お父さんはフェミニストだよ、と言える日のために|第18回|男性性というか、赤ちゃん性なのでは?|張江浩司

第18回
男性性というか、赤ちゃん性なのでは?
張江浩司
男性性というか、赤ちゃん性なのでは?
いつのまにかゴリラのドラミングを習得
子が生まれて1年半がたちました。「世にも可愛い不思議な生き物」といった風情だった出生直後に比べるとずいぶんと人間らしくなったもので、日に日に「好み」が明確になる。
もっぱら車と動物が好きなようで、近所を散歩していると車を見かけるたびに「ぶーぶ!」と指をさす。犬がいれば「わんわん!」、鳩は「こっこ!」。惹かれるものが多すぎて、100メートル進むのにもひじょうに時間がかかる。「目にうつる全てのことはメッセージ」状態である(byユーミン)。
少しまえまでは大雑把な概念としての「車」「動物」が好きなようだったが、ピントが絞れてきたようで、ホイールローダーのような工事現場で働く車が一番好き。消防車やトラックもかなり好き。いかついSUVもけっこう好き。救急車はそうでもない。なぜかバスにはまったく興味がない(YouTubeでバスの動画を再生しようとしたら「こんなもん見たくない!」といった感じで首をブンブン横に振っていた)。といった感じ。車体の大きさに正比例しているわけではなく、カラーリングに法則性もないので、うちの子ども独特の価値基準があるんだろう。「こだわり」と言い換えることもできそうだ。たしかに、いわゆる「働くくるま」の専門性に特化した潰しの効かない感じはかっこいいよね。対してバスの公共性というか、万人に開かれて画一的な感じは退屈なのも理解できる気がする(でもね、その退屈な公共性がまさに大切なんだよということは折にふれて伝えていきたい)。
動物に関してはおおむねどれも好きそうだけど、各種のディテールをきちんと把握しはじめている。絵本にゴリラが出てきたら、胸のあたりをバシバシ叩いてドラミングをはじめたのでびっくりした。どこで習ったんだ。うちでは教えていないので、おそらく保育園なんだろうけど、それを的確に理解しているんだからすごい。このあいだ動物園にいったときは、ゴリラ舎でけっこう興味なさそうにしてたのに。
最近は、車と動物の柄が入っていない服は着たくないとぐずるようになっちゃって大変。妻がユザワヤでワッペンを買ってきてくれたが、ワンポイントではグッとこないようで、総柄じゃないとダメみたい。上半身車だらけ、下半身動物だらけで登園し、そういった服がないときは泣き叫ぶ子をなんとかなだめて、無地の服を着ていただく朝をやりすごしている。そのさいは「この服着ようね」と言ってるんだけど、「着よう」という言葉に違和感があるんだよな。そういえば、いままでだれかに「この服着て!」とか「着れば?」とかは言ったことあるけど、「着よう」と言ったことはなかった。命令形でも仮定形でもなく、「着る」の意向形としてこの活用が正しいのかいまいちよくわからないまま連呼して、軽いゲシュタルト崩壊を起こしている。
それにしても、子ども服にプリントされている車や動物は写実的ではないわけで、それをちゃんとそれとして認識できているんだから、子の頭の中で抽象化できているということなんだろう。よく考えると、たいへん高度な作業だ。すごい、すごいぞ。これが成長なんだよな。精神・身体の両面ですくすく育っている。保育園入園時に買った帽子も、気づいたらとても小さくなっていて、頭の上にちょこんと乗っている感じだ。このまますくすく身体が大きくなれば、往年の柳原可奈子さんがかぶっていた小さい帽子くらいの縮尺になりそう(もしくは千秋さんの頭上にあったティアラ)。
早くも「男の子」化が起きている?
私と妻がふたりで話し込んでいると、あいだに立ちはだかってあからさまに不機嫌な顔をするようになった。自分がこの場の中心ではないことを察知して、疎外感を覚えているんだろう。これぞまさに自意識の発達。これまで私と妻のふたりだった家族が、子を含めた3人の複雑なパワーバランスのもとに成り立つチームに、刻一刻とどんどん変化している。今後、本当にささいなことでこのバランスは崩れかけるんだろうなあ。あわてて点検し、修復し、をくり返す生活。スリリング。このサイクルに子も主体的に参加してもらわないといけない。
私が放屁するとスッと立ち上がり寄ってきて、穏やかな微笑みを浮かべながら肩をポンポンと叩くようにもなった。これはいったい、どういうことなんだ。ぜんぜんわからない。「デカい音の屁だね、びっくりしちゃった」ってこと? 「そこまでくさくないよ、ドンマイドンマイ」ってことだろうか。妙に優しい笑顔なのも気になる。さっぱりわからない振る舞いに遭遇するのは、他者と生活する醍醐味だ。
一方、どうにもわかりやすすぎる行動もある。風呂に入って体を洗い終え、バスタオルで子の体を拭こうという段に、妻が水分補給のための麦茶を風呂場に持ってきてくれた。これまでは風呂から寝室に移動した段階で飲ませていたが、面白半分にお茶をわざとこぼすことが続いたから、濡れてもいい場所で飲ませようという計画だ。裸でコップを傾けてグビグビ飲んでいる。コップの扱いも上手くなったなあと感心していると、空になったコップを自分の股間に当てて「うー!」と叫んでいる。ついでに私の股間にも当てて笑っている。なんてわかりやすい下ネタなんだ。下ネタの一丁目一番地だ。あまりの直球ぶりに、私も爆笑してしまった。
ほかにも、母乳をもらうさいに妻が服をめくって胸部を出すと、「うへへへ」と普段とは違う、鼻の下が伸びたような笑い声を出す。私の顔をバシンバシン叩いて、「痛い!」とリアクションすると、嬌声をあげて喜ぶ。公園では大声で走りまわっている若干乱暴な感じがする小学生くらいのお兄さんを憧れの眼差しで追っている。など。
うーん、わかりやすく「男の子」化しているというか、性的・暴力的なものに誘引されているというか。早くも1歳半の時点でトキシック・マスキュリニティー(有害な男性性)の萌芽が⋯⋯。保育園ではジェンダーバイアスがかかるような指導はされていないはずだ。お迎えに行ったさいは「最近はおままごとにハマってるみたいです。エプロンもとっても似合うんですよ」と担任の先生が報告してくれたし。友だちからの影響ということもないだろう。もう少ししゃべれるようになったら「男の子は強いほうがかっこいいんだよ」みたいなことを言う子に引っぱられるようなことがあるかもしれないが、まだみんな会話はおぼつかないようすだし(それでも言語なしでコミュニケーションをとって仲よく笑いあっているシーンを見ると、その尊さに多幸感が溢れだす)。
ということは、生まれもっての本能ということ? すべての男児がこうなのかはわからないけど、少なくともうちの子どもは先天的に男性性を備えている? ジェンダーは社会的に規定されるものなんじゃないのか⋯⋯?
人にケアを強いる大人の暴力的な赤ちゃん性
いやいやいや。待て待て待て。これ、順番が逆だわ。
1歳半の赤ちゃんが男性性をもっているのではなく、男性性と呼ばれるものが赤ちゃんに由来しているんじゃないか。大きい音が鳴ったり人がびっくりしたりする行為に喜んだり、陰茎や胸部という身体のなかでも特徴的な部位を「変だなー」と興味をもったりすることは、不思議なことではない。それらの行為が他者とのかかわりのなかで意味をもち、加害性を帯びると暴力になる。本来ならその時点でそういった行為を控えるようにするべきで、それが教育の役割だと思うんだけど、一部の人びと(多くは男性)は暴力を「強さ」のパラメーターに無理矢理変換してしまう。
その「強さ」でもって何をするかというと、周りの人間を屈服させて、自分のケアをさせようとする。自分の配偶者、家族、パートナー、部下、場合によっては街ですれ違う人にまで、身体的、精神的、社会的、経済的、さまざまな暴力をちらつかせながらお世話させようとする。DVで家族を縛りつけるのも、部下にパワハラするのも、居酒屋で隣りあった人に大声でクソつまんない冗談を言って愛想笑いさせるのも、ぜんぶそう。こんなもん、赤ちゃんがところかまわず泣き叫んで自分の欲求を通そうとするのとなんら変わらない。「有害な男性性」の正体は「暴力をともなった赤ちゃん性」なんじゃないかと思う。
赤ちゃんはべらぼうにかわいいし、そもそもなんの権力ももっていないから暴力的になりようがない。しかし、大人にもなって赤ちゃんと同じ振る舞いをしている人間は端的に迷惑だし、共同体から排除されてもおかしくない。にもかかわらず、「暴力的な赤ちゃん性」を「男らしさ」「甲斐性」などと言い換えて温存する社会規範は洋の東西を問わず存在する。考えてみるとめちゃくちゃ不思議だ。暴力赤ちゃん大人もどきよりも、自分のことは自分で面倒をみられる自立した個人が増えたほうがいいに決まってる。社会のためにも本人のためにも。共同体を効率よく維持するために、成員をケアされる側とケアする側に分ける必要があったんだろうか。
人まかせにしないからこそ面白い
端的に、自分のことは自分でやったほうが、生活していて面白い。自分が食べている野菜はどこの八百屋、もしくはスーパーで買ったのか。この服を洗ったときに使った洗剤は何か。資源ごみを出すのは何曜日か。膨大なチェックリストをすべて把握するのはめちゃくちゃ大変だが、生活に対する納得はその上に発生する。これは仕事でもなんでもそうで、たとえばあるファストファッションのブランドは生産過程において完全な分業制を敷いており、「Tシャツの袖口だけ縫う人」というようなレベルで特化されているらしいが、これだといくら作業に習熟しても、やりがいを感じることは難しいだろう。マイルス・デイビスの後期のアルバム「Bitches Brew」などは、ミュージシャンをスタジオにひとりずつ招いて指示を出し演奏させ、その録音テープをあとから切り貼りして編集・再構築してつくられたものだから、ミュージシャン本人はどんな曲なのかわからないまま演奏していたらしい。たぶん、ぜんぜん楽しくなかったと思う。(マイルスの音楽的な達成とは別問題で、こういったカリスマアーティストの独善性を神格化してありがたがる風潮も、暴力をともなった赤ちゃん性の肯定だ)。
自分のケアを他人に任せることは、生活のわずらわしさから解放されたように見えて、その面白さも放棄している。もちろん人それぞれに得手不得手はあるから、そこは他人と分けあっていけばいいけど、丸投げして無視したんでは自分の生活をあきらめるも同然だ。家事にいっさい手をつけないおじさんに、なんかつまらなそうな顔をしている人が多いのはこういう理由なんじゃないかという気がする。
うちの子どもは近所の公園まで歩いていくことができるようになって、砂場遊びセットのバッグを自分で持ちたがる。ちょっと重いらしく、道中でバッグを地面に置いて休憩する。それでも、また持ち上げて歩きだす。マジで疲れたら、私か妻に渡す。公園では楽しそうに砂場に穴を掘る。
その調子で、どんどん自分のことを自分でできるようになって、無理そうだったら適切なタイミングで他人に頼れる人間になって、生活を謳歌してほしい。そっちのほうが絶対に楽しい。安易な暴力を男性性で言い訳して、この楽しさを手放さないでほしい。

張江浩司(はりえ・こうじ)
1985年、北海道函館生まれ。ライター、司会、バンドマン、オルタナティブミュージック史研究者など多岐にわたり活動中。レコードレーベル「ハリエンタル」主宰。
ポッドキャスト「映画雑談」、「オルナタティブミュージックヒストリカルパースペクティヴ」、「しんどいエブリデイのためのソングス」。
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