他人と生きるための社会学キーワード|第6回|BF大学|津多成輔

リレー連載 他人と生きるための社会学キーワード 毎号、ひとつのキーワードから「問題を考えつづける」ための視点を伝えます。社会学者から若い人へのメッセージ

ひとつのキーワードから「問題を考えつづける」ための視点を伝えます。社会学者から若い人へのメッセージ。

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BF大学
大衆化した大学教育に求められるもの

津多成輔

 2000年代初頭に「分数ができない大学生」が話題となったが、現在の大学では、かつての大学のイメージとは異なる状況がみられる。BF(ボーダー・フリー)と呼ばれる大学の一部では、出席管理や義務教育レベルの授業内容の講義、保護者面談などがおこなわれており、その内容はむしろ中学校や高校に近いものがあるように感じられる。このようなBF大学にはどのような教育的価値があるのだろうか。

 たしかに日本では、人口のおよそ4分の1が大卒者であることから、大学は一部の優秀な人びとが通うところというイメージなのかもしれない。この前提で考えれば、分数の計算やbe動詞といった内容の講義をおこなう大学は不必要だと感じる人がいるのは当然のことである。事実、BF大学と称される大学の一部においては、学力や学習意欲が低い学生が在籍している場合もあり、かつての大学のイメージからすれば、遠く離れた現状がある。

 ただ、BF大学と呼ばれる大学においても、それらすべての大学で「名前を書けば入学できる」というわけではない。そもそもBF(ボーダー・フリー)とは、受験用語である。ボーダーは一般的に合格率が50%となる偏差値帯のことを指すため、BFとは、合格率が50%となるボーダーラインがどの偏差値帯においても存在しないことを意味する。具体的には、志願者が募集定員とほぼ変わらないため、どの偏差値でも合格率が50%を超える状況がBFに該当する。ゆえに、かならずしも定員割れしているとはいえず、BF大学と呼ばれる大学であっても名前さえ書けばだれでも入学できるわけではない。

 BF大学についてもう少し詳しくみていくと、なにも在籍する学生の偏差値が低いとは限らない。どういうことか。まずひとつは、芸術系などの志望する学生が少ない学部ではBFとなる場合がある。もうひとつは、地方圏の一部の大学である。近年の若者の地元志向の高まりから、大学進学においても家から通える大学が重視される傾向があるが、地方圏では家から通える大学に限りがあり、家から通えることを前提として進学する場合には偏差値によらずBF大学に入学する可能性もある。

 これらをふまえると、BF大学とひと口にいっても、そこに在籍する学生は多様であり、BF大学だからといって、すべての学生が学力や意欲のない学生とはいいきれないということがわかってくる。「BF大学だから……」という言葉を用いてすることが、レッテルを貼りかねないことには気をつけたいものである。

 さて、そうはいっても、その割合がどの程度かはべつとして、現実として分数のできない大学生がいるのは事実であろう。はたして、これらに対してかつての大学教育のレベルではないという批判は真っ当だろうか。

「大学全入時代」と呼ばれるように、現在の高校卒業後の4年制大学進学率は50%を超えており、2人に1人が大学に通う時代になっている。この数字からみても、端的にいって大学教育が少数のエリートのための教育ではなくなっていることは明らかである。考えてみれば当然のことで、多くの人が大学に通うようになれば、そこでおこなわれる教育もまた多様にならざるをえない。大学が小学校、中学校、高校を経た先の学校であることを前提にすれば、知識をはじめとするさまざまな能力に差があるのもまた当然なのである。つまり、分数のできない大学生の登場も、教育が大衆化したことの象徴ととらえることができる。そう考えれば、かつての大学教育のレベルではないという批判はお門違いであろう。むしろ大学教育は、目の前の学生を4年間でいかに伸ばすことができるかということについて、その質を問うていく必要がある。

 また、大学や専門学校などの高校卒業後に通う学校が、高校までの学校と大きく異なるのは、学部や学科が多様に存在することであろう。高校までは学習指導要領が定めているように必修科目が存在し、必修科目についてはすべての生徒が原則として履修することになる。いいかえれば、すべての人にとって共通に必要な教育をおこなっていると解釈できる。一方で、大学や専門学校などのカリキュラムは多様で、基本的には学部や学科の選択によってそれぞれが履修する科目が決まっていく。とくに4年制大学においては学年があがるにつれて、それぞれの興味関心に応じて専門科目を選び履修していく割合が多くなるのが一般的である。このことはじつは、大学や専門学校をはじめとする高等教育の役割にたち返れば当然のことである。どういうことかというと、それぞれの職の専門性が高くなり分業化が進んだ現代の社会をふまえると、大学は専門的な知識や技術について教育することで、高校までとは異なりより高い専門性を身につけた人材を社会に対して供給することが必要となるからである。

 このように考えれば、大学および学部や学科はそれぞれの学びたい、身につけたい内容によって選択されるものであると考えるのが本来の姿であろう。いいかえれば、大学を偏差値で序列化し一定の偏差値以下の大学をBF大学と称することはナンセンスであるように思える。たしかに、かつての日本においては大学に入ること(よい大学に入ること)がよりよい就職につながってきたが、現在では採用する側の企業も過去に比べれば大学名で採用することは少なくなっているし、大学も多様な入試形態で入学試験をおこなっており、偏差値による序列化は弱まりつつある。大学のあり方を考えるうえで大事なことは、偏差値によって人をタテに並べることができるかどうかではなく、大学教育が個々の選択に応じていかに能力を伸ばすことができるかということを問うていくことだろう。

 時代とともに大学は変化している。いまや2人に1人が4年制大学に通っており、短大や専門学校を含めれば約8割が高校卒業後になんらかの学校に通っている時代である。それにともない、私たちは大学の役割に対する認識も変化させる必要がある。勉強ができる人だけが勉強する権利があるというのは、もはや過去の価値観である。そもそも大学をはじめとする高等教育を受ける権利は国際人権規約によって万人に保障されなければならないとされているし、お金を生みだすことだけが教育の目的ではない。勉強ができるできないにかかわらず、教育が必要になったら学びたい人が学びたいときに学べる、そういう意味で垣根のない、BF(ボーダー・フリー)大学になるというのもひとつの未来かもしれない。


■ブックガイド──その先を知りたい人へ
小川洋『消えゆく「限界大学」』白水社、2016年
岡田昭人『教育の機会均等』学文社、2013年
矢野眞和『大学の条件』東京大学出版会、2015年

 

津多成輔(つだ・せいすけ)
島根大学教育学部講師。筑波大学大学院博士課程人間総合科学研究科ヒューマン・ケア科学専攻在学中。専門分野:教育社会学、共生社会学、進路研究、高等教育研究。
主要著作:
『教育社会学』共著、ミネルヴァ書房、2018年
『「共生」を実現する教育の実証的研究』共編著、筑波大学共生教育社会学研究室、2018年
「大学の都市部集中と大学進学機会」単著、『日本高校教育学会年報』第24号、2017年