他人と生きるための社会学キーワード|第2回|NIMBY──社会を成り立たせている作法に気づかせてくれるもの|熊本博之

リレー連載 他人と生きるための社会学キーワード 毎号、ひとつのキーワードから「問題を考えつづける」ための視点を伝えます。社会学者から若い人へのメッセージ

毎回、ひとつのキーワードから「問題を考えつづける」ための視点を伝えます。社会学者から若い人へのメッセージ。

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社会を成り立たせている作法に気づかせてくれるもの

熊本博之

 NIMBY。ニンビィと読む、その読み方すら容易には浮かんでこない言葉が、この回のテーマだ。聞きなれない言葉かもしれないが、この社会で生きている人たちのすべてに関係している、重要なテーマである。

 NIMBYとは「Not in my backyard―私の家の裏にはあってほしくない」の頭文字をつなげてできた造語である。何があってほしくないのか。それは騒音や悪臭を発生させたり、周辺に危険をもたらしたり、周辺の治安を乱したり悪化させたりする可能性があったりする、とにかく自分の近くには来てほしくない施設だ。わかりやすいのは軍事基地や空港、工場や発電所、ゴミ処理場、刑務所あたりだろうか。こういう施設のことを迷惑施設というが、何を迷惑だととらえるかは人によって異なるので、保育園や幼稚園、児童相談所、あるいは病院や特別養護老人ホームのような施設に対しても「近くにあってほしくない」と感じる人はいるだろう。そう考えると、あらゆる施設が迷惑施設になりえるともいえる。

 だが、迷惑だと思っている人がいたとしても建設されるのは、その施設が必要だからだ。私の家の裏あってほしくない、けれども、どこか建設されないと困るのである。そして必要としている人が多ければ多いほど、社会的に必要とされている、公共性の高い施設だとみなされ、建設が正当化される。

 架空の、でもどこにでも起こりうる例をもとに考えてみよう。A地区にゴミ処理場の建設計画が立ち上がり、A地区の住民たちは建設に反対しているとする。「そりゃ反対するよね、自分だって嫌だし、抵抗するのは当然でしょ」と共感するかもしれない。でもそれが、自分の出したゴミが運ばれる処理場だったとしたらどうだろう。家庭ゴミの処理場は、原則として市区町村で処理することになっているので、こういうことは十分にありえる。そのときもまだ、共感する気持ちを持ち続けられるだろうか。

 もちろん「持ち続けられる」という人もいるだろう。でも次に生じるのは、じゃあどこに建設すればいいのか、という問題だ。もしかしたら自分の住んでいる地域が候補地になるかもしれない。それは嫌だ。でもゴミ処理場がなければゴミを捨てられなくなる。それは困る。だったらやっぱりA地区に受け入れてもらおう、と考える人たちも、けっこういるのではないだろうか。

 そして、さらにこう考える人も出てくるだろう。「だいたいA地区の人たちだってゴミを出すじゃないか。自分たちの近くにつくられるのが嫌だからって反対するなんて身勝手だ」。かくしてNIMBYという言葉は、建設に反対するA地区の人たちを非難する言葉になる。それは住民エゴだ、NIMBYだ、というふうに。

 だが、これをA地区の住民から見たとき、別のNIMBYが見えてくる。自分たちのことをNIMBYだと非難している人たちだって、ゴミ処理場が近くにつくられるのが嫌なんだろう。それこそNIMBYだ、負担の押しつけを正当化しているだけじゃないか、と。

 誰かをNIMBYだと非難すれば、それがそのまま自分にも返ってくる。この架空の事例がとてもわかりやすいのは、施設の建設によって便益を得られる人たち=受益者と、不利益を被る人たち=受苦者との距離が近く、重なっているからだ。だから受益者は自分自身のNIMBY意識に気づきやすいし、A地区の人たちに「申し訳ない」という気持ちも生まれやすいため、両者の関係はそれほど悪化しづらい。

 しかし両者の距離が遠く離れるにつれて、受益者には受苦者の姿がだんだん見えづらくなる。そして自分たちが受苦者に負担を押しつけているという実感も抱きにくくなる。そのため、受苦者から投げ返される「おまえこそNIMBYだ」という声を、受益者の多くは自分自身に向けられたものだととらえることができず、対立関係に発展しやすい。

 その典型ともいえるのが、沖縄の米軍基地問題をめぐる本土と沖縄との関係だ。日本に米軍基地があるのは、日米安全保障条約に基づき、米軍が日本の国防を担っているからだ。安全保障という便益を得ている受益者は日本人全体である。しかし、日本にある米軍専用施設の約7割が、日本本土から地理的に遠く離れている沖縄に集中しているため、本土に住む人たちの多くは、米軍駐留の負担を感じることなく安全保障の果実だけを得ている。本土の人たちにとって沖縄の米軍基地は、地理的にも心理的にも遠い存在なのだ。そのため、沖縄が米軍基地から受けている被害を、本土の人たちは理解しにくい。しかも自分たちが受益者であるという意識も薄い。安全が保障された状態こそが通常であるため、安全保障という便益は自覚されにくいからだ。

 このように沖縄の米軍基地問題においては、「受益者と受苦者の距離の遠さ」と「受益者側の自覚の薄さ」が重なりあっている。そのため受益者である本土の人たちは、自分たちの受益と沖縄の受苦のあいだに因果関係があることを自覚しにくい。一方で、自分たちは受苦ばかりを押しつけられていると感じている沖縄の人たちは、本土側の無自覚さにいらだち、NIMBYだと非難するのだが、自分のせいではないと思っている多くの本土の人たちは、それを沖縄からの一方的な非難だと感じてしまう。近年では、それが沖縄への反感へと接続し、沖縄ヘイトともいうべき言説が沖縄に向けて投げつけられるケースも散見されるようになっており、ますます両者の関係が悪化しつつある。

 この悪循環の根源にあるのは、本土側の想像力の欠如である。自分の便益が他者の不利益の原因になっていることが自明であるゴミ処理場の事例とは違い、因果関係が見えにくい沖縄の米軍基地問題の場合は、沖縄が基地負担の軽減を訴えている理由、自分たちが沖縄から非難されている理由を、沖縄側に立って想像しなければ、対立はなくならない。

 「別に対立を解消する必要などない」と思うかもしれない。だがあらゆる施設が迷惑施設になりえる以上、NIMBYをめぐる問題は、誰にでも降りかかってくる可能性がある。あえて単純化していえば、沖縄の訴えに耳を傾けることができる社会は、自分の訴えに耳を傾けてもらえる社会でもあるのだ。

 そのような社会を実現するために必要なことは、自分たちの日常を反省的にとらえ返し、日常生活を支えている人や制度、あるいはモノに意識をはらうことである。それは、多様な人たちが共に生きている社会を成り立たせるための、最低限の作法だ。NIMBYを訴える声は、そのことを私たちに気づかせてくれる。


■ブックガイド──その先を知りたい人へ
野村恭代『施設コンフリクト―対立から合意形成へのマネジメント』幻冬舎、2018年
〔特集〕「迷惑施設」とどう向き合うか」『都市問題』2015年7月号
ダニエル・アルドリッチ『誰が負を引きうけるのか』世界思想社、2012年

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熊本博之(くまもと・ひろゆき)
明星大学人文学部教授。早稲田大学大学院文学研究科社会学専攻博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。専門分野:地域社会学、環境社会学、沖縄学。
主要著作:
『沖縄学入門』共著、昭和堂、2010年
『米軍基地文化』共著、新曜社、2014年
『持続と変容の沖縄社会』共著、ミネルヴァ書房、2014年
『共生の社会学』共著、太郎次郎社エディタス、2016年
『交差する辺野古―問いなおされる自治』勁草書房、2021年

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