他人と生きるための社会学キーワード|第7回(第2期)|マミートラック──両立支援の一歩先|笹野悦子

リレー連載 他人と生きるための社会学キーワード 毎号、ひとつのキーワードから「問題を考えつづける」ための視点を伝えます。社会学者から若い人へのメッセージ

毎回、ひとつのキーワードから「問題を考えつづける」ための視点を伝えます。社会学者から若い人へのメッセージ。

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マミートラック
両立支援の一歩先

笹野悦子

 人生設計を考えるうえで、仕事についてどのように考えるだろう。40代での職業キャリア、60代での職業上の成果などを考えるだろうか。だが、現在でも女性たちは、「子どもができたら仕事はどうしよう」と考える場合が少なくないのではないだろうか。この問いは男性にはない問いであろう。子どもを育てながら仕事を続けられるのか、パートナーは「協力」してくれるのか、職場は対応しているのか、いまでも女性たちは「女性の問題」として悩む。そして自分の仕事のキャリアについてはなかなか思い描けないのではないだろうか。

 数のうえからみると、既婚女性たちの就業率は著しく増加した。いまや共働き世帯数は1503万世帯で、専業主婦世帯の2倍以上にのぼる。とりわけ母親たちの就業増加はめざましく、18歳未満の子どもの母親の4分の3、ゼロ歳児の母親でも半数は仕事をしている(2019年「国民生活基礎調査」)。また、2010年代前半には、出産をはさんで約4割の母親は仕事を継続している(「第15回出生動向基本調査」)。育休復帰後についても、育児時間取得、短時間勤務、時間外労働などの制限、子の看護休暇制度などが定められている。法律の制定を含めて出産後の就業継続と、育児と仕事の両立が図りやすいよう、母親に配慮した就業環境が整えられており、女性が育児をしながら就業を継続する道が開いた。

 しかし、女性に「配慮した」支援による就業継続は、同時に、責任の軽減、職業上の教育訓練参加の免除や逸失を生じる。これは職場での配置転換や昇進など仕事上の評価上昇を困難にするという「ガラスの天井」を生みだす。そして仕事そのもののやりがいを蝕み、将来的にキャリア形成を難しくするというディレンマを生む。こうして子を育てる母親への両立支援策は、就業継続を可能にしつつ、同時にそれを可能にする特有のキャリアコースを歩ませることになり、評価や待遇の向上につながるキャリア形成を困難にする。これを「マミートラック」と呼ぶ。陸上競技の短距離走で走者がわりあてられたトラックを走ってゴールするしかないことになぞらえた呼称である。岩田正美・大沢真知子らの調査によると、育休を取得して出産後就業継続した母親の3分の2は、その後離職しているという2010年代前半のデータもある。離職理由には「仕事に希望が持てなかった」「ほかにやりたい仕事があった」が上がっており、マミートラック上で職業キャリアを積み上げていくことの困難が示される。

 母親たちの労働市場への参加増加と「マミートラック」というディレンマの背景には何があるのか、考えてみよう。女性の労働市場参加をうながしてきた理路は二つ考えられる。一つは労働力人材確保という市場側の論理に基づいており、もう一つは働き方のジェンダー平等をうながし、社会正義を追求する理路である。

 市場側の理路は、新自由主義的政策とあいまって少子化対策の一環として、生産力増大のために出生数増加と労働力確保をめざして展開された。女性が子を産み育て、かつ労働市場への参加を可能にする両立支援策である。育児介護休業法は保育所の利用数を大幅に増やし、働く母親は増加しつづけている。

 一方、両立支援策におけるジェンダー平等の理念は影が薄い。法文の育児の主体は「男女」であるものの、支援の対象には母親が想定されている。たとえば「男女雇用機会均等法」第二条(基本的理念)には「労働者が性別により差別されることなく、また、女性労働者にあつては母性を尊重されつつ……」と謳われ、女性は第一義的に母親であることが前提とされている。出産だけでなく育児までもを一連の営みとして女性を「母性」とみなしていく発想が根底にある。職業責任と家庭責任におけるジェンダー平等の追求という発想ではなく、(標準的な男性に比べて)特殊な女性労働者、母親の就労支援が第一義となっている。これがマミートラックと呼ばれる女性特有のキャリアコースを生みだしているのである。

 マミートラックの罠を解く鍵はどこにあるのだろうか。

 一つには「男性」について考えてみたい。マミートラックは名前が示すように「母」の問題、「女性」の問題とみなされている。父親たちは妻をマミートラックに残して、家庭では大黒柱として稼得責任を負い、職場では競争と過重労働にさらされつつキャリアを形成する。そして職場の内外で発言力を持ち、経済力を獲得し、指導力を発揮していく。マミートラックはこうして社会的権力を持つ男性たちが悪気なく母親たちを配慮した両立支援策によって作りだしたのだ。だとすれば、マミートラックは「女性の問題」というよりは「男性の問題」と考えられるだろう。

 父親たちは大きな社会的な力を得るが、そのコストとして長時間労働をしのぎ、育児から距離をおかざるをえない。彼らもまた選択肢はないのだ。育休を取得する父親は1割強に過ぎず、その4割弱が5日以内の取得にとどまっている。その理由には休業補償の少なさによる収入減のほか、職場の多忙や迷惑になるという心配、人事評価への不安があげられる。また、妻が育休を取得するため自分は必要ない、と考える夫も一定数いる。父親たちは子の出生当初から自分の子どもを自分で育てる仕組みから切り離され、あるいはみずからそれをないことにしてすませ、または「イクメン」として特別枠で参加するのみである。少なくとも「ダディートラック」ともいうべき育児をする父のキャリア形成に関する概念は存在していない。有職の保護者が家庭責任を担いうる制度と職場環境、少なくとも育児が「損」にならない仕組みがあれば、男性の人生の多様な選択を可能にする径路は開かれる。ジェンダーにかかわりなく自分の人生を決める権利を保障していく視点を確保したい。

 マミートラックの罠を解くもうひとつのヒントは、子育ては母のものという「母性」幻想を解体することである。女性の母親役割規範は、近代社会の産業化過程が生んだ性役割分業のなかで生成され、再生産されつづけてきた。それは歴史的生成物であって、けっして生物学的に「自然」なことではない。子を育てるのは女性だけではなく、男性でもある。

 父・母が育児も仕事も平等に担う社会は、先に挙げた市場側の生産性増大の理路も、社会正義追求のジェンダー平等の理路も、満たしていくことになろう。前者においては、従来とは異なりだれもが育児を(ひいてはケアを)担うことを前提とし、職場では育児経験がキャリアのブランクではなく一つのキャリア経験となっていく。後者においては、ジェンダーを問わずケアを担いつつ働く働き方が標準的な働き方の一つとなるだろう。

 これを支えていくのが、子どもが小学生になったあとの放課後の居場所の問題を解消する小6までの学童保育の拡充(2012年「子ども・子育て支援法」)や、児童手当などの経済的支援を含む施策でもある。子育ては母だけでなく、親だけでなく、社会で支援していこうという関係の萌芽がうかがわれる。ジェンダーにかかわりなく、個人が家庭と仕事上の責任をもつ権利を尊重し支えていく制度構築が社会の基盤となるべきであろう。


■ブックガイド──その先を知りたい人へ
岩田正美・大沢真知子(編著)『なぜ女性は仕事を辞めるのか──5155人の軌跡から読み解く』青弓社ライブラリー、2015年
石塚由紀夫『資生堂インパクト──子育てを聖域にしない経営』日本経済新聞出版社、2016年
萩原久美子『迷走する両立支援──いま、子どもをもって働くということ』太郎次郎社エディタス、2006年

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笹野悦子(ささの・えつこ)
早稲田大学ほか非常勤講師。早稲田大学大学院文学研究科社会学専攻博士後期課程単位取得退学。専門分野:社会学、ジェンダー研究、家族研究。
主要著作:
『共生と希望の教育学』共著、筑波大学出版会、2011年
『ジェンダーが拓く共生社会』共著、論創社、2013年
『共生の社会学』共著、太郎次郎社エディタス、2016年
『教育社会学』共著、ミネルヴァ書房、2018年

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