石巻「きずな新聞」の10年│第15回│活動の拠点も、仲間も同時に失って│岩元暁子

石巻「きずな新聞」の10年 岩元暁子 石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

初回から読む

第15回
活動の拠点も、仲間も同時に失って

なぜ、県外のボランティアを受け入れるのか

 新団体を立ち上げた夏は、学生ボランティアの受け入れに奔走した。東京の大学の課外授業の一環で6人×5班=30人(各班4日ずつ)、高校生のボランティアが約10人(2日間)、日別のべ140人の受け入れが決まっていた。

「県外からボランティアがたくさん来る」と言うと、「手伝ってくれる人がたくさんいていいね」「あきちゃんもラクになるね」などと言われたりするが、はじめましての県外ボランティアが活動初日から戦力になることなど、ほとんどない。

 毎回1.5時間のオリエンテーションをして、石巻や仮設住宅の現状や課題、この活動の意義、そして新聞配布のコツや注意点をイチから教え、全員が朝から夕方までそれなりに「満足」な活動ができるように行き先や回る順番を調整し(早く終わりすぎても、終わらなくてもいけない)、活動中も手とり足とり教え、活動後は「住民さんとうまく話せなかった⋯⋯」「あまり役に立てなかった⋯⋯」「地名や方言がわからない⋯⋯」という泣き言や、「この活動になんの意味があるのか」というイライラやモヤモヤにもつきあわないといけない。活動のことを思えば、毎回同じメンバーで新聞配りをする方がはるかにラクだし、効率もよい。

新聞配布に出発するまえのボランティアさんたちとのミーティング

 それならなぜ、県外のボランティアを受け入れるのか。

 ひとつは、交流人口を増やし、震災の風化を防止するためだ。震災からの時間の経過とともに、メディアによる報道も減り、震災の風化が進んでいるなかで、仮設住宅で暮らす方々の声を直接聞くことのできるこの活動は、ある意味とても貴重だ。「家族や友人に、今回知った被災地の現状や課題を伝えます」「今回出会った住民さんにまた会いにきます」「こんどは友人を連れてボランティアをしにきます」。最終日の「振り返りの会」では、「今後、自分がどう石巻にかかわっていけるか」をテーマに「決意表明」を発表する。活動をとおして住民の方々と出会い、「被災地の生の声」を聴いたからこそ、それぞれが未来につながることばを口にできるのだ。

 また、なかには一度だけでなく何度も石巻に通う「リピーターボランティア」になってくれたり、ボランティアをきっかけに移住や就職につながったりしたケースもあった。震災で多くの人口を失い、その後も急激に人口減少が続く石巻にとって、県外からのボランティアの受け入れをとおして「石巻ファン」「石巻応援団」をつくることは、とても意義のあることだと考えていた。

 もうひとつは、住民さんにとって「いろんなボランティアさんが来る」ことにも価値があるからだ。住民の方々のなかには、いまも胸にある悲しみやつらさ、将来に対する不安な気持ちをだれかに聴いてほしい、受けとめてほしいという方も少なくない。しかし、「たいへんなのは自分だけではないから」「被災状況がみんな違うから、言ってもどうせわかってもらえない」などの理由で、ご家族や知人友人、ご近所さんにはなかなか話せない、共有できないという方もいる。また、未来のいのちを救うため、自身の震災の体験や教訓を話して聴かせてくださる方もいる。

 そういう方の多くは、「何度でも同じ話がしたい」人たちだ。毎回同じボランティア、地元のボランティアが訪問していると、「何度でも同じ話がしたい」人のニーズは満たせない。一期一会の県外のボランティアだからこそ話せる、話したいこともある。

入居率が下がり、雑草だらけの仮設住宅。団地のコミュニティもなくなってくるからこそ、できるだけ個別訪問で新聞を届けたい

 そんな背景もあり、新団体では積極的に県外からのボランティアを受け入れることにし、助成金の申請書にも受け入れ目標人数を記載していた。私ひとりで同時に面倒みられる新規ボランティアの人数はせいぜい4人、がんばって6人といったところなので、夏の受け入れはだいぶキャパオーバー⋯⋯。支援団体「友だちの会」のPTW(Part Time Workerの略)のみなさんといっしょに受け入れをするつもりで、4月の時点で人数を確定してしまっていた。6月末に「友だちの会」と決別した私は、途方に暮れていた。

救世主しげさん

 困ったときには救世主が現れるもので、その役をしげさんこと三浦重男さんが引き受けてくれた。しげさんは石巻市内の仮設住宅で暮らす住民さんで、仮設きずな新聞の終わりごろから新聞配布のボランティアに参加してくれるようになり、新団体を立ち上げるときも賛同してくれた。

しげさん。団体設立時のキックオフミーティングで

「仕事から帰ってくると新聞がポストに入ってて、だれがつくって届けてくれてるのかなあって思ってたんだけど。ある日たまたま仕事が休みの日にボランティアさんが来てくれて、話してみたら、ずいぶん遠くから来てくれてるんだなあって。ちょうど仕事もやめたし、年金ももらえて、復興住宅も決まって、自分は恵まれているほうだから、せめてできることをしないとね。それに⋯⋯きずな新聞のボランティアをしてなかったら、朝から晩までタバコ吸ってしまうから、きずな新聞のボランティアは健康にもいいんだよ(笑)」

 しげさんは、新聞配布に参加する想いをそう話してくれた。しげさんから自身の被災状況を聞いたことはなかったが、自宅があったという南浜町は、6メートルを超える津波の直撃を受けたうえに、火災も起きた「全焼全壊地区」だ。数えきれないほどの大切なものを失っただろう。それでも「自分は恵まれている」と話すしげさんを、私はいつも心から尊敬していた。

「夏の学生さんの受け入れ、できるだけ来るようにするから、スケジュール教えて」

 途方に暮れる私の状況を察して、しげさんはそう言ってくれた。運転もできて道にもくわしいしげさんがいれば、車2台(=2班)に分かれて効率的に活動することもできる。希望がひらけた。

 なによりしげさんは、新しいボランティアさんに新聞配布のコツを教えるのがとてもうまかった。なんでも目について助言したくなったり、注意したくなったりする私とは違い、しげさんは200%「ほめて育てる」タイプ。活動初日ガチガチになっているボランティアさんの緊張をじょうずに解き、いいところを見つけて、とにかくほめる。「いいんだよ、それでいいんだよ」とエールを送りまくる。一日が終わるころには、ボランティアさんは自信をもってインターホンが押せるようになり、同時にしげさんにとても懐いていた。高校生や大学生のボランティアさんたちが「しげさんと写真撮りたい」「しげさん、LINE交換しよ」などと言っている姿を見たのも、一度や二度ではない。

学生ボランティアたちとしげさん(左端がしげさんと筆者)

 かくいう私も、免許とりたてのころ、助手席にしげさんに乗ってもらったら、「いまのカーブはいいですねえ。車体感覚がいいですよ」など、なんでもないところでたくさんほめてもらって、とても気をよくした(いま思えば、カーブもうまく曲がれないようだったら車を運転すべきじゃない)。そのくらい、しげさんはボランティアさんにも、もちろん住民さんにも慕われる、やさしいおじいちゃんだった。

 私はしげさんに、きずな新聞の活動に責任ある立場でかかわってほしいと思い、有償スタッフにならないかと何度もオファーしたが、しげさんは首を縦には振らなかった。

「きずな新聞の活動はボランティア(無償)だからできるし、ボランティアだからやりたいんだよ。そのかわり、ぼくはできる範囲でしかやらないから」

 そのことばのとおり、しげさんはほかのボランティア活動や趣味も大切にしていたが、私が困っているといつもスッと手を差しのべてくれる、そんな人だった。

たて続けに起きた事件

 夏のボランティア受け入れは、しげさんと二人三脚で乗り越え、秋になり、冬になった。

 そのころには地元のボランティアさんも少し人数が増え、私の運転技術も向上し、月1、2回は県外のボランティアの受け入れをしながら、なんとか安定的に新聞を配れるようになってきた。

「友だちの会のメンバーがいなくても、ちゃんと活動できている」。その事実に、私は自信をとりもどしつつあったし、当時はまだいつ仮設住宅が解消されるのかわからない状況ではあったが「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」という目標も、このままいけば達成できるのではと安堵していた。

 そんななか、事件はたて続けに起こった。

 ひとつめは、拠点として使わせてもらっていた呉服店「かめ七」さんの建物が、再開発によってとり壊されることになったことだ。

 かめ七さんの2階には、2段ベッドを3台ずつ並べた「民泊」用のお部屋がふたつあり、シャワーや電子レンジ、お湯を沸かす設備もあった。県外から来たボランティアが短期的に滞在することが可能だ。私も新団体設立と同時に、ピースボートが借りていた家に住めなくなったので、石巻滞在時はかめ七さんの2階に住まわせてもらっていて、なんと住民票まで置かせてもらっていた。鍵のかかる小さな倉庫もあり、そこで新聞やビブスなど、新聞配布に必要なグッズを保管し、私がいないときでも地元のボランティアさんが自由に新聞をとりにくることもできた。昔は商店街組合の会合などで使っていたのか、広い会議室もあり、ボランティアさんと出発前や振り返りのミーティングをすることもできた。

かめ七さんの会議室でのきずな新聞編集会議

 それだけ大活用させてもらって、お値段は破格の毎月1万円⋯⋯!!(県外のボランティアが宿泊する費用は別途必要)

 おかみさんは、石巻のために働く私たちからお金をとることを申し訳なく思っていたようで、「タダでもいい」と言いかねない勢いだったが、そこはきちんとお支払いしたほうがおたがいによいと思い、助成金でまかなった。

 そんな私たちの「城」が、再開発によりとり壊されることが決まってしまった。「しまった」なんて言うと、怒られてしまう。再開発は石巻の中心市街地の活性化のために大切なことで、なかなか話がまとまらない地区が多いなか、やっと実現にこぎ着けたのだから。しかし、お金のない弱小団体からすると、月1万円で借りられた事務所兼倉庫兼ボランティアの宿泊施設兼代表の住まいを一挙に失うことは、痛手中の痛手だった。

 さらに、団体の設立メンバーで、会計を担ってくれていたあいちゃんが、脚に(悪性ではないが)腫瘍ができ、手術を受けることになった。脚に5つある筋肉のうちのひとつを完全にとってしまう大きな手術で、術後は装具や杖が必要になる可能性が高いという。「正直、いまはこれから自分がどうなるのか不安も大きくて、きずな新聞のことも石巻のことも考えられないんだ。今年度の会計報告まではしっかりやるので、来年度は辞退させてほしい。引き継ぎ資料もちゃんとつくるから」。経理の知識がまったくない私は不安しかなかったが、健康上の理由なので、引きとめることもできず、承諾するしかなかった。

 とどめは、しげさんのご家族に病気が見つかったことだった。その日はボランティアの受け入れがあり、朝来てくれたしげさんは、「じつは⋯⋯」と切りだした。「日赤で検査を受けてた弟が、がんだったことが昨日判明してね⋯⋯。だから今日は振り返りのまえで帰らせてもらっていいかな」。

「ええ⋯⋯それはそれは⋯⋯。もちろんいいけど、夕方まではだいじょうぶなの?」

「だいじょうぶ。今日は活動に参加するって約束していた日だからね」

 前の日に教えてくれたら「来ないでいいよ」と言ったのに、もう来てもらっているのでしかたなく(ありがたく)、ボランティアを乗せて活動場所まで運転してもら⋯⋯おうと思ったら、活動に使う車をレンタカーしているところから電話がかかってきた。「うちに置いてあるしげさんの車、ハザード焚いたままになってるよ! このままだとバッテリー上がっちゃう」。いつもは落ち着いて安定感のあるしげさんが、この日は気が動転していたようだった。しげさんはレンタカーにボランティアを乗せて出発したあとだったが、もどってきてもらって、運転は別の人に変わってもらうことにし、しげさんには「活動のことは心配しなくていいから、弟さんのところに行ってきてあげて」と伝えて帰した。

 その後、しげさんからは、実家の手伝いもあり、しばらく活動に参加できないと連絡があった。しげさんなしで、これからどうやって新聞配布をすればいいのか⋯⋯。絶望感でいっぱいだったが、ご家族の事情なので何も言えない。努めて明るく「わかったよ! こっちのことは心配しないでね!」と答えた。

だれも責められないというつらさ

 活動を続けていくうえで必要な拠点と、中心的なメンバーふたりを同時に失うことになった。しかも、だれも悪くない(だれも責められない)理由で。

 街なかで事務所として使えそうな物件を探してみたが、駅から歩ける距離となると家賃10万円はくだらないし、ボランティアの宿泊場所や駐車場の問題も考えると、いまとはくらべものにならないほどの支出になる。団体設立2年目の私たちにまかなえるとは、とても思えなかった。

 また、しげさんのかわりに、責任をもって活動にかかわり、いっしょに県外のボランティアの受け入れができそうな人に、有償スタッフにならないかとオファーしてみたが、みんな断られた。「仕事が忙しくて、月1、2回しか参加できない」「無償のボランティアだからできるのであって、仕事になってしまうと逆にやりづらい」とのことだった。直前にキャンセルされてしまうかもしれない無償のボランティアさんばかりでは、安定した活動を続けていくのは難しい。せめてひとりでも、頼れる人を見つけたかったが、なかなかうまくいかなかった。

「だれも悪くない」と思いつつ、私は自分をとても責めていた。私にもっと資金調達力があれば、街なかに事務所も借りられただろう。私にもっと人望があれば、いっしょに働いてくれる人も見つかっただろう。私には足りないものだらけで、だからいま、活動継続は危機的な状況で、このまま活動が続けられなくなったら、新聞を心待ちにしている仮設住宅・復興住宅の住民さんたちと、「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」という志に賛同してくれたクラウドファンディングの寄付者147人を失望させる結果になるんだな⋯⋯と思った。私のせいで⋯⋯私に力がないせいで⋯⋯。

 ひとりで外を歩いているときにも、突然涙がどわーっと出てくるくらい、つらくて、落ちこんだ。

 友だちの会と決別したときもつらかったが、相手に非があると思っていたので遠慮なく怒れたし、まわりの人にもたくさん話を聞いてもらって慰めてもらえた。

 今回は、だれも悪くないから、だれも責められないし、信頼する大好きな人たちを悪者にするわけにもいかないので、ほとんど人にも話せなかった。ひとりでかかえて、自分の力不足を責めて嘆くのが、どれだけつらいかを知った。

 津波で家族を亡くした人たちがよく、「怒りのぶつける先がなくて自分を責めてしまう」というが、きっとそれに似たつらさなのだろうと思う(もちろん、くらべものにならない悲しみだと思うが)。

 年度末も近づき、そろそろ来年度のための助成金を考えなくては⋯⋯というタイミングで、私の数少ない相談相手のひとりから、提案があった。

「駅近の一軒家かアパートの一室を事務所にしたら? うちは3LDKのアパートをみなし仮設として住んでるんだけど、下の階は県外から来た建築事務所で、リビングを事務所として使って、そのほかの部屋に社員が寝泊まりしているみたいよ。一軒家かアパートだったら事務所を借りるより安いし、寝泊まりもできるし、調理やお風呂も問題ないし、駅から徒歩圏内の駅北エリアには最近空き家も出てきはじめてるよ」

 ずっと「事務所を借りないといけない」と思いこんでいた私には、目からウロコなアイディアだった。

「それだ!」

 私はさっそく物件探しと、事務所の家賃をまかなえる助成金探しをはじめた。

 

岩元暁子(いわもと・あきこ)
日本ファンドレイジング協会 プログラム・ディレクター/石巻復興きずな新聞舎代表。1983年、神奈川県生まれ。2011年4月、東日本大震災の被災地・宮城県石巻市にボランティアとして入る。ピースボート災害ボランティアセンター職員としての「仮設きずな新聞」の活動を経て、支援者らと「石巻復興きずな新聞舎」を設立し、代表に就任。「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」を目標に、被災者の自立支援・コミュニティづくり支援に従事。2020年5月、石巻市内の仮設住宅解消を機に、新聞舎の活動を縮小し、日本ファンドレイジング協会に入局。現在は、同会で勤務しながら、個人として石巻での活動を継続している。石巻復興きずな新聞舎HP:http://www.kizuna-shinbun.org/