他人と生きるための社会学キーワード|第7回(第3期)|スポーツがつくる境界線──社会的カテゴリの強化と更新の可能性|坂口真康
スポーツがつくる境界線
社会的カテゴリの強化と更新の可能性
坂口真康
「スポーツには世界と未来を変える力がある。」これは、オリンピック・パラリンピック東京2020大会のビジョンとして掲げられた標語である。現在に至るまで、スポーツには、よりよい社会の構築の観点から多大なる期待が寄せられ、メガ・スポーツイベントと呼ばれるオリンピック・パラリンピックや、ラグビーやサッカーのワールドカップなどが開催されるたびに、世界中の人びとや各国・地域内の人びとの一体感が、メディア等を通じて広く社会で共有されようとしてきた(たとえば、南アフリカ共和国では、ラグビーやサッカーのワールドカップが同国で開催されたさいに、同イベントが過去にアパルトヘイト:人種隔離政策により分断された人びとを団結させるための契機として利用されてきた)。
しかし一方で、スポーツには、偏狭なナショナリズムを煽り立てる側面があることも看過できない。これまでにも、権 学俊により、スポーツにおけるナショナリズムの強調が排外主義につながる危険性についての警鐘が鳴らされてきたが、スポーツを通じて「国民(国家)」の一体感が強調されればされるほどに、そこに属さない人びとが置き去りにされたり、排除されたりする可能性が高まるという弊害があることも無視できないのである。
人間が築く社会にはさまざまな境界線が存在する。本リレー連載の前段となる書籍である『共生の社会学』で取り上げられた、人びとを「あるもの」と「異なるもの」として隔てる「社会的カテゴリ」(たとえば、「日本人/外国人」「障害/健常」など)もそのひとつである。そのような観点から上記のスポーツにおける排他の側面をとらえると、その背後には「国民(国家)」という社会的カテゴリの強化の作用が存在すると理解することができる。それと同時に、「国民(国家)」の境界線が揺らいでいるグローバル化時代とされる現代社会では、同じ「国家」内に同じ「国民」ではない人びとが今まで以上に多種多様に存在するため、それらの社会的カテゴリの強化により生じうる摩擦に留意することが必要になるということもできる。
スポーツを通じて強化されてきた社会的カテゴリは、「国民(国家)」カテゴリだけではない。たとえば、「人種」カテゴリに関しても、いわゆる「黒人」であればスポーツの才能があるといったことがまことしやかに囁かれてきた。そのようななか、かねてより、ベルトラン・ジョルダンにより、「人種」の基準自体がきわめて「流動的」であることが指摘されてきた。結局は、「先天的な能力」が祖先により異なることはありえても、考古学と最先端のDNAの研究からは、厳密な意味で「人種」が生物学的観点からの意味を有さず、遺伝に基づいた差異は現在まで証明されたことがないとされる。それにもかかわらず、現代社会では、とくにスポーツの場面において「人種」の「生物」的な差異による優劣が自明のものとして強調されている──そしてそれは、テレビなどのメディアを通じて実況者や専門家とされる解説者によって流布されている──きらいがあるのではないだろうか。
以上のように、スポーツにおいては、「国民(国家)」や「人種」といった種々の社会的カテゴリの強化の動きが顕著に見られるわけであるが、それらの境界線が更新されうる可能性を秘めた動きが見られないわけではない。ここでは、近年見られるスポーツそのものの意味内容の変容の動きとも連動した社会的カテゴリの更新の可能性について概観してみたい。
たとえば、新たなスポーツのかたちとして昨今隆盛してきたeスポーツ(エレクトロニック・スポーツ:electronic sportsの略称)の存在が挙げられる。2021年6月には、国際オリンピック委員会と国際競技団体等が連携した「五輪バーチャルシリーズ」(国際オリンピック委員会の公認イベント)が開催されるなど(「朝日新聞」2021年6月23日朝刊)、その地位確立が進んでいる。そのようななか、電子機器を用いて競技が行われるeスポーツが、「障害」カテゴリを更新しうる可能性を秘めていることを示す事例も紹介されてきた。たとえば、リハビリテーションのひとつとしてネットワーク対戦型のeスポーツを取り入れてきた、神経筋疾患の専門病院である国立病院機構八雲病院(北海道)の事例では、プレイヤーのひとりの声として、「一緒に戦っている人も、僕らに障害があるなんてわからないでしょうね」という言葉が紹介されている。この言葉からは、eスポーツでは、「障害」が従来のスポーツのような意味をなさない側面があることが読みとれるだろう。そしてそのことからは、今後ともeスポーツが制度等を整備しつつ展開されていくなかで、同スポーツが「障害」カテゴリの更新の契機となりうる可能性を示しているといえないだろうか。
ほかにも、スポーツ自体の意味内容の変容の事例として挙げられるのが、新たな時代のスポーツ(教育学)を議論した書籍である『新時代のスポーツ教育学』でも紹介されている、「セラピューティックレクリエーション」と呼ばれる余暇の観点からスポーツをとらえる動きや、ゴミ拾いや雪かきなどを題材とした生涯スポーツの取り組みの展開である。前者は、指導者や技能の高い人びとが中心の従来のスポーツとは異なり、親しみながら続けることができるような多様な参加者が中心のスポーツであるとされる。また、後者のスポーツの特徴としては、社会課題の解決が目的とされ、その解決と同時に競技自体がなくなることが挙げられている。それらのスポーツは、技能の向上よりも参加者が継続的に楽しむことが重視されるという点や、その目的が特定の勝者を決めることではなく、関係する人びと(集団)全体の得利を生み出すことであるという点で、主流のスポーツとは別なる方向性への展開を示しているといえるだろう。
これらのスポーツの意味内容の変容からは、従来、多くのスポーツで煽りたてられてきた、過度な競争原理や勝利至上主義からの脱却の様相が見えてこないだろうか。これまでにも、教育を対象とした社会学の分野では、たとえば内田良により、「過熱」する学校での部活動について、「競争」の論理から「居場所」の論理へと移行することの重要性が指摘されてきた。そのうえで、学校主体の部活動を地域主体へと移行する構想などの提案がなされてきたわけであるが、現在、そのような指摘とも呼応するかたちで、日本の学校におけるスポーツの部活動も変わろうとしている。2022年6月に、日本政府の「運動部活動の地域移行に関する検討会議」は、「少子化の中、将来にわたり我が国の子供たちがスポーツに継続して親しむことができる機会の確保に向けて」と題した提言を発表した。そこでは、今後の学校でのスポーツの部活動に関して、地域と学校が連携して「新しい価値」を創出するという目標、「多様なニーズに合った活動機会の充実」や、「勝利至上主義を助長すること」の回避の重要性等への言及がみられる。そのような動きのなかで、上記の競争からの離脱といった視点が組み込まれていけば、社会におけるスポーツに対するとらえ方も変容しうるのではないだろうか。
以上に示した、過度な競争や勝利至上主義から離脱できる場を設けるという近年のスポーツの方向性は、社会のほかの文脈でも大きな意味を持つと考えられる。それは、それらの要素を多分に含みこみ、社会的カテゴリの強化に加担してきた存在であっても、それらを絶対的価値とする基盤から離れられることを示唆しているからである。社会的影響力を有するスポーツが、社会で他者と生きるために不可欠である多様性の尊重(社会的カテゴリの更新)を模索するという方向性を示すことの社会的インパクトはけっして小さくないと思われる。
■ブックガイド──その先を知りたい人へ
① 権学俊『スポーツとナショナリズムの歴史社会学──戦前=戦後日本における天皇制・身体・国民統合』ナカニシヤ出版、2021年
② ベルトラン・ジョルダン著、山本敏充監修、林昌宏訳『人種は存在しない──人種問題と遺伝学』中央公論新社、2013年
③ 内田良『ブラック部活動──子どもと先生の苦しみに向き合う』東洋館出版社、2017年
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坂口真康(さかぐち・まさやす)
兵庫教育大学講師。筑波大学大学院3年制博士課程人間総合科学研究科ヒューマン・ケア科学専攻修了。博士(教育学)。専門分野:教育社会学、比較教育学、共生社会論、南アフリカ共和国の教育研究。
主要著作:
『「共生社会」と教育』春風社、2021年
『共生の社会学』共著、太郎次郎社エディタス、2016年
『教育社会学』共著、ミネルヴァ書房、2018年
『コロナ禍に世界の学校はどう向き合ったのか』共著、東洋館出版社、2022年
『新時代のスポーツ教育学』共著、小学館集英社プロダクション、2022年