石巻「きずな新聞」の10年│第3回│「仮設きずな新聞」の記者になった│岩元暁子

石巻「きずな新聞」の10年 岩元暁子 石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

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第3回
「仮設きずな新聞」の記者になった

乗り気でなかった記者の仕事

「あきちゃんに、『仮設きずな新聞』の記者をやってほしいんだけど」。工場支援も落ち着いてきた2011年11月下旬頃、私はピースボートの現地責任者から、そう伝えられた。

 仮設きずな新聞は、ピースボートが石巻市内の仮設住宅向けに発行する無料情報紙。石巻市内で避難所が解消し、希望する人がすべて仮設住宅に入居した2011年10月に創刊した。仮設住宅の方々に必要な情報をお届けすると同時に、ボランティアが1軒1軒手渡しで配布することで、引きこもりや孤独死の防止をめざす活動だ。

 被災地では、震災前から避難所、避難所から仮設住宅、仮設住宅から災害公営住宅に移る過程で、コミュニティが3回崩壊するといわれる。それはすなわち、仮設住宅や災害公営住宅が孤立しやすい環境であることを意味する。阪神淡路大震災のときには、仮設住宅での孤独死が233件、災害公営住宅での孤独死が1000件以上あったという。

 新聞は創刊当初は週刊だったが、制作を担うのは長期ボランティアがひとりという状況だった。そこで、バックアップとして、元IT企業勤務でPCが得意であろう私に声がかかったというわけだ。

 正直、ものすごくイヤだった。それまで携わっていた工場支援の活動は、作業こそたいへんだったが、たくさんのパワーがもらえる幸せな活動だった。再建をめざして奮闘する社長や社員の方々と深くかかわり、これまで感じたことのないくらい「私、生きてる!」という実感があった。それが記者になったら……毎日パソコンと格闘?! そんなのぜったいイヤ!!

 私はなんとかして工場支援の活動を長引かせようと画策したが、ヘドロにまみれた機械も缶詰もパレットも、すべて洗いおわり、ボランティアが手伝えるような作業はすべて終わってしまった。仮設きずな新聞の記者がイヤなら横浜に帰るしかない。私は覚悟を決めて仮設支援チームに移籍し、「まずは現場を知るため」ということで、12月下旬、短期のボランティアたちとともに新聞配布に参加した。

はじめての取材は雄勝町の獅子振り

 その新聞配布中に出会ったのが、石巻市がつちょうの出身で、獅子振りをやっている佐藤ひとしさんだった。「獅子も太鼓も流されたが、こんど隣の部落(集落のこと)から獅子頭を借りて振るんだ」。その瞳の輝きに思わず引きこまれ、気づけば取材を申し込んでいた。

 雄勝町は石巻市内でも被害のもっとも大きかった地区のひとつで、中心部から車で45分ほど離れたところにある。2011年6月にはじめて雄勝町に行ったときには、その光景にことばを失った。3階建ての病院の屋上に避難した人たちの命をも奪ったという津波は、文字通り、町のすべてを流しさっていた。2階建ての公民館の屋上には、津波で流された観光バスが残されている。行きかう人も車もほとんどなく、海も町も静寂そのもの。雄勝総合支所にひとつだけ設置されていた仮設トイレは、扉を開けた瞬間に何百というハエがいっせいに飛びあがった。雄勝に行く日は、トイレに行かなくてすむように水分補給を控えた。

 雄勝町は典型的なリアス式海岸で、平地が少なく、仮設住宅を建てられる場所がほとんどなかった。そのため、家を流された多くの雄勝町民は、石巻の中心部の仮設住宅に入居せざるをえず、震災前は約4300人だった人口は約1000人にまで減っていた。

 そんな絶望感の漂う町で、獅子を振る。そのことの意味を考えながら、雄勝に車を走らせた(正確には、私は運転免許がないので、長期ボランティアのひとりに休みをとってもらい、車で連れていってもらった)。この日、1月8日は、福引きができる商店街の恒例行事が催され、そこに集まるたくさんの人に演舞を見てもらうということだった。

 まちの中心部にあるプレハブの仮設商店街「雄勝たなこ屋街」に到着すると、均さんが笑顔で迎えてくれた。車から太鼓や獅子を下ろして準備する人たちのなかには、子どもの姿もある。10代から80代まで幅広い世代が集う、獅子振りチーム「さくどうばやあいこうれん」だ。

「針岡(となりの集落)の獅子は重たいから、うまく振れるかどうか」ということばとは裏腹に、均さんの表情には気合がみなぎっていた。「メンバーはみんな、仮設暮らし。集まって練習できる場所もないので、ぶっつけ本番。でもなんとか雄勝のためにと集まった。ほかのだれでもない、雄勝に頼まれたのだから、やらなきゃない」。

太鼓を打ち鳴らす佐藤均さん

この事実を多くの人たちに伝えたい

 気温0度の冷たい風が吹きつけるなか、100人ほどの観客に見守られて、おはやしがスタート。羽根子(獅子を怒らせる役)の動きにあわせてじょじょに激しさを増す2頭の獅子の舞をファインダー越しに見ながら、私は目頭が熱くなるのを感じた。腹に響く太鼓と軽快な笛の音、ぶっつけ本番とは思えない息のあった獅子の動き、そろいの法被も流されて衣装はマチマチだけれど、みんなの心はひとつだった。

「伝えたい。伝えなきゃ」。心から、そう思った。すべてを流されても、故郷のために、みんなのためにとがんばる人がいる。その事実を、ひとりでも多くの人たちに伝えたいと思った。

 終演後、真っ白な息を吐きながら肩で息をしている均さんに駆けより、「感動しました」と伝えると、均さんは「まだまだこんなもんじゃないよ」と言った。「来月には、新しい獅子頭が寄贈されるから、こんどは自分たちの獅子でもっといい獅子振りをお見せしますよ!」。となりの集落から借りてきた獅子ではなく、「自分たちの獅子」にこだわりがあることがうかがえる。

 もう少しくわしくお話を聞こうと思ったところ、私はいつのまにか愛交連メンバーにぐるりととり囲まれていた。私がひとつ質問すると、みんながいっせいに思い思いに発言する。味噌作(均さんたちの集落)の獅子頭がどれほどかっこいいものだったか、それが流されてどれだけくやしいか、太鼓のリズムや笛の旋律がほかの集落のものとどう違うか、躍動感あふれる獅子の舞にするためのくふう、味噌作愛好連は若手の育成にも熱心に取り組んでいること、日本財団の文化継承の助成金で太鼓や獅子頭を寄贈してもらえたこと、練習場所どころか寄贈された太鼓や笛を保管する場所もなくて苦労していること……。みんなが同時にしゃべりだすので、私はその勢いに圧倒され、だれに相槌を打っていいのか迷いながら、半分ほどしか聞きとれない慣れない石巻弁に必死に食らいついていった。

 取材って、もっと迷惑がられたり、面倒くさがられたりするものかと思ったけれど……みんな、すごくうれしそう? その理由はもう少しあとになってから理解できた。

息をあわせて2頭の獅子が躍動する

取材を受けてくれた理由

 こうしてはじめての取材を終えた私は、その後、数日間かけてA3両面版の新聞を完成させた(これまで編集長をやっていた長期ボランティアが1週間地元に帰ることになっていたので、私は初回からひとりで新聞を完成させなくてはならなかった)。いったいどこをどう切りとって伝えたら、あの獅子振りのすばらしさが伝わるのだろうか。あれもこれも書きたいけれど、あれもこれも書くと、結局何も伝わらなくなってくる。来る日も来る日も悩み考え、新聞が完成したのは、印刷する日の午前4時ごろだった。前職でもよく徹夜することはあったが、こんなに充実感のある徹夜ははじめてだった。

 数日後、完成した新聞とプリントした写真を持って、均さんに会いにいった。均さんは何度も何度も「うれしい。ありがとう」と言い、震災当時の自分の経験を話してくれた。均さんは震災当日、仕事で青森にいた。自宅は雄勝の少し高台にあり、まさか自宅まで津波は来ないだろうと信じていた。しかし、雄勝にもどってみると、まちは見る影もなかった。そんななか、車のトランクから獅子振りのときに着る法被が見つかった。「これはなんとしても獅子振りを再開させなきゃない」。均さんはそう誓ったという。

 絶望のなかからの復活。それは均さんや愛交連のみなさんの復活というだけではない。大好きな雄勝の復活の象徴でもあった。その過程をことばにし、多くの人の目に触れるかたちにして残してもらえたことが、なによりもうれしかったのだ。メンバーのみなさんが、あの日私に一生懸命伝えてくれた理由が、少しわかった気がした。

はじめて手がけた「仮設きずな新聞」第14号

心に灯をともし、きずなをつなぐという役割

 すぐにつぎの新聞をつくりはじめなければならないので、新聞配布にはあまり参加できなかったが、参加したときはよく「みんな、がんばっているんだねえ。私もがんばらなくちゃ」と、新聞を眺めながら話す住民さんに出会った。地域のためにがんばる人がいる。そして、その姿に勇気をもらう人がいる。「自分もがんばろう」と決意を新たにする人がいる。その循環をつくることが、仮設きずな新聞の役割なのかもしれないと気づいた。

 こうして仮設きずな新聞の記者になった私は、つぎつぎとネタを見つけてきては取材し、新しいコーナーも考案していった。仮設住宅のせまいキッチンで調理できる簡単レシピコーナー「わっぱかクッキング」(「わっぱか」は石巻弁で「ちゃちゃっとできる」という意味)、再開したお店を紹介する「まちの耳より情報」「店舗再開物語」、仮設住宅の名物おじいちゃんや看板娘を紹介する「団地におじゃまします!」、趣味や生きがいになるような習いごとやサークル活動を紹介する「始めてみませんか?」、プレハブ仮設住宅の住みこなし術をまとめた寒さ対策・暑さ対策・カビ対策などなど。

 日々まちを歩き、人と話し、どんな情報をお届けしたら仮設住宅の住民さんが元気な気持ちになれるだろうか、仮設から一歩出てくれるだろうかと想像しながら、記事を書いた。石巻弁のリスニングにはなかなか苦戦したが、インタビューの録音を何度も聞きなおした。新聞づくりにかかわるようになるまで、まともな文章を書いた経験はなかったので、ことばひとつ選ぶのも苦労して、徹夜することもしばしばだったが、苦にはならなかった。この新聞が、この情報が、住民さんたちの心に灯をともせるかもしれない、きずなをつなぐかもしれない。そう思えば、なんでもがんばれた。あんなに記者になるのがイヤだったのに。何事もやってみなければわからない。

震災後初の3.11、どんな情報を届けるか

 そうこうしているうちに、3月が近づいてきた。震災からはじめての3.11。季節の移ろいは、いやおうなしにあの日を思い出させる。石巻の人たちは、雪が降れば「あの日も雪が降ってね」と話し、星空を見上げれば「あの日も星がきれいだった」と話すようになった。そのことばの裏には、「あの日」を迎えることへの不安、いや恐怖にも似た気持ちが見え隠れしていた。

「阪神淡路大震災から丸1年を迎えるとき、1月17日をどこでどう過ごすのが正解なのかわからなくて、気が狂いそうだった。あなた、新聞書いてるのだったら、3.11に開催される追悼行事の情報をまとめて発信してみなさい」。夏にかかわっていた避難所支援で出会った、神戸から来た支援者の女性と冬に再会したとき、こう言われた。なるほど、たしかにさまざまな地域で開催される追悼行事の情報をお届けするのはいいかもしれない。持ち帰って、仮設支援チームのみんなに提案してみた。

 賛成してもらえるかと思いきや、予想外の大反対にあった。理由は「震災を思い出したくない人もいるから」。配布チームとしては、3.11前後もできるだけ特別感を出さずに活動したい、ということだった。その気持ちはわからなくもないが、一方で私は「どこでどう過ごしたらいいのか……」と追いつめられている人がきっと少なくないだろうと想像し、やはりどうしても情報を届けたかった。大切な日だからこそ、納得のいく時間を過ごしてほしい。なつかしいだれかと涙や笑顔を共有したり、抱きあって再会を喜んだり、たがいをねぎらったりする時間を、どうかもってほしい。そんな情報を届けることが、仮設きずな新聞の使命だと思えた。

 しかし、配布チームは最後まで首を縦に振ることはなかった。そこで折衷案として、追悼行事の情報は紙面そのものには掲載せず、別紙に印刷し、新聞にはさみこむという手段をとった。戸別訪問をするボランティアが「この住民さんには、震災のことを思い出させないほうがいい」と判断すれば、別紙を抜きとって新聞だけを渡すことができる。私はさまざまなつてをたどって、3.11前後に開催される避難所の同窓会や、市民による追悼行事の情報を集め、A4サイズの紙にまとめた。

情報は、行動を変え、気持ちを変え、未来を変える

 そして迎えた、2012年3月11日。私は夏に自分が避難所の支援に入っていた小学校を訪れた。当時避難していた住民さんたちが、小学校の体育館で追悼式典&お茶っこ会を主催していた。小さな祭壇で手をあわせ、避難所での楽しい思い出の写真や全国から寄せられたメッセージを眺めて、当時をふり返る。夜にはキャンドルを並べて、ともに祈り、語った。

 たまたま同じテーブルに座った女性の手元を見ると、なんと私のつくった追悼行事情報の紙を手にしている。「その紙……?」と私が聞くと、「仮設住宅で、新聞といっしょに配られていたんです。仮設にいるとなかなか情報がなくて、今日のこの会もこの新聞で知って。ここに来たら、たいへんな時期を過ごしたみんなと、いっしょに祈れるかなあと思って……」。

 その瞬間、「ああ、まちがっていなかった!」と安堵した。私が書いている新聞は、あの日、死にたいほどつらい経験をした人たちが読む新聞だ。ことばの選び方ひとつで、もしかしたら自殺してしまう人がいるかもしれない。そんなプレッシャーをつねに感じていた。だから、追悼行事の情報も、ほんとうに掲載してよかったのか、自信がもてないでいた。けれど、こうしてじっさいにその情報を頼りに、この場所に足を運んでくれた人と出会い、笑顔で再会を喜びあう人たちの姿を見て、これでよかったのだと心底ほっとした。情報は人の行動を変え、人の気持ちを変え、未来を変える力をもつ。そのことを強く実感した。

2012年3月11日に開かれた石巻3.11市民追悼の会のようす
思い出の写真に見入る人たちの姿もあった

 あんなになりたくなかった記者だが、その後、ピースボートのスタッフになり、仮設きずな新聞の編集長になり、私は「天職だ」と思うようになった。取材をとおして、震災に負けずに前を向く人たちと出会い、紙面をとおして、悲しみを乗りこえて今日を懸命に生きる人たちと出会った。こんなにやりがいのある仕事はなかった。まさかこの情熱が10年続くとは、もちろん想像もしていなかったが。

……

◎仮設きずな新聞は下記の国立国会図書館のサイトで読むことができます。

 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10382448

 

岩元暁子(いわもと・あきこ)
日本ファンドレイジング協会 プログラム・ディレクター/石巻復興きずな新聞舎代表。1983年、神奈川県生まれ。2011年4月、東日本大震災の被災地・宮城県石巻市にボランティアとして入る。ピースボート災害ボランティアセンター職員としての「仮設きずな新聞」の活動を経て、支援者らと「石巻復興きずな新聞舎」を設立し、代表に就任。「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」を目標に、被災者の自立支援・コミュニティづくり支援に従事。2020年5月、石巻市内の仮設住宅解消を機に、新聞舎の活動を縮小し、日本ファンドレイジング協会に入局。現在は、同会で勤務しながら、個人として石巻での活動を継続している。石巻復興きずな新聞舎HP:http://www.kizuna-shinbun.org/