石巻「きずな新聞」の10年│第1回│2011年4月、私は石巻と出会った│岩元暁子

石巻「きずな新聞」の10年 岩元暁子 石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

第1回
2011年4月、私は石巻と出会った

 毎年、重たい春の雪が降るころになると、なんとなく心がざわざわしてくる。3月11日が近づいていることを実感するからだ。とくに今年は10年がたつということもあり、ざわざわが例年の5割増し。気を抜くと、涙がこぼれ落ちそうな感じ。

 私は、震災の翌月、東日本大震災の被災地・宮城県石巻市に支援に入り、それから昨年5月までの約9年間を石巻で過ごした。私自身は被災していないが、あの震災を経験した石巻の人たちとともに時間を過ごすうちに、石巻の人たちが3.11前に感じる心のざわざわが、自分のもののように感じられるようになった。

 避難所、浜、工場、仮設住宅——。刻々と変化する状況とニーズにあわせて、活動の場所も内容もどんどん変化する。私が編集長を務める石巻復興きずな新聞も、多くの変化を経てきた。

 あの日から10年。いま自分が立っているところを見てみると、ずいぶん遠いところまで来たなぁと感じる。けれど、あの日から歩いてきた道は、途切れることなく、今日まで一本につながっているのだ。その途上には、私の人生や価値観をガラリと変える出会いが、いくつもあった。この連載では、震災からの10年をふり返り、当時の活動のようすと、そこで出会った人たちについて伝えていきたい。

あの日、私は東京にいて、無力だった

 東日本大震災が起きた2011年3月11日、私は東京にいた。「これからは社会貢献を仕事にしたい」と、新卒で入った会社を前年に退職し、青年海外協力隊を志して勉強をはじめたころだった。

 震災と原発事故、その後に起きた計画停電により、すべての予定やイベントはキャンセルになり、私は自宅でひたすらテレビを見ているしかなかった。

「人って、こんなかんたんに死んでいいんだっけ……?」

 CMのたびに増えていく死者行方不明者数のテロップを見ながら、そんなことを思った。現地には、いまも寒さに打ちひしがれている人たちもいるだろうと思うと、ヒーターをつける気にもなれず、寒い部屋で布団をかぶって、一日中テレビとTwitterを眺めていた。

 たまたま自衛隊や消防士や医療関係の友人がいて、「仲間の派遣を見送った」とか「いつ自分が派遣されることになってもだいじょうぶなように準備をしておこう」などと発信していた。直接命を救うことのできるスキルをもつかれらの、なんと尊いことか。対して、自分は? 人の命を救うようなスキルどころか、運転免許すら持っていない自分を呪った。

 なんの罪もない2万人もの人たちが一瞬のうちに命を落としたというのに、私はいったいどうして生きているのだろう。サバイバーズ・ギルト(生存者の罪悪感)と無力感を同時に感じながら、自分に誓った。

「なんのスキルももたない私でも、被災地の役に立てる日が来たら、かならずボランティアにいこう」

そして、その日は意外と早くやって来た。

覚悟が決まらないまま被災地支援のメンバーに

 2011年4月上旬、私は災害支援団体「ピースボート災害ボランティアセンター」が主催するボランティア説明会に参加した。会場には200名ほどいただろうか。冒頭15分ほど、スタッフが写真を見せながら現地の状況を説明してくれた。

・ピースボートはもっとも被害が大きい地域のひとつ、宮城県石巻市を拠点に活動していること。
・現在は、現地のニーズにあわせ、支援物資倉庫の管理、炊き出し、泥かきの活動を中心におこなっていること。ボランティアは活動を選べないこと。
・ボランティアは石巻専修大学のグランドにテントを張って生活すること。
・1週間分の水、食料、テント、寝袋、その他活動に必要なアイテムはすべて自分で用意すること。
・1週間お風呂に入れないこと。
・現地ではまだ余震が頻繁に続いており、津波警報が出ることもあること。
・チームでの活動が基本であり、自分勝手な行動は許されず、期間中は禁酒であること。

 ひととおり説明が終わったあと、スタッフの方はこう言った。

「体力に自信のない人は、いますぐ帰ってください。現地に行くことだけが支援ではありません。東京で支援物資の仕分けをするボランティアなどもあります。はっきり言って、体力のない人は現地に迷惑をかけるでしょう。ボランティアは自己完結。それが全うできる人だけ、ここに残ってください」

 横浜から会場のある東京・幡ヶ谷まで、片道1時間半かけて説明会にきたのに、まさか15分で「帰ってください」と言われるとは思わなかった。じっさい、何人もの人が席を立ち、会場を出ていった。中学以来、文化系の部活にしか所属したことがなく、テントを張ったことも寝袋で寝たこともないインドア派の私は、はっきり言って体力にはまったく自信がなかった。しかし、立ち上がって帰る勇気もなかった。

「では、いま残っているみなさんは来週の金曜出発のバスで石巻に行く、PBボランティア第5陣です。いいですね?」

 ふつうならここで覚悟を決めるものかも知れないが、私はそうではなかった。「とりあえず最後まで説明会には出て、やっぱり無理だと思ったらやめたらいい。だってボランティアだし、べつにやめてもだいじょうぶだよね……」。そんな甘い気持ちがあったことをここで告白しよう。

気づいたら、ほかの人を説得していた

 その後はチーム分けがあり、私たちのチームは男3、女2の5人チームになった。全員が20代で、初・災害支援ボランティア。なんとなく気が合いそうで、ほっとした。社会人1年目のフミくんと大学4年生のメグは、なんとそれぞれ愛知県と岡山県から夜行バスで来ていた。

 チームリーダーを決める段になって、ひとつ年上のヨシくんが私をリーダーに推薦してきた。「いやいやいや、私、いざとなったら行くのやめようと思っているんですけれど……」と内心思いながらも、そうことばにするわけにもいかず、結局リーダーを引き受けることになった。

 テントや食料などの持ちものの分担を決め、連絡先を交換して、その日は解散。それから1週間、荷物の相談などで毎日連絡をとりあいながら、出発の日を迎えた。準備を進めながらも、私はまだ心のどこかで「無理だと思ったらやめたらいい」と思っていた。だって、ボランティアだし。

 ところが、出発の3日前、大学生のメグから「ボランティアにいけないかも知れない」と連絡がきた。聞けば、就職活動の面接が重なってしまったという。電話口で「ボランティアにいきたい……」と泣きながら話すメグに、私は説得をはじめた。

「事情を話して、面接の日を変えてもらえないか聞いてみたら? ボランティアにいきたいって説明すれば、きっとわかってくれるよ。私もメグといっしょに活動したいから」

いやいやいや、いざとなったら行くのやめようと思ってたくせに、なに人を説得しているんだよ?! 自分で自分にツッコミを入れつつ、このときさすがに覚悟を決めた。「もうこれは、行くしかない」。メグも受けている会社に事情を説明し、面接の日を変えてもらうことができ、私たちは大きなピンクのバスに乗って石巻へ出発した。

「ボランティアは自己完結」

 よく、「どうして石巻で活動しようと思ったんですか?」と聞かれるのだが、震災前、私は石巻には縁もゆかりもなかったし、「石巻」を選んだわけではない。たまたまピースボートが活動していたのが石巻だった。それだけ。

 ただ、石巻は選んでいないが、「ピースボート」は選んだ。じつは当時、私はピースボート以外にもいくつかの災害支援団体を見つけていて、問い合わせをしたりしていた。そのどれもが、ピースボートよりも条件が緩かった。「避難所に住みこみで活動するから、テントは不要」「炊き出しがメインなので、食料は持参しなくてOK」など。正直、それらにはとても心惹かれたが、私には、ピースボートの説明会で言われた「ボランティアは自己完結」ということばがとても心に残った。「被災された方々の寝る場所、食べるものが最優先。迷惑ボランティアにならないために、必要なものはすべて自分で用意してから現地に向かうこと」。それはとても厳しいけれど、とても正しく、真実だと思った。

日和山から見た光景を忘れない

 4月23日。約180名のPBボラ第5陣を乗せた5台のピンクバスは、石巻専修大学に到着した。小雨の降るなか、荷物を下ろし、グランドにテントを張ったあと、車で町の中心部に連れていかれた。初日から泥かきをするものと思っていたが、今日は雨のため作業は中止だという。

「かわりに、これから日和山に登ります」。なんでも、私たちが泥かきをする中心部は、川をあふれた津波によって浸水したエリアだが、日和山に登ると、津波の直撃を受けた全壊地区が見渡せるという。「ふだん、ボランティアのみなさんは日和山には連れていっていません。私たちはこの町の復興を1mmでも前に進めるためのボランティアとして来ているのであって、物見遊山に被災地に来ているのではないし、地元の方のなかには被災の大きかったエリアを眺めるボランティアの姿を見て傷つく方もいます。ですが、今日は雨で作業ができないので、特別にみなさんを日和山に連れていきます。ビブスを脱いで、ついてきてください」。

 ビブスを脱いでも、ヤッケに長靴、ゴーグル、防塵マスク、ヘルメットという恰好では、ボランティアであることは一目瞭然なのだが、せめてもの気遣いになるのならと、ビブスを脱いで坂道を登った。

 あの日見た日和山からの光景を、私は生涯忘れないだろう。満開の桜。静かな海。そして、眼下に広がる見渡すかぎりの瓦礫——。テレビでたくさん見てきたはずの景色なのに、自分の目で直接見るのはぜんぜん違っていた。静かに流れた涙を、雨が隠してくれた。でも、ほんとうに悲しいのは私ではない。悲しいのは、ここで家族を奪われた人たちであり、家や財産や思い出の数々を奪われた人たちだ。1週間、もうぜったいに泣かないと心に決めた。

日和山から眺めた石巻の町(2011年4月)


全身筋肉痛に厳しい寒さ、支援活動の現実

 翌日から泥かきがはじまった。ヘドロを土嚢袋に入れ、袋の口を閉じて、一輪車に乗せ、仮置き場まで運ぶ。水分をたくさんふくんだヘドロはとても重たく、土嚢袋に詰めるのも運ぶのも、見た目よりずっとたいへんだった。翌々日には全身に筋肉痛がきて、朝は起き上がることができないくらいだった。

 はじめてのテント暮らしにも手を焼いた。4月の石巻はとても寒く、私たちが行く数日前には雪が降ったほど。疲れているはずなのに、朝4時には寒さで目が覚め、その後は頭のなかが「寒い、寒い、寒い……」でいっぱいになり、寝られないほどだった。また、翌日着る服を用意しておこうとカバンから出しておいたら、夜のあいだにテントが結露して、起きたら服がびっしょり……ということもあった(アウトドア好きな人からすれば、あたりまえのことかもしれないが)。

 お風呂には入れないので、毎日ウェットシートで体を拭く。本格的な登山をやっている友人に、毎日体を拭くことで精神的によい状態が保てることを聞いていたので、寝るまえの儀式にした。髪は粉塵でキシキシのバリバリになった。頭皮が脂ぎってくるのは、つねに帽子をかぶっておくことで凌いだ。

 食事は、朝夕はカセットコンロでお湯を沸かしてレトルトのごはんやインスタント麺を調理し、昼は作業現場で食べるほかないので、カロリーメイトなどですませた。石巻専修大学のテント村には、「ボランティアを支援するボランティア」が集まっていて、温かい豚汁などをふるまっていただいたときもあった。仲間と食べる温かい食事が、どれだけQOLを上げ、精神的にもよい効果をもたらすか。このときの経験は、のちにほかの被災地で炊き出しの調整に入ったときに役立った。

 大学構内に入ることはできなかったため、トイレはテント村内に建てられた仮設トイレを使った。はじめて夜にトイレに行ったとき、扉を閉めたら真っ暗になった。「え! 仮設トイレって電気ないの?!(当然か……)」。ポケットに入っていた携帯電話の灯りで扉を開けようとするが、肝心の取っ手の文字が「PU××」と消えかかっていて、「PUSH(押す)」なのか「PULL(引く)」なのかわからない……! あせってガチャガチャやっていると、突然扉が開き、外に転げ落ちた。以来、私は四六時中、首から懐中電灯を下げることにした。

 被害を受けた町の中心部は、乾いたヘドロが風で舞い、ときに前が見えないほどの粉塵となっていた。健康被害を防ぐため、作業中はもちろん、それ以外の時間もできるだけマスクをするように言われていたが、防塵マスクは苦しくて長いあいだつけていられなかったし、第一、声が出せないと作業に支障が出る。ついついはずしてしまい、みんなじょじょにのどをやられ、夜にはあちこちのテントから咳が聞こえた。

 けっしてらくな生活ではなかったが、「これで1mmでも復興が進むのなら」と思っていた。なにより、仲間といっしょだから乗り越えられたのだと思う。

ピースボートボランティアのメンバーと(手前左が筆者)


ここで帰るわけにはいかない

 1週間の活動予定期間の半分が過ぎたころ、朝礼で延長を募るアナウンスがあった。翌週はゴールデンウィーク。700名ものボランティアが来る予定だという。1週間、ここでの生活と活動を知っている先輩ボランティアの私たちは、新入りボランティアたちにいろいろ教えてあげてほしい、というわけだ。

 なんせ直前まで「無理だと思ったらやめたらいい」と考えていた私だ。1週間以上も滞在しようとは考えてもみなかった。しかし、心配していた生活面のたいへんさはなんとかなりそうだし、もともとゴールデンウィークは休むつもりでほとんど予定も入れていなかった。なかでも、毎朝、朝礼でラジオ体操することと、すれ違うときに「おつかれさまです!」と声をかけあうテント村の雰囲気がとても気持ちよかったことが決め手となり、私はもう1週間残ることにした。

 もうひとつ、理由を挙げるとすれば——。私はボランティアにいくまえ、「こんなにたいへんな思いをして1週間もボランティアをしたら、すごくえらいんじゃないか」と思っていた。しかし、じっさいに現地に来てみて、その被害を目の当たりにすると、1週間のボランティアなんて、まったくすごくもえらくもなかった。

 全身筋肉痛になって、大の大人が15人がかりで泥かきしても、1軒の家すら1日で終わらなかった。こんな建物が石巻じゅうにあとどれだけあるのか。被害は石巻だけじゃない。岩手も福島も被災していることを考えると、「1週間ボランティア」なんて無に等しい。1週間活動して、作業のコツも少しわかってきたところだ。ここで帰るわけにはいかない。

家も漁船も、津波はすべてを飲みこんだ


1週間でも、経験者は経験者

 そんなわけで、翌週からは6人×6チームをまとめるリーダーになった。任されたのは、まえの週までやっていた家屋の泥かきではなく、側溝に詰まったヘドロをとり除く作業。毎日地図を片手に町中を歩いて、つぎに作業すべき側溝を地図に書きこみ、必要な資機材をそろえたり、作業人数を決めたりする役割を担った。たった1週間だが、経験者は経験者。少しは役に立てるかと思っていたが、これまた甘かった。

 6陣のボランティアたちは、ゴールデンウィークにあわせてボランティアに来るぐらいなので、ほとんどが会社員=まっとうな人たちだった。ど平日にボランティアに参加した5陣のメンバーはよくも悪くも「変人」が多く、そのぶん柔軟に動けるところがあったが、6陣のメンバーはとにかく真面目で効率重視。

「重機を入れたほうが何倍も早いのに、どうして人力でこんな作業をするのか」
「資機材が足りないから待ち時間が多くて効率が悪い。もっと資機材を用意してほしい」
「やっとボランティアに来られたのだから、もっと必要な作業をさせてほしい。側溝清掃になんの意味があるのか」

 重機も資機材も、足りていれば苦労はないけれど、現実問題、足りないからこそマンパワーが必要だ。たしかに、明日重機の応援は来るかもしれないし、来たら1時間で終わる作業かも知れない。そんな作業を5人10人でまる1日かけておこなうことは、無意味と思えるかもしれない。でも、来週も再来週も、重機は来ないかもしれない。それはだれにもわからない。もし、いま大雨が降ったら、側溝という側溝にヘドロが詰まったこの町は、また冠水してしまう。せっかくきれいになりはじめた家屋がまた浸水してしまう。そうしたら、またこの町で暮らそうと避難所からもどってきた人たちが、これから生きていく気力を失ってしまうかもしれない。少しでも希望の灯りをともしつづけるために、いま目の前にある「できること」に全力を尽くそう。

 いまならそう伝えられると思う。しかし、当時の私は何もことばをもっていなかった。そもそも、かれらよりたった1週間早く来たというだけで、私も同じボランティアだ。「そんなこと、私に言われても……」ということばが何度ものどまで出かかったが、ぐっと飲みこんで、涙をこらえた。

側溝のヘドロの除去作業


役に立ちたくてここに来たんだ

 2、3日たったころ、あるチームのリーダーから「炊き出しのチームにかえてほしいという女性がいるのだが、変更できるのか?」と聞かれた。「説明会のときに作業内容は選べないと聞かされていないのか?」と思いつつ、スタッフに確認してみたが「無理」、以上。リーダーに伝えたが、「自分は説明できない」ということで、私が本人と話をすることになった。

 折れそうなくらい細くて華奢な女性だった。力がないので、ほかのメンバーのように泥かきをしたり、土嚢袋を運んだりすることができず、「足を引っぱっているのでは」と泣きながら話す。役に立ちたくてここに来たんだ、ということがひしひしと伝わってきた。

 私は、自分もまったく体力には自信がなくてここに来た、という話をした。ふだんから運動もしていないし、全身筋肉痛で、テントのなかで動けなくなったことも。しかし、力仕事ばかりが活動ではない。私は、時計を見ながら適宜休憩を呼びかけたり、メンバーが下を向いて泥かきに夢中になっているあいだ、まわりの安全に目を配ったり、車が近づいてきたら声をかけたりして、みんなが安全に作業できるように気をつけた。また、土嚢袋の口を閉じる作業は器用さが求められるが、それはだれよりも早く上手に閉じられるようになった。これらの作業は力は必要ないが、とても大切な活動だ。力がなくても、あなたが被災地のため、チームのためにできることはかならずあるよ。そう伝えて、彼女をテントに見送った。

 翌日、町の一角に通常より細い側溝が見つかった。幅がせまいので、大きなスコップは入らない。園芸用の小さなシャベルで、地道にヘドロをとり除いていくしかない。ここで彼女は大活躍を見せた。細い路地にしゃがみこみ、黙々と作業して、ヘドロをキレイにとり除いた。体の大きな男性にはなかなかできない作業だ。「私にもできることはありました!」。彼女はまぶしい笑顔でそう言った。


故郷が被災するということ

 こうして1週間の延長ボランティアも終え、私は帰路につくことにした。ピンクバスに乗って新宿へ向かい、そこからは電車で横浜の実家に帰った。最寄駅を降りて、自分の育った街を見たとき、思わず涙が出た。安心感からではない。どちらかと言えば、違和感だ。

 ここはヘドロのにおいがしない。粉塵が舞っていない。瓦礫の山がない。車が転がっていない。あたりまえだ。ここは被災地ではないのだから。しかし、それが違和感として感じられるくらい、私はたった2週間で、あの環境を完全に自分のなかに受け入れていた。そして、あらためて「故郷が被災する」ということを受け入れることが、どれだけつらく悲しいことかを知った。ただのヘドロでも、ただの瓦礫でもない。私が戦っていたのは、石巻の人たちの大切な故郷をめちゃくちゃにした津波の残骸だったのだ。またかならず石巻に行こうと決めた。

筆者が2週間を過ごした石巻。左手中央の建物は旧・門脇小学校の校舎
(2011年5月、遠藤和秀氏撮影)

 

岩元暁子(いわもと・あきこ)
日本ファンドレイジング協会 プログラム・ディレクター/石巻復興きずな新聞舎代表。1983年、神奈川県生まれ。2011年4月、東日本大震災の被災地・宮城県石巻市にボランティアとして入る。ピースボート災害ボランティアセンター職員としての「仮設きずな新聞」の活動を経て、支援者らと「石巻復興きずな新聞舎」を設立し、代表に就任。「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」を目標に、被災者の自立支援・コミュニティづくり支援に従事。2020年5月、石巻市内の仮設住宅解消を機に、新聞舎の活動を縮小し、日本ファンドレイジング協会に入局。現在は、同会で勤務しながら、個人として石巻での活動を継続している。石巻復興きずな新聞舎HP:http://www.kizuna-shinbun.org/