アイドルとのつきあいかた│第11回│現場で演じ合うことでしか成立しない関係│ロマン優光

アイドルとのつきあいかた ロマン優光 ろまん ゆうこう 〈不健全な疑似恋愛関係〉から〈健全な共犯関係へ〉──これからのアイドルとオタクの関係性を考察します。

〈不健全な疑似恋愛関係〉から〈健全な共犯関係へ〉──これからのアイドルとオタクの関係性を考察します。

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第11回
現場で演じ合うことでしか成立しない関係

 この連載も残すところ2回。編集者から、「最後にあなた自身のオタクとしてのスタンスについて語ってほしい」という要望があった。改めてそう言われると、とくに「自分はこうだ」と主張してみたいこともないことに気づき、若干困惑気味である。自分がアイドルオタクとしてこだわっていることなど「MIXは汚ければ汚いほどいい」ぐらいのものなのだから。汚いほうが音源のトラックに混ざりやすい、音響の一部として機能しやすい。とはいえ、自分が意識していないでも、何かについての反応に内面的なものが反映されている場合も多々あるわけで、そのような事柄をいくつか振り返ることで、オタクとしての自分のスタンスを読みとっていただきたいと思う。

この人はもう
アイドルではない

 あるアイドルオタク(女性)から、推し(女性アイドル)に「あなたしか好きでない、ほかのオタクとかどうでもいい」と接触のときに言われたことをきっかけに他界してしまったという話を聞いたことがある。この話をどういうふうに解釈するかで、その人のアイドルオタクとしての資質、アイドルオタクとしてのスタンスがわかりやすく表出されてくると思う。

「なぜ、そんなに好かれているのに他界してしまうの?」と考える人もいるだろう。たんに「そこまで言ってくれるなんてうれしいことなんだから、素直に喜べばいいのに」と考える人は善良だと思う。善良ではあるけれど、「アイドル」という存在じたいについて深く考えることがないタイプの人でもあるようにも感じられる。また、のんきに「俺だったら、そのまま繋がるのに。もったいないな」というふうに考える人もいるだろう。繋がりを目的とする観点からなら、そういうふうな感想になるだろう。それはそれで無邪気な話だと思う。そういえば、このオタク女性の場合、同性どうしのなかでの発言ではあるが、狭義の意味での繋がり(恋愛関係的なもの)も成立するということも考えていいことではある。

「その現場ではもうやることはないだろうから、他界もしかたがない」というふうに思う人もいるかもしれない。もし、このように解釈する人がいるとしたら、アイドル現場の主体がアイドルではなく自分のほうに完全にある人だろう。その推しのなかで一番の存在であるというトロフィーを獲得してしまえば、その場に用がなくなってしまうという、戦果を得るための場所としてしかアイドル現場をとらえていない人だ。こじらせている人ではあるので、独自の視点を持ち合わせていそうなタイプの人ではあるが、対アイドルとの関係の構築に関する考察に比重をおいているタイプの人だろう。

 先述のオタク女性はどのように解釈したのか?それは「そんなことを言ってしまったら、この人はもうアイドルではない」というものであった。そして、自分もそういうふうに感じる。それはどういうことなのか?

 オタクは「アイドル」という存在を見るために、「アイドル」という存在と接するために現場に通っている。アイドルは自分のやっていることにプライドをもって愛していてほしいし、自分の現場やファンを愛していてほしい。それが「あなたしか好きでない」とみずから口にだすことは、アイドルとしての役割を放棄してしまっているのではないか?

「一番好き」なら、また話は違うだろう。アイドルとして愛している多くのもののなかで「一番好き」と言われるのはうれしいことだろう。しかし、「あなたしか好きでない」なら、べつにアイドルをやってなくていいのではないか。それはアイドルではなく、ただのふつうの人だ。アイドルとオタクとしての関係性のなかで最高を求めているのに、相手にアイドルから降りられてしまったら、関係性を維持することはできない。たとえ、リップサービスだとしても、そういう安易なやり方をしてしまうのであれば、アイドルとして偶することはできなくなる。

 そう言わざるをえないぐらいツラい環境にあるというアイドル側の事情があるケースだって考えられなくはない。ただ、たとえ過酷な環境にあっても彼女がやるべきことは、アイドルとしているべき現場でアイドルとしての立場を利用しながら、同時にアイドルとしての「責務」を放棄して目の前の人間の歓心を誘うことではなく、そのグループを辞めることだ。それに、このケースはいたって平凡な現場で起こった話であるので、そういった例も当てはまらない。オタクを釣ることに傾きすぎて、相手が何を求めて現場にいるのかわからなくなったというだけのことではないのだろうか。

 アイドルであることを放棄されたら、何のために現場に通っているのか意味がなくなってしまう。たとえ人としても好意をもつようになっていたとしても、アイドルとオタクという関係が維持できなくなってしまう以上、他界してしまうというのは感覚的にはよくわかるのである。

 残酷なことかもしれないが、その人がアイドルであることによって成立している関係性は、その人がアイドルでなくなったときに消えるものだ。

 それはじっさいにアイドル活動をしているかどうかということともまた違う話でもある。引退したとしても「私はあの人たちのアイドルであった」という意識を心のどこかにもって振る舞いつづければ関係は継続するし、活動をしていても、「この人は自分にとってアイドルではない」と思われたら関係は解消される。もちろん、それは原則論であって、相手がアイドルでなくなったあとの関係のあり方も、それまでの個々の体験の蓄積によって千差万別なのだが、ここでとりあげたケースはロールプレイしている役割以上の絆が形成されていないのに一方が降りてしまったという話なのだと思う。


オタクはルパンで
アイドルもルパン

 オタクがよく忘れがちなことだが、アイドルとオタクは基本的にただの他人である。たがいのほんらいのプライベートな空間では親しくなることはおろか、接することさえないであろう者どうしが、アイドル現場という特殊な空間のなかでアイドルとオタクという役割をたがいに演じることでかかわり合う特殊な関係だ。アイドルがアイドルを辞めてしまったら、その関係は喪失する。アイドルの引退後もアイドルとオタクとの関係性を双方が維持している例(よい例も悪い例もあるが)もあるが、基本的にはアイドルがアイドルでなくなったときに関係性はなくなるものだ。

 オタクはアイドルの家族でも友だちでもない。

 宮崎駿の『ルパン三世 カリオストロの城』で、ルパンとクラリスは特殊な環境のなかで相思相愛であるかのような関係性をもつが、事態が解決し特殊な環境が消えてしまった時点でルパンは去っていく。ふたりの関係性はあくまで特殊な環境のなかで生まれたものであり、それが消え去ったあとのふつうの日々のなかで消えていくものでしかない。あの特別な日々のなかではルパンは素敵なおじさまとしての姿を維持できるが、それが終われば汚れた中年犯罪者としての真実の姿を白日の下に晒すしかなくなってしまう。だからこそ、ルパンは去らざるをえない。ただ、あのときのふたりの気持ちは本物だし、そのことじたいは色褪せることはない。

 アイドルとオタクの関係性はこれに似ていると思っている。そして、オタクがルパンの立場なのは言うまでもないことだが、ある意味、アイドルもルパンの立場でもある。

 この演じているということは、嘘偽りを見せているということではない。与えられた立場、選びとった立場で、自分のなかの最良の要素で表現していくということだ。

 逆に日常のなかではマイナスでしかない要素がアイドルとしては最高の要素であったりもする。日常生活のなかで近くにいられたら厄介だったり、めんどくさかったりするような自我の強さや、こじらせた自意識、極度な変わり者ぶりが、「アイドル」という場ではひじょうに魅力的に映る場合も多々ある。本人がかかえている生きづらさ、それじたいが全肯定される場だ。いままで自分の人生にかかわりのなかった人たちに自分の存在意義を認めてもらえる。少なくとも、ひとりかふたりには。そこで得られる自己肯定感をどのように咀嚼できるかで、その後の人生が変わっていくというのはあるが、たんに環境に対する依存になってしまう例も多く、その環境が失われることで自己肯定感をなくす人も多い。

 できれば、アイドルをやっていたことに価値があるのではなく、そこで他人を幸せな気持ちにすることができた自分自身に価値があると思ってほしい。

ふつうでない人に
出会いたい

 地下アイドルが引退しても、コンカフェ(コンセプト・カフェの略。メイド喫茶と同じ業態であるが、とくにメイドというコンセプトに限らずに営業している店も増えており、それらを表すための名称と考えれば、さほど遠くないだろう)や TikToker、YouTuber、被写体モデル、自撮り界隈のようなSNS上での活動といったふうに、ある種の緩衝地帯めいた領域で活動するとことが多くなり、辞めたからといって完全に姿を消してしまうわけではないという例が多くなっている。

 コンカフェというのは、現役地下アイドルのバイト先でもあり、アイドルをめざす子のいる場所でも、アイドルを辞めた子のいる場所でも、アイドルではなくてコンカフェのキャストとしてバイトするのがいい人のいる場所でもある。そういう雑多な女の子たちを眺め、会話する場所がコンカフェだ。女の子と接する時間の長さ、それにかかる費用で考えればアイドル現場の接触よりも、はるかにコスパがいい。それゆえに、接触に重きをおいていたアイドルオタクが、コンカフェのオタクにシフトチェンジする例も多く見られる。

 一方で現役アイドルの推しが働いていたり、アイドルを辞めた推しが働いていたりするのに、現場では熱心でもコンカフェには足をあまり向けないオタクもいる。そういう人はステージに比重が高いというか、ステージ上の推しの姿があって関係性が初めて成立するタイプなのだろう。コンカフェのオタクはコンカフェのオタク、アイドルオタクはアイドルオタクであって、両方の資質をもつオタクが多いからといってかならずしも同じわけではない。 

 また、元アイドルの立場の人たちに対する気持ちを考えると、アイドルとして見ていた姿ではない部分を知って失望することを恐れる気持ちがある人もいるだろう。

 現場で会っていたころも、コンカフェで会うようになっても、道端で偶然出くわしても、ぜんぜん印象が変わらない人もいるが、そういう人はまれなのでは。アイドルとしてふたたびステージに立つことを忘れていない人、いい思い出としてアイドルを終わることができたうえでアイドルに未練がない人はべつにかまわない。前者はアイドルとしての自分を脳内において振る舞うし、後者は気持ち的にはふっきれているし、アイドル時代のことは大切にしているから。そうではなくて、アイドル時代に未練はあるけど自分はふたたびアイドルになれないと思っているような人やアイドルじたいに嫌な思いをいだいて辞めた人がツラい存在になりがちだ。

 腐っている推しには会いたくないし、過去の自分自身のやっていたことを全否定しているような推しには会いたくないものである。

 ちなみに自分は、推しや元推しのいる店にごくたまに行ったり、その子のライブに行くよりコンカフェに行く回数が多いような子もいたり、いいかげんな感じでコンカフェと接している。コンカフェで働いているのを知っているものの、まったく店に行かないこともあるのだけれど、SNSでいまの様子を見て「この感じは悲しくなるから行けないな…」と感じるような子もいるし、昔とかわらない様子にうれしく思いながらも「ぜんぜん変わってないし、ぜったいにシャンパンとか入れさせられそうになる…シャンパン入れる金あるなら現場たくさん行ける…」と思って行かない子もいていろいろだ。

 自分はたまに「自分のことしか考えてなくてひどいし、いろいろとでたらめだけど、アイドルに関する情熱だけは本物」みたいな異常な人を推して、「あの子の何がいいんですか?」と聞かれることがある。それは自分がアイドルに対してふつうの人でない人、ふつうに生きていたら出会えないような何かを持っている人を求めているからなのだけれど、アイドルとオタクという関係性以外で会うのは大変だろうなという人も多く、コンカフェの距離感というか飲み屋と客の関係性で会いたくない人もいたりもするのである。でも、たまにステージに立つときはできるだけ行くようにしている。アイドルとしては自分にとって最高なのだから。

 コンカフェのキャストになった元アイドルの推しにシャンパンを入れにいくことが応援であり、オタクとしての忠誠心とするならば、自分は忠誠心などまったくない自己中心的でDD体質(複数のアイドルを推すこと)のオタクなのであろうなと思う。


想いをつくるのは
「場」の記憶

 オタクを続けていると、好きだったグループの方向性が変わってしまったり、辞めた推しが別のグループで復帰したりすることが増えてくる。また現場の環境じたいが変わって現場に馴染めなくなってしまうこともある。

 そうなると、自分は他界してしまうタイプの人間だ。どんなに推していたとしても、楽曲が好きになれなかったり、その場にいることがストレスになってしまうようだと行かなくなる。それはしかたがないことだと思う。逆に自分が好きでない感じに変わってしまった現場に運営の文句を言いつづけながら通ったり、楽しくないのに推しに対する執着だけで現場に通っていたりすると、周囲に不快な感じを与えるだけだと思う。条件が変われば関係性も変わる。そのことを受け入れずに過去に執着しつづけていても、いやな雰囲気を撒き散らして結局は推しに不快な想いをさせるだけだ。個々の出来事について意見を言うのではなく、推し以外の全体に対する文句しかでなくなるようになったらおしまいだ。そうなるまえに距離をとるべきだと思う。

 アイドルとオタクの関係は、あくまで演者とファンの関係でしかないのだから、自分の考えを押しつけることは許されないし、逆に自分が楽しめなくなったらいなくなればいいだけだ。

 アイドルに対する想いというのは、ステージや楽曲込みの「場」の記憶によって成り立っているものだ。そして、それは単純な好き嫌いとも違う。

 推しが好きでないタイプの楽曲のグループに移ることで他界する一方で、楽曲は好きでないのに人がおもしろすぎて見ているうちに楽曲まで好きになったりもする。そうやって見ていた人が、ほんらいであれば自分の好きなタイプの楽曲をやるグループで新しく活動を始めたから、より好きになるかというと、しっくりこなかったりもする。原則としては、メンバー、楽曲、現場の雰囲気をふくめた「場」の空気によってアイドルに対する気持ちは成立するものなのだ。

 どういうグループで活動しても同じ空気、自分が大好きな空気をつくりだすようなアイドルもやっぱりいて、そういう人をなんだかんだで継続して見つづけられることもあるのは幸せなことだなと思う。

 

ロマン優光(ろまん・ゆうこう)
1972年高知県生まれ。ソロパンクユニット「プンクボイ」で音楽デビューしたのち、友人であった掟ポルシェとともに、ニューウェイヴバンド「ロマンポルシェ。」を結成。ディレイ担当。WEBサイト「ブッチNEWS」でコラム「ロマン優光のさよなら、くまさん」を隔週連載中。
著書に『90年代サブカルの呪い』『SNSは権力に忠実なバカだらけ』『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』『日本人の99.9%はバカ』(いずれもコア新書)、『音楽家残酷物語』(ひよこ書房)。