石巻「きずな新聞」の10年│第11回│震災から5年、「仮設きずな新聞」終刊へ│岩元暁子

石巻「きずな新聞」の10年 岩元暁子 石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

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第11回
震災から5年、「仮設きずな新聞」終刊へ

休養後、石巻にもどるまえに向かった先

 たっぷり10日ほど寝こんでぎっくり腰をほぼほぼ治した私は、石巻にもどるまえに、東京のピースボート災害ボランティアセンターの本部で、上司と代表理事と会うことになった。仮設きずな新聞の「今後」について話すためだ。

 当時は活動を地元に引き継ぐことが「善」とされていて、私たちも助成金を活用して文章講座や傾聴講座などを開催し、「地元の担い手育成」に注力していた。しかし、どんな講座をやっても、求人を出しても、きずな新聞の活動そのものをマルッと任せられるような人材は現れなかった。「メディアづくりに興味がある」人がいなかったわけではないが、きずな新聞はたんなるメディアではない。仮設住宅で暮らす方々の心に寄り添う新聞でなければいけない。

活動の担い手を育成するために開いた傾聴講座

 地元・石巻の人であっても、人口の9割は仮設住宅以外のところに住んでいるため、仮設住宅の課題は意外と知られていなかった。震災から5年たついまも仮設住宅に住んでいるのは「あまえている人たち」「かわいそうな気の毒な人たち」。そんなふうにしか思えないような人には、この活動は任せられないと思った。

 任せられる人が見つからない以上、だれかに「引き継ぐ」という選択肢はなく、このまま続けるのか、やめるのかを選択しなければならない。そのための話し合いだった。

限界にきていた負担

 私は当時、石巻で仮設きずな新聞の活動を続けることにかなりの負担を感じていた。常総での活動終了が近づいてきたとき、自分でもはっきりとそれが自覚できた。「石巻に帰りたくない。このまま難しいこと考えずに、常総で活動していたい」。目の前のことに集中せざるをえない緊急支援の現場は、現実逃避には最適だった。

 仮設きずな新聞の何が私にとってそんなに負担だったのか。まずひとつに、私は人間関係に疲れていた。当時、ピースボートは石巻で、仮設きずな新聞のほかに漁村の支援活動もしていたが、その担当者は「自分のプロジェクトさえうまくいけばいい」というスタンスで、初期からほかのメンバーとかなりハレーションを起こしていた。以前はほかにもたくさんのプロジェクトがあり、たくさんのチームがあったので、私が直接その担当者とやりあうことはなかったが、ここ一年はほかのプロジェクトが終了したりして、きずな新聞率いる私と漁村プロジェクトの彼とでぶつかることが多かった。

 また、私はチーム内にも爆弾を抱えていた。もっとも信頼すべき新聞配布をメインで担当するスタッフが、この時期、始業時間に来られなくなった。朝起きられないらしく、不機嫌な顔で遅刻してくる。話しかけても無視されたり、軽く注意すれば逆ギレされたり。原因として思い当たることは多々あって、たとえば、「毎月かならず連休をとって夫に会いに東京に行く」という私と違って、彼はほとんど休みをとらずに活動しており、つねに過労状態だった。そこに、なかよくしていた住民さんが亡くなったり、いろいろなことが重なり、彼は鬱っぽい状態になっていたのだと思う。そうでなくても住民さんと直接接することの多い彼は、悩みもストレスも人一倍多かっただろう。もっとうまく彼とかかわれればよかったのだが、私も自分自身のことで精一杯だった。東京にいる上司にも何度も相談したが、遠隔でのマネジメントには限界があった。

 人間関係以外にも不満はあった。活動をとおして、自分の成長が感じられなくなってきたこと。編集長になった当初は、台割をつくるのも、取材して記事を書くのも、紙面のレイアウトをするのも、毎回「やっとの思い」だった。これまでできなかったことができるようになることには興奮を覚えたし、達成感も大きかった。しかし、4年も新聞をつくりつづけていれば、もはや「目をつぶっていても新聞がつくれる」状態になってくる(じっさいには画面とにらめっこなので、目は酷使するのだが)。それでいて時間はそれなりにとられるので、新しいことにどんどん挑戦できるかというと、そんな余裕はない。仕事のやりがいがないとか、意義を感じないということではけっしてないのだが、たんにルーティンをこなすような日々に、少し飽き飽きしていた。

「仮設きずな新聞は廃刊にしよう」

 それらの不満を、私はうまく言語化できなかった。言ってもどうにもならないというあきらめと、そんなことも自分で対処できないのかという情けなさと……。そもそも自分のなかでもモヤモヤしていて、はっきりと自覚できていなかったのかもしれない。

 私は、仮設きずな新聞を続けていくことに前向きになれない理由を、「もっと東京で夫といっしょにいたい」ということばにかえて、上司と代表理事に伝えた。代表理事とは「結婚したら、月の半分は東京にいて(東京で仕事して)よい」という約束になっていたが、それは入籍後も結婚式後も実現しないままだった。「結婚したのだから、もっといっしょにいたい」という気持ちはもちろん嘘ではなかったが、それだけで大好きだったやりがいのある仕事をあきらめるほど、私は女のコでも家庭的でもなかった。心の奥底では、前述した環境によるストレスが大きかった。

 代表理事は「わかった」と言い、「正直、ピースボートとしてきずな新聞を続けていくことは難しいと思っている」と続けた。継続事業には助成金がつきにくいこと。助成金なしで活動を継続できる見込みはないこと。私が編集長を退いたあと、ほかにやれる人を見つけるのは至難であること。そしてなにより、震災から5年の節目となる2016年3月で、ピースボート災害ボランティアセンター(PBV)として、石巻での活動から撤退するつもりだ、と言った。そもそも、PBVは災害時の「緊急支援」をミッションとする団体だ。発災から5年がたつ石巻の支援は「緊急」とは言いがたい。それが撤退の理由だった。仮設きずな新聞は、2016年3月で廃刊にしよう——それがこの話し合いの結論だった。

 私は2013年3月、50号で休刊したときのことを思い出した。「ピースボートは仮設を見捨てるのか!」と怒鳴りこみにきた住民さんがいた。51号で再開したときには、それはそれは喜んでくれた。またあの住民さんたちを悲しませることになるのだろうか……。いつ仮設住宅を出られるのか、見通しの立っていない人たちも多いというのに……。

 仮設きずな新聞やボランティアとの交流を「心の拠り所」にしている住民さんたちのことを考えれば、いまここで仮設きずな新聞をやめるのは、けっしてよい選択ではないだろう。住民さんたちの、裏切られたような気持ちを想像して、私は心がぎゅうっとなった。けれど、自分の心も守らなければならない。ストレスフルな環境のなかで、私はほんとうに限界だった。

 煮えきらない私に、代表理事は「すべて上のせいにしていい」と言った。「仮設きずな新聞の廃刊は、あくまで団体としての決断。編集長が結婚したこととは関係がない。『どうしてきずな新聞をやめるんだ』と責める人がいたら、『自分も被害者なんだ(悪いのは上司だ)!』という顔をしていろ」。なんとなく納得がいかなかったが、私を守るために言ってくれているということは理解した。

終刊に向けた準備

 方針が決まったあとは、今後の進め方について話した。「廃刊」はことばがキツイので、「終刊」で統一すること。最後の新聞を出すときに「これが最後でした」ではショックを受けてしまう方が多そうなので、年明けの1月号の紙面で発表すること。定期的に記事の執筆や新聞配布に携わるボランティア、いわゆる「関係者」の方々には、12月から順次伝えていくこと。

 石巻にもどった私は、終刊に向けた準備をはじめた。気づけば、仮設きずな新聞の関係者は、そうとうな人数になっていた。記事の執筆を担う他団体のメンバー、定期的に新聞の配布に携わる県内外のボランティア、年に数回学生を新聞配布に送りだしてくれる首都圏の大学や高校、アンケートの入力作業などを担っていた不登校やひきこもりの若者をサポートする石巻の支援団体、夏ごろから一部エリアの新聞配布を担当してきた宗教法人。

 伝え方、ことばの選び方、伝える順番などにも配慮しながら伝えていくのはたいへんだったが、これまでかかわり、支えてきてくれたことへの感謝をこめて、一人ひとりと向きあった。

 ピースボートが石巻から撤退すること。

 それにともない、仮設きずな新聞も終刊になること。

 住民さんたちには、1月号の紙面で伝えること。

 ことばにすると、とてもシンプルだ。

 この決定の裏にある私の個人的な事情については、もちろんことばにしなかった。嘘をついているような、隠しごとをしているような気がして、毎回心がチクチクした。

「そっか。残念だね」

 ——そうなの。残念なの。

「でも、しかたないね。もう5年だもんね」

 ——そうなの。しかたないの。

「5年間も、よくがんばってくれたね。地元民として、感謝するよ」

 ——いえいえ、こちらこそ、いままでありがとう。

 そんな想定内のやりとりを何度かくり返し、年末を迎えた。

いつもと変わらない人たちを前に

 年末年始は、夫のジョーといっしょに石巻で過ごすことになっていた。年内最後の新聞配布に、夫を連れていった。しばらくまえから私が新聞配布を担当していた小さな団地で、運転免許のない私でもひとりで行ける、数少ない電車が通っている団地だった。

 常総支援以来、行けていなかったので、「忘れられているかも……」という心配をヨソに、訪問する家、訪問する家で「あんた、よく来たね〜! 常総でがんばってたんだね〜!」と声をかけられ、つぎつぎと食べものを渡される。缶コーヒー、パン、畑でとれた白菜に大根、なかには「あげるものがない!」と言って、いまスーパーで買ってきた卵を1パック渡してくださる方もいた。「いやいや、お正月の準備に使うんでしょう?」と言って断ろうとしても、「お願いだから持っていって!」とかたくなに渡してくる。「両手がいっぱいで持って帰れない」と言うと、車でまちなかまで送ってくれた。

 食べものをいただきすぎたことはともかくとして、みなさんの気持ちがほんとうにうれしかった。同時に、つぎの新聞で年度末での終刊について書くことがつらかった。こんなにも仮設きずな新聞を愛してくれる人たちを、私はこれから裏切るのだ。

 そのようすを見ていたジョーが、「ほんとうは続けたいんじゃない?」と言った。

「住民さん、こんなに新聞を楽しみにして、感謝してくれて。ほんとうはやめたくないんじゃない?」

「……でも、続けられない……」

「もしたとえば、暁子がこれからボランティアとして、たまーに新聞を発行するって言うんなら、手伝うよ。年に3回くらいなら出せるんじゃない?」

「……つくれると思うけど、つくっても配れなかったら、意味ない……」

「まあ、そこはなんとかするとして」

 プロの物書きであるジョーが手伝ってくれるのであれば、新聞の発行はだいぶラクになるだろう。年に3回くらいならアリなのかもしれない。いや、しかし……。

「おれ、編集後記、書いちゃおっかな〜」とウキウキしているジョーを横目に考えた。

 ここで流されては50号の休刊のときと同じだ。住民さんの「続けてほしい」「やめないでほしい」にはもう流されないつもりだった。そう、そのつもりだった——。

石巻で迎えた2016年の年明け。日和山の鹿島御児神社にて

 

岩元暁子(いわもと・あきこ)
日本ファンドレイジング協会 プログラム・ディレクター/石巻復興きずな新聞舎代表。1983年、神奈川県生まれ。2011年4月、東日本大震災の被災地・宮城県石巻市にボランティアとして入る。ピースボート災害ボランティアセンター職員としての「仮設きずな新聞」の活動を経て、支援者らと「石巻復興きずな新聞舎」を設立し、代表に就任。「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」を目標に、被災者の自立支援・コミュニティづくり支援に従事。2020年5月、石巻市内の仮設住宅解消を機に、新聞舎の活動を縮小し、日本ファンドレイジング協会に入局。現在は、同会で勤務しながら、個人として石巻での活動を継続している。石巻復興きずな新聞舎HP:http://www.kizuna-shinbun.org/