他人と生きるための社会学キーワード|第12回|学校の社会的機能|岡本智周

リレー連載 他人と生きるための社会学キーワード 毎号、ひとつのキーワードから「問題を考えつづける」ための視点を伝えます。社会学者から若い人へのメッセージ

ひとつのキーワードから「問題を考えつづける」ための視点を伝えます。社会学者から若い人へのメッセージ。

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学校の社会的機能
知識は他人と共有するからこそ意味がある

岡本智周

 いまの日本社会で、人はなぜ勉強をしているのだろう。

 小学校での勉強から始まって、多くの人たちが高校まで勉強の時間を継続している。その間、自分自身で興味をもって何かをじっくり勉強した人もいるだろう。物事を調べたり考えたり、わかったりすることを大切にしている人もいるだろう。だが一方で、私たちの日常には、中間試験に期末試験、上の段階の学校に上がるための入学試験と、自分の外側から勉強をうながしてくるものの存在にも事欠かない。それらに突き動かされて勉強してきたのが実際だ、という面も強いかもしれない。

 さらに、少なからぬ人たちが大学に進学する時代でもある。そのための入学試験がまた存在する。細やかな知識を頭に入れて、それらをタイムリーに提示できるように努める。限られた入学者の枠内に入るためのものであるから、ある知識についてたんに理解ができているだけではすまされない。ほかの受験者に比べて「よりよく」理解していることを示さなければならない。すべての努力は合格という目標に向けられる。

 そうなるとどうしても、学ぶのは試験なるものがあるから、ということになる。逆に言えば、試験がなければあえてしようとも思わないのが、現代社会における勉強なのかもしれない。自分にとっての最終的な試験が終わってしまえば、それまでに得た知識を維持しよう、その後も学びつづけようという欲が生じなくなるのは当然のことかもしれない。

 現代社会における学びというものは、試験でよい点数を得るための、あるいは希望する学校への関門を通過するための、「手段」としての性質をもっていることになる。

 たとえば、「三角関数はわからなかったけれど数列のほうで点数がとれたからよかった」とか、「アジア史には時間がかけられなかったからそのぶんをアメリカ史で挽回しよう」といったようなことを口にするとき、その「数列」や「アメリカ史」は、得点ができるがゆえの価値をもつものとなっている。反対に「三角関数」や「アジア史」は、得点が見込めないことで、それに振りむけられる学びの動機を小さくされたといえるだろう。

 そのように言われる「三角関数」や「アジア史」の中身とは、私たちにとっていったい何なのだろうか。知っておくべしと自分の外側から突きつけられるものであり、その価値は自分の内にではなく外にある。自分の頭のなかにその情報を収めることの理由や意味を、自分の内側には積極的に見出せないことになる。

 もちろん、あらゆる知識や情報は当初は個々人の外側にあるのであって、それをだれかにあてがわれて学習することは自然である。ただ、その内容が自分の内側にある意味や価値と結びつかなければ、その知識や情報はいつまでたってもその人自身になじむものとはならないだろう。

 そうした知識や情報を「記号」と呼ぶこともできる。現在の学習において、私たちがもし学びの対象を記号としてしかとらえていないのだとすれば、試験や選抜のさいに問われることは、かならずしも「その」事柄でなくてもよいことになるだろう。なにか別の、クイズのようなものであってもよいことになるし、競い合いならば逆立ちや階段の上り下りのような動作であってもよいことになる。個々人にとって、学びの対象が「なんでもよい」のであれば、選抜のプロセスはそれ自体が巨大なゲームでしかないということになってしまう。知識や情報は、そのゲームで活用するためのツールでしかなくなる。

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 教育社会学では、学校の社会的機能(=学校が社会のなかで果たしている作用・役割)の主要な側面として、「社会化」と「選抜・配分」を重視している。

 「社会化」とは、社会の成員として必要になる知識や行動様式を学習者に身につけさせる作用である。私たちがふだん何気なく人の集まりのなかで過ごすことができるのは、その集団のなかでの関わり方を支える文化、すなわち価値や規範というものを、自分の内側に取り込んでいるからである。そしてなにより、社会は人びとが知識や行動様式を理解し共有することによって、かろうじて、しかし当たりまえのように回りつづけているのである。

 学校の社会的機能のもうひとつの重要な側面である「選抜・配分」とは、社会の成員を選り分け、それぞれを社会のなかの適切な位置に割りあてていく作用である。近代以前では人の身分は生まれながらに決められていたが、現在の社会では地位の獲得や形成が、成員の資質や適性に委ねられることになっている。一人ひとりの人間をそのような観点から社会のなかに振り分けていくことが、学校が果たす役割ということになる。

 勉強がなにか別のことのための「手段」と化している現実は、この学校の選抜・配分の作用のみが突出して社会のなかで重視された結果だといえるだろう。そもそも、ある社会的地位はそれを望むすべての人の数だけ用意されているわけでもない。必然的に、特定の地位をめぐる競争が生じることになる。選抜・配分の作用が素朴な適材適所への人の配置といったイメージとはほど遠いものになるのはそれが理由である。何をどう学んだか、という社会化の内実が問われることなく、「記号」となった知識を所有しているか否かが大きな意味をもつようになったのが、選抜・配分の機能が強化された社会である。

 学校教育で提供される知識や情報は、なによりもその内容が理解され意味を帯びることが意図されているのだが、それを学び知ることが地位獲得という「実績」に結びつく社会に私たちは生きてしまっている。目の前にあるのが私たちの社会を支えている知識であったとしても、それを通して社会の全体をとらえたり細部を深く理解したりすることよりも、それを「所有」することを重視し、選抜のゲームを進める「手段」にしてしまうのである。

 たとえば、ある人が社会の実情――格差や不平等、差別や人権問題――について学んだとしても、その学んだという事実をもって、その人自身は選抜での高い評価を得て、学歴や学校歴というものを上昇させていく。そこには「内容よりも形式が意味をもつ」作用が存在し、現実的には、問題状況――不平等を経験する現場――とは直接には関わらない社会空間を生きることになっていく。学びが他人事にしかならないことには、そのようなパラドキシカルな仕組みによるところも大きいのだろう。

 近年は家庭の経済的条件に由来する「教育格差」の問題や、大学入試改革の欠陥がさかんに議論されている。公平な教育機会や公正な学習評価が重要であることは言うまでもないが、そのもとでおこなわれるのが実質的な知識習得とかけ離れた形式的な記号の提示の競いであったのでは、教育というシステムの総体はさらに目的を見失うだけだろう。機会がそろえられ選抜が妥当におこなわれた以上、その結果は当人の能力と努力を正当に反映したものだ、とする自己責任論を呼び込むことにもなる。

 しかしそうは言っても社会の仕組みは変わりそうになく、個々人が働きかけることも少ない。ならば、知識の習得が地位獲得の「手段」となる仕組みが強化された社会でなお個々人にできることは、自分自身が何を学びその知識や情報をだれと共有していることになるのかを、正面から問い直してみることだろう。序列化されたスコアや相対化された評価とは異なる視角から自分の学びの意味をとらえ直してみることだろう。その知識や情報によって自分が結びついている具体的な他者やモノ・コトが見えてくれば、人びとの知識の共有によって私たちの社会が実際に回っていることにも、気づくことができるはずである。

(リレー連載第1期・完)


■ブックガイド──その先を知りたい人へ
マイケル・サンデル『実力も運のうち――能力主義は正義か?』鬼澤忍訳、早川書房、2021年
飯田浩之・岡本智周編『教育社会学』ミネルヴァ書房、2018年
日本教育社会学会編『教育社会学事典』丸善出版、2018年

*編集部注──本連載の第1期はこれで終了いたします。来春より第2期がスタートします。

 

岡本智周(おかもと・ともちか)
早稲田大学文学学術院教授。早稲田大学大学院文学研究科社会学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門分野:教育社会学、共生社会学、ナショナリズム研究、社会意識研究。
主要著作:
『国民史の変貌』日本評論社、2001年
『共生社会とナショナルヒストリー』勁草書房、2013年
『「ゆとり」批判はどうつくられたのか』共著、太郎次郎社エディタス、2014年
『共生の社会学』共編著、太郎次郎社エディタス、2016年
『教育と社会』共著、学文社、2021年