〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす│第7回│「関心」をもつのはいいことか│朱喜哲

そのことばの使いこなし方をプラグマティズム言語哲学からさぐります。
第7回
「関心」をもつのはいいことか
正義を実現するための「無関心」
前回、あらためてロールズ流の「正しいことば」の乗りこなしテクニックである「正義」と「善」の区別を確認しました。とくに日本語でありがちな「それぞれに正義がある」とか、「正義の敵は悪ではなく、別の正義」といった安っぽい相対主義を標榜する紋切型のことばづかいはやめておこう。そういう場合には「正義」ではなく、たんに「何をよいと思うか」つまり「善についての考え方(善構想)」と言えばよい、というのがポイントでした。
それだけの工夫で、「何をいいと思うかは、それぞれに違う」とか「各々がいいと思うことは、ときに対立するよね」といった、とても穏当で、むしろ会話の出発地点になるようなことばづかいになります。それによって「正義」ということばは、この出発地点からはじめて、ときに対立しうるそれぞれの利害を調整し、バランスをとりながら、それでもいっしょに社会を営みつづけるための政治的な理念のことばとして使うことができるようになるのでした。
これは、ことばを言い換えようというだけの提案ではありません。個々人のいだく「善」の構想、とくに簡単には変更できないような価値観に属する「道徳」や「宗教的信仰」といったものから「正義」を切り離そう、という考え方に関する提案です。そうすることによって、「正義」はむしろ個々人の善の追求に一定の自由さを確保してくれるものとなります。これは日本語での「正義」ということばの使いづらさ——ひとによっては息苦しさ——を克服することにもつながるでしょう。
今回は、こうした正しいことばの乗りこなし方を身につけるために求められる、ある態度について考えてみたいと思います。前回予告したように、それは——意外に思われるかもしれませんが——つい生じてしまう他人に対する「利害関心(interest)」にブレーキをかけ、積極的に無関心であろうとすることです。
「関心」と「interest」
一般に、他者や社会に「関心をもつ」ことはよいこととされています。とりわけ社会的な問題について教科書的に言えば、まず関心をもち、正しい知識を身につけ、そのうえで自分は何をすべきかを考えることが求められます。興味や関心こそが、かかわるきっかけになるわけです。そう考えると、社会正義を実現するためにも「関心」は必須の条件である、というのはもっともな主張に思えます。わたしもこの主張じたいは否定しません。ただし、ここでもことばを吟味し、適切に使いわける必要があります。
ここでは「関心」ということばがはたす意味のうち、何かを好んで考える対象とする(興味をもつ、おもしろがる)ことと、自分と無関係ではないと思うこととを区別したいと思います。前者の意味で何かに興味をもつことは、たしかに物事を深く知るための入口です。この意味での「関心」をもつ対象になるのは、他人や社会的な事象に限りません。ただし、とりわけ他人がからむ対象については、後者の意味がともなってきます。こちらの用法について、少し掘り下げて考えてみましょう。
具体的に、「関心をもった」という表現を「他人事ではなくなった」と言い換えられる場合を考えてみましょう。この換言が成り立つのは、関心の対象となるものがなんらかのかたちで他者に関係してくるとき——たとえば社会問題や事件など——です。他方、たとえば宇宙の構造だとか、古代の化石だとかいったものに関心を寄せる場合には、こうした言い換えはあまりなじまないでしょう。
そういうわけで、社会的なものについて「関心をもつ」とは、「わがこと(自分ゴト)のように考える」ことを意味しそうです。じっさい、子どもや生徒に対して社会問題や歴史的な事件について教える親や教師は、「関心をもとう」という呼びかけと同時に「あなたにとっても他人事ではないんだよ」という決まり文句を発するでしょう。
おそらくですが、こうしたことばづかいは、第4回で検討した日本における道徳教育もかかわってしまっているように思います。つまり、相手に親身になって、わがことのように心を寄せるのが大切だ、という教育です。「相手の気持ちになって考えよう」という標語を聞かない小学生はいないはずです。
もちろん、こうした共感能力をはぐくむ教育は重要なものです。ただ、例によって原理的には達成不可能なこと——相手の気持ちになること——を個人の努力として求めているという点は指摘しておいてもよいと思います。その結果、「関心をもとう」というフレーズがたんなる建前にすぎない、空虚な常套句になっている場面は少なくないはずです。
「関心」の道徳的なニュアンスや気持ちの側面が強調されることで、あいまいになりがちなのが「自分ゴト」にすることの内実です。「自分と無関係ではない」というのは、けっして共感や同情をいだくことと完全に一致するわけではありません。たとえば気候変動について自分ゴトとして考えるとは、まっさきにその影響をこうむっている地域の当事者に同情したり共感することだけではない、別のことでしょう。
すくなくとも英語の場合、それは明確です。英語の「interest」は「関心」とともに「利害、利益」という意味でも用いられます。つまり、何かに関心をもつことは「自分の利害とする」ことでもあり、いわば「利害関心」になります。何かを「自分ゴトにする」とは、自分の損得とつながるものとして理解することである。だからこそ利害当事者として能動的にかかわろうと思えるわけです。
気候変動に関心をもち、自分ゴトとして考えることは、たんに被害への共感や同情といった気持ちの問題ではなく、自分自身の利害に直結した問題としてあつかうことです。この意味で、関心とは利害についてのものです。日本語の「関心」のもつ情緒的ニュアンスからすると、いささか即物的かもしれませんが、だからこそ明快でわかりやすいことばづかいではあります。
以下では、この「自分ゴトにする」こと、すなわち自分自身の利害に直結した問題としてあつかうという意味での「関心」の功罪について考えてみたいと思います。
「関心」をかき立てる想像力
利害への「関心」が成立するためには、共感能力はかならずしも求められません。他者が関連する社会的なことがらについて、それが自分の利害(損得)ともなんらかのかたちでかかわっているものとして理解するには、一定の知識はもちろんのこと、それに加えて一種の想像力が求められます。ここでの想像力とは、自分の日常的な生活のなかではリアリティがとぼしく、なかなか自分ゴトにならない社会問題や他者の存在について、自分の体験と関連づけながら理解し、解像度はさておきなんらかひとつの像を描くような力のことです。
わたしたちはこうした「社会を理解したい」というモチベーションを大なり小なりもっています。第二次世界大戦後のアメリカ合衆国を代表する社会学者C・ライト・ミルズは、こうしたモチベーションのことを「社会学的想像力」と呼びました。ミルズは次のように説明しています。1
人々が必要としているもの、あるいは必要だと感じているものとは、一方で、世界で今何が起こっているのかを、他方で、彼ら自身のなかで何が起こりうるのかを、わかりやすく概観できるように情報を使いこなし、判断力を磨く手助けをしてくれるような思考力である。こうした力こそが〔…〕社会学的想像力とでも呼ぶべきものである。
社会学的想像力を手にした人は、より大局的な歴史的場面を、個人ひとりひとりの内的な精神生活や外的な職業経歴にとってそれがどのような意味をもっているのかを考えることを通じて、理解することができる。〔…〕こうした作業を行うことにより、ひとりひとりの個人が抱える不安は、私的問題としてはっきりと焦点が合わせられるようになり、公衆の無関心も、公的問題に対する積極的な関与へと変わっていくことになる。
ここでミルズは、戦後アメリカ社会を典型とする大衆社会、情報社会において日々あふれんばかりに報道される種々の「事実」について、それらを自分ゴト化するための力が、社会学的想像力なのだと述べています。さらに、なぜこうした力が必要なのかについても示唆されています。それは引用の最後にあるように、わたしたちが自分の問題を通じて公共的な関心をもつためだというのです。
わたしたちの社会はとても複雑です。高度に発達した科学技術や文字どおりグローバル規模の資本主義経済を背景とした「社会の問題」を理解するのは、ほとんど不可能です。それらに対峙するための政策を決定するプロセスじたいもあまりに複雑で、わたしたち個々人ができることなど何もないように思えてしまいます。なにより数多あるメディアを介して流通する情報はあまりに多く、とても個々人が処理できるものではありません。
そうした複雑な社会で生きていると、どうしても自分自身の内面や、日々の糧を得るための職業生活といった目の前の生活にこもってしまい、それと「社会」をつなげて考える想像力は失われ、無関心になりがちです。こうした社会において関心を喚起するためには、ミルズが強調しているように「自分の利害」——それこそ「不安」のような精神的なものまでふくめた損得——につながっているものとして、提起することが有効です。こうした効果は、「自分ゴト化」としての関心のポジティブな側面とも言えるでしょう。
わたしたちの日常もまた大局的な歴史の一部であり、世界とつながっているという感覚をはぐくむための道具立てを提供するのが社会科学である。ミルズのこうした自負がうかがえるのが「社会学的想像力」というフレーズですが、じっさいに社会学という学問分野がひとびとを惹きつけたり、ときに反発を引き起こしたりする理由の一端が理解できる特徴づけではないかと思います。
社会学的想像力の副作用、「過剰な」関心
他方、複雑な社会的事象と自分自身の利害をむすびつけ、自分ゴト化させる想像力には、ネガティブな副作用もあります。どんな問題であれ、自分自身の利害に関係しているとして——日本語特有の表現ですが——「当事者」としてふるまうことは、場合によっては危険なことでもあります。典型的には「陰謀論」を考えてみればよいでしょう。
陰謀論は、ちょうど2020年のアメリカ大統領選挙とその後の政権移譲の過程であらためて現代における問題として世界的に注目されました。それは社会的なできごとの背景には何者かの隠された意思があり、自分たちはなんらかの被害を受けているというパターンをとる社会の見方——想像力の発露——です。一部のトランプ支持者のそればかりでなく、ナチスドイツが掲げたユダヤ陰謀論や、日本でも流通する「在日特権」のような例も同じパターンをとっています。2
これらはいずれも、ミルズが述べたように社会のなかで生きていて個人として「不安」を感じるひとびとに向けて、その原因としての陰謀——とその陰謀をたくらむ加害者——の存在を提示することで、社会的なできごとを自分ゴト化させるものです。とりわけ被害の側面での「利害関心」をトリガーとして自分ゴト化をうながすことの有効性とそれゆえの危険性は、これらの陰謀論のケースからも明らかだろうと思います。
こうした被害当事者としてのことばづかいがもちうる無敗の力については、連載第5回でもとりあげました。ソーシャルメディアを介して、気軽にこうした強力なことばづかいをふりかざし、またそれを見聞きすることができる環境では、その魅力はいやますばかりでしょう。
ミルズが念頭に置いていた課題である「大衆の無関心」への処方箋として、個々人の利害関心に訴えるタイプの「想像力」を称揚することは理にかなったことでした。しかし、現在のようなメディア環境においては、その効きすぎがもたらす課題にも目を向けるべきです。つまり、安易な想像力によってありとあらゆる社会的な問題を自分ゴト化し、利害当事者としてふるまいだすことであり、それがむしろ公共的な社会の安定性をゆるがしているという事態です。
たとえば同性婚を典型とするようなマイノリティへの差別の撤廃という政治主題をめぐることばづかいを考えてみます。法的に保障される権利というものは、少なくとも直接的にはだれかが得るとだれかが失なうという類のものではありません。たいていの政治的イシューは、申し立てをする者にとってこそ切実に利害にかかわりますが、それ以外のほとんどのひとが、少なくとも直接的に利害を脅かされたりするものではないはずです。こうしたトピックにさえ、自分たちの利害と短絡させ、危害を受ける当事者としてのふるまいを可能にすることを、わたしたちは頻繁に目にしています。
またこうしたマイノリティによる申し立てについて、自分たちマジョリティが「理解」するに足るだけの「説明」をしてみせろと求める態度もまた、こうした過剰な利害関心の発露の一形態でしょう。利害当事者として、説明責任を求める権利があるという認識に裏打ちされた態度だからです。
ソーシャルメディアが普及し、見聞きした社会的なできごとや他者の言説に対してだれもが自分の関心を自由に発信することができる言説環境においては、わたしたちはむしろ暴走しがちな「想像力」に対して積極的にブレーキをかけ、自分の利害関心が過度に反応していないかを気にかけるべきでしょう。
「無関心」とは「寛容」である
この連載を通じて「正義」や「公正」の乗りこなしテクニックを参照しているロールズですが、彼自身も「無関心(disinterest)」を積極的に評価します。今回の冒頭でも確認したように、ロールズ流テクニックのポイントは公共的な「正義」を個々人の「善」から区別することでした。この区別と「無関心」がかかわります。くわしくはまた次回以降に検討していきますが、ひとまず要点を押さえておきたいと思います。
まず、個々人が別様にいだきうる「善(よいこと)」を追求する原動力となるのが「利害関心(interest)」です。それぞれが、自分自身の関心をもっています。ロールズは「公正としての正義」が合意されうる理想的な状況において満たされるべきいくつかの条件を検討しますが、その際の条件のひとつに挙げられるのが、関係者がみな「相互に利害関心をもたない(mutual disinterested)」ことです。つまり自分の善構想についての関心はあっても、ほかのひとがどんな利害関心を有しているか——ひいてはどんなことを「善」としているか——については関心をもっていない、という条件です。
「他者の利害関心への無関心」というのは、自分以外の人はどんなことをよしとして——つまり、どんな善構想をいだいて——おり、どんな利害をもってなにを追求しているのかについて、自分の利害関心をもたないことです。さきほどまでのことばづかいでいうと、ほかのひとの利害関心を「自分ゴト化」せず、他人事のままでいることを指します。
これはまずは、自分以外のひとの利害関心を気にかけない、という一見するとエゴイスティックな態度です。しかし同時に、この態度は自分以外のひとに対して自分と同じ利害関心——ひいては善構想——をもたせようだとか、あるいはもとから同じ利害をもっていることを前提としてみなにとってのよいことを追求したりといったことも、いっさいしないのです。こうした態度のポイントは、誰かの利害関心の追求を、自分の利害と直結させないことです。つまり、誰かが何かをすることを、自身の損得という観点から評価しない、ということです。
「無関心」にも「関心」と同様、ポジとネガの両面がありますが、ロールズが強調するのはそのポジティブな側面です。それは、ロールズの社会観に由来します。そもそもわたしたちがともに営んでいる「命がけの挑戦」であるところの社会では、それぞれが異なる善の構想をいだき、したがって異なる利害関心をもつのが大前提でした。そうした社会をともに営むうえで、周囲のひとの利害関心に配慮すればうまくいくのでしょうか。そんなことはない、というのがロールズの見解です。彼自身はつぎのように述べています。3
公正としての正義のひとつの特徴は、〔それに合意しうる〕初期状況における関係者たちがそれぞれ合理的であり、かつ相互に利害関心をもたないということである。それは関係する個々人がみな〔…〕特定の利害関心しかもたないエゴイストであることを意味しない。全員が、ほかのひとの利害関心については関心をもたないとみなされている。〔というのも〕異なる複数の宗教が掲げる目的が対立しうるように、個々人が心からいだいている目的であってもそれらは対立すると想定されているのだ。
ロールズが述べるように、わたしたちの社会には——それこそ宗教的対立を典型として——各自の善構想にもとづく利害関心どうしが対立し、一方の関心追求が他方にとって害とみなされる状況がままあります。そうした社会で、誰かの関心に対して関心をもつことは、ただ違いを理解するということにとどまらず、それを自身の利害との関係から考えることになりがちです。さらに対立しうる善構想を支持するグループにも多数派と少数派があり、多数派の利益のために少数派の善の追求を抑圧する構図は絶えることがありません。
こうした社会を、うまく安定的に営んでいくためには、たがいの利害関心に対して積極的に無関心であることが求められます。それは表現を変えると寛容であることです。ここでの「寛容」とは、思いやりとか配慮といったものではありません。引用の最後に「宗教」がひきあいに出されているように、ここで踏まえられているのは、ヨーロッパにおけるカトリック対プロテスタントという宗教的対立の歴史です。ほとんど重なるがゆえに、たがいの善構想の差異に無関心ではいられなかった凄惨な歴史からの実践的な示唆である「宗教的寛容」こそ、ロールズが重視する「無関心」の原点なのです。
「関心」を理解し、乗りこなす
それこそ宗教的信仰を筆頭として、各人はそれぞれに「善の構想」をいだき、それは生活の隅々にいきづいています。それらは相互に衝突することもあれば、そこまででなくとも他人のふるまいに反感をいだくことはあるでしょう。重要な価値観や習慣であればあるほど、そうした「譲れない」「看過できない」度合いは増します。それが社会における権力勾配とあわさったとき、どういった悲惨な帰結をひきおこすのかは、歴史が物語っていることです。
こうした歴史を踏まえて析出されているのが、「無関心」としての寛容です。「寛容」もまた、日本語ではいささか使いづらいことばかもしれません。それには「不寛容に対しての寛容」というような言い回しをもって差別的言説を擁護したり、あるいは対立陣営を「論破」したと称するような話法を見聞きする機会が多いことも一因でしょう。
こうしたことばづかいについては、またあらためてとりあげますが、無関心としての寛容は、この種の「不寛容な言説も認めるべきだ」という声高な主張とは一線を画したものです。というのもここでの寛容の要請とは、おたがいに利害関心をもたないことですから、認めたり、理解を示したりすることとはまったく異なります。たいていの不寛容な言説は、他者の利害関心を自分の利害関心に照らして抑圧するという構図をとりますので、この時点でたしなめられる対象であれ、そのたしなめ自体は利害関心の発露ではありません。
「寛容」は思いやりや配慮ということではなく、自身の利害関心に適度にブレーキをかけ、他者の利害関心の追求に首をつっこんで、それを自分ゴト化しないように心がけることです。さらに言えば、それは自身の利害関心にもとづいた想像力をはばたかせてしまい、あらゆるものを敵か味方かに二分してしまうような習慣を見直すことです。
だれかの利害関心の追求について、利害関心をもつ——自分ゴト化する——とは、ポジティブな面に目を向ければ、仲間を探すことであり、また仲間うちで折りあえる地点を模索することでした。しかしそれは同時に、誰かの基本的な価値観や習慣に立ち入り、それを自身の利害という観点から評価することでもあります。また、その結果として「仲間でないひと」をつくることでした。
重要なのは、公正な社会を構想することは気のあう仲間をつくってその輪を広げることとは根本的に異なる、ということです。公正な社会を構想することは、むしろ「仲間でも敵でもないひと」たちどうしが、どうやってともに生きていけるかを考えることでしょう。だからこそ、わたしたちがどうしてもいだいてしまう「関心」のネガティブな面をも理解し、それを乗りこなしていくことが求められるのです。
1 C・ライト・ミルズ著(伊奈正人・中村好孝訳)『社会学的想像力』、ちくま学芸文庫、2017年、19頁。強調の傍点は引用に際して加えたものです。
2 ただ「陰謀論」型の仮説は、かならずしもすべてが荒唐無稽な妄想であるわけではありません。じっさいにジャーナリズムが暴いた「陰謀」も枚挙にいとまがありません。アメリカではウォーターゲート事件、日本ではリクルート事件のような官製談合事件はその典型です。陰謀論の諸相については『現代思想2021年5月号』(青土社)でも特集されています。わたしも陰謀論のとらえ方やその際に採用している言語観について寄稿しているので、ご関心のある方は参照してください。
3 『正義論 改訂版』3節より。日本語訳版(川本隆史・福間聡・神島裕子訳、紀伊国屋書店)も参照しつつ、原文から訳出しなおしています。〔 〕での補足と強調の傍点は引用者によるものです。
朱喜哲(ちゅ・ひちょる)
1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。大阪大学社会技術共創研究センター招へい教員ほか。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。前者ではヘイトスピーチや統計的因果推論を研究対象として扱っている。共著に『信頼を考える――リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房、2018年)、共訳にブランダム著『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房、2020年)などがある。