科学のバトン│最終回│科学の授業が人をつなぐ│平林浩(出前教師)

科学は人から人へ、どう受け継がれるのか。多彩な執筆陣が、みずからの学びとその継承をふり返る。

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科学の授業が人をつなぐ
種をまきつづけて60年
平林浩(出前教師)

親たちが創った子どもと大人の学びの場

 2022年10月23日、JR中央本線信濃境駅前には、4〜5歳の子どもから高齢者までのたくさんの人が集まっていた。小さな無人駅の駅前広場を埋めるほどの人数だった。80人を越える人数だったと世話係の人が言っていた。

 毎年10月の第4日曜日は「キノコ遠足」の日にしている。1995年ごろからはじまったキノコ遠足には、毎年たくさんの人が集まってくる。

 八ヶ岳の裾野の林のなか、泉があり、たくさんの水が絶えまなく湧きだし、すぐに水量の多い小川になって流れくだっている。地元の人たちの飲み水として、水神が祀られ、手入れされている。この泉の周辺の林のなかを歩きまわってキノコを探す。採ったキノコは、泉の下流の林のなかでたき火をし、キノコ鍋がつくられる。このキノコ鍋も人気のひとつになっている。

 じつは、この場所は、わたしが中学生のころ、父親とキノコ採りに行ったことのあるところだ。戦後1〜2年を経たころ訪れたこのあたりの林のなかは、ほんとうにいろいろなキノコが生えるところだった。わたしは、そんなキノコ採りのたのしさをいまの人たちに伝えたくて、キノコ遠足をこの地でやることにしたのだ。

 

 大勢の参加者のなかにGさんの姿があった。Gさんは、科学クラブ「アトム」と名づけられたグループのメンバーであるMさんの息子だ。科学クラブ「アトム」は、1989年にMさんもふくめた親たちによって創られた、仮説実験授業を中心にした科学の授業をやるためのグループである。子どものグループがまずできて、続いて大人のグループもでき、大人のグループは今日まで続いている。

 Gくんが小学校2年生のとき、この科学クラブ「アトム」がはじめてのキノコ遠足をした。グループが発足したのは4月で、その年の10月に、活動のひとつとしておこなわれたものだった。わたしが飯綱高原の美しさやキノコが豊かであることを話したのがきっかけで、計画が立ち上がった。

 グループのメンバーが親しくしているペンションが飯綱高原にあるということで、そこに1泊の合宿をすることになった。10月22日の日曜日と23日の月曜日にかけてしか、ペンションが空いていないという。23日は月曜日だ。子どもたちは学校がある。ところが親たちは、学校は休ませて合宿のほうに参加するというのだ。

 この合宿には、大人10人、小学生10人、幼児2人とわたしが参加した。

 わたしは親たちの決断に驚かされると同時に、科学クラブの活動に対する親たちの信頼と期待を強く感じた。その後34年、大人たちのグループの授業は続けられている。

アトムのおかげで、いまのぼくがある

 小学校2年生だったGくんは、飯綱高原の林のなかを活発に動きまわって、たくさんのキノコを見つけた。

 この科学クラブの子どものグループは、2007年の2月で終わった。そのときGくんは、こんな文を寄せてくれた。

——ついに科学クラブアトムもファイナルになってしまうんですね。平林先生には大変お世話になりました。
  アトムのおかげで今の僕があると言っても過言ではないと思います。小さいときにおもちゃをいろいろ作りましたが、今でも“かみつき蛇”や“わらじ”とか、何も見なくても作れます。それに、たぶん霧ヶ峰の植物の名を全部言えると思います。
  僕の中にあの仮説実験授業が残り、とても力になりました。——

 この文を書いてくれたGくんは、あの飯綱高原のころのGくんを鮮明に思い出させてくれるほど父親に似た息子を連れていた。

「ああ、Gくんとまったくそっくりだねえ」

とわたしは思わず声を上げた。

 そばにいたGくんの母親、Mさんは、うれしそうに笑顔を見せていた。このほかにも親から孫3代で参加している人がいたし、ずっとまえにいっしょに授業をして、いまは成人した人もたくさん参加していた。

 科学の授業がこんなに大勢の人と人のつながりをつくり、また自然のことを伝えていくことになるとは、はじめのころ、まったく予想もしていなかったのに。

科学って、こんなにおもしろいんだ

 キノコ遠足の参加者のなかにKくんもいた。Kくんは、2020年に、千葉県の船橋市で続いている科学クラブ「ユウリカ」を高校生になったのでやめた。大学に向けて受験勉強にも取り組みたいという。

 授業のときはよく発言もし、よくわたしに質問をした。なかには哲学的なものもあり、ひとことでは答えられないものもあって、わたしもたじたじだった。Kくんの弟のSくんもユウリカのメンバーで、中学生になったので兄といっしょにユウリカをやめた。原則的には小学生のクラスなのだが、中学生になっても来つづける子がけっこう何人もいた。なかには、Mくんのように、大学に合格してやめた子もいる。

 Kくんは、ユウリカのとき、わざわざわたしのところに挨拶に来た。そのときわたしは「これで、ユウリカ卒業だね」と言った。Kくんは「そうですね。卒業ですね」と笑顔で答えた。

  その後、わたしのところにKくんと弟・Sくんの手紙が届いた。Kくんの手紙には、こんなことが書かれていた。

——ユウリカでは大変お世話になりました。中学受験をするキッカケになったのも、科学ってこんなにおもしろいんだ!と感動したのも、「学ぶ」ってこういう事だと人生観を構築したのも、ユウリカあってのことです。
  間違いなく、ユウリカ、平林先生ぬきにして今のぼくはありません。断言できます。ユウリカでの経験はぼくの宝物です。それをふまえて、自分の人生、納得するよう生きていこうと思っています。——

 科学クラブ「ユウリカ」で授業をした子どもたちが、みなこのように思っているわけではないだろう。しかし、仮説実験授業で伝えたかったことが、驚くほどKくんに伝えられていることがわかって、ほんとうによかったと思う。

小さな科学者が仮説—実験できる場

 科学クラブの子どものアトムが終わりになるとき、それまでの18年間に授業をやってきた、たくさんの子どもや、もう成人している人から手紙をいただいた。そのなかから、Sくんの文を紹介しよう。

——空気はどんな形をしている? 小学校2年生だったぼくは、平林先生から発せられた、想像を試みたこともない問いに、ただ口を開けているばかりでした。  目で見ている世界の、その基にあるものの学問。理科とは似て非なる科学に、そのときはじめて触れるとは思ってもみませんでした。気体、空気、力、細胞、原子、毎日出されるテーマは錬金術のように神秘的……
  僕たちは未知の世界に対して、みんなで仮説を立て、時には討論して説得しようと試み、間違ったら、なぜ仮説が違ったのか考え、獲得していく。まさに小さな科学者が仮説—実験できる場は、本でもなく、学校の授業でもなく、アトムでした。……
  霧ヶ峰合宿は、自然の力強さ、夜の闇の深さ、頭上に迫る星空といった、都会の子である僕たちが、有るのにふれていなかったものへ目を開かれる機会でした。
  黒曜石の美しさに驚き、そして頑張って拾いすぎ、それを持ち帰るのが大変だったという教訓。
  平林先生の助手ができることを名誉としていた当時の僕の夢は、科学者だったり、考古学者だったりでした。——

 親たちが立ち上げた科学クラブという場での仮説実験授業や自然とのつきあいは、わたしが伝えたかったものを確実に伝えてくれていたのだ。

平林浩(ひらばやし・ひろし)

1934年、長野県・諏訪地方生まれ。子ども時代から野山を遊び場とする。1988年まで小学校教諭。退職後は「出前教師」として、地域の子ども・大人といっしょに科学を楽しむ教室を開いている。仮説実験授業研究会、障害者の教育権を実現する会会員。
著書に『仮説実験授業と障害児統合教育』(現代ジャーナリズム出版会)、『平林さん、自然を観る』『作って遊んで大発見! 不思議おもちゃ工作』『しのぶちゃん日記』(以上、太郎次郎社エディタス刊)など、津田道夫との共著に『イメージと科学教育』(績文堂出版)がある。