〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす│第3回│ロールズが構想した「正義」の前提条件│朱喜哲

〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 朱喜哲 ちゅ ひちょる 「公正」とはなにか。「正義」とはなにか。 その言葉の使いこなしかたをプラグマティズム言語哲学からさぐります。

「公正」とはなにか。「正義」とはなにか。
そのことばの使いこなし方をプラグマティズム言語哲学からさぐります。

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第3回
ロールズが構想した「正義」の前提条件


アメリカの「正義」、再訪

 前回、大統領選挙後の勝利演説を事例としつつ、アメリカにおける「正義」の用例を見てきました。そこで述べたのは、こうした「正しいことば」が「まだ実現してはいなくても、」を示す用途でもちいられ、そこに向けて社会的合意を形成しうるとして打ち出される、ということでした。

 世界が注視するなか、ぶじにとりおこなわれた2021年1月20日の大統領就任式においても、こうした「正義」の使い方があったことは記憶に新しいと思います。この式典で一躍知られることになった詩人アマンダ・ゴーマンが詠った自作詩の冒頭に近い一節です。美しい韻文を再現できないので、原文と訳を併せて引用してみます。1

現にいまある規範や考え方は、つねに「正義」だとはかぎらないのです。
(The norms and notions of what just is, isn’t always just-ice.)

 詩のタイトル「わたしたちが登る丘(The Hill We Climb)」という表現じたい、こうした見果てぬ理念としての「正義」の実現をめざしていく運動を示唆しているのでしょう。

 さて、こうした「正義」の用法をよみがえらせた政治哲学の巨星が、ジョン・ロールズ(1921-2002)でした。前回、彼自身が提唱した「公正としての正義(justice as fairness)」というフレーズを紹介しました。今回は、いよいよこの「公正」ということばの使われ方を見ていきたいと思います。

 さしあたり確認しておきたいのは、この「公正(フェアネス)」こそロールズ流の「正義の構想」の前提である、という点です。ここで重要なポイントは、「正義」とは個々人の価値観(「善」の構想、よいと思うこと)の社会的合意を可能にするための構想である、ということでした。

 こうした「善」と「正義」を区別する——「正義」ということばをいわば使——ことによって、ロールズ以降の「正義」は、だれかを黙らせるためのことばに陥らないくふうがなされていたのでした。では、そのさいの前提となる「公正」とはどんなものなのでしょうか。


合意するための「場」

 まずはロールズ自身のことばづかいを見ていこうと思います。「公正としての正義」というネーミングについて、彼はつぎのような説明をしています。2

それはつぎのような考えを伝えようとしている。すなわち、初期状況において合意されたものが「正義」の諸原理なのである。この〔「公正としての正義」という〕呼称は、「正義」の概念が「公正」の概念と同じものだということを意味しているわけではない。

 少々ややこしいですが、重要なのは二点です。

 まず一点目は最後の文で「正義」=「公正」と明言されているように、ロールズにとって「公正」とは正義の内実そのものではなく、正義が合意されるためのにかかわっています。つまり、「正義」について合意されるためには、その場が必要がある、と言っているようです。

 二点目は「正義の原理」となっているように、正義の原理は複数ありえます。そして、それぞれの原理の条項が何であれ、「公正である」において合意されたものであるならば、それは「正義」の名を冠するに値するのです。

 もしかしたら、「状況」というのも気になるかもしれませんが、ひとまずここではたんに「状況」と読みかえてください。

 というわけで、どうも「公正」というのは、何かしらのにかかわる概念のようです。とりわけ、ひとびとがための「場」や「状況」を形容するものとしてもちいられているのは確かです。

 このヒントを頼りに、検討を進めていくことにします。


皆でとりくむ「命がけの挑戦」

 ロールズは、わたしたちが「正義」についての合意を形成する、そしてそのために会話が営まれる「場」の条件として、「公正」ということばを導入していました。この用法を理解するためには、彼の「場」全般、そして「社会」についての捉え方を参照することが役に立つでしょう。

 わたしたちが営んでいる「社会」とは、どんなところでしょうか。いろいろな答え方があると思いますし、かならずしも唯一の正解があるタイプの問いではありません。ロールズ自身は、「社会」をつぎのように捉えています。3

社会とは、おたがいにとって利益があるように、である。そこでは利害・関心の一致ばかりでなく、その対立や衝突が起こるのがつねとなる。〔それでも〕各人が自分だけの力でひとり生きることと比較して、社会において皆でともにとりくむことによって、すべてのひとにとってよりよい暮らしが可能になるからこそ、利害・関心の一致が成立するのだ。

 ここで、「皆でとりくむ命がけの挑戦」と訳した原語は「a cooperative venture」です。意訳気味ですが、社会という営みを「危険のともなう投機・冒険(venture)」と表現するところに、ロールズの姿勢がよく現れているように思います。つまり、社会とは皆で営むものであるが、それはまったく安定していない、一触即発の危険に満ちたものだというのです。

 なぜかといえば、まず各人が求めるものが対立するからです。社会に参画する一人ひとりは、異なる利害・関心(interest)をもち、それぞれにとって必要なことを追求します。ただ、これじたいはネガティブなことではなく、むしろロールズは社会の構成員のが各々違っている——すなわち多様である——ということをポジティブに捉え、その点こそ重視しています。

 これはロールズが登場する以前、「最大多数の最大幸福」という有名なスローガンで知られる功利主義という哲学上の立場が、各自のを軽視していたことへの反省と批判に根差しています。ニーズの多様性を軽視し、社会における「幸福」の総量を云々することは、ただちに多数派にとっての福祉という大義名分のもとで少数派の権利を抑圧することに直結するからです。

 功利主義への批判をふまえてロールズが構想したいのは、どれほどマイナーなものであっても個々人がみずからのニーズを追求する権利が確保される社会です。こうした多様性を尊重する社会は、同時にある種の不安定さを抱えこまざるをえません。


現にともに生きているから、他者が気になる

 社会の不安定さは、個々人のニーズの多様性——ロールズの用法では「善」構想の多様性——にも要因がありますが、ポイントはそこではありません。各々が違うニーズをもちつつも、それを達成するうえで独力よりもマシな選択肢として、わたしたちは皆で力をあわせつつ生きること——「協業(cooperation)」——を選ぶのでした。

 協業の結果、皆にとっての便益が生みだされるわけですが、今度はその便益の「」が問題になります。協業を可能にするために自分が負担したり、我慢したりすることが各々あります。社会に参画するとは、各種ルールに従うことであり、好き勝手にふるまう自由を制限されるからです。

 そこで個々人にとっては、当然のように、自分が負担した分に見合った利益があるのか、さらには負担に対して最大の収益を引きだしたいという、いわば収支バランスが気になります。しかし同時に、そればかりでなく、いっしょに「社会」という挑戦的事業にとりくんでいるはどんな負担をして、どんな利益を得ているのかも、わたしたちはつい気にしてしまいます。

 自分の分け前はほかと比較してなのか。自分はほかのひとよりも損をしているのではないか。この「」という局面にこそ、社会の不安定さの源泉があるのです。そしてまた、「正義」が求められる要因もここにあります。

 こうしたロールズの洞察の鋭さは、たとえば日本での「生活保護バッシング」のような場面を思い出せば、理解できると思います。わたしたちの社会が不安定であるのは、たんにわたしたちのニーズが多様で、ときとしてそれらが対立するからではなく、それでもわたしたちはからであり、そして分配をめぐって利害・関心を共有してしまうからなのです。


わたしたちは「適度な」正義を実現できる

 この「現にともに生きている」ということが、政治哲学者としてのロールズの重要な出発地点ではないかと思います。

 わたしたちは不安定な社会を営むという協働的な挑戦にとりくんでいます。それはつねに危機にさらされており、ときに破綻が生じます。現状は回っているにすぎません。しかし、かろうじてとはいえ、わたしたちは何らかの「正義」の構想について合意することができるはずであり、共生は可能なのだ——こうした冷めた現状認識と理想への情熱が共存する点こそが、ロールズのことばづかいを魅力的なものにしています。

 ちなみにロールズ自身は、政治哲学の役割をつぎのように述べています。4

 われわれは、政治哲学を、現実主義的にユートピア的なもの、つまり、政治的に実行可能なものの限界を徹底的に調査することとみなす。社会の将来に対するわれわれの希望は、社会的世界は少なくとも政治秩序を可能としており、それ故に、完全ではないけれども、民主的政体が可能であるという確信に基づいているのである。

 政治の主題が「分配」である以上、そのバランスはつねに問題になります。バランス配分はいまだかつて実現したことがないでしょうし、今後も実現しえないかもしれません。しかし、現にともに生き、社会を営んでいるわたしたちは、であれこのバランス感覚をもっているはずです。そうした感覚に基づけば、完璧ではないまでも「適度な正義」は実現できる——つまり、理念としての「正義」は見果てぬものと思われるかもしれませんが、わたしたちにとって地に足のついた日常から地続きにあるのです。

 そして、こうしたわたしたちの感覚を、きわめて巧みに理論的なことばにしたものが、ロールズの掲げる「公正としての正義」であり、そこで明示される「正義の原理」でした。


「全員にとっての利益」のための責務

 さて、あらためて本題であった「公正」にもどってきました。

 わたしたちがともに不安定な社会を営むという挑戦において、各々の利害・関心を共存可能にし、また協働の果実を適切に分配するために機能する社会システム(制度)が「正義」です。そして、「正義」が合意されるための前提条件となるのが、そうした合意を形成する場が「公正(フェア)」であることでした。

 ここまでの話をふまえると、公正さとはわたしたちの社会的な協働において、ことがら(責務)を指しています。ロールズ自身のことばでは、以下のように表現されます。5

 多くのひとびとがルールに則って、おたがいにとって利益があるように皆でとりくむ命がけの挑戦〔である社会〕に参画している。そしてそれゆえに〔多数派だけでなく〕利益を生みだすのに必要な仕方で各々の自由を制限しているのだ。そうした制限に従っているひとびとは、自分たちの〔自由の制限への〕服従によって利益を得ている側のひとに対して、同じように従うことを求める。わたしたちは、みずからの公正な負担(fair share)をこなすことなしに、ほかのひとびとが労力を払った協働のとりくみから〔不公正な〕利益を得ては

 これについては、「義務を果たしている者だけが権利をもつ」というような単純化した理解をしてはいけないことに注意しましょう。まず、ここでの「権利」のスコープはあくまで「あなたも従うように」求めることに限られています。力点はむしろ最後の一文にあると思います。つまり、応分の負担(自由の制限)を担うことなしに、社会的な協業の結果生じる利益にだけ浴するのは不公正であり、「公正であれ」というに反していると言っているのです。

 さらにまた冒頭部分も重要です。わたしたちは現に社会に参画しているので、「そしてそれゆえ〔…〕自由を制限している」も責務を表現したものと読めます。わたしたちは、多数派だけでなく「全員にとっての利益」に資するよう、自身の自由を制限するという責務を担っているのです。なおさきほどの社会観をふまえれば、「全員にとっての利益」とは、「最大多数の最大幸福」ではなく、「少数派をふくむ個々人にとってのニーズ」ということを意味しています。


コロナ禍における「公正」?

 もう少し具体的に考えるために、今日のコロナ禍にともなう多岐にわたる自由の制限を俎上に乗せてみましょう。感染拡大の抑止という(なかでも、とりわけ切実性が高い少数者にとっての)利益のために、移動の自由をはじめとした多くの自由を制限することを、わたしたちはずいぶんと長いこと受け入れています。

 このとき、わたしたちの忍従——たとえば夜8時以降は外食をしないといった自粛——によって、公衆衛生や医療リソースの確保といった利益を享受している者(たとえば政治家)が、自身の行動の自由は制限せず、会食をくり返したり深夜まで繁華街で飲食をしていたとなると、それは、と責めたくなるはずです。これは単純化してはいますが、ロールズ的な「公正」の用法でしょう。

 このさいの不公正さは、つぎのように説明できます。まず夜8時以降に外食をすることもしないことも選べる自由をともに有している市民どうしであるとして、両者にとって共通の利益のために、その自由を制限することになっているという状況だとします。

 このとき、自粛しない側は(可能であり、かつ責務として引き受けたはずの)自由の制限というフェアな負担を担うことなく、不当に利益だけを得ていることになるでしょう。なお、それが政治家である場合には、その地位に相応の責務に背いていることも、もちろん別途批判されえます。

 では同じような論法から、いわゆる「自粛警察」のような——自分が従っている制約に従わないひとを告発し、攻撃しようとする——活動も、ロールズ的な「公正」の観点から擁護されるでしょうか。この場合はさきほどより自明ではありません。

 たとえば自粛要請を受けた飲食店は、すでにさまざまな形で一市民である以上に自由を制約されており、経営上の窮地に追い込まれ、切実なニーズを抱いていることが考えられます。そのとき当の飲食店が、経営存続のためにさらなる自由の制限を受け入れないことは、少なくともさきの例における市民どうしのケースのように単純にフェアネスに欠くと批判することはできないでしょう。6

 それどころか、飲食店ばかりが不公正に利益を制限されているとして、そのを問いなおし、「分配」を再検討することが求められるのがロールズ的な理路であると思われます。


「公正」は、思いやりや優しさではない

 ここまで、ロールズの「公正」の使い方について、そのモチベーションとなっている社会の捉え方や課題の認識に触れつつ、検討してきました。今回の内容は、とりわけロールズについて前提知識があるひとほど、もどかしく思われたかもしれません。

 というのも、ロールズ哲学および「公正としての正義」の標準的な紹介にさいして、ほぼかならず言及される「正義の二原理」の具体的な条項が最後まで登場しなかったからです。また、この構想を導入するための有名な概念的道具立てである「無知のベール」や「原初状態」といったロールズ用語も紹介しませんでした。

 そうした理由は、あくまでここでの目的は、ロールズ哲学への入門や、その「正義」や「公正」のの提示ではないからです。「正義」や「公正」といった「正しいことば」の使が、この連載の主題です。

 そのためには、多くの用語を導入するよりも、あるていど日常的にもちいるボキャブラリーの範疇で、当のことばたちが何と両立して、何とは区別されているかということを確認するほうが有益でしょう。また、「正義」や「公正」といったことばをふくむロールズの主張が、いったい何をとして、あるいはどういったからおこなわれているのかを確認することも、その用法を理解する手助けになるはずです。

 こうした観点から、ロールズにおける「正しいことば」の使い方について、さしあたり以下のことが言えそうであると結論づけて、稿を閉じたいと思います。

  • 「正義」とは、各人が追求し、対立しうる「善」構想から区別され、つねに合意されうる構想として導入されている。
  • 「公正」とは、わたしたちが正義について合意するため場に求められる条件であり、各人に課せられる責務である。
  • わたしたちがともに営む社会とは、少数派をふくむ多様なニーズが渦巻く不安定で挑戦的なプロジェクトである。しかし、わたしたちはどうにかそれを現に営んでいる。
  • 社会という営みがかろうじて可能になっているからには、わたしたちは「公正」にかかわるバランス感覚を多少なり身につけているはずである。

 とりわけ強調したいのは、第二の点です。「公正」であることがということは、ロールズの用法において重要です。それが責務であるとは、合意された「正義」の原理としてわたしたちに、ということです。たしかにこの責務は、わたしたちが引き受けているものなのですが、各人が備えている「善」構想——何を価値あるものとし、どんな利害・関心、あるいニーズを追求するのか——とは独立のものです。(それが一致するケースもあります。)

 したがって、公正であることとは当人の考え方の傾向や資質、つまり内心のとは異なります。むしろ、内心がどうあれ、社会という「皆でとりくむ命がけの挑戦」に参画するからには遵守を求められ、それはふるまいにおいて反映されなければならないルールなのです。

 「公正」や「正義」がという、この論点の重要性は——これらの正しいことばを使いづらい——日本語における用法と比較してみることで、いっそう際立つはずです。そういうわけで、次回は日本語における「正しいことば」を追ってみたいと思います。

1 動画と書き起こしから訳出しました。

2 『正義論 改訂版』3節より。日本語訳版(川本隆史・福間聡・神島裕子訳、紀伊国屋書店)も参照しつつ、原文から訳出しなおしています。〔 〕での補足と強調の傍点は引用者によるものです。以下も同様です。

3 『正義論 改訂版』1節より。邦訳7頁。

4 ジョン・ロールズ著、エリン・ケリー編(田中成明・亀本洋・平井亮輔訳)『公正としての正義 再説』、岩波現代文庫、2020年、8頁。強調の傍点は引用者によるものです。

5 『正義論 改訂版』18節より。邦訳150頁。

6 ありうる批判的な理路としては、同程度に選択肢を有した飲食店どうしで一方が自粛し、他方がしなかったという場合です。ただし、この場合も不公正が生じるのは当該の飲食店間においてであって、いわゆる「自粛警察」的活動とは一線を画するでしょう。

 

朱喜哲(ちゅ・ひちょる)
1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。大阪大学社会技術共創研究センター招へい教員ほか。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。前者ではヘイトスピーチや統計的因果推論を研究対象として扱っている。共著に『信頼を考える――リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房、2018年)、共訳にブランダム著『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房、2020年)などがある。