こんな授業があったんだ│第18回│『子どもが解決! クラスのもめごと』より3章「奮闘する班長会」〈前編〉│平墳雅弘

こんな授業があったんだ 授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

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『子どもが解決! クラスのもめごと』
3章「奮闘する班長会」〈前編〉
平墳雅弘
(1990年代 ・ 中学1年生)

「いじめを解決するのは先生の仕事じゃないの?」

 子ども参加の仕組みがかたちになり軌道に乗るまでの数年間は、まさに試行錯誤と失敗の連続だった。子どもには可能性があるといっても、かれらに何が、どこまでできるのかは未知数だ。どこから手をつけていいのかまったくの手探り状態で、内心では、きっと生徒は途中で「もういやだ」と投げだすと思っていた。
 わたしはまず、担任する中学1年生のクラスの「班長会」に投げかけてみた。班長会とは、リーダーの育成や自治意識の向上を目的とした学級経営の仕組みで、6~8人の班長と2名の学級委員からなるメンバーが、6か月ごとのクラス選挙で選ばれる。班長たちは、班員をまとめて学習活動や掃除・給食などの常時活動、さらには合唱コンクールなどの行事活動をリードする。わたしの勤務する岐阜県では、山間僻地 の小さな学校から市内のマンモス校まで、ほとんどの教師が班長会を採用していた。
 放課後の教室、わたしは班長たちを集め、「これから、いじめやクラスで起きた問題は、班長会が中心になって、自分たちで解決することにしたら?」と提案した。
 だが、かれらの反応は鈍かった。「子どもがそんなことしていいの?」「いじめを解決するのは先生の仕事じゃないの?」と、提案に異を唱えたのだ。「おもしろそう」と興味を示す生徒もひとりふたりいたが、ほぼ全員が、驚きやとまどいをごちゃ混ぜにしたような複雑な表情でわたしを見返した。わたしは引くに引けず、「何を言ってるんだ。もう中学生なんだから、自分たちのことは自分で解決しろよ」と押しきった。
 このときは反対されたと思ったが、後日あらためて、同校の生徒(1年生118名、2年生115名、3年生107名、計340名)を対象に、「だれが、いじめを解決したらよいか」とアンケートをとることにした。
 結果、比較的軽い悪口やふざけなどのいじめは、「生徒と先生がいっしょに解決」が64%、「生徒と先生と親」が14%で、悪質ないやがらせや暴力などについては、「生徒と先生がいっしょに解決」が11%、「生徒と先生と親」が69%だった。8割近い生徒が、参加を望んでいることがわかったのだ。

いつ・だれが・どこで・どのように・何をした

 活動のスタートは、わたしと班長たちとの二人三脚だった。手はじめとして、クラス員にたいして、学校とは別に独自のアンケートをとることにした。アンケートの名称はクラス員から応募し、「悩みアンケート」と命名した。
 一回目の悩みアンケートは、ザラ紙をハサミで適当な大きさに切っただけの不ぞろいのものだった。班長会の代表が、「何か悩んでいること、困っていること、どんなことでもいいからここに書いてください」とホームルームで呼びかけ、クラス員に配布した。
 クラス員からは、「どんなことでもいいの?」「クラスのことだけ?」「書いてどうなるの?」などの声が返ってきた。
 集計された悩みアンケートには、「わたしのかばんをおく所にボールを入れる人がいる。そのせいで私のスカートがどろだらけになる」「○○くんに『ぶりっ子』と言われる」「○○さんに好きな子の名前を教えてと言われ、『ぜったいに言わんといてね』と約束して教えたらみんなに言われた」「わたしが男子と話していたら、変なうわさをたててくる」「○○さんがテストの点数を自慢する」「○○くんが、先生がいないと掃除をサボっている」など、日常生活の悩みが中学生らしいリアルな表現で綴られていた。楽しそうに生活していると思っていた生徒たちが、わたしの知らないところで数多くの問題を抱え、だれにも相談できずにひとりで悩み苦しんでいることを知った。

ザラ紙をハサミで適当な大きさに切っただけの、最初の「悩みアンケート」

 しかし、「悪口を言われた」「いじめられた」といった情報だけでは、なんのことかわからない。さらにくわしい情報が必要だ。そのために「いつ・だれが・どこで・どのように・何をした」「そのときの気持ち」「現在の気持ち」など調査項目を決め、男子の相談者には男子の調査員が、女子の相談者には女子の調査員がふたり一組となって、調査に向かうことになった。
 調査結果はじつに興味深いものだった。相談者の悩みにたいし、相手の子からは、「いったいなんのこと」とキョトンとした返事が返ってきたのである。つまり、「無視された」という相談が誤解や勘ちがいだったり、「悪口を言われている」という相談が、その子の一方的な思い込みだったりしたケースが数多くあったのだ。なかには、「ぼくはそんなつもりで言ったんじゃない」と、誤解を解くために自分から相手に話にいく生徒もいた。
 しかし、深刻な問題も発見できた。そうした問題には、相談者と相手の子を班長会に呼んで、話し合いをもった。

「70%ぐらいはわたしが悪い」

 話し合いは、放課後の教室を利用した。参加者は、相談者と相手の子、8人の班長、それにわたしの11人で、車座になってスタートした。
 進行手順は、あいさつ、先生の話、相談内容の確認、質問と意見、なかなおり、終わりのあいさつ、といったかんたんなもので、第一回目の司会進行はわたしがおこなったが、二回目からは生徒にバトンタッチした。
 生徒の司会は、進行手順を書いたメモを見ながらのたどたどしいものだったが、会を重ねるごとに、メモも見ずに落ち着いた口調でできるように変わっていった。話し合いがすむと反省会をもち、進行手順や方法についてすこしずつ見直しや改善をしていった。
 たとえば、「いじめっ子がうそを言うかもしれない」「話し合いのとき、はじめに先生に話されると生徒は話しづらい」「質問と意見がごちゃごちゃ」などの意見がでた。
 そこで、話し合いのまえに相談者と相手の子は、「わたしはけっしてうそは言いません。勇気をだしてほんとうのことを言います」と宣誓することにした。教師の意見は生徒の意見のあとにまわし、生徒が教師の顔色を見ないで発言できるよう、すこし離れた場所にわたしの席を移動した。
 手順で「質疑応答」と「意見」をきちんと分けるようになったのは、つぎのような事件が起きてからだ。悩みアンケートに谷口さんという女子生徒(当時13歳)から、「子安さんがにらんでくる」と相談が寄せられ、さっそくふたりを班長会に呼んで話し合った。
 ふたりは小学校からのなかよしで、休み時間などは楽しくおしゃべりをしている。それがある日を境に、子安さんが無視したり、にらみつけたりするようになった。谷口さんは、まったく心当たりがないという。
 話し合いで班長たちは、子安さんに「どうして、そんなことをするのか」と問いただした。ある正義感の強い班長は、「それっていじめだよ。謝れよ」とつめより、谷口さんも「謝ってほしい」と口にした。しかし、泣きながら子安さんが語った理由に、だれもが沈黙した。
「このまえの定期テストで、わたしは平均点以上を目標に、夜遅くまでがんばった。結果は平均点より上の点数がとれ、とてもうれしかった。でも、となりにいた谷口さんは、わたしよりも点数が上だったにもかかわらず、『こんな点数、最低。親に見せられない。しかられる』と答案をクシャクシャにまるめた。わたしはそれを見て、バカにされた気がして、無視するようになりました」
 どんな子どもにも、それなりの言い分がある。理由も聞かずに、「いじめは悪い」「いじめはぜったいに許せない」などと決めつけるのは危険だと反省した出来事だった。この一件から、「質疑応答」と「意見」はきちんと分けることになった。
 話し合いで生徒の見せた姿は、わたしの思い描いていた生徒像とは違っていた。教室でめだつことのなかった生徒がじつは陰のボスだったこと、どの教師からも「いい子」と評価されていた生徒が同級生から「うそつき」といやがられていたこと、おとなしいと見えた生徒がいちばんのおしゃべりだったこと……。
 また、いじめの判断についても、生徒の判断はまちまちだった。多くのケースで生徒たちは、「どっちもどっち」「おたがいに半分ずつ悪いと思う」などと回答した。友だちに悪口をくりかえした生徒は、「わたしは相手の子に小さいころよく悪口を言われた覚えがあります。すごくイヤな気分でした。それが中学生になって、仕返しみたいな感じで悪口になったと思います。だから相手も悪いと思います。でも、70%ぐらいはやはりわたしが悪いかもしれない」と反省した。

「班長と先生がどこかでヒソヒソやっている」

 仕組みづくりで腐心したのが、個人のプライバシーの問題だった。
 ある男子生徒から、「アンケートに悩みを書くのはいいけど、ほかの人に知られてしまわないか心配」という意見が出された。
 もっともな意見だ。そこで、班長会に「やる気と熱意をもつ」「個人の秘密を守る」「きちんとまじめにやる」などの服務規程を設け、クラス員の4分の3以上の不信任で班長を罷免することにした(幸いなことにこの規程は、一度も実行されなかった)。
 また、調査のさいに、「ここで調査したことは、あなたの了解なしに、ほかの人にはぜったいに話しません」と約束する、プライバシーの保護の項目を加えた。
 ある女子生徒から、「わたしは班長たちが話し合いをするのはいいと思うけど、何をやっているのかわからない。とても気になる」と意見があった。クラス員からも「班長と先生がどこかでヒソヒソとやっていて、自分のことではないかと不安になる」などの意見が出た。これはわたしにとって驚きであった。
 これまでわたしは問題が起きたら、「○○くん、来て」と当然のように班長を呼び出してきたが、生徒は不安がっていたのだ。こうした意見から、クラス員の班長会へのオブザーバー参加を認め、さらに、話し合いの内容をクラス員に公開することにした。
 内容の公開については、つぎのようないきさつがあった。ある相談の話し合いが無事にすんで解散となったとき、何人かの生徒が、「先生、きょうのこと、いつまで秘密にするんですか。心配している友だちに話してはダメなの?」と質問してきた。
 いじめなどの問題は、いくら隠そうとしても無理だ。学級には何十人の目があり、学校には何百人の目が光っている。正しい情報が知らされないと、「あの子はいじめられている」「○○くんはいじめっ子だ」などと、うわさがどんどん広がっていく。しだいに尾ヒレがついて、事実とは異なることがまことしやかにささやかれるようになる。そうしたデマや風評を防ぐには、正しい情報をいち早く公開することだ。しかし、ことは個人情報でもある。生徒たちはどう考えているのだろう。班長会の話し合いで返ってきた答えは、意外なものだった。
 あるいじめっ子は、「もうきちんと謝ってなかなおりしたのだから、みんなに知らせてほしい。そのほうが、自分もいじめをやめられる」と答え、ほかの生徒も、「もうすこし落ち着いたら知らせてほしい」「心配している友だちに知らせてほしい」「名前を伏せて公開しては?」「自分で言う」などと口にした。いじめた子、いじめられた子を問わず公開を希望し、「班長会の話し合いの結果をクラス員に知らせてもいいですか」という情報公開の項目が加えられたのだ。
 つぎに紹介するのは、班長会が軌道に乗ったころの実践である。

「馬糞ちゃん」と呼ばれた女の子

 福井タカシ(当時13歳)は、中学1年生の男の子。すこし小柄の坊主頭、成績は中の上、体を動かすことが大好きでサッカー部に所属、将来はJリーグ選手をめざしている。
 以前のタカシは、「いくら学級会で話し合っても、いじめはぜったいになくならない」「いじめは大人が解決すればいい」と思っていた。それでいて先生に注意されると、「いつもぼくだけしかられる」と反発していたという。
 タカシの小学校の担任は、クラスで問題が起きると、すぐに学級会を開いた。タカシはそれがいやでしかたなかった。なぜなら人に知られたくないことが、すぐに同級生に知れわたってしまうからだ。一度、タカシは友だちとケンカをして、学級のみんなの前で謝罪させられたことがあった。「そりゃ、ぼくもすこしは悪いところもあるけど、なにもみんなの前で注意することないだろう」と担任を恨んだ。
 中学校に入学して新しい仕組みの話を聞いても、「子どもがいじめを解決するなんて、無理に決まっている」と思ったという。タカシが友だちともめごとを起こしたとき、班長たちが調査にきたことがある。
「きょうはケンカのことで聞きにきました。正直に話してください。言いたくないことは無理に言わなくていいです。ここで話したことは、タカシくんの了解なしに、ほかの人にはぜったいに話しません。秘密は守ります」
 話し合いが開かれ、ケンカは無事に解決した。そのときの心境をタカシは、「自分が問題を起こしたとき、先生に意見を言うよりも、友だちに言うほうが、意見や言い分を素直に話せます。友だちのほうが話しやすいし、班長の子が同じような悩みでいたりすると、自分の気持ちをよく理解してくれます」と語った。タカシは、班長に立候補した。

 八木奈々(当時13歳)は、人見知りで内気な性格、同級生のあいだでは「無口な子」でとおっていたが、家では「うるさい子」と注意されるほどの話し好き。でも小学校からの連絡簿には、「内気ではずかしがりや、学校を休みがちで6年生の一学期は学校を休む」と記されていた。
 奈々は、小学校時代に友だちから「馬糞ちゃん」とあだ名されていたことを教えてくれた。本人も、いつからそんなふうに呼ばれたのか覚えていないという。もちろん奈々は馬糞が、馬の糞であることを知っていた。でも、友だちから「馬糞ちゃん」と呼ばれるといっしょに笑っていたという。
 入学式から2か月が過ぎようとしていた6月、奈々は「悩みアンケート」を書くと、翌日から学校を欠席してしまった。
「わたしは最近いやなことがあって、体の具合が悪いです。めまいや吐き気があったり、胸のあたりがしめつけられるように痛くなったりして、とても苦しいです。家ではたいしたことないのに、学校へ行くと苦しくなります。わたしは学校が好きです。そして友だちも大好きです。でも、5月ごろから中島くんが、わたしが何もしていないのに一方的にことばの暴力でひどいことを言うようになりました。それも毎日毎時間です。わたしが『やめて』といくら頼んでもやめようとしません。わたしはそれがいやでいやでたまらなくて、どうしたらいいのかわからなくなって、そのうち体の具合も悪くなりました。わたしは中島くんに言いたい。人を傷つけるのはやめてほしい。もうわたしにいじわるするのはやめてほしい」
 班長会はくわしい調査のために、奈々の家を訪問した。このときのようすを奈々の母親は、「娘が学校を休んだときに、クラスの子が家にきて娘を励ましてくださいました。娘がまた学校に行かなくなるのかと心配で、夜も眠れませんでした。ありがとうございます」と語った。
 3日後、放課後の特別教室で話し合いがもたれた。参加者は、奈々、中島くん、タカシたち班長、担任の計9名。ロの字に机が配置された。中島くんは、天井を見上げてアクビをしたり、キョロキョロとあたりを見回したりしていた。
 しばらくして、奈々が女子の班長につき添われて入室した。中島くんがキッとにらむと、奈々はヘビににらまれたカエルのように固まったまま、席に着いた。
 あいさつのあと、司会者が「これから班長会をはじめます。きょうは奈々さんの相談について話し合います。どうしたら悩みが解決できるか、みんなで考えてください」と会の目的を告げた。
 奈々と中島くんが、「わたしはうそを言いません。勇気をだしてほんとうのことを言います」と宣誓したあと、質疑応答がスタートした。班長たちの手がいっせいに挙がった。
「中島くんは奈々さんに、なぜバカとかのろまと言ったのですか」
「ほんとうにそんなこと言ったの? 何回言ったの」
「奈々さんが『もうやめて』と言っているのに、どうして中島くんはやめないの」
 中島くんは「一度かな、二度かな」「そんなに大声で言っていない」などととぼけていたが、しだいにことばにつまるようになった。
 質問が出つくすと、つぎに班長がひとりずつ意見を述べた。班長の多くが「奈々さんがかわいそう」「中島くんはきちんと謝るべき」などと意見を述べたが、タカシは違っていた。
「ぼくは奈々さんもすこし反省すべきだと思う。奈々さんは、だれかに何かちょっと言われただけで、すぐに黙り込んだり泣いたりする。泣くと何も言えなくなる。そこは直したほうがいい」
 奈々はタカシをチラリと見た。司会者が「みんなの意見を聞いて、ふたりは意見を言ってください」と告げた。はじめに中島くんが立ちあがり、「ぼくが悪かったと思います。こんなに奈々さんが苦しんでいるなんて、きょうはじめてわかりました。きちんと謝りたいです」と意見を述べた。
 つぎに奈々が、ハンケチで流れる涙を押さえながら起立した。両脇の班長が「ガンバレ、ガンバレ」と小声で励ました。
「もう、いやなことを言うのは、やめてください!」
 それは廊下まで聞こえるような大きな声だった。一瞬、何が起きたのかと、だれもが呆気にとられた。こんなにも大きな奈々の声を耳にしたのは、はじめてだったのだ。パチパチと拍手がわき起こった。
 最後にわたしが意見を述べて、司会者はふたりになかなおりを求めた。中島くんは奈々の前に進みでて、「ごめんなさい。もう悪口を言ったりいやなことをしたりしません」と深々と頭を下げた。奈々はしゃくり上げながらコックリとうなずいた。ふたたび拍手。その後、司会者が閉会のあいさつをした。
 中島くんはつぎのように反省した。
「奈々さんのことで呼び出されたときはすごくムカついたけど、奈々さんの話を聞いて、悪いことをしてしまったなあと反省した。すぐになかなおりできたのでよかった。もう悪いことはやめようと思う」
 奈々は、話し合いの感想を作文に書いた。
「班長会の話し合いで中島くんはとても反省して、わたしに謝ってくれました。心のなかがなんだかスーッとしました。問題が解決してから、わたしはとても元気になりました。不思議なことに胸の痛みや吐き気もすっかりなくなって、いまは気分爽快です。わたしはこんどのことでとてもよい勉強をしました。すこしきついことを言われたぐらいで、傷ついてはダメだと思いました。もっと心を強くもって、そんなことぐらいははね返せる人間になりたいです」
 奈々は別人のように変わった。欠席はなくなり、給食委員に立候補した。わたしは学期末の保護者向けの教育通信に、「奈々さんは、明るく活発で何事にも進んで取り組みました。給食委員会では、配膳やあと始末など積極的に活動して全校表彰を受けました」と記した。

トラブルメーカー、吉井くん

 どのクラスにも、なぜかどうしても気になる子どもがいる。かれらの言動は、ときにクラスを盛り上げたり、混乱させたりする。まさに、毒にも薬にもなる存在である。当時、吉井くんはそうした生徒のひとりだった。
 坊主頭の吉井くん(当時13歳)は、すこし短気な面があるが、ジョークやものまねで人を笑わすのが大の得意。三人兄弟の末っ子で甘えん坊、怒られるとすぐにすねる。ツッパリ生徒にあこがれて学生服のボタンを外したり、肩をいからせて廊下を得意気に闊かっ歩ぽ したりしていた。勉強は苦手だが、スポーツは大好き。お父さんは野球少年団のコーチで、お母さんはマネージャーをしていた。吉井くんも少年団のピッチャーで活躍し、中学校では迷わず野球部に入った。
 そんな吉井くんは班長会に呼ばれる常連で、何回も「ごめんなさい」と反省をくりかえしては、またすぐに顔を出すのである。
 忘れられない出来事がある。「吉井くんが友だちと掃除をサボっている」「吉井くんがホウキをバットに遊んでいる」と悩みアンケートが出された。
 その日の放課後、吉井くんは、いっしょに掃除をサボった友だちと班長会の会場である美術室にやってきた。班長たちは吉井くんたちに反省を迫ったが、「やりたくない、メンドクサイ」でとりつく島もない。
 そのとき突然、となりの準備室のドアが開き、頭を金髪に染めた加藤くんが登場した。中学3年生の加藤くんは、先生たちも手を焼くツッパリ生徒。金髪に学ラン姿で学校をわがもの顔で闊歩している。授業や掃除を抜けだしては、美術準備室を訪問し、彫刻刀や金づちで工作していく。
「先生、オレにも言わせてくれ」
 彼はふたりに向かって、有無を言わさずまくしたてた。
「あのな、オレも大きなことは言えんが、決められたことは守らなあかんぞ。勝手に掃除をサボったら、みんなが迷惑するやろ、違うか。自分が使った教室は自分できれいにしなあかん。おまえら、そんなことしとったら、オレみたいになるぞ!」
 それまで班長たちの話に耳を貸さなかった吉井くんたちが、このツッパリ生徒の大演説(?)に真顔で「はい、はい。わかりました」と即答したのである。加藤くんは演説をすませると、「先生、どうも」と、なにごともなかったかのように教室から消えていった。
 その後、吉井くんたちは掃除をサボらなくなった。その理由を吉井くんに尋ねると、「あこがれの先輩には逆らえない」と神妙な面持ちで答えた。おもしろいことに、それ以来、加藤くんも美術準備室を訪れなくなった。
 この吉井くんが、「保護者の参加」という仕組みづくりに功績を残すことになる。
 その日、複数の男子生徒から匿名の悩みアンケートがあった。
「吉井くんが『おはよー』と言って、何度も頭をたたいてきます。『痛いからやめて』と言っても、笑ってやめません」
「吉井くんは突然、廊下で人の肩にもたれかかってキスをしてくる。やめてと言ってもやめない」
 吉井くんへの調査からはじめることになったが、ここで問題が起きた。だれもが、「調査はいやだ」とソッポを向いたのだ。
「吉井くんは『やっていない』とか『冗談、冗談』とか言うに決まってる。そう言っては、いろいろな子をたたいて笑っている」「吉井くんがマンガを貸してと言ったとき、いま読んでいるからダメと言ったら、ケチと言ってたたかれた」「吉井くんは小学校で一度、担任の先生にきびしく注意された。それから『先生に告げ口したら殴るぞ』とみんなを脅していた。中学校でも、先生に言ったら殴ると脅している」と、だれもが不満を口にした。
 この問題には、保護者の参加が必要だ──わたしはそう考え、吉井くんの保護者に班長会の話し合いへの参加をお願いした。

(後編へつづく)

出典:平墳雅弘『子どもが解決! クラスのもめごと』2014年、太郎次郎社エディタス

平墳雅弘 (ひらつか・まさひろ)

1956年、岐阜県大垣市生まれ。小学校に13年間、中学校に24年間勤務。専門は美術。
ポーランドの教育者・コルチャックによる「仲間裁判」に着想を得た、子ども自身で問題を解決する仕組みとして「子ども裁判」を考案・実践し、いじめや不登校をはじめとするさまざまな問題に向きあってきた。2003年、第35回中日教育賞受賞。2010年、国際コルチャック会議で「子ども裁判」の実践を発表。
著書に『日本初「子ども裁判」の実践』(国土社)、『生徒が生徒を指導するシステム』(学陽書房)、『子どもが解決! クラスのもめごと』『保護者はなぜ「いじめ」から遠ざけられるのか』(以上、太郎次郎社エディタス)がある。