科学のバトン│第12回│科学とは、科学教育とは何か│平林浩(出前教師)

科学は人から人へ、どう受け継がれるのか。多彩な執筆陣が、みずからの学びとその継承をふり返る。

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科学とは、科学教育とは何か
板倉聖宣先生と仮説実験授業との出会い
平林浩(出前教師)

恩師略歴●板倉聖宣(いたくら・きよのぶ/1930-2018):
東京大学の学生時代に自然弁証法研究会を組織。物理学の研究で理学博士。科学教育に関心をもち、国立教育研究所勤務。科学教育の改革をめざし仮説実験授業を提唱。子ども中心の教育改革を現場の教師とともに進める。「楽しい授業」の教育思想を広める。教育論・科学論・科学読みものなど著書多数。


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教師としてのあり方を変えられた出会い

 鳥類の研究をやめて、教師としてやっていく決心をした。1962年頃からである。そのため、理科教育に関する研究会に参加するようになった。

 東京の私立小学校の理科部会とよばれる研究会が発足し、その会に参加するようになった。一方、当時多くの教師や教育学の学者などを中心にした民間教育研究団体が盛んに活動をしていた。わたしはそのなかの科学教育研究協議会(略して科教協)、日本生活教育連盟(略して日生連)の会員になって、研究会に参加するようになった。科教協の研究会に参加することで、理科は自然科学を教える教科であると確信するようになっていった。

 1964年3月3日に東京の私立成城学園の初等部でおこなわれた仮説実験授業の発表会に参加した。そこで庄司和晃先生の〈滑車と仕事量〉の授業を参観し、板倉聖宣先生の講演を聞いた。これが、わたしのその後の教師としてのあり方を大きく変えるきっかけとなった。そして、2022年のいまでも、街のなかで仮説実験授業を中心として科学の授業を続けている。

 この発表会への参加を機に、主として東京の私立学校の教師数名が集まり、「火曜研究会」とよばれるようになった研究サークルに参加するようになった。この研究会で、仮説実験授業の授業書をつくりながら、折にふれて板倉先生が語られることは、それまでのわたしが参加した教育に関する研究会のどこでも聞いたことのない、科学や教育についての根源的なことだった。

 科学とは何か、科学教育はどうあったらいいか、科学的な認識とはどう成立するものなのか、ヒューマニズムにもとづく教育はどうあるべきかなどなど、さらに話は、民主主義、原子論的自然観、原子論的科学観へもおよんでいった。板倉聖宣先生との出会いによって、その後のわたしの生き方は、まったく変革されたと言ってよいだろう。

科学観、実験観の変革

「科学的認識は実験によってのみ成立する」
「科学的認識は社会的認識である」

 仮説実験授業が立脚するふたつの認識論。はじめてこのふたつのことばに出会ったとき、そのことばが意味することをじゅうぶんに理解することはできなかった。わたしは○○論というふうなことばに接することはほとんどなかったし、小学校の教師になってのほぼ8年間にも、それはなかった。

 この認識論は、板倉先生が仮説実験授業で科学教育を根底から改革するためのふたつの命題としているものであった。わたしは、板倉先生と研究会で話したり、授業書をつくったり、そしてなにより、自分で仮説実験授業を子どもたちとやることによって、しだいに理解できるようになっていった。そして、わたし自身の科学や科学的認識の基本的な考え方になっていった。

 そもそも、板倉先生や仮説実験授業と出会うまで、「実験とは何か」とか「科学的認識はどう成立するか」など、つきつめて考えることなどなかった。実験といえば、じっさいにやってみること、じっさいに観察してみることを実験であると漠然と思っていただけだった。

 科学における実験とは、自然に対して積極的に問いかけ、自分自身の仮説、予想をもって、それがほんとうかどうかを試してみることである。だから科学においては、真理は実験の結果においてのみ成立することになる。この考え方は、仮説実験授業全般に貫かれている。実験はたんに「百聞は一見に如かず」的なものではなく、仮説・予想の成否を問う唯一の方法だということで、従来の実験観とは明確に異なるものである。

「科学的認識は社会的認識である」というもうひとつの命題は、さらに重要であるともいえる。わたしは、認識というのは個人の頭のなかに成立するものであって、それが社会的に成立するものであるなどど考えたこともなかった。そういう勉強をみずからしたことがなかった。だから、この命題はにわかには理解することができなかった。

 科学上の発見は、仮説・予想・実験という過程のなかでおこなわれる。そして一連の実験結果によって真理であることが認められるのである。しかし、そこまででは科学とはいえない。その真理は、研究者のあいだで、学会においてまずは認められて科学上の発見となる。板倉先生は、それだけではまだ科学とはいえないと言う。その真理が人びとに認められるようになって、はじめて科学になるのだと。

 したがって、科学の知識は、だれでも安心して使うことができる。いわば社会の財産となるのである。認識は個人の頭脳のなかに成立するものであるが、それが科学となるには社会的に認められなければならないのだ。

 この考え方は、仮説実験授業の実際にも基本的な考え方として存在している。直接に実験できないことは、科学者がやった実験を紹介することもある。他人の認識をもってみずからの認識にするというのも、科学的認識が社会的認識であるからこそ、できることであろう。

 また、じっさいに授業が展開している場面で、子どもたちが予想を出しあって、どうしてそのような予想をたてたのか、考えをぶつけあって討論がおこなわれる。そんなとき、ほかの子どものことばや経験を聞いていて、その考えがいいと思えば、予想を変える。これも他人の認識をみずからのものとする活動のひとつと考えていいだろう。

 わたしたちが、先人のつくった知識を書物などで学ぶことができるのも、認識が社会的であるからこそにちがいない。

授業の成否は子どもにきく

 教師が授業をおこなうときの授業案は、授業についての仮説である。教師が仮にこのようにすれば、子どもたちに目的とする内容を知らせることができるだろうとつくった案であるから、その中味には多くの仮定がふくまれている。そして、教師はひとつの場面ごとに予想をたて、じっさい授業にあたる。授業案をつくりながら、授業の場面場面、実験のしかた、問いかけることばなどを、通勤の電車のなかでなぞることもある。仮説実験授業では、授業案は「授業書」とよばれるものである。すでに何十というクラスで実験ずみだから、仮説というよりは理論といえるものになっているのだが。

 授業案が仮説、予想であるならば、子どもたちとの授業は実験である。その実験の結果は、どのように確かめられたらよいのか。多くの授業研究では、参加した教師たちが評論するようなかたちで評価していた。板倉先生は、その実験結果は子どもにきくべきであると主張した。これも、わたしにとっては、自分のやることを見直す大きな改革になった。多くの子どもが、よくわかって、たのしかったと評価すれば、その授業は成功したとしてよいだろう。一連の授業をとおして、あるひとつの法則がわかったり、ある概念が理解でき、その授業がたのしいものであったとしたら、その授業案はほかの教師が安心して利用できるものになる。

 子どもを大切にする教育、子どもを中心にした教育ということは、大正時代から、とくに民間教育を進める人たちのなかで強く言われてきた。また、戦後の生活単元学習や問題解決学習が主流であったころは、基本的な姿勢であった。しかし、子どもを大切にするということが、実際的にどういうことなのかをはっきり示したのは仮説実験授業である。板倉先生は「仮説実験授業は、問題解決学習のよりよき発展でもある」と言っている。

 子どもを大切にする教育について、はっきりした姿をわたしに見せてくれたのも仮説実験授業である。

授業で伝える

 わたしは板倉聖宣さんから、わたしの30歳以後の教師としての生き方を決定的に変える科学論、認識論、ヒューマニズムなどを学んだ。その板倉聖宣さんの思想や理論は、仮説実験授業と名づけられた科学教育によって伝えられていく。とくにつぎの世代を担う子どもたちへ。

 仮説実験授業による科学教育の思想、理論、方法は、じっさいに授業として展開される基本は〈授業書〉に集約されている。授業書は教科書でもあり、ノートでもあり、教師にとっては指導案でもある。授業を進めるすべてをふくんでいる。仮説実験授業による科学教育のすべてがこめられたものであると言っても過言ではない。

 1964年、わたしは、私立和光小学校に勤めはじめた。担任した4年生のクラスで仮説実験授業の授業書〈ものとその重さ〉の授業をはじめた。7月1日に授業ははじまった。

 その最初の授業は子どもたちを大きく変えた。科学の授業をたのしみにするようになった。自分の考えをみんなに知らせあい、討論し、実験で真理を知ることをとおして、科学的な考え方を身につけていった。わたしは、学校の教育は授業が基本であることを確信した。当時完成していた授業書や創りつつあった授業書を軸に、和光小学校の理科カリキュラムを編成した。

 1988年には、和光小学校の教員をやめ、街のなかで親たちが、仮説実験授業を子どもたちにやらせたいと創りだしたグループでの授業をはじめた。やがて親たちも仮説実験授業をしたいと、グループを創った。わたしはみずからを「出前教師」と名づけ、それらのグループで仮説実験授業をやってきた。2023年のいまも、10をこえるグループで授業を続けている。

すべてはめぐる

 2005年の1月1日発行の和光学園同窓会誌が送られてきた。その会誌の「卒業生紹介」の欄に、堤未果の名があった。わたしが和光小学校で理科専科として授業をしたクラスに未果さんはいた。静かな子どもだった印象だが、自分の考えをしっかりもっていて、その考えをはっきりしたことばで言える子どもだった。

 会誌の文を書いたころは著書の『グラウンド・ゼロがくれた希望』(ポプラ社)で名が知られるようになっていた。

 2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルにジェット機がつっこむというテロ事件が起きた。会誌に載せられた文は、センタービルのとなりのビルで仕事をしていた未果さんの衝撃が主題だったが、その文はつぎのようなはじまりだった。

——「全てはめぐる」という言葉を聞いたのは小学生のときだっだ。大好きな理科の授業、あの時平林先生は、教室の窓を開け、空に浮ぶ白い雲を指差して、水の旅について話していた。水溜りの水が水蒸気になり、空に昇り、雲になり、やがて雨になって地に降り注ぐ。先生がその後に言った言葉を、私は今でも覚えている。「ぼくたちのいのちもね。おんなじなんだよ」——

 わたしはこの文を読んで、その場面を思い起こしていた。たぶん、そのときの授業の記録があるだろうと思い、探してみた。それは1983年の5年生のときの授業だった。仮説実験授業〈もしも原子が見えたなら〉の一場面であることがわかった。

 小学生の子どもたちは、はじめて原子と出会う授業。空気をつくる原子・分子の名を知り、1億倍の模型をつくる。水の分子が出てきたとき、空気のなかに水の分子があるわけを話した。

 未果さんは、

——あの日の朝、二つのタワービルと一緒に、私の中で理想とあこがれだった「善きアメリカ」という幻想も流れ去った——

 と記し、そして、

——水溜りの泥水がやがて天に昇り雲になり、透明な雨となって再び大地をうるおし、新しい生命を育てていく。あの時の話と同じように人もまた何度過ちを繰り返しても、必ず再び立ち上がり希望を作り出せるのでしょう——

 と続けている。

 堤未果さんはジャーナリストとしてその後さらに活躍を続けている。小学生のときの授業の一場面がその人の人生に大きな影響を与えていることを知り、あらためて喜びと畏れを感じる。

学ぶおもしろさ、たのしさ

 いま手元に、1967年3月に和光小学校を卒業した子どもたちが書いた「思い出の授業」と題した作文がある。卒業する少しまえ3月13日にわたしが書いてもらったものだ。ファイルされた紙は変色して、端はボロボロになっている。わたしが、4年生のとき1年間だけ担任をし、5年生、6年生は理科専科として授業をしてきたクラスの子どもたちである。主として仮説実験授業をやってきた。

 新しく創られた仮説実験授業で、わたしたち教師が子どもたちに伝えたいと思っていたことの何が伝えられただろうか。わたしをふくめ仮説実験授業をやりはじめた教師たちに、ひとつの実験結果が示されることでもあった。

 子どもたちの作文を見ると、授業で扱った科学の概念や法則への関心にとどまらず、それを学ぶ仮説実験授業の過程についてもたいへん強い関心を示していることがわかった。子どもたちは、授業の内容のおもしろさのみならず、授業そのものがおもしろく、たのしいことを伝えていた。

 これは仮説実験授業が科学の方法である、問題—予想—討論—実験を軸に進められることから予想されたことではあったが、予想以上に子どもたちは、おもしろさとたのしさを見出し、感じとっていた。

 そのひとつの作文を紹介しよう。Uくんは6年生のはじめに編入してきた子どもである。だから、すでに2年間、仮説実験授業を経験してきた子どもたちよりも、ずっと鮮明に心に残ったのかもしれないのだが。

——まえの学校とくらべて大きなちがいがある。それはプリントを使って、自分で考えさせる。つまり予想をたてさせるわけだ。そうすると、自分の意見に自信を持ち、よく考えられる。まえの学校の理科よりも、この学校の理科のほうがずっとおもしろい。
  それに、予想をしてから実験をする。それだから胸がドキドキする。それから、この学校はほかの学校の習っていないところを習う。たとえば分子のことやら。とても楽しい——

 Uくんは、このあと楽しいからつい実験で遊んでしまって、わたしに注意されてしまった場面を書き、周囲の子どもたちとの討論も楽しんだことを書いて最後に、

——このじゅ業がすきかだって。どうしてすきか。それはじゅ業がおもしろいからだ——

 と結んでいた。

Sさん
——私は4年生のとき、はじめて先生の理科の授業をうけたとき、「これはおもしろそうだな」と思った。自分で予想して実験をする。いままでのありきたりの理科の勉強にあきあきしていたから、こういう授業はとてもきょうみがあった。3年まで、みのまわりのことを先生がせつめいしていたが、今度の理科は、全部の動物とか、宇宙のこととか、だんだんひろがっていった。——
——私のおぼえている勉強は宇宙の勉強だ。夜、星の勉強をするためにとくべつな授業をやった。その時はなぜかとてもたのしく、自分たちが、そういうむずかしい勉強をしているんだと思うと、「ようし、もっとおぼえてやろう、もっとかんさつしてやろう」と思った。——

Tくん
——たまには予想がはずれることがあった。それがすっかり自信があった予想の時などは、全く残念と思うより、一大発見であった。
  予想どおりであったときの喜び、予想がちがったときの一大発見の喜び、共に得難いものであった。
  皆で考え、意見を出し合い考え合い、と中で他の人の意見を聞きながら自分というものをしっかり見つめてゆく勉強と自信は4年からの理科の授業で得た貴重なことだ——

 ほんものの科学を教えるということは、それとともに科学的な姿勢をも育てていく。そして、科学を学ぶことはたのしい。たのしいから学ぶ。わたしたちが仮説実験授業で子どもたちに伝えたいと願っていたことは、確実に子どもたちに伝わっているのだ。

(次回に続く)

平林浩(ひらばやし・ひろし)

1934年、長野県・諏訪地方生まれ。子ども時代から野山を遊び場とする。1988年まで小学校教諭。退職後は「出前教師」として、地域の子ども・大人といっしょに科学を楽しむ教室を開いている。仮説実験授業研究会、障害者の教育権を実現する会会員。
著書に『仮説実験授業と障害児統合教育』(現代ジャーナリズム出版会)、『平林さん、自然を観る』『作って遊んで大発見! 不思議おもちゃ工作』『しのぶちゃん日記』(以上、太郎次郎社エディタス刊)など、津田道夫との共著に『イメージと科学教育』(績文堂出版)がある。