指導要領の解説は、つぎのように続きます。5
社会正義の実現を妨げるものに人々の差別や偏見がある。人間は自分と異なる感じ方や考え方,多数ではない立場や意見などに対し偏った見方をしたり,自分よりも弱い存在があることで優越感を抱きたいがために偏った接し方をしたりする弱さをもっていると言われる。いじめの問題なども,このような人間の弱さが起因している場合が少なくない。
所属する一人一人が確かな自己実現を図ることができる社会を実現するためには,そのような人間の弱さを乗り越えて,自らが正義を愛する心を育むようにすることが不可欠である。〔…〕
ここでは、正義の実現をさまたげる要因として「差別や偏見」が指摘され、これらの原因が「人間の弱さ」であるという立場を採っています。さらには「いじめの問題」までひとからげに当事者の「弱さ」に原因を求められ、この「弱さ」は教育を通じて克服されるべきものとして説かれています。
複数の問題を提起することができますが、ここでもさきほど指摘した「公共的(public)」な感覚の乏しさが大きな影を落としています。端的にいって、いじめの問題を当事者の弱さの問題にのみ関連づけて語ることは、学校という公共空間を適切に運営するという社会的責務の存在とそれを負うべき立場にある者の責任を隠蔽することに直結します。
また、ここでは「正義」が愛——つまり主観的な選好態度——の対象であると述べられています。あらためて道徳教科が教える「正義」とは、ロールズ流にいえば「善の構想」にすぎない、ということが裏書きされるのです。
こうした理解が正しいとすると、引用部分ではつぎのような主張がおこなわれていると整理できそうです。
- ①正義とは、個々人ごとにいだかれる善構想のひとつである
- ②正義とは、教育を通じて育まれるべき価値観である
- ③正義とは、差別や偏見といった弱さを克服することで実現する
ここからは、「正義は任意のものだが、まともに教育を受けたならばめざされるべきもので、めざさない人間は弱い」という帰結が出ます。さらには「正義が実現しないのは、弱さを克服できない人間のせいである」とも言えそうです。
これらはいずれも、公共的な目標設定とその漸進的な達成にかかわる課題を、個々人の努力と内心の問題に帰着させ、制度や組織を免責することにつながっています。わたしたちが、日本語において「正義」はどこか息苦しいという感慨をもつとしたら、それにはこうしたじゅうぶんな背景があるわけです。
「道徳としての正義」と会話における事故
ここまでの検討を通じて、道徳における「正しいことば」の用法が、ロールズ流のそれとはまったく異なるということは、いまや明らかだと思います。そして、こうした用法が日本語における「正しいことば」を使いづらくさせているのではないかという仮説は、それなりの説得力がありそうです。
ただし、かならずしも日本語に特有の用法であるとは思いませんので、こうした正しい道徳(善の構想)としての「正義」の用法を、ここからは「道徳としての正義」と呼ぶことにします。そこでは、わたしたち皆があるひとつの価値観(善構想)を心から望むことが理想とされています。
他方、ロールズの「公正としての正義」は、わたしたちが多様なことを望みうるということを出発点として、そうした者たちが共生するのためのルールと仕組みとして「正義」を構想するのでした。
ロールズの場合、個々人の善構想がバッティングし、対立することは大前提です。むしろ、そうした善構想の自由な追求を最大化するためには、社会がどのような協働のシステムをとっている必要があるのか。そして、そうしたシステムを作動させる原理としてふさわしいものは何か、というこの問いに対して提出される回答の一つひとつが「正義」(の構想)でした。
この点からすると、今回論じてきた「道徳としての正義」の問題点が、また異なるかたちで指摘できます。それは「コミュニケーションという公道における事故」、すなわち「会話を止める」という事態との関連です。
会話の止め方:3つのタイプ
第1回で述べたように、「正しいことば」がむずかしいのは、こうした語彙をへたに使うと容易に「会話を止める」という事故につながるからでした。具体的には、何度かふれている「正義」の相対主義的用法がありました。おたがいが「正義」をふりかざしはじめると、もはや実力行使に訴えるしかない、というやつです。
ロールズ流の「正義」用法が「安全運転」である理由は明白で、そもそも合意不可能な構想は「正義」の名に値しないからでした。このシンプルなテクニックの引き換えとして、ロールズはこうした社会的な合意がなぜ、どのように可能になるのかを論じる責任を引き受けるのです。
他方、「道徳としての正義」は明確にこの「相対主義」タイプの「事故」を起こします。まず、それは個々人の善構想である以上、相互に対立しうることがありえます。そもそも調停可能性についてはとくに構想されていませんので、当然といえば当然です。しかし、問題はその点だけではありません。
さらなる問題は、「正義」の所在が道徳として、内面に位置づけられることです。正義を奉じているか——指導要領でいうと、「正義を愛する心」を育み、「弱さ」を克服するよう努めているか——は、ひとえに内心の領域にかかっているということです。本気で正義を奉じており、努力していると本人が言いつのるとき、わたしたちは原理的にそれを否定することができません。
「正義」のような強いことばをかざすひとに対して、——完全に同調する以外の有意義な仕方で——会話が打ち切られない可能性を担保するには、何らかの異議申し立てができる必要があります。そして、この場合にはまずさきの「相対主義」タイプの事故リスクを避けるため、会話の打ち手は「あなたは、あなた自身が奉じていると主張しているところの正義に反しているのではないか?」というかたちをとるのが有効でしょう。
しかし、このとき自称「正義」の担い手は、少なくとも2種類のやり方で会話を打ち切りにかかれます。ひとつは「きみは、ぼくの正義を誤解しているよ」というもの。もうひとつは「いや、反していないよ。きみにはわからないだろうけど、ぼくはたしかに正義にかなうよう努めているからね」というものです。
前者のルートは、いわば「解釈の決定不能性」タイプの事故と言えそうです。ただ、この場合は、異議申し立て側がもう少し食い下がってその内実を話させ、擦り合わせれば多少は会話は続けられます。「それも違うなぁ」などと逃げられた場合には手詰まりになりえますが、少なくとも決定打にはなりません。もっとも、どこかで「けっきょくきみにはわからないんだよね」などと後者のルートに合流する手が残されています。
問題はこの後者のルートです。これを「一人称特権による訂正不可能性」タイプの事故と言うことができます。ある主張の理由や根拠が、内面のものや当該話者に固有な体験などである場合、その根拠じたいは原理的には何人にも否定できません。(典型的には「わたしは痛い」といった感覚にかかわる主張がそうです。)
ただし、第1回でも予告したように、このタイプの事故につながりうる「一人称特権による訂正不可能性」とは、マジョリティが占める会話空間での「声」を認められていないマイノリティにとって重要かつほとんど唯一の武器でもある、という点も忘れてはいけません。この両義性については、今後も引き続き論じていきます。
ひとまず今回の話題を閉じましょう。
日本語での道徳の公教育における学習指導要領に見られる「道徳としての正義」は、ロールズ的正義とまるで異なるばかりでなく、コミュニケーションにおける会話の継続という観点からも問題含みでした。それは、上記の三種類どのタイプの事故にも容易につながるような、危なっかしい「正しいことば」の乗り方なのです。
1 とくに報道にかかる場合には、そうしたルールを誰が、どのように求めているかが問題になります。たとえば以下の記事で話題になったような用例です。「自民の総裁選『公平・公正な報道』要求、専門家から懸念」朝日新聞、2018年9月3日
2 学習指導要領「生きる力」の全文は、文部科学省のホームページから読むことができます。以下(https://www.mext.go.jp/content/1413522_001.pdf)を参照しました。なお、引用にさいして傍点による強調はわたしが付したものです。以降も同様です。
3 「小学校学習指導要領(平成 29 年告示)解説 特別の教科 道徳編」(pdf)、52頁。
4 同頁。
5 同頁。
朱喜哲(ちゅ・ひちょる)
1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。大阪大学社会技術共創研究センター招へい教員ほか。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。前者ではヘイトスピーチや統計的因果推論を研究対象として扱っている。共著に『信頼を考える――リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房、2018年)、共訳にブランダム著『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房、2020年)などがある。