いっそ阿賀野でハラペーニョ!|第17回|高温多湿と格闘し、激烈カプサイシン体験を想う|高松英昭

第17回
高温多湿と格闘し、激烈カプサイシン体験を想う
五体投地スタイルで草を抜く
植物は梅雨になると、中学生みたいにぐいっと生長する。気温が上がり水分補給も十分なので、ハラペーニョもぐいぐい育ち、果実の色は浅緑から深緑へと濃くなって重厚感が増し、梅雨が明けるころには赤く熟して収穫できそうだった。
ただ、梅雨が長引くと困ることも多い。長雨が続いた梅雨の直後は辛みがまったくなく、ピーマンみたいな味になったことがあった。水分で辛みが薄まったわけではなく、水や肥料が潤沢で恵まれた環境では、辛み成分のカプサイシンがあまり分泌されないらしい。逆に、水不足や肥料不足になると、ストレスを感じることで生存本能が刺激されてカプサイシンが増えて辛みは強くなる。雨がまったく降らないカラカラの大地に育ったハラペーニョは激辛なのだ。
ほどよい辛さにするには、ほどよい水分と肥料を与える必要があるのだが、そもそも、栽培管理を工夫してもハラペーニョの辛さをコントロールするのは難しい。タコスソースを製造するときに辛さをコントロールするしかなかった。
梅雨時期の畑の仕事のメインは除草である。ハラペーニョもぐいぐい育つが、雑草も負けじとぐいぐい生長する。雑草は伸びるのが早く、刈っても1週間後にはデジャブのように元どおりになっていた。山頂まで苦労して運んだ岩が転げ落ち、また運び……を何度もくり返すシジフォスの神話みたいである。伸びた雑草をそのままにしておくと風通しが悪くなり、高温多湿の梅雨時期は病原菌が繁殖しやすくなるので、放っておくわけにもいかない。それ以上に「のめしこきらね~」と言われるのは避けたかった。
「のめしこき」は怠け者を意味する新潟の方言だ。農家は他人の農地をよく見ている。参考にすることもあるし、農地の状態で人柄を推しはかったりもする。それほど農地には持ち主の特性がよく出る。「上農は草を見ずして草をとり、中農は草を見て草をとり、下農は草を見て草をとらず」という言葉があるくらいだ。できれば中農ぐらいには見られたいので、除草は見栄と根性で乗りきるしかない。
草を根元から刈ってもすぐに伸びるので、ハラペーニョの近くに生えている草は根っこから引き抜くことにした。腰を曲げて草を抜くのは身長180センチの私には負担が大きく、さまざまな姿勢を試して、いちばん楽だったのが四つん這いだった。畝のあいだを四つん這いで、腕を伸ばして草を抜きながら前進していくと五体投地しているみたいである。「聖地巡礼式除草」と名づけて月刊『現代農業』に投稿しようかなどとくだらないことが頭に浮かび、薄ら笑いしてしまう。たまたま通りかかった先輩農家に、薄ら笑いしながら四つん這いになってハラペーニョのあいだを前進している姿を見られたら、「のめしこき」どころか「かわいそうに」と憐みの言葉をかけられそうである。
ただ「聖地巡礼式除草」にはほかにも利点があった。目線がちょうどハラペーニョの実と同じ高さになるので、注意深く観察することができた。二足歩行で上から目線で観察しても、葉が視界を遮り、果実をしっかり観察することはできない。よく観察すると、病原菌に感染した果実をいくつか見つけることができた。病原菌に感染した果実は摘果して感染が広がるのを防ぐ必要があるので、早期発見が肝心なのだ。

いざ収穫!⋯⋯だったのだが
7月下旬になると気温が30度を超える日が多くなったが、梅雨明けが発表されたのは8月に入ってからだった。そのころには赤く熟したハラペーニョが増えて、収穫時期を迎えていた。午前中に収穫作業をして午後から市内の廃校に設置された食品乾燥施設で乾燥作業をするつもりで、早朝から畑に向かうことにした。
阿賀野市の会計年度任用職員という身分なので8時30分が始業時間だが、農家なら朝飯前には農作業を終わらせて、気温が上がる日中は作業を避ける。そこで、地域おこし協力隊の担当者と係長に「農業用サマータイム」で働けないか相談することにした。
「日中は危険な暑さなので、農作業する日は1時間か2時間ほど前倒しで働きはじめて、そのぶん終業時間を早めることはできませんかね」。人命は地球より重いということでここは超法規的措置で、というダッカハイジャック事件(1977年)の日本政府みたいな雰囲気を醸しながら係長に相談した。
「飯まえ仕事というやつですね。いいんじゃないかな」と、係長は笑ってあっさりと了承してくれた。どうやら、上司が勤務時間を把握していれば問題ないということだった。
ということで7時前には畑に行き、収穫作業を始めることにした。収穫してみると表面が円形状にへこんでいる果実がいくつかあった。過去にも同じような症状が発生してハラペーニョが全滅しかけたことがあったので、原因はわかっていた。炭疽病というカビによる病気で、高温多湿な環境で発生しやすくなる。放っておくと胞子が飛散して全滅することもあるのだ。殺菌剤を散布して予防することで発生を抑えることができるが、できるだけ農薬は使わない方針だったので、ハラペーニョの下葉をとりのぞいたり通気性をよくしたりしていたが、それだけでは不十分だった。
こんなこともあろうかと有機系の殺菌剤は準備していて、「聖地巡礼式除草」で病原菌に感染した果実を見つけたときに散布しようと思っていたが、除草に追われて散布するのをすっかり忘れていた。農薬には有機系と化学系の2種類があり、漢方薬と西洋薬の違いみたいなものである。有機系農薬は自然由来の成分なので、自然環境への負担はほとんどない。ただ、効果は化学系のほうが期待できるのは確かだ。どちらにしても、使用量や使用回数、使用時期は細かく定められていて、違反した場合は法律に罰則規定もある。
収穫作業は1時間くらいで終わると思っていたが、炭疽病に感染したハラペーニョを畑から離れた場所に廃棄したりしているうちに、時計をみると3時間ほど経っていた。すでに気温も30度を超えていそうで、Tシャツは汗で濡れて体にぴったりと張りついていた。

激辛の思い出とあらたな困難
収穫したハラペーニョを入れたコンテナを抱えて、廃校になった小学校の1階廊下を歩いていくと、教務室と書かれたプレートが見えた。案内されたときには気がつかなかったが、そのとなりが校長室で、資料室、放送室と続いている。廊下のつきあたりに音楽教室があり、そこに食品乾燥施設が設置されている。初めて利用するので、一度にどのくらい乾燥できるかわからないが、収穫したハラペーニョが100個ほどコンテナに入っていた。
ハラペーニョは縦半分に切って胎座と種を取ってから、トレイに並べて乾燥させるつもりでいた。設置されている食品乾燥機は常温乾燥で、素材の風味などを損なわずに乾燥できることを売りにしていたが、そのぶん、最大で50℃ほどしか温度が上がらないので、縦半分に切ったほうが乾燥時間を短縮できる。これから収穫最盛期を迎えれば収穫量はどんどん増えるので、乾燥時間をできるだけ短縮してつぎつぎと乾燥したかったのだ。そもそも、どれくらいの時間で乾燥できるのか想像もつかなかった。
ハラペーニョをカットして胎座と種をとりのぞく作業には、マスクとゴム手袋が必須である。というか、素手では無理だ。辛味成分であるカプサイシンは胎座と種のあたりに多く付着していて、辛味の中枢に手を突っこむことになるので、素手だとヒリヒリ痛くて作業にならない。同時にカプサイシンが飛散するので、マスクをしないとせきこむことになるのだ。
カプサイシンを甘く見て、過去に何度かひどい目にあったことがあった。猛暑の日、台所が暑かったので上半身裸になってマスクとゴム手袋だけして胎座と種をとりのぞく作業にとりかかり、その後、トイレに行ったのだが、しばらくすると股間が熱を帯びはじめてヒリヒリと痛みを感じるようになった。パンツのなかに熾火になった炭が2、3個入っているみたいである。
ほどなくヒリヒリとジンジンが情熱的なジャムセッションをくり広げ、がまんできない激痛になった。上半身にも同じような痛みが走りはじめ、なんだか肌は赤みを帯びている。やがて、全身が熾火の炭みたいにジンジンと熱を帯びてきた。
あわてて浴室に行き、水シャワーを浴びると、飛び散った水滴といっしょにカプサイシンが目に入ったようで、激痛で目を開けられなくなった。「ぬおーっ」と断末魔の叫び声を上げながら不用意にも手で目をこすってしまい、地獄の1丁目から6丁目くらいまで一気に駆け上がってしまった。思いつく限りの呪いの言葉を叫んだが、その言葉も最後は「あわっあわっ」と情けない嘆きへと変わり、ぎゅっと目を閉じながら股間に水シャワーをひたすら当てつづけたことがあったのだ。だから、クマよけカプサイシンスプレーの効果は期待できると思っている。
ハラペーニョのカットは、包丁よりも調理用ハサミでまっぷたつに切っておいて、胎座と種を指でこそぎ取ると効率がよかった。カットしたハラペーニョを10ケースほどのトレイに並べて食品乾燥機にセットして、作業は終了した。1日で乾燥することはなさそうなので、とりあえず2日後にようすを見にくることにした。
2日後、食品乾燥機がある音楽室には、エスニック料理店のダクト下を通ったときのようなスパイシーな香りが漂っていた。食品乾燥機の扉を開けてトレイをひとつ取りだしてみた。まだ生乾きみたいな状態だが水分がかなり抜けて、大きさは3分の1くらいになっている。よく観察すると、内側の果肉部分にふわふわした白い綿みたいなものが付着しているハラペーニョが見えた。なんだろうと思い、ゴム手袋をしてハラペーニョを手に取ってみると、ふわふわした白い綿は白カビのようだ。「げげっ」と唸り声を上げてしまった。

(つづく)
高松英昭(たかまつ・ひであき)
1970年生まれ。日本農業新聞を経て、2000年からフリーの写真家として活動を始める。食糧援助をテーマに内戦下のアンゴラ、インドでカースト制度に反対する不可触賤民の抗議運動、ホームレスの人々などを取材。2018年に新潟市にUターン。2023年から新潟県阿賀野市で移住者促進のための情報発信を担当する地域おこし協力隊員として活動中。
著書(写真集)に『STREET PEOPLE』(太郎次郎社エディタス)、『Documentary 写真』(共著)などがある。
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