他人と生きるための社会学キーワード|第8回(第2期)|他者と共に生き延びる──南アフリカ共和国にみる個人と社会の存続のための方途|坂口真康

リレー連載 他人と生きるための社会学キーワード 毎号、ひとつのキーワードから「問題を考えつづける」ための視点を伝えます。社会学者から若い人へのメッセージ

毎回、ひとつのキーワードから「問題を考えつづける」ための視点を伝えます。社会学者から若い人へのメッセージ。

初回から読む

他者と共に生き延びる
南アフリカ共和国にみる個人と社会の存続のための方途

坂口真康

「はい、論破!」。これは、2015年にユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされた言葉である。そして同様の言葉が、東京都内のある公立小学校で、児童が情報端末を用いてネット上で意見交換を進めるなかで投稿されたそうだ(『朝日新聞』2021年10月22日朝刊)。記事のなかでは、「言い負かしたことを誇示するような言葉」の投稿に対して、議論し、思考することの重要性を訴える同小学校教諭の言葉も紹介されている。この記事からは、自身が受け入れられない他者の考えを打ち破り、排除し、みずからの考えの正当性を主張することに価値がおかれる空間を生きる、現代の日本社会の子どもたちの様子が見えてくる。

 そもそも人間社会の営みというのは、かならずしもひとつの正解がない出来事に対して、時間や資源の制約から暫定的な決断を下しているだけではないのか。論破することで他者の意見を排除することは、多様な選択肢──ありえたかもしれない別なる可能性──を破棄することになり、人間社会の豊かさを制限することにはならないだろうか。それは、本連載が依拠する社会学を含む社会科学の営みにとっても無視できないことだといえる。

 上野千鶴子は、社会科学における「ノイズ」(「現実に対する違和感、疑問、こだわりのようなもの」)を受けとる問題意識の重要性を説きつつ、それは「自明性(あたりまえ)の世界で思考停止しているひと」には起こらないとしている(詳細は下記ブックガイド③を参照されたい)。この見解をふまえると、他者が発する「ノイズ」にふたをして「思考停止」している状態では、社会科学の営みに不可欠である問いは生まれないということになる(「常識」を疑うという観点からの社会学の解説はブックガイド①に詳しい)。そしてそれは、人間や社会を理解するための探究活動が滞る状況を生みだすことにもつながるといえる。

 また、人間や社会の別なる可能性の探索を妨げるという点もさることながら、他者の意見を論破・排除することに重きがおかれたなかで人間関係が構築される社会が行きつく先の危険性にも注意する必要があるだろう。すなわち、徹底的に他者(の意見)を排除しようとすることにより、自他の生命にかかわる暴力的な争いに発展しうるという危険性である。

 過去にそのような争いを経験しながらも、それを二度と生じさせないために試行錯誤してきた社会のひとつに、南アフリカ共和国(以下、南ア)がある(南アの事例の詳細は拙著『「共生社会」と教育』を参照されたい)。南アでは、1990年代まで、多くの人びとの生命を脅かしたアパルトヘイト(人種隔離政策)体制が敷かれてきたが、同制度が撤廃されたあとは、「人は人を通じて人となる」ことを意味する「ウブントゥ」というアフリカの哲学などを基盤としつつ、同制度による加害者も被害者も含んだ社会の構築がめざされてきた(本連載「和解のための道程」でも触れた)。その点、同国では過去の遺産によりさまざまな思惑をいだいた人びとのあいだの争いの可能性を抱えながらも、それをいかに誘発させないかという関心のもとで社会が営まれてきたと理解できる。同意できない他者の存在を排除することが生みだす自他の生命にかかわる争いをなんとか食い止めようとしているのが、現代の南アの特徴といえるのである。

 そのような歴史・社会的特徴を有するなか、ポスト・アパルトヘイト時代の南アでは、たとえば“Life Orientation”とよばれる必修教科を通じて、社会で他者と生きるための教授・学習が学校教育で展開されてきた。同教科には、多様な背景の人びとが社会を築くうえで対立は起こりうることが前提とされ、そのような社会で他者と共に生き延びるためのマナーやスキルが学ばれるという特徴がある。とくに興味深いのが、同教科では、他者との問題の解決策が見つからない場合は、ひとつの答えを導きだすことに注力するのではなく、意見の違いを認め、尊重することに徹しているという点である。実際、同教科を担当する教員からは、「多様性」の教育のさいの強調点に関する問いへの答えのなかで、つぎの言葉が聞かれた。

私たちは人びとが異なる意見をもっているということを認める必要があります。(中略)私たちはそれに同意しないかもしれません。私たちはそれを受容しないかもしれません。でも…もしかすると特定の問題をみんなが…同じ立場に立って考えているわけではないということの認識です。それはつまり、だれが正しくてだれが間違っているというのではなくてです。(2012年8月に筆者が実施したインタヴュー調査より)

 この教員の言葉にも象徴されるように、現代の南アの学校教育では、ひとつの答えに到達できないと判断された場合には、無理に同意に至らせるというよりも、同意できない他者が存在することを認めることが奨励されている様子がうかがえる(他者との関係性における「非合意に関する合意」の議論についてより詳しく知りたい場合は、ブックガイド②を参照してほしい)。異なる他者(の意見)を排除せず、その存在を認めることを徹底するという方策は、他者を暴力的に排除することにより人間社会が行きつく先を、アパルトヘイトというかたちで目の当たりにした南アだからこそ取り組まれている方策だととらえることもできる。

 さらに、困難に直面したさいに多様な意見を排除するのではなく、それらも含み込みながら吟味・議論しようとする試みは、コロナ禍の南アの取り組みにも見出すことができる(コロナ禍の南アの社会や学校の様子は、下記書籍『コロナ禍に世界の学校はどう向き合ったのか』に詳しい)。とくに注目できるのが、2020年3月以降の新型コロナウイルス感染症の蔓延を受けて南アで展開されたロックダウンにみられるような政策が、パブリック・コメントをふまえて一部緩和されたという出来事である(たとえば、2020年4月に、パブリック・コメントの内容をふまえてエクササイズの規制が限定的に解除された出来事など)。これらの出来事が示すのは、同国では社会全体の問題に対応するさいに、政府の決定に人びとを無批判に追従させるのではなく、可能なかぎり多様な意見をとり入れつつ進めることが試みられてきたという点である。それは、アパルトヘイトが一極集中的に人びとを統制してきたことに抵抗してきた社会・歴史的基盤を有する南アの特徴を示していると同時に、他の社会で多様性を尊重するさいの具体的方策を議論するためのヒントも示しているといえるだろう。

 以上のように、南アでは社会的立場の異なる多様な背景の人びとが共に社会を存続させる方策が模索され、試行されてきた。いうまでもなく、同意できない者同士が社会のなかで共生することは容易ではない。それでも南アでは、あらゆる人間をも含み込んだ社会の実現をめざし、学校教育などを通じてそのような社会を体現することが試みられてきたのである。同国の事例は、社会で他者と生きることが困難な場合──とくに自他の生命にかかわる安全性が脅かされうる場合──には、その関係性における決断を保留するというかたちの共生も存在しうることを示しているといえる。関心のベクトルがつねにたがいに向いていることや共通解を導きだすことを共生の前提とすると、それは逆説的なかたちでの共生ということになる。しかし、自他の生命にかかわる争いを回避することに徹する、他者と共に生き延びるというかたちでの共生は、同意できない他者の意見を論破・排除することに価値がおかれる状況を打破し、個人と社会を存続させるための現実的な方策のひとつではないだろうか。


■ブックガイド──その先を知りたい人へ
① 佐藤俊樹『社会学の方法──その歴史と構造』ミネルヴァ書房、2011年
② 数土直紀『理解できない他者と理解されない自己──寛容の社会理論』勁草書房、2001年
③ 上野千鶴子『情報生産者になる』筑摩書房、2019年

*編集部注──この記事についてのご意見・感想をお寄せください。執筆者にお届けします(下にコメント欄があります。なお、コメントは外部に表示されません)

 

坂口真康(さかぐち・まさやす)
兵庫教育大学講師。筑波大学大学院3年制博士課程人間総合科学研究科ヒューマン・ケア科学専攻修了。博士(教育学)。専門分野:教育社会学、比較教育学、共生社会論、南アフリカ共和国の教育研究。
主要著作:
『「共生社会」と教育』春風社、2021年
『共生の社会学』共著、太郎次郎社エディタス、2016年
『教育社会学』共著、ミネルヴァ書房、2018年
『コロナ禍に世界の学校はどう向き合ったのか』共著、東洋館出版社、2022年
「南アフリカ共和国における『共生』のための教育に関する一考察」『比較教育学研究』第50号、2015年
「「ナショナルな基準」と多様な実践の間で揺れる社会的な「共生」を志向する教育」『教育社会学研究』 第106集、2020年
「学校教育における「多様性」と「統一性」の折衷点に関する一考察」『教育学研究』第88巻第4号、2021年

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。